患者と医師の信頼関係内の安楽死描き

冷厳だが非人間的な法と検察を問題視

再び法に挑戦した周防監督『終(つい)の信託』

(2012.11.18)

木寺清美

 
 


深い友人関係内での命の信託は不許可?

 『Shall we ダンス?』や『それでもボクはやっていない』などで知られる、周防正行監督の新作である。周防監督は、『それでも〜』で、痴漢行為と言うものが、一度疑われると、なかなか無実を証明できないとう司法の不備を描き、司法批判を試みたが、今回は、患者と医師の強い信頼の絆がある中での、善意に試みられた安楽死が、殺人罪になるという問題を、真正面からリアリズムで描き、再び司法の不備に挑戦した。描かれるのは、日頃から、人生や命について語り合う、深い友人関係になっていた、主治医の女医(草刈民代)と、重度の喘息患者(役所広司)との友情関係であるが、自らの担当患者と言うよりは、理解しあう友人でもある患者が、意識が回復しない脳死状態になったとき、延命治療はしないと言う約束に従って、酸素パイプを引き抜くことも、友情の一つとして許されるのではないかと、問題提起している。つまりこの映画は、終末医療のあり方を、法律でがんじがらめにした上に、一律の物理的条件以外は認めないという司法の判断を、批判しようとしている。そしてそのことに執着する、検事検察の非人間性をも暴いていて、終盤に展開される取調べシーンの、すさまじい迫力は見ごたえがあり、冷たい検事役の、大沢たかおの演技も秀逸である。

時日が経って、突然呼び出された女医

 問題となった安楽死から、時日が経ち、事件性があると判断した検察が、女医の折井綾乃を、東京地方検察庁に呼び出すところから、映画は始まる。なんとなく陰湿な権威主義を感じる正門をくぐり、呼出状を見せると、つっけんどんな守衛の応対で、入庁者の署名捺印をさせられ、「ああ塚原検事のところね」と、取調室の在りかを教えられる。取調室のドアをノックすると、若い事務官が現れ、「少しお待ちください」と、薄暗い前室のソファを案内される。冷たい硬いソファで、しばし待っても、誰も現れず、物音一つしない。  奥の部屋では、「来られました」という事務官の報告を、大きな権威主義的な机に座って、腕組みをしている塚原検事が聞いているが、「暫く待たせておけ」と言ったまま、動こうとせず、「昼メシを先に済ませよう」と言って事務官も誘い、裏ドアから出て行ってしまう。手持ち無沙汰の女医は、待たせられた長い時間の中で、「なぜ呼び出されるようなことになったのか」と自問し、安楽死の顛末を、思い出す形で、ドラマが語られていく。

意識なく呼吸するだけになり管を抜くが

 入退院をくりかえすたびに、症状が重くなっていった、重度喘息患江木泰三と、主治医の女医折井綾乃は、江木が暫く帰宅を許されていたときに、江木の自宅近くの海辺を散歩し、もう死期を知った江木から、女医は、延命治療はせず、最期のときは早く楽にさせてほしいという希望を聞かされる。そして二人は、それまで築いてきた強い信頼関係の中で、これまで生きたきた人生や、医者の役目などについて語り合い、「考える葦」としての役目を果たせなくなった時の、人間の命の無意味さを、深い友情の絆の中で確認しあう。そしてそのときは来た。
 「臨終近し」として呼んだ家族に囲まれながら、江木はもう長く意識がなく、ただ呼吸だけをする物体として横たわっていた。折井綾乃は、「もうできるだけ早く、安らかにしてあげた方がいいときが、やってきたと思いますが・・」と、江木の妻に話しかけ、「もうそれ以外に手段がないなら」という妻の同意を取りつけて、口から挿入してあった、酸素パイプの管を抜いた。
 その瞬間、綾乃の予想にも反して、江木はカッと目を見開き、数十秒間激しくむせ、綾乃も慌てて、逆の蘇生措置をとるほどだった。しかしやがて発作は収まり、こと切れた。予想外の展開に妻も驚き、「管を抜くのが早かったのではないか。ひょっとすると意識が回復したかも」と思うようになる。この措置は、病院内の同僚の医師たちの間でも、多少問題になるが、結局は止むを得ない処置として処理された。家族も一応納得したが、葬儀などを終えた後、家族は警察に相談した。

大沢たかおの熱演で描く検察の非情

 こうして数ヵ月後、検察は動き、折井綾乃は、呼び出されたのだった。塚原検事の追及は、言葉は丁寧だが、非常に冷酷なもので、「延命措置の中止は、口約束だけで、本人や家族が書いた、文書による依頼はなかった」「確かに呼吸するだけの症状になっていたが、酸素を送れば自立呼吸をしており、人工呼吸器は取り付けてなかった」などの不利な事実を、強引に認めさせられ、深い友情関係などと言うものは、あいまいな感情レベルのことに過ぎないと排斥され、「治療疲れで、医療を放棄したかったのだろう。医師の義務違反だ!」と大声で決めつけられる。そして、事実だけが書いてあるのだから同意しろと、調書にサインを強要されてしまう。サインを終えると、殺人罪で逮捕と、既に作ってあった令状を見せられ、有無を言わせず、収監されてしまう。この検察の、既定のコースを突っ走る取調べの怖さは、実によく描かれており、証拠隠滅とか、自白の強要とか、見込み捜査で逮捕起訴とかといった、最近多く報道される検察の非道が、まざまざと思い出されていく。取調べの全面録音といった問題までが、浮上しているが、ここでも検察の都合のいいように法律を運用し、冷酷非情に罪を作っていく様が、大沢たかおの、今年の「助演男優賞もの」とも言える熱演で、見事に描かれている。

周防正行の「司法もの」映画の傑作

 かくしてこの映画は、善意とか、友情の発露とかといった概念は、法にはなじまないものとして、時には非道に、人間をおとしめる材料にするのが、検察であると言うことを、明確に主張する映画として、記憶されるべき成果を挙げており、周防監督の『それでも私はやっていない』に続く、「司法もの」映画の傑作となった。法律家作家である朔立木(さくたつき)の原作小説を読んだ周防監督が、「膝を打って映画化に邁進した」という情熱を、見事に結実させたと言える。
 ただし、前半部分で描かれる、女性関係にルーズな、インモラルな同僚医師(浅野忠信)に、結婚願望の独身女性として登場した綾乃が近づき、だまされて捨てられ、その結果、医道に邁進する決意をして、担当患者との友情を築くという展開の部分は、いささかメロドラマ的で,同僚医師の人物像も充分に描かれておらず、浅野忠信も演じにくそうであった。この映画の唯一の欠点部分であり、なくても良かったエピソードである。
(上映時間2時間24分)
写真提供:(C)2012 フジテレビジョン、東宝、アルタミラピクチャーズ

全国主要都市東宝系劇場、各地のシネコンで一斉上映中
◆配給社 東宝株式会社 03−3591−3511

《公式サイト》http://www.tsuino-shintaku.jp

 

 

 

 
   

核被爆を扱った作品の二本立て

原発から町ごと逃亡の福島県双葉町

『フタバから遠く離れて』

58年前のビキニ環礁被曝、補償なく悲惨

『放射線を浴びた「X年後」』

(2012.11.6)

今回は、福島第一原発5・6号機の立地町で、事故のあった1〜4号機も地続きの隣町にあり、事故炉から僅か3キロ圏内の、福島県双葉町の実態を詳細に追った、舩橋淳監督の記録映画と、1954年に中部太平洋のビキニ環礁などで行われた、米の水爆実験で、第五福竜丸とともに放射能を浴びた、数多くの日本のマグロ漁船の「X年後」を、今日の視点から描いた、松山の南海放送製作の記録映画を、まとめて紹介する。

木寺清美

 
 


(1)『フタバから遠く離れて』
原発を推進した双葉町が役場ごと移転

 福島県双葉郡双葉町は、福島原発1〜4号機から、全町が3キロ圏内にあり、2011年3月11日、原発の水素爆発で、全町が放射線を浴び、「死の灰」をかぶった。双葉町は、幸い事故のなかった5〜6号機の立地町だが、1〜4号機も、町境の目と鼻の先にあり、立地町の大熊町と同様、被害は甚大であった。双葉町の、井戸川克隆町長は、町全体が全面立入禁止の警戒区域になって間もなく、最初の避難命令に従い、たまたま廃校となって、校舎と敷地が空いていた、埼玉県立騎西高等学校に、双葉町から、250キロも離れているのを承知で、町そのものを、移転させる決心をし、役場ごと、親戚などを頼れない住民1423人を、着の身着のままで引き連れて、避難した。地域社会の丸ごと移転という、現代の「ノアの方舟」と化した双葉町−この映画は、その後の一年に亘る、町の苦闘を、ドキュメンタリストの舩橋淳監督が、廃校の元騎西高校に入浸って、記録したものである。
 
町長が原発推進から全面反対へ転換明言

 初めの方に、廃校高校の校長室を町長室にした、井戸川克隆町長の、苦渋の述懐が出てくる。述懐は凡そ次のようなものだ。
 原発の安全神話など、双葉町にはあり得ず、原発推進が現実の政治・政策であり、町民の経済・生活そのものであった。典型的な東北の貧乏町で、出稼ぎの町だった双葉町に、雇用を生み、下水道整備など生活のインフラから、文化施設や医療施設を充実できたのも、全て東電の福島原発5~6号機を誘致したからであり、昨今行き詰まっている町の財政を、再び潤沢にするために、7~8号機の誘致すら既に決まり、細かい詰に入る段階だった。だから予期しなかった今回の事故には、ただ驚くばかりで、どうしたらいいかの見通しも立たないと。
 同じ井戸川町長へのインタビューは、映画の中ほどから、少し後半に入ったあたりで、もう一度試みられるが、国の復興事業が、遅れ遅れて、実際の双葉町を脱出した、現代の「ノアの方舟」が、ただ道に迷い行き先を決められない状態にあることを、明確に国への怒りとして、語り始める。「遅れている土地の除染が、始まったとて、対象は全域に亘り、何年もかかる話である。あの場所で生活できるようになるのは、5年後?20年後?30年後? もう双葉町の故郷はなくなった、二度とあの場所で、生活することはないと考える方がいいかもしれない。私は、今度の経験で、日本の民主主義というものが未熟で、国民から預託された者に、責任と正義を、明確に自覚する者がおらず、決められない政治、、先送り行政、何でも下方修正する悪しきバランス、前例主義などがはびこり、最後には都合の悪いものを巧妙に隠蔽する−そんなことが繰り返されていると感じて仕方がない。これから私は、原発と言うものには、全面的に反対していく」と。
 実際、約一年たって、元騎西高校で暮らす双葉町の住民は、700人以上が、どこかに転出し、600人程度に減っていると言う。
 なお井戸川町長は、原発を管内に持つ市町村で結成する、「全原協」の副会長を務めていて、全原協の総会などが開かれるシーンも、捉えられているが、常に役員席には座らず、一般席で、国を批判する発言に終始していた。

避難命令で母の捜索中止、後日遺体発見

 映画は、双葉町の被災前の映像も使って、簡単な紹介から始まる。そこには立派な図書館、体育館、公民館や、医療施設もあり、海水浴場までもが整備されていた。これらの映像が、一面が瓦礫となった、被災後の映像と対比される。高校に避難してきた建設作業員の中井祐一さんは、残念そうに語る。「行方不明の母を、消防団員らと探すため、震災の翌日、瓦礫地域の前に集合していたところ、原発のベント不能、水素爆発が起こり、突然、瓦礫の全地域が立ち入り禁止になり、「直ちに避難せよ」という命令とともに、捜索は中止された。あの時捜索ができていれば、私の母はもとより、何人かの生存者を救うことができたかもしれない。その後、防護服を着て実施された、何回かの捜索で、母は4月下旬に遺体で見つかり、ほかにも多数の遺体が発見された。原発事故がなければ、もう少し生存者は増えたと思う。」と。

住民の空ろな表情が漂うだけの元高校

 中井さんは、農地の全てを流された失意の父とともに、事故後約一週間後の3月19日、頼る親戚などがない、住民1432人とともに、この埼玉県の元騎西高校にやって来た(一年経った今日の時点では、中井父子はいわき市に住む)。一時、町外れの避難所に集合した後、1400人中の1200人が、一緒になって埼玉県入りをするとあって、チャーターしたバスや車に、住民は次々と乗り込むものものしさ。車窓から住み慣れた町を見送る人々の目は、並べてうつろである。着いた高校の講堂や教室は、ここもいわゆる避難所であり、一家族には、ダンボール箱などで仕切られた、小さなスペースがあるだけである。仮設住宅ほどの安寧すら得られることはなく、その仮設住宅も、元の双葉町に建てられることはないのだ。あちこちに小さな酒盛りの輪ができたり、室内ゲームの輪ができたりするが、原発を信じてきた住民は、ここでも並べてうつろなのである。高校の立地市は、埼玉県の北西部加須市というところであるが、避難者たちは、加須市民らから、原発で散々甘い汁を吸ってきた人たちという目で、見られているような気がして、余計にふさぎこんでしまうと、告白する人までいた。
 自衛隊の吹奏楽団が慰問演奏に来たり、天皇皇后両陛下が、訪ねてくるシーンなども、丁寧に描かれているが、他の被災地の避難所の、同様の場面のように、慰問者を喝采で迎えたり、演奏に拍手をしたりするシーンが少なく、みんな空ろに慰問者を見ている。両陛下の慰問ですら、質問に答える人の緊張感だけが伝わってきて、他の人はしらけている。  遅ればせながら、東電の社長も謝罪に来るが、「遅い!」と罵声が一つ飛ぶが、この謝罪によって、事態が変化するわけでもないことを、住民は分かっていて、無反応に話を聞くだけなのだ。

高校から原発の危険作業に通う元社員ら

 避難者の中には、東電の社員や、原発で働いていた労働者も、相当数いることが描かれている。事故後の原発を処理していく、危険な作業が続いていて、それに従事している住民もいる。一家の大黒柱が、そういう従事者で、元の原発に戻り、原発近くの宿舎で隔離されるようにして、働いている人が多い。休みのときだけ、埼玉のこの高校に、家族に会いに帰ってくるのだ。「危険に近づかないで」「そもそも危険な作業なのだからやめたら」と言った家族の意見もあったが、これまでの仕事との連続性もあり、生活のための、唯一の収入の道でもあるので、続けていると、帰ってきたその労働者は、カメラに向かって、苦渋の表情を見せながら話す。

一日帰宅は、防護服で2時間の難作業

 一時帰宅のシーンも描かれる。着の身着のままで来たので、大切なものを被災の家までとりに帰りたいとの要望に応える形で、それは行われた。許可されるのは、一家について二人、防護服を着てのたった2時間だけの作業とあって、家族は顔を寄せて、前夜から何を持ち帰るか相談する。瓦礫の下から、卒業アルバムや、結婚式の写真を探し出して来る者、津波の被害が少ない家では、冬物の衣服や、高価な訪問着などを、タンスから持ち帰る者などいろいろあって、みんな「早く早く」と掛け声をかけあっての作業となった。一家の代表が、避難所にもどってからは、計画通りになった者もならなかった者も、作業の苦労について、話は持ちきり。そのことで笑いは絶えず、空ろさの消えた貴重な日として、捉えられている。

牛と心中覚悟で世話する牧場主、放置者も

 しかし、そういう笑いの日のあとには、悲惨なエピソードも綴られる。放射線を浴びることなど何のその、双葉町に残って、数十頭の牛の世話をし続けている酪農家がいる。肉も乳も売り物にならないのは承知の上で、生きとし生けるもの一つである牛の命を、粗末にすることはできないという。もう牛と心中する覚悟で、防護服も着ずに、世話をしている。牛たちは、何事もなかったかのような表情で、黙々と草を食み、酪農主に甘えている。その何でもない日常が、何年か後の、集団自殺への道であると考えると、涙なしには見られない。
 そういう感情とは縁を切り、牛を牛舎に放置して、逃げてしまった酪農主も数多い。寧ろその方が普通で、残された牛は、全部死に絶え、白骨化し、腐敗し、ミイラ状となり、牛舎の床に、ゴロゴロと横たわっている。実に悲惨なショッキングな映像であるが、被曝の危険を冒してまで、誰も後片付けには来ない。原発から数キロの、福島県の沿岸部にある牧場は、殆んどこういう姿になっているという。

気鋭監督による原発関連映画の最高作

 この映画は、250キロ離れた埼玉県の廃校高校の建物に、町役場ごと移転して、現代の「ノアの方舟」となった、福島県双葉町の、ほぼ一年の記録であるが、町長や町職員から住民までの生活と意見を、丹念に拾い、国や行政の対応の遅さを、非難しながらも、もともと原発立地であったことへの後ろめたさまあることを、描いているところがとてもスゴイ。その上、自分の命を賭してまで、牛の命に寄り添う牧場主の涙までをも描き出し、原発推進が、いかに、人類の自然への我儘な行為であるかを、明確に抽出して見せている。  東日本大震災や福島原発事故に関連した映画は、今年数多く公開されたが、その中では、本作が最高傑作と評価できる。現代の「ノアの方舟」の中に乗り込んで、町民とともに暮らした、舩橋淳監督の気鋭のドキュメンタリー精神を、絶賛したい。

『谷中暮色』の舩橋淳の入念がここでも

 舩橋監督は、東大卒で、ニューヨークで映画を学んできた人であるが、過去の仕事で、鮮やかに記憶に残っているのは、『谷中暮色』(09)という、ドキュメンタリーに過去の話をフィクションで融合した映画である。東京の「谷中」と言えば、文教地区の真ん中に、ぽっかりと位置する庶民と寺の町だが、幸田露伴の「五重塔」の舞台としても有名である。まさに小説に描かれる五重塔が、谷中の真ん中にあって、戦災もまぬがれて建っていたのだが、戦後すぐ、浮浪者の棲家となって、火の不始末から焼失してしまったのだ。その五重塔を再建しようという住民運動が起きる。それも歴史に関心のある若者が、あきらめ無関心になっている老人たちを動かすという構図でだ。その募金活動などを、過去や小説の世界を甦らせながら、入念に追ったこの映画は、とても面白かった。舩橋監督のその入念さが、今回も、この映画を傑作に導いている。
(上映時間1時間36分)
写真提供:(C)2012 Documentary Japan、Big River Films
東 京 オーディトリアム渋谷 上映中(11月9日まで)
大 阪 十三 シアターセブン 12月1日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 近日上映
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 近日上映
地区上映未定、全国順次の予定
製作配給社 ドキュメンタリージャパン+ビックリバーフィルムズ

◆配給協力社 プレイタイム 03−6780−2202
宣伝社 ボンドプロダクションKK
 090−7405−6715

《公式サイト》http://nuclearnation.jp/>>

(2)『放射線を浴びた「X年後」』
被害の漁船の乗員241人中77人死亡

  1954年の3月から5月にかけ、中部太平洋の、ビキニ環礁を含むマーシャル群島近海で行われた、アメリカの水爆実験で、被曝した日本のマグロ漁船第五福竜丸(乗員23人)が、静岡県の焼津漁港に入港後の9月、無線長の久保山愛吉さんが亡くなった、いわゆる“第五福竜丸事件”は、新藤兼人監督の映画『第五福竜丸』(59)などにもなって、有名であるが、米の水爆実験で被曝したのは、第五福竜丸だけではなく、多数に上り、東北から九州までの55の漁港に帰港、水揚げされたマグロの肝臓から、48000カウントの放射能が検出されるなど、被害は甚大であったことは、あまり知られていない。とくに被害の漁船は、高知県に船籍を持つ船が三分の一を占め、この映画の第一章「生存者」に出てくる有藤照雄さん(85歳)も、室戸漁港に所属する、第二幸成丸の、当時船長を補佐する航海士で、何も知らされず、何も知らなかったため、地平線から地平線までキノコ雲に覆われる下で、操業をしたと述懐する。そして帰港後の検査では、船の方向探知機から、基準の40倍に当たる4000カウントの放射能が検出され、自分の頭髪からも検出されたことを覚えているが、長生きできたのは、あまり甲板には出ない作業が、多かったからではないかという。  さて、当時のそのような漁船で被害を受けた乗員は、高知県船籍のものだけでも、241人おり、50歳代までに亡くなった人は、77人(32%)もおり、ほとんどが、何らかの癌を患ってのものだったと記録されているという。

冷戦と軍拡は遠い昔、今も引きずる被害

 何故こんなひどい実験をアメリカがしたのかと言うと、当時は米ソの冷戦構造が、年ごとに深まる時代で、より新しく、より破壊力の強い兵器や爆弾を、開発する競争が行われていたためで、こんな脚注めいたことを、書かねばならぬほど、その軍拡は遠い歴史になってしまった。だがその結果としての軍縮や放射能問題は、今も解決しておらず、フクシマにも通じる問題なのである。
 その結果として起こったビキニの被曝は、第五福竜丸だけではないことを、改めて掘り起こし、何の保証もなく、忘れられていった被曝の漁民たちに、せめて、広島や長崎の被害者と同じ、被爆者健康手帳が発行されるようにと、運動を始めたのは、高知県の高校教師山下正寿さんであった。既に1985年の時点で、高校生を調査員にした組織を作り、高知県籍の船で被曝した漁民を訪ね、聞き取り調査を始めている。その模様は、1990年に発表された、森康行監督の文化映画『ビキニの海は忘れない』に収められていて、今回のこの映画でも、その映像の一部が使われているが、山下先生や当時の高校生の願いは、実現しなかった。山下正寿さんは、教師を定年退職した今、犠牲者を犬死にしてしまわぬよう、歴史の中に、きっちり記録させようと、前述の生存者有藤照雄さんらとともに、遺族らからの聞きとり調査を再開していて、元被爆者の家を、一軒一軒訪ね歩いている。この事態を、南海放送のドキュメンタリー番組にかかわってきた、TVディレクターの伊東英朗さんが知り、2004年から南海放送の取材チームとともに、訪問調査に同行するようになったのが、このドキュメンタリーが制作されることになった契機なのである。TV番組も、この映画も、こうして伊東さんが監督をすることになった。

失業をおそれて、被曝を隠す当時の漁民

 尋ねて会うのは、80歳代が殆んどの、犠牲者の妻、50歳前後の息子や娘、嫁や婿といった人たちで、犠牲者本人は、30年以上も前に、40代50代で、何らかの癌を患って亡くなっている。40歳になったとたんに白血球が減少し始めた平三義さんのような、漁船員ではなく、同じころ、同じ水域を通った貨物船弥彦丸の船員もいた。遺された夫人によると、体がだるいだるいと言い続ける晩年だったと言う。しかし殆んどの遺族は、看病が大変だったが、もう遠い昔のこと、忘れるように努めているというのである。何故こうもたやすく、犠牲にされたことに甘んじてきたのだろうか。
 これまた早くに、癌で亡くなってしまった、第二幸成丸の船長の未亡人、崎山順子さんは証言する。帰ってきたばかりの漁師たちは、放射能を浴びた、深刻な事態であるとの認識もなく、「爆発の瞬間の光景がすごかった。珍しいものを目の当りにしたのは、貴重な体験だった」と、自慢話をしたぐらいである。それが、第五福竜丸の久保山さんの死が、大きく報道されることで、一挙に寡黙になったしまった人が、殆んどで、その後、当時同じ海域にいた漁船の乗組員に対する、健康調査などが行われても受診せず、被曝自体を隠そうとする人が多かったという。被曝者として、差別されることを恐れたのだと思うと崎山さんは言う。夫の船長も、第二幸成丸の被曝を、あまりあちこちに言うなと、いつも言っていたという。また調査した国や県も、個人には、受診結果を殆んど知らせてはこなかったという。なぜなら当時、戦後復興に向かう日本経済を支えていたのは、「石炭と魚」であり、日本の漁業が駄目になり、魚が被曝品として売れなくなるのを、国が案じ、漁民や消費者の安全などは、二の次であったからだと言う。乗組員も、被曝したと言うと、次ぎの船に乗れなくなって、失職するのを恐れていて、被曝の事態よりも、目先の生活の方が大事だったのが、当時の風潮だったと証言する。  

火葬後の遺骨がボロボロ、骨拾いも出来ず

 新生丸の甲板員だった岡本清美さんは、70歳代まで生きた、比較的長命の被曝者だった。長命だったことを、未亡人の岡本豊子さんは、国に補償を要求する行為が、不発に終ったことを嘆くことなく、幸運だったと感謝している。何しろ、10年ほど前に亡くなったときの清美さんの遺体を、火葬にして、骨拾いをしたときのことを、まざまざと思い出すという。
 豊子さんは、親戚の葬儀に何度か参列し、骨拾いにも参加したことがあるため、火葬された遺体が、どんな形になっているかを、よく知っているのだが、清美さんの遺骨は、全くボロボロで、どこが肋骨で、どこが腰骨なのかも分からないほど、砕けていて、骨拾いも困難な状態だったという。放射能の恐ろしさを、まざまざと感じたが、こんな体で、70歳代まで、よく生きてくれたという感謝の気持ちが、より強まったという。

全国初の被災船員会の補償要求も実らず

 実際、清美さんは、山下先生に出会って、被害を黙って死ぬのは犬死だと教化され、1988年に、新生丸の元船員で、全国で初めての「被災船員の会」を結成し、その会長に就任したという。しかし豊子さんの話では、「なんらかの補償をという船員会の要求は、実現しないだろう」と、当初から運動の未来に期待していなかったという。インタビューアーは驚いて「なぜですか」と尋ねると、「だって国が相手でしょう。個人が国に勝てるわけがないですもん。今でも、こういう要求は、なかなか通らないでしょう。時代が違います。当時は被曝を隠す人が殆んどでしたからね」と、こともなげに言う。「被曝を隠して次の船に乗ろうとした。後遺症のことなどより、今の生活が大事だった。」と証言した、第二幸成丸の元船長夫人の証言と、軌を一にする考え方である。事実、岡本清美さんが亡くなるまでに、船員会の要求は何の進展もなく、会そのものも、メンバーが次々に死亡して、自然消滅したという。

米の責任、200万ドルの慰謝料でチャラに

 南海放送の取材班は、1954年の3月から5月までに行われた、ビキニ環礁などでの米の水爆実験で、被曝した多数の日本漁船の補償問題は、どうなっていたのかと、調べてもいる。調べによると、東北から九州までの55の漁港に入港した被曝船の、三分の一の高知県船籍の船だけで、被爆がはっきりしている乗組員は241人だと言うから、全体では、750人程度もいたと想定されるが、この人たちへの補償について、日米両政府の話し合いがどのように行われたかは、はっきりしない。ただ、サンフランシスコ講和条約発効から、二年しかたっていない時の出来事で、敗戦国としての事実上の国際的無権利状態が、まだ続いていたのであろう。さらに調べると、その年の12月、補償ではなく、慰謝料200万ドル(当時の日本円にして、7億2000万円)を、アメリカが日本に払い、ビキニ問題の全ては解決したこととし、日本はその後、未来永劫に亘って、文句を言わないという覚書を、交わしていたことが分かったのだった。そしてその四分の三は、魚を廃棄したり、魚価が下がったことへの補償に使い、残り四分の一は、第五福竜丸などの被曝船員の治療に使うと、政府が決めていたことも明らかになり、被曝船の乗員への補償などは、どこにも書かれていなかった。

放射性物質の飛散状況の人体実験

 ところが南海放送は、その後高知県漁協への調査で、船ごとの慰謝料が配られたとする資料が、残されているのを発見する。それは現在の漁協の職員にとっても、寝耳に水の発見であり、一切補償など受けた記憶がないとする、第二幸成丸元船長の未亡人や、岡本豊子さんにとっても、驚きの発見であった。しかしその中身は、ひと船数十万から数百万円の、被害額を満たす金額にもならない、小額の慰謝料にとどまっており、しかも60%は船主、40%を乗組員で分けるとされていて、実態としては、船主が受け取って、誰にも分けなかったのではないかと想像された。
 いずれにしても、1954年の中央太平洋での、米の水爆実験の被害は、被曝船員を、犬死同然にさせ、無補償のまま、日米政府が闇に葬った事件であったと言うことができる。おまけに南海放送は、この実験の一年も前から、アメリカが、放射能の飛散下降状況を、調査するとして、122地点もの観測点を作り、実験を待ち受けて調査をしていたこと、日本国内にも三沢や東京など、5箇所の観測点があったことを、映画の中で明らかにしている。つまりは操業中の漁船も漁師も巻き込んで、一種のモルモットにして、放射能の飛散実験をしていたのであり、このころのアメリカは、原爆症の治療をすると称して、広島や長崎の原爆病院で、原爆被害を、事実上の人体実験の結果として、調査していたのと同義の作業を、計画的に実施していたのである。非人道的な罪を、堂々と犯して、何も省みない国が、アメリカだったのである。

暗然たるラスト、太平洋望見の丘の墓

 『放射線を浴びた「X年後」』というこの記録映画は、このような衝撃内容をはらんだ、歴史の見直しを迫る映画である。松山の放送局南海放送が製作した、地方の問題の映画などでは、断じてない。地元四国の被曝船の過去を追って、人類が放射線と言う悪魔の手にからめとられ、原発を悪魔の平和利用などとごまかし始めた、原点に近いころの話の、再検証にまで到達した映画である。それを、フクシマの原発事故が生々しい今に甦らせた、南海放送と、伊東監督をはじめとするスタッフたちの営為を、高く評価しなければならない。
 映画のラストは、高知県の太平洋を見下ろす丘の上に建てられた、被曝船員の墓を、残された遺族の岡本豊子さんらが、次々と訪ね、弔って行くシーンである。これから顕在化してくるであろう、フクシマの被曝犠牲者たちの未来を、透かし見るようで、暗然たる気持ちにさせられる。
(上映時間1時間23分)
写真提供:(C)南海放送
大 阪 十三 シアターセブン 上映中
松 山 シネマルナティック 上映中(11月9日まで)
京 都 東寺 京都みなみ会館 11月24日〜上映
札 幌 札幌駅 蠍座 12月4日〜上映
全国順次上映
東京、名古屋、広島の第一次上映は終了
◆製作・著作社 南海放送(松山市)
宣伝配給協力社 ウッキー・プロダクション
 03−5213−4933

《公式サイト》http://x311.info/

 

 

 

 
   

反体制派で知られるイランのパナヒ監督

製作禁止軟禁の自分を撮った革新的映画

自由へのスリルも『これは映画ではない』

(2012.10.15)

木寺清美

 
 


三大映画祭を制したパナヒ監督の新作

 このイラン映画は、『白い風船』(95、カンヌ映画祭新人監督賞)『チャドルと生きる』(00、ヴェネチア映画祭グランプリ=金獅子賞)『オフサイド・ガールズ』(06、ベルリン映画祭審査員グランプリ、サッカー場への入場も観戦も禁じられているイランの女性が、男装をしてサッカー場にもぐりこもうとする映画。イランの女性差別批判映画)などの映画をつくり、世界三大映画祭を制したことで知られる、イランのジャファール・パナヒ監督の新作である。しかしそんじょそこらの新作とはちがう。

反体制映画で重罪控訴、自宅軟禁中

 パナヒ監督は、2009年のイラン大統領選挙で敗れた、改革派のムサヴィ氏の、支持者であるとして一時逮捕され、その後は外国への出国を認められないようになり、2010年3月には、これまで作ってきた、イランの社会体制を批判する、数々の映画の上に、この大統領選挙を批判する映画を、こっそり作っていたとして逮捕され、長期間拘留ざれることになった。そして2010年4月のカンヌ映画祭の審査員依頼にも、出国が認められず、5月には、保釈金を出して出所したものの、自宅軟禁処分となってしまった。そして12月には、逮捕理由となっていた、国家への反逆罪に一審判決が出て、懲役6年、20年間の映画製作禁止、出国禁止、マスコミとの接触禁止という、信じられないほど重い判決が出された。パナヒ監督は、控訴をして収監をまぬがれたものの、いまも解かれない自宅軟禁を、続けているのが現状である。

今の映画製作は軟禁中の自分を撮ること

 そのようなパナヒ監督が思い立ったのは、自宅に軟禁されている、今の自分自身を、映画に撮影することだった。大部分は自作自演、時折尋ねて来る友達のカメラマン、ミルタマスブにも手伝ってもらえば、一本のドキュメンタリー映画を完成させることが出来ると、思い立ったのだ。自宅の中までも、政府の監視員が、常時いるという状態ではなかったから。
 映画は、朝食をとるパナヒ監督自身を、ダイニングの隅に固定されたカメラで捉えるカットで始まる。薄く焼かれたイラン独得のパンに、ジャムをつけて食べながら、携帯電話で誰かと話しているパナヒ監督が、そこにいる。「実は話がある。携帯では盗聴される可能性があるので、中身はいえない。一度自宅に来てくれないか」そういって、パナヒ監督は電話を切る。そこへ被さるタイトル、「これは映画ではない」。

「これは映画ではない」に潜む深い意味

 こうして自作自演の映画は、始まるのであるが、後に自宅で完成したこの映画は、USBファイル(あちこちのパソコンに差し込んで再生できる、持ち運び用の小さなメモリー・ファイル)に記憶させられて、友人の手で、カンヌ映画祭にまで、持ち込まれて、日の目を見ることになる。そのときのファイルに書かれた文字も、途中で摘発を受けないよう、「これは映画ではない」と書かれていたそうで、タイトルは、そのよう目的も付与された、意味の深いものだったのである。

ペットのイグアナに餌をやる日常描写も

 タイトル後、自作自演の映画は、どんどん佳境に入っていく。
 寝室の横の洗面所で、髭をそっているパナヒ監督。画面外で電話のベルが鳴り、留守番電話が対応する。監督夫人からの電話のようだ。「ジャファール起きてる?今日はお義母さんの家に行くからね。」娘も電話の向うにいるようだ。「パパ、昨日行ったとき、ベッドの上のカメラを回しっぱなしにしてきちゃったわ。必要なかったらスイッチを切って。それにイキに餌をやるのと、花の水やりを忘れないでね。」
 髭剃りを終えた監督は、キッチンで葉っぱを洗って、ペットのイグアナの餌を作り与える。突然イグアナが現れて、床やソファの上を、ゆっくり徘徊するのには驚かされるが、とてもおとなしいイグアナで、あちこちで、クビをかしげる姿もユーモラス。緊迫した軟禁という状態を、和らげる効果を持って、以後もときどき映し出される展開になっている。  監督は今度は、弁護士と控訴審について電話で話す。弁護士は量刑の軽減のため、国際的にも、国内的にも世論の援護を盛り上げねばと語るが、監督は国際的にはまだしも、国内の映画関係者は、自分も同罪になると困ると思っている人が殆んどなので、期待薄だと語り、苦笑いする。

未完映画の脚本朗読は、禁止じゃない?

 やがて監督は、テーブルを挟んで向かい側にいる,誰かと話しながら、映画に出来なかった、自分の脚本を読み上げるシーンになる。映画のプロローグで呼び出した、カメラマンのミルタマスブが、既に尋ねてきてくれていて、監督の正面で、監督と話しながら、カメラをまわしてくれているらしい。パナヒ監督がカメラに向かって読む脚本は、「映画を撮れないイランの監督たち」という企画で、ミルタマスブが企画して、当局の許可がおりなかった、その映画の脚本で、映画作りは禁じられているが、脚本朗読は禁じられていないと屁理屈を言い、読み始めるのだった。ところが、朗読が佳境に入って、パナヒ監督もつい熱が入り、「この場面を別の部屋で再現しよう。とりあえずカット! カメラ移動だ」と叫ぶと、画面外から、ミルタマスブの声が入り、「演出をしたら違法なんじゃないか」とまぜっかえし大笑いになる。

椅子で窓など見立て、未完映画再現へ

 ここからパナヒ監督は,官憲の横槍が入るなどして、撮影が中止されている作品や、過去に評判となった自作などを、脚本を読みながら、撮影現場を再現しようとする。床にテープを貼って部屋に見立てたり、椅子を立てかけて窓に見立てるなどして、その中でストーリーを自分で演じようとする。また携帯電話のカメラに収めてあった、主人公の娘の写真なるものを、正面のカメラに映るように見せて、さらに物語の登場人物を説明しようとする。しかしそれらの映像は、殆んどナンセンスで、ストーリーの展開が分かるのは、朗読している脚本だけであることに変わりがない。パナヒ監督はつぶやく。「脚本を読むだけですむなら、映画を撮る意味はないし、といって、テープで作った部屋などでも、何も表現できない。やはり家に中で、撮れなかった映画を再現するのは難しいね。」と。  画面外からは、カメラを回しているミルタマスブらしい声がする。「でも君が、今何をしようとして、もがいているかは分かるよ」と。

携帯カメラも窓外を撮影、外は火祭り

 パナヒ監督は、思い立ったように電話をし始めて、撮れなかった映画の部屋の中での再現は、やめてしまう。かけた電話の向うで、女性の声がする。「著名な映画監督12人が書いた嘆願書が出来上がり、裁判所に送ることになったから頑張って」とその声は言い、「ありがとう、ありがとう」と、監督は何度も電話に向かって礼を言う。  窓から入る光りは、心なしか暗くなり、夕闇が迫っているようだ。その夜のテヘランでは、火祭りが行われることになっているようで、監督は、携帯電話のカメラを窓の外に向けて、撮り始める。遠くでパトカーの音がするなど、窓の外の街は、火祭りに向けて、しだいに喧騒感を増し始めているようであった。
 監督はさらに、部屋に戻って、テレビのスイッチを入れる。そこには、日本から、東日本大震災のニュースが流れていた。思わず驚きの声をあげるパナヒ監督。だがチャンネルはすぐに変えられて、大統領選に不正があったと、延々と選挙後も延々と続くデモのニュースや、その夜の火祭りの人出のニュースなどが流れてくる。

飼犬を預かってと来る女性の描写も

 玄関のチャイムが鳴る。玄関に行き扉を開けるパナヒ監督。上の階の女性がやってきて、火祭りを見に行くので、飼い犬を預かってほしいと、頼みに来たのだった。監督の同意とともに、扉の隙間から、小さな犬が部屋の中にさし出され、扉は閉まる。とたんに犬は、けたたましく鳴き始める。監督は一旦閉めた扉を開け、女性を呼び戻して、「こりゃあダメだ。預かれないよ。」と言って、犬を返す。こんな日常の、小さな出来事も、この映画は、さりげなく挿しはさむ。

友人と携帯で話し、街の様子も伝えらる

 そして今度は、男性の友人に、監督の方から電話する。電話に出た友人は、街中を歩いている最中だったようで、「火祭りで街は人で溢れているよ。警備のためかデモのためかよく分からないけれど、警官もいっぱいさ。あっ、ちょっと待ってくれ。警官に呼び止められた」とその友人の声は言って、電話は切れる。急に心配顔になる監督。そこへ再び電話がかかってくる。「どうもなかった。カメラを持っていたから、目をつけられたらしい。実際何も撮ってなかったから、すぐ解放された」と友人の声は言い、監督もホッとする。
 監督は再び窓辺により、今度はベランダに出て、打ち上げの始まった花火を、携帯のカメラで撮り始める。「君が撮ってくれている私の映像の中で、さらに私が撮っている映像も繋ぐことも計算に入れて、何か出来ないか試してみたい。」と監督は、ミルタマスブに話しかける。

撮影者が帰り管理人がゴミ回収に現わる

 夜が更けて、「家に待たせてある息子が気になるので、もう帰る」とミルタマスブ言い出し、初めて画面外からの声ではなく、本人がカメラの前に現れる。「カメラを回したまま、テーブルの上に置いておくから、なんでも自作自演で撮ってくれ。また来るから」と、ミルタマスブは言って出て行く。
 暫くして、このマンションの管理人の代理をしていると言う青年が、尋ねてくる。監督が部屋の扉を開けると、住み込みの管理人夫婦が、出産のため実家に戻ったため、義理の兄の青年が、代理を務めることになったと自己紹介し、「今はゴミの回収に来ました」と述べる。監督は、入口に、ビニール袋に入れて、まとめてあったゴミを渡すと、咄嗟の判断で、携帯のカメラを、ミルタマスブが置いていったビデオカメラに持ち替え、青年といっしょに、ゴミを各階で回収しながら、下降するエレベーターに乗り込んでしまう。

ゴミ回収と一緒に下降、そこは巷への出口

 下降していくエレベーターは、一階ごとに停止し、ゴミを回収してはまたスタートする。その青年の作業を、監督はビデオカメラで、青年の背後から撮り続ける。短い移動の時間に青年に話しかけるうち、青年は監督パナヒを知っており、今軟禁中という事情も知っていて、監督が警察に踏み込まれて、逮捕された日のことも、たまたま目撃して知っているということが分かる。しかしまとまった話はできないまま、一階のゴミ捨て場に着いてし まった。監督はカメラで撮影を続けながら、青年と一緒にエレベーターを降り、集めたゴミを、青年がゴミ捨て場に投げ入れるのも撮影し、「じゃあ、お元気で」と手を振って、ゴミ捨て場の外に出ようと、出入口に向かう青年をも、さらに撮しなが追う。誰かが監視をしていて、捕まるのではないかという、スリルもはらんだ、緊迫の展開である。出入口の先に見えるのは,煌々と燃える火祭りの喧騒であり、人々が集う雑踏である。青年は、「カメラを持ったまま、ここから出てはダメですよ。」と、またの逮捕を、殊勝にも気遣ってくれて、雑踏の中に消えて行った。

軟禁と自由の境界示し革新的映画は終る

 そこには、カメラを持つ監督以外には、もう誰もいなかった。自由への飛翔口は、目の前にあった。軟禁と自由の境目は、こんなにも身近にあり、監督の決断一つで、自由が得られそうな設定になっていた。果たして監督はどうしたか。そのまま外に出れば、再び逮捕されて、更なる厳罰に処せられるかもしれない。そんなことを、観客にも思い巡らせながら、煌々と燃える火祭りの喧騒は、次第に溶暗して、映画は終る。
 「これは映画ではない」と題した、奇妙な映画を見終わって、パナヒ監督の革新的な映画作法に、脳天をガツンと一撃されたような感動に襲われる。自宅軟禁されて、映画つくりを禁じられた映画監督の、ぎりぎりの抵抗が、そして怒りが、「何も出来ない自分を自分で撮る」という発想の中に、満ち溢れているのだ。
 自分を撮ったパナヒ監督のこの映像は、パソコンで簡単に再生できるUSBファイルにされ、どこかの検閲に引っかからないように、「これは映画ではない」と表書きされて、友人の手で持ち出され、カンヌに持込まれて、国際的に日の目を見ることになったのだ。イランには、こんな反骨の映画人がいるのだ。
(上映時間1時間15分)
写真提供:(C)Jafar Panahi and Mojtaba Mirtahmasb

東 京 渋谷 シアター・イメージフォーラム 上映中(毎晩レイト一回)
大 阪 十三 第七藝術劇場 上映中
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 10月27日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 11月10日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 近日上映
仙 台 桜井薬局セントラルホール 12月1日〜上映
大 分 シネマ5 11月10日〜上映
富 山 フォルツア総曲輪 12月2日〜上映
那 覇 桜坂劇場 近日上映
全国順次上映予定
◆配給・宣伝社 ムヴィオラ 03−5366−1545

《公式サイト》http://eigadewanai.com/
 

 

 

 
   

大阪の毎日放送の初の劇場用記録映画

津波で壊滅の被災者その悲しみと苦闘

『「生き抜く」南三陸町 人々の一年』

(2012.10.9)

木寺清美

 
 


報道取材とは別班を滞在させたTV局

 この記録映画は、大阪の毎日放送が、東日本大震災発生後、およそ28時間で、やっと取材チームを到達させた、被災地の宮城県南三陸町(約人口1万8000人だった)に、報道の取材チームとは別に、取材したものを、劇場用記録映画としてまとめることを目的にした、取材チームを置き、約一年間のその後の推移を、記録することに成功した、その記録である。遅々として進まない被災地の復興、その狭間で、苦闘しながら生きている、家族を失った人々−その苦渋に満ちた姿の映像が、日々の報道とは違う、事実の裏側にあるものも見据える視点で、今回の災害の問題点を浮き彫りにしている。

惨状の描写から人々の内面に入込み

 現地に最初に入ったカメラは、その惨状に驚くように、消えてしまった町並み、魚網が絡まった家の残骸、路上で仰向けになった船、四方八方、様々な向きに散らばり,ひしゃげ、車輪を上にして転がる自動車などを、これまでに放送されたニュースフィルムや、すでに発表された震災関連の記録映画と同じように捉えて、見る者の胸を痛ませる。しかしその映像は、その惨状の中をうごめく人々に、しだいに向けられるようになったとき、被災してもなお生きているその“生活の日常”にとどまらず、苦しくもがく、あるいは悲しくむせび泣く、その日常の裏側にある人々の内面に気づき、皮相なこれまでの被災記録とは違った、局面を見せ始める。

仮設入居開始より抽選漏れの苦闘を

 報道記者出身で、この映画の監督を務めた、MBSの森岡紀人氏は、9月18日の朝日新聞の関西版に載った、この映画の紹介記事の中で、「仮設住宅の入居が始まると、報道は一つの政治、行政の節目として、幸い籤を当てて、入居できることになった、幸運な被災者を大写しにし、復興もここまで進展したと伝える。それが現実の一部であることは間違いないが、入居できなかった被災者の現実はどうなっているのか。復興事業の進展の遅さや、「ただ待て」というだけの抽選漏れの被災者への対策のなさを非難して、役場に詰め寄り、職員に罵声を浴びせている被災者が、より多くいるという現実を捉えなければ、片手落ちなのだ。」という意味のことを語っているが、まさにこの映画のカメラは、そうしたことに気付き始め、個々の被災者に寄り添い始めるのである。

カメラを寄り添わせ不幸の描写に成功

 これには、肖像権の尊重などといった厄介の問題を乗り越える、真の記録精神が、そこに疼く。普通、「他人の不幸を踏みにじるな」という、被災者や被害者の気持ちを尊重する考えが、撮る者と撮られる者の間にあって動き、ニュースカメラは、撮られる側の人権を、尊重するのが正しいという、近年の慣習の下で、行動することになっているため、許可なくして、「不幸」にカメラを向けることが出来ず、不幸の実態を、正確に伝えられないという、ジレンマに陥っていく。過去には、拒否されても強引に撮るという時代があったが、これは報道機関や報道者の品性が疑われると言うことになって、近年はしない。しかし、じっくりと「不幸」に寄り添い、撮られる側との信頼関係を築き、被災の真の現実や深い現実までをも、カメラに収めることは、時間にせかれているニュースカメラでは、果たすことの出来ない事柄であり、ここから「報道」と「記録映画」の違いが、はっきりと分かれてくるのである。この映画は、最初はニュースカメラの傍らで、同じ真似で撮影しながらも、長期に南三陸町に腰をすえることで、次第に被災者に寄り添い始め、被災者の「不幸」の真の姿を、えぐり出すことに成功して行く。

妻の遺体発見の不幸を語る男性の悲痛

 主として寄り添った人は、4人の被災者だ。  浜辺に近い住宅に住んでいて、最愛の妻を亡くした中年の男性は、「もう海を見たくない」と隣町に引越し、残された愛児二人に、弁当を作って学校に送り出す日々なのだが、これから恒久的な住宅が決まり、仕事も通常のペースに戻ったあとも、男手一つで子育てをして行かねばならない運命になったことを、「思いもよらなかった人生の激変」と、わだかまってしまう。そんなわだかまりを、正直に明かす男性は。もうカメラを恐れることなく、妻の遺体を発見した場所へ、取材陣を案内し、生々しい思い出を、水が溢れるように語りだす。災害を免れた職場から、跡形もなくなった、自宅の場所へ戻ってきて、妻の行方不明を知り、血まなこのなってあたりを探した、震災直後の行動。そして100メートルほど離れた、同様に瓦礫となった別の建物の床の隅に、妻の遺体が横たわっているのを発見し、何度も抱き上げて名前を呼んだが、空しかったとを、涙ながらに語る。坦々と取材陣を案内していた男性が、妻の遺体発見の瞬間の話で嗚咽を繰り返し、冷静さを失っていく姿を、カメラの前に、自然な形で示してしまう。

不明の娘を探し魚網を海に入れる漁師

 幸い使える船と網があって、いち早く海の仕事を再開した、一人の漁師にも、カメラは向けられる。しかしこの漁師は、海底が瓦礫にうずまった海で、魚の陸揚げ施設も崩壊したままの状態では、何一つ仕事にはならないといい、代わりに、行方不明のまま、遺体すら出てこない一人娘が、網にかかってこないかと、空しく海に、網を入れる日々になっていると言う。この漁師も、その一人娘が勤めていた職場の、無残な建物の前に来ると、感情を爆発させて、泣き出すのだった。

同居の兄を失い、ただ位牌を拝む老婆

 一人の老婆は、避難所の片隅に置いた、小さな仏壇に毎日毎日手を合わせている。同居していた兄を失い、ますます孤独になった老後を、位牌に手を合わせることで癒していた。おまけに避難所と言う過酷な環境と、まわりは知らぬ人たちばかりと言う孤独感が、さらに老婆を苦しめていた。一縷の望みは、もといた地区の近くに建つ仮設住宅に入居することだった。幸いその望みは叶ったが、部屋の隅の仏壇に手を合わせる生活は変わらず、ただ入居できたことを、兄の霊に報告することだけが、ちょっぴりとした変化だった。

不明の防災担当町職員の夫の誕生祝

 南三陸町の元中心街に、骨組みだけとなった元の防災対策庁舎が、その看板も空しく建っている。防災の指令室までが、津波に飲み込まれてしまったこの南三陸町。まさに震災の象徴として、県外から来る人までがここに寄り、花を供えていく。取り壊しの予定が、モニュメントとして保存しようとの動きも出ている場所である。
 この骨組みだけの元防災対策庁舎に、毎日のようにやってきて、花を手向け、祈り、泣き崩れている一人の女性がいた。この防災対策庁舎で、防災担当の町職員として働いていて、津波の犠牲になった夫を探している女性だった。まだ夫の遺体は見つからず、こうして毎日、見つかるようにと祈り、「今どこで何をしているの?」と、語りかける。カメラが捉えたこの女性の、不明の夫の誕生日は、非常にユニークなものだった。酒好きだった夫と誕生日を祝うとして、瓦礫と化した自家用車の中に入りこみ、「乾杯!」と盃を掲げて、一人祝うのだった。

個人に寄り添った記録は、50人分も撮影

 森岡紀人監督によると、このような形で、被災者一人ひとりに寄り添い、その悲しみや苦しみを、政府や行政の、遅れ続け、矛盾一杯の復興事業の、裏側にうごめく真実としてカメラが捉えたのは、約50人分もあるという。南三陸町の被災一年を、個人に寄り添うことで、記録し続けて来た、放送局MBSの、こうしたニュース報道と別班の記録映画つくりは、同様に、ドキュメンタリー作品の劇場上映を始めた名古屋の放送局・東海テレビ(これまで『平成ジレンマ』『青空どろぼう』『死刑弁護人』を劇場上映)などにも、大きな影響を与えると思う。東海テレビの場合は、全国ネットに乗らないという、民放地方局のドキュメンタリー番組の宿命に反撥し、放送番組として作ったものに少しの手を加えて、全国民に見てもらおうと、劇場公開を始めたもので、最初から劇場を目指した制作ではなかった。だが東海テレビの阿武野勝彦プロデューサーが、この映画の報道用資料の中で、「テレビ・ドキュメンタリーを劇場で見ようとする流れを、きっと太くしてくれる」と感想をのべているように、まさにこの『生き抜く』は、フリーの監督たちによって作られてきた、記録映画のジャンルの中に、テレビ放送局が、確実に参入してきた作品で、その試金石として、重要な意味を持つと思う。

松山の南海放送の『X年後』も公開へ

 因みに、1954年の、ビキニ環礁での米の水爆実験で被曝した「第五福竜丸事件」のその後を、現在の視点から取材した、松山の南海放送のTVドキュメンタリー番組『放射線を浴びた「X年後」』が、劇場用に編集しなおされて、本欄での紹介は遅れているが、既に東京のポレポレ東中野で公開されており、今後全国で公開されることになっている。まさにTV局と記録映画の地方の時代が、進行しつつあるのである。
(上映時間1時間39分)
写真提供:(C)2012 MBS
大 阪 十三 第七藝術劇場 10月6日〜上映
東 京 東中野 ポレポレ東中野 10月13日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 10月20日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 11月10日〜上映
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 近日上映
全国順次
南三陸町での試写会は終了しました。
◆製作・配給社 MBS毎日放送 06−6375−7984

《公式サイト》http://www.mbs.jp/ikinuku-movie/

 

 

 
   

北朝鮮に行った兄が、25年ぶりに帰国

病気治療無視命令で、束の間の邂逅に

在日監督描く一家の苦悩『かぞくのくに』

(2012.9.1)

木寺清美

 
 


『ディア・ピョンヤン』『愛しのソナ』のこと

 『かぞくのくに』というこの劇映画は、これまでドキュメンタリー映画を発表してきた、在日朝鮮籍の女性ヤン・ヨンヒ監督の、初の劇映画である。
 ヤン・ヨンヒさんの兄三人は、10代から20歳前後の青年だったころの、60年代から70年代にかけ、新潟に入港する万景峰号によって推進された、帰国推進事業に乗って、祖国建設にバラ色の夢を抱き、北朝鮮へ行った。ヨンヒ監督の父親は、この映画にも描かれているように、済州島から戦後直ぐに大阪に来て、事業に成功し、朝鮮総連の幹部になった人で、この帰国推進事業に協力することは、朝鮮籍の人間として、当然の責務と思い、北朝鮮が、今日のような、世界から孤立する国になるとは、当時想像だにできなかった人なのだ。その父の薫陶を得て、息子三人は、一切の疑問を抱かず、北朝鮮へ渡り、そこで北朝鮮の女性と結婚をし、それぞれの家族を、持ったのである。ヨンヒ監督だけが、キタへ渡らなかったのは、当時幼少であったという理由だけだったのである。
 しかしそのために、ヨンヒ監督は、アメリカに留学して、映画を学ぶと言う、兄たちとは違った道を歩むことになった。そして、朝鮮総連の幹部という父の特権で、比較的自由に、北朝鮮へ、兄に会いに行くことが出来たのを利用して、兄と兄たちの家族を記録映画に収めた。それが『ディア・ピョンヤン』(05)『愛しきソナ』(09)という、兄たちの生活ぶりを通して、北朝鮮政策を非難した、二つの記録映画であり、この欄でも、公開の際、詳しく紹介をしている。そしてその北朝鮮に批判的な映画の製作のために、ヨンヒ監督は、撮影時のように、キタへは自由に行けなくなり、今回のように、同じテーマでも、日本で撮影する劇映画にするしかない状況に、追い込まれたのである。
 四兄妹の父もまた、今となっては、息子三人を、もう日本に帰ってくることも出来ない北朝鮮に送ったことに、慙愧の念を抱くようになり、長男が、ピアニストになる夢に破れたまま、08年夏に、キタで病死したことを大いに悔やみ、自身も、その秋、脳梗塞を患って、大阪で、苦悶のうちに他界した。
 以上が、ヤン・ヨンヒ監督を巡る家族状況であることを知った上で、今回の劇映画『かぞくのくに』を鑑賞することを、お奨めしたい。

「病気治療で息子が帰国」は事実に対応

 さて劇映画『かぞくのくに』は、ヤン・ヨンヒさんの家族同様、日本にいる父、母、妹のところへ、北朝鮮にいる息子が、病気治療のため、一時帰国してくるところから始まる。 つまり、ヨンヒ監督の実際の家族構成とは違って、北朝鮮への帰国推進事業で、キタへ行ったのは一人息子一人という設定で、三人という実際とは違う。しかしこれは、製作費を安くするためにそうしたのだと、ヨンヒ監督が告白しているので、泣くに泣けない話なのだが、実際にも、一番下の兄三男が、1997年に、この映画と同様、脳腫瘍の疑いで、一時帰国してくるという事態があり、この劇映画も、それに対応した設定になっているのである。そしてそれ以後の展開は、たった7日間の物語として描かれる本作と、事実も、ほぼ同様であったと言われる。

帰国は北京径由、今飛行機に搭乗と電話

 主人公リエ(安藤サクラ、監督ヤン・ヨンヒ自身を擬した人物)の10歳年上の兄ソンホ(井浦新)が、北朝鮮から、3ヶ月という「限定」つきではあるが、病気治療で帰国することになったのは、その兄が、16歳でキタへ渡ってから、25年ぶりのことであった。朝鮮総連を通じ、その連絡が入って三日目のこの日、兄ソンホの親友であり、一家が北朝鮮を訪問したときにも知己を得ているホンギから、「北京経由での帰国であり、今ソンホは、東京行きの飛行機に乗った。温かく迎えてやってほしい。いま僕は、北京空港からかけている」という電話が入ってくる。

空港出迎えは不可、総連で待ち車移動

 朝鮮総連の東京の事務所で、幹部である父(津嘉山正種)と、在日事業家として成功している叔父のテジョ(諏訪太郎)、それにリエの3人が、今か今かと待ち受けていると、ソンホは、監視人として北朝鮮から同行してきたヤン同志(韓国俳優ヤン・イクチュン=韓国映画『息もできない』の監督・主演者としても著名)とともに、現れる。空港まで出迎えに行けないのが、国交にない北朝鮮からの場合の常であった。
 やがて4人は、叔父の運転する車に同乗し、東京下町の自宅へと向う。ずいぶんと変わってしまった、車窓からの東京の風景に、ソンホは驚きながらも、久しぶりに会った家族には、何か打ち解けないよそよそしさを、もち続けていた。それは、車のあとを、ぴったりついてくるヤン同志運転の車が、車内のソンホの態度を、後ろの車窓越しに伺っているかのように、見えるからでもあった。
 なお、一家の居住地を、東京下町にしたのも、製作費を安くするためで、ロケも全て東京でしたと、ヨンヒ監督が明かしているが、車がたどり着く町並みは、一家が実際に住んでいる、大阪生野区のコリアンタウンに、よく似たイメージの町並みを選んでいる。

自宅前で抱き合う母息子、監視人同行

 家の近くまで来て、見覚えのある町並みに接すると、ソンホは車を降りると言い出し、車の前に立って、25年留守にした我が家を探すように、ゆっくりと歩き始める。覚えのある道だった。100メートルほど歩いたら、そこには、母が家計を助けるために開いている喫茶店兼用の我が家があった。そしてその前に、少し老いた女性が立っていた。一瞬たじろぐソンホ、そして女性もたじろぐ。それは母(宮崎美子)だった。双方ゆっくり歩み寄り、やがて数歩走り、しっかりと抱き合う二人。「おかえり」「ただいま」母の嗚咽が聞こえる。
 やがて車も家の前に着き、家族はみんな降りて、家に入った。ヤン同志の車も、少し離れたところに止まり、同志も降りてきた。ソンホは挨拶もそこそこに、ヤン同志を紹介することを優先した。「滞在中、僕の世話をしてくれるヤン同志です」。家族たちは、紹介されるまでもなく、どういう目的でヤンがついてきているかは、暗黙のうちに察知していた。「滞在中事故が起きないように、私がソンホさんをお守りさせて頂きます」ヤンの言葉は丁寧だったが、眼光は鋭かった。

別離長く話弾まず、父紋切型、母料理作り

 それから一家水いらずの時間に入ったが、長い別離がかえって障害になったかのように、なぜか話は弾まなかった。父は総連の幹部らしく、「治療に専念することがお前の仕事だ。3ヶ月で足らなければ、6ヶ月ぐらいは許されようから、本国に許可を再申請してやる。それもあくまで治療のためだ。余計なことは考えないことだ」と、まるでヤン同志と同じ立場に立ったかのような、紋切り型のことしか言わなかった。しかし父が眉間に寄せている皺には、南北を統一したバラ色の朝鮮半島などという夢は、とっくになくなってしまっている北朝鮮に、息子を送ってしまった自分の行為に、慙愧の念を抱いていることを示していると、リエは知っていた。紋切り型の発言が、自分の立場から逃れられない苦渋の発言であることも、リエは知っていた。
 その夜、母は、ソンホが子供のころ好きだったご馳走を、たくさん作り、みんなで乾杯をしたが、ソンホはあまり食べられなかった。

旧友と懇親会、キタ禁止の日本の歌唄う

 次の日、ソンホは、病院で精密検査を受け、数日後の検査結果を待つまでの間、高校時代の懐かしい友人に会うことになった。その中には、お互いに思いを寄せ合っていた、スニ(京野ことみ)もいた。そしてみんなして、スニが得意だった思い出の歌、「白いブランコ」を唄った。北朝鮮では、日本の歌を唄うことを禁じられているため、ソンホは「白いブランコ」を殆んど忘れかけていたが、小さな声で、皆について唄ううち、次第に思い出し、堂々と合唱に参加できるようになって行く。ソンホの祖国は北朝鮮だが、もともと在日だった者にとっては、日本もまた祖国だった。キタに渡った同胞と、渡らなかった同胞の運命的な違い、一同は、複雑な思いで噛みしめた。
 懇親会の後、ソンホとリエの兄妹は、ショッピングに出かけた。旅行用品を売っている店で、スーツケースを前にソンホは、「お前は自由に何処の国にでもいける。スーツケースの運命も、持つ者によって、ずいぶん違う」と。リエは兄からうらやましがられているようで、何やら悲しい気持ちになった。

兄、妹に工作員要請、妹断り、兄妹険悪に

 その夜、自宅に帰ったリエとソンホの間で、深刻な行き違いが起きた。ソンホが何気なく、「僕がリエに伝えたことを、自由に何処へでも行き、いろんな人に会って、伝えるというような仕事を、したくないか」と語りかけてきたのである。一瞬ぎくっとしたリエは、「それは、スパイのようなこと、工作員のようなことを、してほしいと言う意味なの」と問い返す。「そんな難しいことじゃないんだ」とソンホは言葉を濁し、「私の兄はこういっていると、伝えてくれればいいんだよ」「要するに北朝鮮の宣伝をしてほしいと言うことなのね」「そんなに難しいことじゃないんだ」「それを断ると、お兄さんは困るの。もし引き受けたら、お兄さんのお手柄になるの」「いやあ別に。ダメならいいんだ」と、会話が続き、そこで途切れた。しばらく沈黙が続き、リエは堰を切ったように叫んだ。「そんな仕事、全く興味がない。かかわりたくもない。兄さんにそんなことを言わせた上の人に言っといて。妹は、我々とは相反する思想を持った敵ですと、はっきり言っといて!」言い過ぎたと思ったリエは、「役に立たなくてごめん」と小さく謝り、ソンホもまた、「リエが謝らなくてもいいんだよ」と、静かに言葉を返した。

兄の要請父も知り紋切型発言、息子反撥

 翌日、朝食の後、ソンホは、父の部屋に呼ばれた。昨夜のリエとソンホのやり取りを、こっそり父が聞いていたのだった。「お前は治療のために帰ってきた。それ以上の余計なことに、気を配る必要はない。かかわらなくてもいいように、わしが何とかする。本当に治療に専念するんだぞ。」と、ソンホは懇々と諭された。ソンホは、息子をこういう境遇に置いた父の責任について、一切触れない父に、反撥する気持ちを、捨てきれずにいて、「お父さんはいつも、そんなことしか言わない人だ。同志の一人として何かしなければ、置き去りにされるという僕の気持ちなど、全く理解しようとしないんだ」と、言い捨て、父の部屋を出て行った。ますます苦渋を深めた貌で、それを見送る父。25年ぶりの邂逅が、失われた愛と時間を取り戻す邂逅ではなく、さらに愛の喪失を深めていく邂逅になってしまっていることが、画面からむんむんと伝わる家族ドラマである。

リエの嫌いな国で、ヤンもソンホも生活

 リエは、数日たっても、家の近くに車を止めて、ソンホの動向を監視しているヤン同志に対しても、文句を言わねばと思うようになっていた。リエを工作員に引き込めと言う指令を、ヤン同志がソンホに対して出しているのかも知れないという思いも、当然あった。リエは、車の中のヤンに向かって言った。「あんたは、何のためにつきまとっているのよ。あんたが自分で言えばいいんじゃない?兄さんに言わせないで、自分で言ってよ。日本語の分かる人なんだから、私たちの会話も、全部盗み聞いているんでしょう。だったら自分で言ってよ」こう叫ぶリエにも、何も聞こえない振りをして、なかなか車の中から出てこようとしなかったヤン同志たが、「あなたもあの国も大嫌い!」とリエが叫ぶと、やっと車の扉を開けて出てきたヤン同志は、「あなたが嫌いなあの国で、お兄さんも、私も生きているんです。死ぬまで生きているんですよ。」と言い捨て、じっとリエを睨んだ。国の命令に従い、工作員を増やそうとするのは、北朝鮮市民の、生きるための当然の行為であるといいたげなヤン同志の発言に、リエは、言い返す言葉がなかった。

検査結果最悪、3ヶ月短い、治療引受けず

 検査結果は、思わしいものではなかった。悪性の脳腫瘍が見つかり、手術は可能だが、かなりの難しい手術になり、術後の療養も、相当期間十分なものが必要と言うもので、3ヶ月の滞在期間では無理だとして、手術を引き受けてもらえなかった。放置すれば、当然様々な障害が現れ、最後は死に至るという。滞在を6ヶ月に延長できるかもしれないという父の発言にも、はっきり6ヶ月と決まってからの判断にしたいと、病院側は、慎重だった。
 喫茶店兼用の我が家に戻った一家は、ソンホの最悪の結果に、ただ嘆くしかなかった。、叔父のテジョもリエも、そもそも70年代に、息子をキタに送り込んだ人間が悪いのだと、父を責めるばかりだった。だがリエは、自分の知り合いの医師が勤める別の病院のことを思い出し、電話をして、断られたソンホの再検査を頼み込む。そしてもう一度診てみようという、その病院の約束を取り付けるところまで、話を進めた。

別の病院探すうち、突然理不尽な帰国命令

 そんなときだった。ホテルにいたヤン同志のところに、北朝鮮から電話が入り、「君が今監視している、北朝鮮から日本への訪問者を、全員、あさってに帰国させよ。」と突然言ってきた。さすがのヤン同志も、あまりに急なことで、「なぜ?」と理由を聞きそうになるが、電話の向うの声は、「質問があるのか?決定だ」と、命令口調で畳み込み、ヤン同志は、「いえありません。早速手配します」と命令に応じて電話は切れた。たった一日しか余裕のない帰国命令は、早速ソンホに伝えられた。ソンホもあまりに急な許可条件の変更に、一瞬、顔色が変わるが、直ぐに落ち着きを取り戻し、「分かりました、直ぐ帰国準備に取り掛かります」と応えて、ヤンからの電話を切る。それから後の一家は、またてんやわんやの大騒ぎになっていく。

帰国命令、旧友にも伝える。理不尽に驚く

 新しい病院の約束を取り付けたばかりのリエは、キョトンとし、母は「なぜ」と絶句したあと、わっと泣き出し、父は黙って、眉間に寄せた皺の数だけ増やした。ヤンは、すっかり諦めきった表情で、「北朝鮮では、こんな命令の変更は、よくあることなんだよ。命令に対して、理由を聞いてはいけないことになっている」と、驚く家族の一人ひとりに、ボソボソとつぶやくだけであった。
 一日だけ与えられた余裕、ソンホは、スニを別れのデートに誘う。事態を知らずにやってきたスニも、急な命令の変更を聞いて絶句する。新しい病院での再検査がまとまりそうという話を、リエから聞いているスニは、体のことをどうするのかと心配する。「キタに戻ってから何とかするよ。それより君こそ元気でね」というソンホを、スニは、ただ呆気にとられて見つめるばかりだった。

7日間の邂逅、見送りできず、自宅前で別れ

 日本に来てわずか七日しか経っていない、病気治療のためと称する帰国旅、25年ぶりの家族の邂逅は果たせたが、一体真相は何だったのか。それからのあわただしい時間の中で、母は、いわゆる国民服(白いポロシャツだけの夏用)と言われる服装でやって来ているソンホとヤン同志に、スーツ上下にワイシャツ・ネクタイという正装の既製服をそろえ、着て帰られるように準備した。これまでも、物資が不足がちなキタの生活に、ことあるごとに援助してきた母の冷静な習慣が、この驚天動地の帰国命令にも動じずに発揮され、ソンホとヤン同志を、喜ばせる。そして、あたふたとした、家の前での別れが、二日目の昼、直ぐにやってきた。日本に来たときも、空港への出迎えはなく、総連の事務所で待つだけであったが、北京径由の帰国もまた、空港への見送りは、出来なかった。飛行機の時間があるからと、せかすヤン同志の車に乗り込んで、家の前から立ち去るソンホ、リエは車のー扉を開けて、少し長くソンホの手を握りしめるのが、精一杯だった。

ラストシーンは、世界に飛び立つリエ

 真相は分からないままの「別れ」。映画はラスト・シーンに、逆に旅行かばんを持って、アメリカかどこかに旅立つために、空港へと急ぐリエの姿をとらえて終っているが、ソンホとのショッピングのさい、旅行用品店で、「リエは何処へでも行ける。僕とは違う」と言ったソンホの言葉に対応するシーンである。
 事実、ヤン・ヨンヒ監督は、総連の幹部であった父親を利用して、何度も北朝鮮へ行き、撮影した兄たちの家族の映像を編集することで、許可条件とは違う主旨の『ディア・ピョンヤン』や『愛しのソナ』を作り、北朝鮮から入国を禁止される人物になったしまった。父が大阪で他界した今は、さらに厳しい監視にさらされる人となっているはずで、もう永遠に、兄たちとは会えない境遇になってしまっているのかもしれないのだ。ヨンヒ監督が、日本や韓国の俳優に演じさせて、今回のフィクションを作る決意をしたのも、そうした状況を自覚してのことであろうが、その出発点が、このラストシーであると、言いたげなように、私には思えた。何故なら、兄たちと同じ在日の朝鮮学校を卒業しながら、アメリカに留学して、映画の勉強をし、英語にも堪能で、国際的にも羽ばたける映画監督に成長してしまい、兄たちとは180度違う生き方を選んでいる、現在のヤン・ヨンヒ監督、この映画の中のソンホとリエとの別れが、そのターニング・ポイントとして作用したとも言えるのである。
 家族は、何人にとっても活動の基盤であろう。そうでない人もいるかもしれないが、一般にはそうである。これからも活動が続くであろうヤン・ヨンヒという映画人の、活動のの基盤である家族とは、何であったか。きわめて個人的なその基盤を描きながら、現在の北朝鮮問題という国際的な不条理までを描いてしまった、これは稀有な傑作ドラマだ。  なお、本作は、今年の2月の、ベルリン映画祭のフォーラム部門に出品され、国際アートシアター連盟賞を受賞している。
(上映時間1時間40分)
写真提供:(C)2011 Star Sands, Inc

東 京 テアトル新宿 上映中 シネマート新宿 9月1日〜上映
川 崎 109シネマズ川崎 上映中(9月6日まで)
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 上映中
千 葉 京成ローザ10 9月1日〜上映
高 碕 シネマテークたかさき 9月1日〜上映
札 幌 大通 シアター・キノ 上映中
函 館 五稜郭公園 シネマアイリス 上映中
苫小牧 シネマトーラス 9月1日〜上映
仙 台 桜井薬局セントラルホール 上映中
盛 岡 盛岡ピカデリー 上映中(9月7日まで)
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 上映中
金 沢 シネモンド 上映中
大 阪 テアトル梅田 上映中、シネマート心斎橋 上映中
京 都 烏丸 京都シネマ 上映中
神 戸 神戸の第一次上映は終了
広 島 たかの橋 サロンシネマ 上映中
岡 山 シネマクレール丸の内 上映中
福 岡 天神 KBCシネマ 上映中(9月2日まで)
福 岡 中洲大洋映画劇場 9月8日〜上映
浦 和 ユナイテッド・シネマ浦和 9月22日〜上映
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 9月15日〜上映
新 潟 T・ジョイ新潟万代 9月22日〜上映
松 本 CINEMAセレクト 9月28日のみ上映
福 山 シネマモード 9月8日〜上映
尾 道 シネマ尾道 9月8日〜上映
今 治 アイシネマ今治 9月29日〜上映
北九州 シネプレックス小倉 9月22日〜上映
佐 賀 シアターシエマ 9月22日〜上映
大 分 シネマ5 9月8日〜上映
熊 本 Denkikan 9月22日〜上映
10月以降上映劇場
  浜松シネマイーラ、長野ロキシー、神戸元町映画館、宝塚シネピピア、   松山シネマルナティック、高松シネマソレイユ、鹿児島ミッテ10、那覇桜坂劇場
◆配給社 スターサンズ 03−3406−2205
◆宣伝協力 ザジフィルムズ 03−3490−4148

《公式サイト》http://kazokunokuni.com/

 

 

 

 
   

中産階級と交わる不法移民、帰還兵士

伊の現代社会の諸相を一家の数年で描く

6時間半超『ジョルダーニ家の人々』

(2012.8.24)

木寺清美

 
 


長大映画が多いイタリア、今回も傑作

 『ジョルダーニ家の人々』は、上映時間が、6時間39分もかかる長大なイタリア映画である。全体を、前後編各3時間強に分け、料金も上映方式も入れ替え制で、3時間超の長い映画を、前後編別々に2本見るといった、一日一回興行が、行われているが、二日に分けて見ようが、後編から見て前編に戻るといった見方をしようが、相当の覚悟で、臨まねばならない傑作映画である。
 イタリア映画には、こうした長大映画が多い。『輝ける青春』(03、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督)という6時間を超える映画は、普通の庶民の兄弟の、別々の生き様を、60年代から21世紀に至って追い、20世紀後半40年のイタリア現代史に重ねるという映画だったし、『1900年』(76、ベルナルド・ベルトルッチ監督)という5時間を超える映画は、ポー河流域の農村を舞台に、左翼とファシズムの抗争、農民と地主の階級闘争といった、20世紀前半のイタリア史そのものを、1900年の同日生まれの二人の男の、人生を通して描いた傑作だった。

時間軸が短く、地平軸が長い大作

 今回の『ジョルダーニ家の人々』は、これら二作と決定的に違うのは、たった数年間のそれも年代をはっきりさせる必要のない現在の物語であるということである。前二作が、タテに流れる時間、歴史の物語だとすれば、これはヨコに広がる地平、現在の社会の物語であり、ジョルダーニ家の主要人物5人(6人いるのだが、一番若い三男の高校生は、映画が始まって間もなく、交通事故で他界する。その家庭の不幸が、他の5人にどう影響するかが、ドラマのきっかけになっている)の、それぞれの崩壊と再生の物語なのであり、しかも、イスラム社会からの難民問題や、テロ紛争地からの帰還兵の健康の問題が絡んでくるあたり、現代社会にコミットする意思の強い作品と言うことができる。

『輝ける青春』のベテラン脚本家の力

 また前二作が、60年以上前の、第二次大戦後すぐの、イタリアン・リアリズムの、個性的な中期的後継者とされるベルトルッチや、最近の後継者とされるジョルダーナ監督の作品であるのに引き換え、今回の監督ジャンルカ・マリア・タヴァレッリは、まず女性であるという違いが大きいのと、素人映画のような世界から、映像界に独学で輩出し、テレビを含むさまざまな映像作品に、脚本、助手、助監督などとしてかかわり、中年になってやっと、自作を作るチャンスを得た人の作品というわけで、その苦労人振りは、映画界の潮流などとは無縁のもので、歴史よりも、社会の現状を見ることに、おのずから関心が深まっている監督の作品なのである。ただ本作の脚本は、『輝ける青春』の脚本を書いた、監督よりも20歳近くも年長の、二人のベテラン・シナリオ・ライター、サンドロ・ペトラリアとステファノ・ルッリのオリジナルであり、そこには、年下の監督の脱線を糾す、タガのようなものが当然備わっている。本作が、品行方正なリアリズム作品に仕上がった理由も、監督の資質以上に、このベテラン脚本家の参入による要素が大きいとするのが、正しいように思われる。

仕事人間、専業主婦に、息子三人娘一人

 というわけで、映画は、ローマに住む、知識階級に属する、典型的な中産層のジョルダーニ家の中から、始まる。父ピエトロは、プラント建設の技術者で、いつも出張がち。母アニタは、元医師だったが、三男を身篭ったときに、仕事をやめて専業主婦になった。長男のアンドレアは、外務省に勤める役人で、もう三十路を迎えているが、まだ独身、殆んどの職場が、シチリアにある不法移民の取締所で、ローマにいることは少ない。長女ノラは心理カウンセラーとして病院勤めをしており、最近結婚をして家を出、最初の子供を妊娠中。次男ニーノは建築を学ぶ真面目な大学生で、三男ロレンツオは、同級生の女の子に夢中になっている高校生といった家庭である。

三男が交通事故死、間もなく家は空家に

 この高校生のロレンツオが、突然交通事故で他界し、緊急に集まった家族は悲嘆にくれる。とくに母アニタの悲しみが深く、ガス自殺を試みて、一家を慌てさせるが、大事には至らずに終る。しかしほっとしたのも束の間、アニタは、暫く家を離れたいと言い出し、郊外の療養所に入ってしまう。父ピエトロが書店に勤める女性と、不倫をしていたことが、なんとなく家族間に知られていて、それが母の療養所行きの、原因の一つでもあった。この母の家出で目が覚めた父は、不倫を清算するが、新たな仕事は、遠いイラクでのプラント建設だと言い、母を追うように家を出て、イラクへ行ってしまう。
 次男ニーノは、父の不倫に、家族の中では一番先に気付いていて、父の下で暮らすこときらっていたが、大学の建築学科を優秀な成績で卒業したのを機に、エリートコースのサラリーマンにはならず、建築現場の仕事に就くといって家を出て、独居生活を始めるようになる。こうしてついに、ジョルダーニ家は、空き家となったのである。既に夫とともに独立しているノラが、無事男児を出産したことだけが、この一家の朗報だった。

イラクからの娘探しの不法移民に会う

 長男アンドレアは、ローマに帰っていたある日、長女ノラの勤める病院を訪ねて、ノラの患者である、銀行勤めのフランス人ミシェルと知り合う。そして、次男ニーノが、シチリアに兄アンドレアを尋ねたとき、このミシェルが、アンドレアと一緒に暮らしていることを知り、初めて兄アンドレアが、単なる三十路の独身男ではなく、同性愛者であることを知ってしまう。しかしニーノは、兄の秘密を知って、かえって兄に親近感を持つようになる。建前優先の父に反撥しているニーノは、弱点こそが、本当の人間らしさだと、思うようになっていた。
 そんな兄が、ニーノに相談して来たのは、自分が携わっている難民取締りの仕事の中で、イラクから不法にやってきたシャーバという女性を、こっそり助けてやりたいという仕事だった。シャーバは、数年前にイラクを出てヨーロッパに向った、アリナという娘を、探しにきたのだった。兄アンドレアは、シャーバのその境遇に同情しても、あからさまには、自分でシャーバの手助けをするわけにいかず、ニーノに頼んできたのだった。  ローマまでシャーバを連れて来たニーノは、空き家となっているジョルダーニ家の家に、シャーバを住まわせ、シャーバの娘探しを手伝うが、シャーバの持っている住所は、単なる空き地で、娘アリナはおらず、相当捜索は、難航することが予想された。果たしてどうなるか。ここまででで、前半の半分、第一部は終る。

不法移民の娘、ローマのクラブで娼婦に

 前半の後半部分,第二部は、イラクからの難民の母娘を巡って、かなりドラマティックな展開となる。シチリアのアンドレアもローマに戻り、シャーバの探す娘アリナについて、警察内の友人、刑事カタルドに相談する。そして警察側からもたらされた情報は、娘アリナは、ローマの下町のクラブで、娼婦をしているというものだった。アンドレア、ニーノの兄弟は、早速アリナを探し当て、母シャーバが、既にローマに来ていて、会いたがっていることを伝える。しかしアリナは、こともなげにそれを断り、今の自分の姿は、絶対に母に知られたくないという。それも当然と思える、悲しい状況なのである。
 ニーノは、ジョルダーニ家に住まわせているシャーバに対して、娘アリナの情報を知らせることが出来なかった。知らせれば半狂乱になる可能性もあったからだ。そうこうするうちにシャーバは、どこからか、アリナがスウェーデンのストックホルムにいるという情報を聞き込んできて、会いに行きたいと言い出す。ニーノは、偽の情報に踊らされてはダメと説得するが、「偽であっても行く」というシャーバの意志は硬く、ついにニーノは、アリナについての本当の情報を、話さざるを得なくなってしまう。そして話せば最後、ニーノとシャーバは、アリナに会うため、一緒にクラブに押しかけざるを得なくなってしまった。母娘再会の愁嘆場は、この映画の中でも、ひときわ光るスリリングな場面で、アリナは今の自分を知られないように装って、母親を追い返してしまう。

闇組織の報を警察に流した娼婦惨殺さる

 アリナは、母と生き別れた後、もう一つの悲しい現実に遭遇することになる。アリナには、イェレナというモンテネグロ(旧ユーゴ、バルカンの一国)から移民してきた、娼婦仲間がいた。下宿先も同じ、衣食住も殆んどいっしょで、不遇の身を、唯一慰めあえる仲だった。刑事カタルドが、娼婦組織を、直接摘発しないのは、クラブを隠れ蓑にしている、武器や麻薬の密輸組織の摘発を狙っていて、娼婦を泳がせて情報を取ろうとしていたためだった。カタルド刑事は、アリナにもイェレナにも、密輸組織の情報を流してくれれば、ローマで安心して働ける、滞在許可証を発行してやると、もちかける。アリナは、密輸組織にばれて、報復のリンチを食らうかも知れないのを恐れ、誘いを断る。しかしイェレナは、誘いを受け入れ、どんどんと情報を警察に流すようになり、案の定、組織の男たちに囲まれて、殺されてしまう。カタルド刑事は、慌ててアリナを保護し、隠れ家に匿う。

殺された娼婦の遺体、故国で悲しい葬儀

 イェレナの遺体は、故郷モンテネグロに送り返されることになった。アンドレアが付き添い、故国での葬儀にも出席することになる。海外での成功を夢みて出立したイェレナ。悲惨な姿で帰ってきたイェレナ。イェレナの悲しい運命を変えるのには、貧しさのため、何も出来なかった真面目な親族たち。遺体に取りすがって、ただ号泣するだけの光景を、映画はかなり執拗に撮っている。この映画がイタリアを離れる場面は、殆んどここだけなので、先進国とされる国々と、そこに流入してくる後進国からの難民の問題を、力をこめて描くことが、現代を描くことになると、この映画は言っているように思う。

長女の患者で長男と同性愛の仏人に子供

 この第二部では、同性愛関係にある、アンドレアとミシェルの間に横たわる、厄介な問題も描かれる。
 精神上のいろいろな指導や治療を受け、長女ノラの患者でもあるミシェルから、ノラは厄介なことを告白される。薬物中毒の女性との一度だけの関係があって、そのために出来た女児があるとの告白だった。しかもその女性は、子供の育てられないほどに中毒が激しくなり、その女児を引き取らねばならなくなったが、現在の連れ合いの理解が得られず困っているという相談だった。ノラは、アンドレアとミシェルの同性愛関係を知らず、現在の連れ合いとよく話し合って、引き取るべきだとアドバイスするが、直後に、連れ合いとは兄のアンドレアであると知って、大きなショックを受ける。そして心理カウンセラーとしての自分の無力を感じて、自己嫌悪に落ち入っていく。

仏人の女児は、薬物中毒の女性との落胤

 一方、アンドレアも、ミシェルから子供の告白を受け、ショックを受けていた。おまけに、ミシェル自身が、胃癌を患っていて、余命幾ばくもないことも知らされ、アンドレアは大いに困惑する。しかし、イェレナの葬儀にモンテネグロまで行って、その貧しい親族たちと会ってきたアンドレアは、人間は支え会わなければという思いを強く受け、ミシェ ルの行き場のない女児リラも引き取らねはならないと決心し、ミシェルにOKの電話をするのだった。そのころクスリ中毒のリラの母親は、路上生活者にまで落ち、生死の境をさまよっていた。ここでもこの映画は、癌、クスリ、同性愛と言った現代の病弊と屈折を、ドラマの中に散りばめ、問題提起をしようとする姿勢を、見せている。

アリナも刑事に協力、自分と母の許可証得る

 映画の後半の前半部分、第三部は、空き家になってしまっていた、ジョルダーニ家の家で、アンドレアと、ミシェルから引き取った娘リラが、生活を始めるところから始まる。勿論この家には、ニーノが連れてきたイラクからの難民シャーバが、既に住んでいる。きっちりとは話し合えないままに終った、娘アリナとの邂逅だったが、アリナが、武器や麻薬の密輸組織の捜査に巻きこまれ、組織から追われて、警察に囲われていると聞き、心配になったシャーバは、再びクラブを尋ねるが、クラブそのものが閉鎖されていて、ますます心配になる。一方で滞在許可証の申請は却下されるが、ないまま、アンドレアやノラの世話で、こっそりと介護の仕事につき始める。またアリナも、さらに麻薬組織のボスの逮捕に協力し、その見返りを、カタルド刑事に強く要求するところとなり、自分と母シャーバの滞在許可証を、まんまとせしめることになる。

ノラは帰還兵と、ニーノは教授夫人と

 この第三部は、こうした難民母娘のその後の帰趨以外に、登場人物たちの、さまざまな人間模様にも触れている。ノラにはミシェル以外に、もう一人気の毒な、プラージ大尉という軍人の患者を抱えていた。大尉は、アフガニスタンからの帰還兵で、戦場での悲惨な体験からPTSD (心的外傷後ストレス障害)にかかっていた。治療の中でノラは、大尉の生真面目な人間性にふれ、夫以上の感情を、持つようになっていくが、フィアンセと言う、障害が治癒すれば帰っていく場所があるのを知り、淡い恋に終わる。
 建築現場で働きながら、建築学科のニコライ教授の指導を受けているニーノは、教授の夫人フランチェスコから言い寄られる。性行為も妊娠もいとわないが、子供は中絶で産まないと言う夫人の考え方は、長く中絶禁止だったカトリシズムの国イタリアの女性としては、かなり進歩的なのか退嬰的なのか、ともかく生活に困らない層の、おかしな自由として描かれている。映画は、このイタリアでの性への考え方の変化も、指摘しておきたかったのであろう。幸いニーノが、ニコライ教授を通じて事業体に提出していた、「孤児院の再開発プロジェクト」が採用になり、建築現場をやめて、また設計現場に戻ることになり、それを機に、フランチェスコ夫人とは、縁を切ることが出来るようになる。

ミシェルの介護、民族超えて認め合う

 これらの挿話は、それぞれに付与された、現代的意味が、充分に分かるようになってはいるが、いささかランダムに詰め込みすぎていて、あっちこっちするストーリー展開が、少しわずらわしいのだが、癌と闘うミシェルの病状が、いよいよ逼迫するようになって、「誰にも知られず看取ってほしい」とミシェルが、難民出身の介護人シェーバに頼み、シェーバもそれを、快く受け入れる挿話は、ヒューマニズムの立場で、上手く構成したものである。ミシェル自身の手紙で、そのことを知ったアンドレアは、急いで出張中のシチリアから戻り、ミシェルを見舞うが、そのあと、リラの養育に本腰を入れる決心をするあたりも、ヒューマニズムが冴える展開である。

父はメールで母を励ましていた

 後半の後半、第四部は、冒頭で、技術者として、プラント建設のため、イラクに行ってしまった父ピエトロが、戻ってくるところから始まる。郊外の療養所で、三男ロレンツオを失った悲しみを癒している母アニタのところへ、ロレンツオの名で、何者かからのメールが届くという、奇妙な事件が起きていることを、母を見舞った次男ニーノが知らされるのだが、そのメールを送ったのは「わしだ」と、父がニールの質問に答えて、謎を明らかにする。浮気をし、母を顧えり見ず、仕事人間を通して家もあけてしまった父の、母への少しばかりの侘びの気持ちが、あのメールになったのだと、続けて父は言うが、聞いていたニーノらは、それならば、直接母を見舞って、奇妙な謎を解いてあげるべきだ、と父に言う。父による母への見舞いが、そのあと実現し、父母が何年ぶりかで、笑顔を取り戻すという挿話が、このあとに設定されていることは、言うまでもない。

空っぽジョルダーニ家、再び棲家へ

 第四部は、こうして、一旦空っぽになったジョルダーニ家の家に、次々と人が戻り、第三部までに描いた現代の問題点は、家の再生によって、克服再生されるということを示していく展開となる。
 孤児院の再開発プロジェクトを推進するため、建築現場から家に戻ったニーノは、幼馴染の、同じ建築を学ぶ女子大生ヴァレンティーナに、助手になってくれるよう頼んで快諾を受け、将来のカップルを予測させる展開になっていくし、アフガン帰りのPTSDの治療を巡って、ブラージ大尉との恋に破れたノラは、夫との溝も修復できず、子連れの出戻りで戻ってくるが、ブラージ大尉が、治療の甲斐あって、失っていた記憶を取り戻し、フィアンセの顔も思い出し、大喜びでそのフィアンセの下に帰っていくのを、ノラは素直に歓迎し、自分の治療に自信を持つようなる挿話も、後味の良いものである。
 ミシェルの最後の最後の臨終場面も、この第四部で描かれ、最期を看取ったイラク移民のシャーバに、ミシェルの女児を引き取ったアンドレアは、心から礼をいい、私を息子と思ってほしいとシャーバに頼み込む。これもシャーバの快諾を得て、シャーバとアンドレアとリラは抱き合い、親子孫の三代に亘る、新たな家族の誕生が祝われる。なおシャーバの娘アリナは、麻薬の密輸組織の摘発で活躍したカタルド刑事のプロポーズを受け、娼婦の足を洗って、カタルドの新しい赴任地に向うエピソードまでが、くっついていることを付記したい。

母アニタも帰還、再生の成果に共感

 そして最後に語られるのは、三男ロレンツオの交通事故死で心を患った母アニタの、郊外の療養所からの、帰還である。この映画のパンフレットで、児童文学者の清水真砂子さんは、こんな風に書いている。ジョルダーニ家に戻り、アニタが「ロレンツォの部屋に向ったとき(中略)私は、ハラハラしていた。ロレンツオに関わるものに触れることは、一家のタブーだった。彼の部屋は(中略)、今ではすっかり変わってしまっていることを、映画を見ている私たちは知っていても、アニタは知らない。(中略)縁もゆかりもない幼いリラの部屋になり、おもちゃが散らかっている。耐えられるだろうか。」と。しかし実際のアニタは、シャーバとアンドレアが養育を始めたリラを、すんなりと受け入れるだけの、広い心の、元医師の女性に戻っていた。「こうでなくっちゃ。私はホッとした」清水さんは、さらにそう書いている。
 ジョルダーニ家という、現代イタリアの典型的な中産階級の一族を、現代のわずか数年間でとらえ、多くの登場人物を追って、現代の問題のはらむ事象を重ねながら、横へ横へと広がる物語を語り、中心地点を一旦空っぽにしてしまうが、一家の再生と進歩という成果を得て、またその中心地点に戻ってくる。6時間半を超えるこの映画は、そんな映画であり、現代をまじめに生きようとする観客に対しても、共感と教訓を与える映画となっている。

(上映時間6時間39分)

東 京 神保町 岩波ホール 上映中(9月14日まで)
名古屋 栄 名演小劇場 9月1日〜上映
仙 台 フォーラム仙台 9月8日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 9月8日〜上映
札 幌 大通 シアター・キノ 10月6日〜上映
松 本 CINEMAセレクト 11月23日のみ上映
近日上映劇場
  シネマテークたかさき(群馬県高崎)、伊勢進富座、岡山シネマ・クレール   広島サロンシネマ、熊本Denkikan、大分シネマ5、那覇桜坂劇場
全国順次
大阪と京都の上映は終了
◆配給社 チャイルド・フィルム 03−3455−8073
       ツイン 06−6361−5172

《公式サイト》http:/giordanike-movie.com/
 

 

 

 
   

ピカドンからフクシマまで、反骨通し

建前と嘘の日本の半世紀と報道を斬る

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』

(2012.8.20)

木寺清美

 
 


原発事故撮影に立つ病身の老写真家

 去年の3.11の東日本大震災と、福島第一原発事故から、約10日たった3月23日、福島県南相馬市の、原発から20キロ圏の検問所に、カメラを持った小柄で細身の老人が、「ここから先に行ってはならない」と、警官の制止を受けていた。それでもその老人は、制止する警官を撮り、見える範囲の圏内の風景を、執拗にカメラに収めようとしていた。この人こそが、この映画に描かれる、反骨の報道写真家福島菊次郎氏であり,2011年で,満90歳になるその人である。
 私は、この映画を見るまで、この福島菊次郎氏のことを、全く知らなかったのだが、事情は、この映画の長谷川三郎監督や、プロデューサーの橋本佳子さんにとっても、同じようなことであったらしい。そういう老写真家が、山口県柳井市の、六畳一間の部屋で、愛犬の柴犬と一緒に、ただ一人で、胃がんを患って、ひっそり暮らしていて、今こそ映画にでも撮らないと、彼の業績は、忘れられてしまう−という話を聞き込んだのが、2009年のことだったという。それは、彼の業績を振り返る写真展が、88歳の米寿を記念して、東京で開かれようとしていたのと、機を一にしていた。

老写真家を知り、柳井に通ったスタッフ

 テレビのドキュメンタリー番組に、フリーの立場で携わることを、主な仕事としてきた長谷川監督と、ドキュメンタリージャパンの代表を務めてきた橋本プロデューサーが、その福島氏を主人公にして、初めての劇場用長編記録映画を作るべく、東京から柳井を訪ねたのは、2009年の、それから間もなくのことであった。そして話に聞き込んだとおりの福島氏に出会って、小柄で物腰柔らかな老人が、ひとたびカメラを持つと、鉄の意志を持って、対象に肉薄し、そこに隠されている「嘘」を暴く、反骨精神の権化のような人物であることを知ったとき、長谷川監督は、何としてもこの映画を完成させねばという思いにとらえられたという。そして、東京から柳井に通い続けて約2年、やっと映画が完成したことを、長谷川監督らは述懐している。

日本の嘘を追い続けた映像と語り

 映画は、福島氏のインタビューによる述懐と、既に撮られた幾重にもわたる映像集とが、交互に重なっていく構成であるが、それはとりもなおさず、日本の戦後政治と、日本の戦後史に隠された嘘=真実を暴く旅のようになっていて、まさにピカドンからフクシマまでの、本当の日本史を語る、見事な映画になっている。原爆で蒙った広島の惨状のあとは、憲法に違反した自衛隊、どんどん精鋭化する自衛の名の下の再軍備、安保闘争、三里塚闘争、公害反対闘争、原発反対闘争と、半世紀以上に亘って撮影をし続けて来た、反骨の報道写真家の映像が続く。まざに「ニッポンの嘘」を追い続けた、見事な映像集なのである

人間魚雷要員で転属、ピカドン免れる

 ところで福島菊次郎氏は、1921年(大正10年)に、山口県下松市の網元の家に生まれた。そして2歳で母が死亡、11歳で父も死亡して網元は倒産、小学校を終えると、直ぐ丁稚奉公に出る苦しい思春期と青春を送った。しかしカメラ好きの従兄がいて、その影響で、写真を撮ることは好きだったという。そして戦時中は、当時の若者と同様、兵役に召集され、輸送部隊員として、広島にいた。しかし昭和20年の8月1日に、日南海岸からの米軍の上陸に対抗する、人間魚雷の用員として、宮崎への転属を命令され、6日のピカドンの被爆からは、5日違いでまぬがれた。そして終戦で、人間魚雷に乗ることもなかった。
 広島の惨状、終戦、戦後の混乱と、めまぐるしく世の中が変わり、福島氏も、それに流されていく日々であったが、そんな中でも、民主主義、新憲法、とくに戦争の放棄と軍隊を持たない規定、そして戦争を起こした責任は、誰にあるのか、特に天皇の戦争責任は?といった問題に強く関心を持つようになったという。

原爆病の治療も出来ない被害者に会う

 そんなとき、広島の被爆者、中村杉松氏に出会う。中村氏はもともと漁師で、妻を原爆症で亡くし、乳飲み子を含む6人の子供を、男手で育てていた。しかも、中村氏自身も、体のあちこちにケロイドが残る重い原爆症で、漁に出なければならないのに、満足に出れず、ABCC(米.が広島に設立した原爆病院。治療をする顔をして、更なる核兵器開発のための、研究資料を得るための病院。治療という名の人間モルモットだったのだが、敗戦国日本には、抗議する権利はなく、原爆病を治療する病院を設立できないため、むしろ米に感謝した=このABCCの「ニッポンの嘘」についても、福島氏は、写真取材をしていて、映画の中で、一部使われている)からの、「治療を受けよ」という呼び出しにも、満足に行けない状態の人だった(当時呼び出しには強制力があった)。

原爆撮影で批評家協会賞受け、プロ写真家に

 福島氏は、この気の毒なこの中村氏の生活を、カメラに収めたいと申し出たが、勿論当初は「拒否」の姿勢だった。しかし粘り強く福島氏が説得するうちに、「私の写真集を世に問うことで、私のアメリカと日本政府に対する仇を、とってほしい」と、中村氏が、言い出すようになり、1951年から10年にわたって、中村氏の闘病や生活実態を、詳細に撮り始めたという。そして出来上がった写真は、カメラ誌や写真誌に発表されるようになり、1960年、日本写真批評家協会特別賞を受賞することになる。福島氏は、この翌年、「ピカドン ある原爆被災者の記録」として、写真集が東京中日新聞社より出版されたのを機に、本格的に報道写真家として自立するために、山口県から上京し、今日に至る人生の端緒を開いたと述懐する。また、私をこのような反骨の写真家としての道を歩ませるきっかけとなったのは、まさに中村杉松氏との出会いであったと福島氏は語り、1967年に、原爆症のため、59歳で亡くなった中村を追悼している。さらにフォトジャーナリスト学校で、若者に講義をする福島氏の発言「撮影対象が、法を犯していて、それを暴露するための撮影の場合は、法違反になる撮影方法を、駆使しても良い」という過激な行動訓が紹介されているのも、福島氏の報道観を知る上で貴重である。
 なお、福島氏は、現在の平和公園の地に、70年代の初めまであった“原爆スラム”についても、原爆症と貧困に悩む悲惨な住民の姿を撮影しており、強制移住させて公園にした国の行為そのものが、事実を糊塗する行為であり、今の平和公園は、「ニッポンの嘘」の象徴であると断じている。

自衛隊の内部撮影も、嫌がらせに屈せず

 さて、原爆被害者中村杉松氏を撮って、報道写真家としての地位を確立した福島氏は、次に自衛隊の嘘を暴くことを試みた。
 日本は、新憲法が作られ、戦争を放棄し戦力を持たない国になった。ところが、米ソ対立の、冷戦構造がはっきりするにつれ、予備隊が作られ、保安隊に衣替えし、1954年には自衛隊が誕生した。時の政府は、日本の国土が攻められたときにだけ対応するもので、軍隊ではないと言い続けた。しかし、装備はどんどん最新鋭のものが用意され、今では、事実上の軍隊として、外国に派遣され、同盟国が攻められた場合でも、兵を出してその国の戦争を手伝えるよう、集団的自衛権の解釈を変えようとしている。
 福島氏は、この自衛隊の嘘を暴くため、自衛隊の中に入り、実態を撮影しようとした。1960年代末のことである。自衛隊側も個人の取材だからと気を許したのか、撮った写真の検閲を条件に許可が出て、内部撮影に成功した。こっそり隠し撮りした写真も、相当数持ち帰り、最初の出版の際には、事前検閲を受けなかった写真も、数多く使ったという。
 すると、自衛隊の広報課長から呼び出しを受け、「自衛隊を騙した。発表をやめろ」と迫られたという。しかし福島氏は、「戦力を持たないという憲法があるのに、最初に国民を騙したのはそちらだ。国民には、その自衛隊の嘘を暴く権利と義務がある」と突っぱね、発表をやめなかったという。発表後、道を歩いていただけなのに、近づいてきた男に殴られて大怪我をし、自宅も放火されるという事件が起きた。これらがどの程度のもので、刑事事件として、きっちり立件されたのかどうかは、福島氏の簡単な“語り”以外に、この映画では描かれていないが・・・。

兵器産業の若者の国への報恩感謝嘆

 また兵器産業に働く若者にインタビューしているシーンもあるが、国のために最新鋭機の製造に携わるのは、この上もない誇りである−といった声が、印で押したようにかえってきており、福島氏は、新憲法の精神が全く国民の中に根付かないまま、政府は自衛隊を、どんどん増殖させたと断じている。
 その証拠として、福島氏が提示するのは、徳山湾に浮かぶ小さな島仙島にある、戦災孤児施設「希望の家」の教育である。ここの教師は、「天皇のために死ね」という戦前の教育と全く同質の教育をしていて、子供の意思で、孤児になったわけでもないのに、国に対する「報恩感謝」と、「無我献身」を説き、育ててもらった国への忠誠を強いていた。この島の学校を卒業すると、殆んどの子供が、自衛隊に志願する事実を対置して、「ニッポンの嘘」の上塗りは、ここまで来ていると、福島氏は訴える。

三里塚闘争にも、水俣にもカメラ持込む

 同じ60年代末から70年代初めにかけては、当時の学生らの組織、全共闘の、学園封鎖や街頭デモ、さらには三里塚闘争にもカメラを持込んでいる。71年2月22日の強制代執行で、成田空港の建設に反対する農民たちの、闘争のシンボルであった放送塔(物見櫓と広報塔をかねたもの)が、農民の涙とともに崩れ落ちていく様も、つぶさに捉えている。
 「公害・日本列島」が問題となった70年代では、福島氏は、水俣にも出かけている。その悲惨な現実は、「戦後復興」「成長願望」の名の下に、自然の営みを、遮二無二食いつぶし、人間を傷つけ、野ざらしにしても平気になっていたもので、「こんな腐ったものを、いくら撮っても仕方がない。自分まで一緒に腐ってしまいそうだ」と、当時思ったことを、福島氏は感想として述べている。

私生活も反骨、自給自足、生活保護拒否

 福島氏の私生活については、この映画はあまり多くを描いていないし、福島氏も語らない。最近は、柳井市の六畳一間に、愛犬とともに、胃がんの術後の身体と付き合いながら、暮らしていることは、当初から描かれているが、その前は、柳井の対岸の周防大島で、畑や果樹園や鶏小屋に囲まれた生活をしていたという証言もある。これは映画の中で、水俣の取材に失望したころ、上京したときに知り合った、紗英子という女性と意気投合し、1982年、片島という瀬戸内海の無人島で、自給自足の生活を始めたこととも対応する。このころから、日本のマスコミは保守化して、その下請けのような存在でいることに耐えられなくて、自給自足の生活に入ったと、福島氏は述懐している。
 ところが、無人島の借地契約に疑義が入り、警察がやって来るハメとなり、滑稽にも無人島を追い出され、大島に家を借りることになったというのだ。結局この紗英子という女性との生活は、当時福島氏が力を入れていた「天皇の戦争責任展」の全国巡回の経費と、生活費との問題で意見が分かれ、別々の道を歩まざるを得なくなる。これについて福島氏は、「ニッポンの嘘を告発している写真家が、生活保護という国の保護を受けることは出来ない」と、生活保護を申請しようとした紗英子と意見の違ったことを、映画の中で告白しているが、これも福島氏の反骨の度合いが、生半可なものではないことを示している。

男手で三児育てる面も、長女写真展手伝う

 そもそも福島氏は、復員直後に結婚をして、下松や徳山で、時計修理や、写真のDPE屋を経営していたという証言もある。そして、1949年から56年にかけ、男児二人女児一人の子供にも恵まれている。日本写真批評家協会賞をとって上京した折、福島氏は妻と別れて、子供三人を引き連れ、写真を撮りながら、子供の夕食を作るために、東京で魚屋行脚をしていたという証言もあり、男手一つでの子育ても出来る人だったという。そういう家庭的な一面も、ゼロではない人だったわけで、映画の終盤、50歳を超えた長女が「米寿の記念写真展」=「福島菊次郎の仕事展}の手伝いをしながら、父を尊敬しているというような発言をするシーンがあるのも、頷けるのである。また、別れたあと病死した紗英子さんの遺骨は、最初に生活を始めた無人島の片島に、散骨されたという証言があるのも、福島氏の人となりを、物語っている。
 だが、いずれにしても、「ニッポンの嘘」を告発する、写真家としての生き様が、福島氏の表人生の全てであり、それ以外のものは、人生の夾雑物と見ていたらしく、この映画にも詳しくは描かれていないのも、それなりの道理なのである。

原発反対に取組む、祝島の闘争も撮影

 そんな福島氏が、老いて再び写真家としての情熱を燃やしたのは、原発問題であった。山口県の柳井市付近から、瀬戸内海に突き出ている熊毛半島、その先に事実上の陸続きで位置する長島、そのさらに先っぽから約4キロ離れた瀬戸内海に、お椀を伏せたような姿で浮かぶ祝島(いわいしま)、この周辺に中国電力の上関(かみのせき)原発の建設計画が発表されたのは、1982年のことであった。行政的には、全て山口県熊毛郡上関町(かみのせきちょう)であり、山口県も上関町も、知事も町長も上関議会も、原発に賛成であった。長島から熊毛半島の漁民たちは、不安であったが、補償金を受け取ることで、漁協が賛成に回り、ずっと反対をし続けているのは、祝島の漁民だけとなった。毎週島内で反対集会とデモをやり、議会が開かれるときは、上関議会にまで、傍聴に押しかける島民であったが、祝島出身の町会議員は、たった一人しかおらず、祝島の声は無視された。
 長島と祝島の間にある海にまで、ボーリング調査が入り、立ち入りや漁を禁じられる海には、ブイが敷設されるという工事の日、島民は数多くの漁船を出して、立ち入り禁止の海域で、海上デモを繰り返した。警察艇が出動して、漁船を排除するという騒ぎだった。福島氏は、これらの模様を、つぶさにカメラに収めている。

見直される上関原発に、早くから反対

 祝島の原発反対闘争については、『祝の島(ほうりのしま)』という、纐纈(はなぶさ)あや監督の優れた記録映画が、2010年に発表されている。その映画では、祝島が古代からの瀬戸内交通の休憩所であり、台風などからの避難所でもあったことから、二年に一度の「神舞」という伝統行事も行われていて、その祭りや、島の一年間の行事や生活を、季節の移ろいとともに、叙事詩的に捉え、原発による破壊が、いかに理不尽なものであるかを、浮かび上がらせていた。福島氏も、もとよりそれらのことを承知の上で、自然と、自然とともにある生活を守ろうとする島民を、捉えている。
 勿論、この上関原発は、今度のフクシマ事故で、当然見直しの対象になっており、知事も町長も議会も、見直しを表明したようだが、一部海上の埋め立ても伴うような、常識はずれの立地条件の原発建設が、漁業補償だけで、疑問にも思われずに済まされてきた事態を、福島氏は、早くから告発してきたわけである。

この年齢で、また原発事故の取材なんて

 こうした、福島の原発事故が起こっていないときからの、原発反対の福島氏の姿勢が、3.11から約10日後の、福島県南相馬市の20キロ圏検問所への、老体と病身を押しての取材へと、繋がったのだろう。映画はまた終盤、この福島原発の被災地のシーンに帰ってくる。「自分の土地なのに、ここから入れない」「自分の家なのに、どうなっているか、確かめに行けない」と、口々に訴えてくる被災者に福島氏は会い、66年前の「ヒロシマ」を思い出すのだった。また。「放出された放射能が、どちらの方向に多く流れていたかも、我々は知らされないまま逃げた。ずいぶん被曝した子供たちが心配だ。政府も県も東電も、何かを隠している。セシウムのことばかり、言っているけれど、ウランに、使用ずみ燃料から再生された、プルトニュウムも混ぜて、使っているんだろうと聞いても、使ってないという。セシウムと同じように半減期が長く、毒性の強いストロンチュウムも放出されたはずだと聞いても出てないという。これまでの対応がいい加減だから、彼らの言うことは信用できないんだよ」と、自分でいろいろ調べて、さらに疑心暗鬼が広がるという人もいた。インタビューに応えて被災者に次々と会いながら、福島氏は、「この年になって、またこんな大きな「ニッポンの嘘」にぶつかろうとは?」と、慨嘆する。

原発被害者の墓に参り、道半ばを報告

 この映画のラスト・シークエンスは、福島氏が、報道写真家として生きようとの、最初の決心をさせてくれた人、広島のピカドンの被害者中村杉松さんの墓を、中村さんの郷里である周防大島に尋ね、「ニッポンの嘘」を暴ききるという当初の思いは、まだ志の半ばであるにもかかわらず、もう自分は、人生の終末期である、「すまなかった」とわびる姿を撮っている。そのシーンは、島の高台の中村家の墓から、晴れ渡っている瀬戸内海の絶景を遠望する形になっており「自然はまだ生きている」と叫んでいるかのように、観客に迫る。「ニッポンの嘘」をさらに糊塗するのではなく、「嘘」を「真」に変えるべき時が来ている。それに残された時間は、それほど多くはない−と語りかけているようなラストである。
 福島菊次郎という人物を、知っていた人も知らなかった人も、報道の専門家であるなしにかかわらず、報道とは何かを、反芻させてくれる映画である。
 なお、福島氏の現在の日常や、瀬戸内の美しい映像を撮ったのは、河瀬直美監督作品や、塩田明彦監督作品を撮ってきた山崎裕で、ベテラン俳優大杉漣がナレーションを担当している。
(上映時間1時間54分)

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10月以降上映劇場
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◆配給社 ビターズ・エンド 03−3462−0345

《公式サイト》http://www.bitters.co.jp/nipponnouso/

 

 

 

 
   

ミャンマーの軍事政権への抗い20年余

スーチー女史の抵抗と家族愛の全て描く

『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』

(2012.7.22)

木寺清美

 
 


スーチー女史の活動も演説も、つい先日

 アウンサン・スーチー女史が、自宅軟禁を完全に解かれ、弾圧されることなく、ミャンマーの政治活動を始めたのは、去年(2011年)8月のことである。今年4月に実施された国政の一部の選挙区での補欠選挙で、女史が率いるNLD(野党・国民民主同盟)が、USDP(軍政が衣替えした連邦団結発展党、ミャンマーは、2011年3月に、形式的な民政移管を行った)に圧勝し、女史自身も国会議員に当選して、活動を開始したのも、この6月のことであり、1991年のノーベル平和賞の授賞式に出席できなかったことを埋め合わせる、ノルウェーの首都オスロでの受賞演説は、先日6月16日に、21年遅れで、行われたばかりである。

今に繋がる反体制活動20年を生々しく

 このフランス映画は、1948年、イギリスからのビルマ(当時はミャンマーではない)独立闘争の過程で、国民の支持を集めた中心的運動家で、独立の成功を見ずに、32歳で暗殺されたアウンサン将軍の娘として生まれ、政治とは縁を切って、イギリス人学者の妻として、イギリスで暮らしていたスーチー女史が、母の病気見舞いにラングーン(当時はヤンゴンではない)に一時帰国した際、ネ・ウィンの軍事独裁体制に反対する、学生などの反政府運動に遭遇、次第に女史も抵抗の人になっていくところから、映画は描き始めて、2007年の軟禁中の女史のところへ、ミャンマー中の僧侶がデモ行進をして、女史に三度び先頭に立つよう要請に来るところまでを、描いている。つまり、日本人カメラマン長井健司氏が犠牲になった、あの近接の決起事件までを、生々しく描き、今も続く民主化への活動と繋げている点、そのタイムリーさに、驚くほかないできばえの映画なのだ。

M・ヨーとL・ベッソンが脚本に感激

 この映画が作られるに至る経緯は、こうである。イギリスのBBC放送で経験を積んだ、ドキュメンタリストで作家でもあるイギリス人女性レベッカ・フレインが書いた、この映画のシナリオを、香港を中心に活動するマレーシア生まれの女優ミシェル・ヨー(この映 画のスーチー女史役を、見事に演じている。これまではジャッキー・チェンの相手役や、『宋家の三姉妹』での長女役、“007”のボンドガールなどを演じた)が、たまたま読み、自分の主演映画として実現したいと、旧知のリュック・ベッソン監督に相談したことが、映画誕生へのきっかけとなったという。最近のリュック・ベッソンは、娯楽活劇大作の製作者として、フランスでも知られていて、ミシェル・ヨーも、製作にかかわってくれることを期待しての接近だったそうだが、「これは自分で撮るべき映画だ」とベッソン自身が判断し、『サブウェイ』(84)『グレート・ブルー』(88)などといった、初期のまじめ映画に、先祖帰りをするかのような作品を、生み出すことになったのだ。
 ベッソン監督は言っている。「不覚にも、脚本を読んで泣いてしまった。政治的抵抗という使命感と、家族愛を貫けない矛盾。引き裂かれる人間の生き方の深さに感動し、自分でメガホンを取らねばと思ったのだ」と。

母の看護でビルマに戻り、騒乱に遭遇

 アウンサン・スーチーの夫、マイケル・アリス(デヴィッド・シューリス)は、オックスフォード大學で、チベット・ヒマラヤを研究する学者で、ミャンマーなど、アジア各国にも関心のある人だった。オックスフォード大學で、哲学や政治学を修め、国連事務局などで働いていたスーチー女史と結婚したのも、当然の成り行きだったようだ。夫妻には、この1988年の時点で、中学生と小学生の二人の息子があり、ロンドンの近郊オックスフォードで、平穏な生活を送っていた。
 この年、1988年、女史の父であり、ビルマ独立の父でもあるアウンサン将軍の妻であり、インド大使などもしたことのある女史の母が、心臓発作で倒れ、その看護のために、女史はラングーンに帰ることになった。(父が暗殺されたとき、スーチー女史は2歳で、父の意志を継ぐ強靭な精神の女性に育ったのは、この母の薫陶が大きいと、女史に詳しい目白大学教授の三上義一氏は、配給社が配った本作の資料の中で、書いておられる。)
 「お母さんは、いつになったら戻ってくるの」と、オックスフォードの自宅では、息子たちが、父マイケルを問い詰める。「いまビルマは、大変なことになっている。お母さんを必要とする人がたくさんいて、おばあちゃんの看護だけではすまないのではないか。当分帰れないかも」と、父の教授が答える。そして、女史の帰りを待つより、イギリスから押しかけた方が良いとの判断で、父と二人の息子も、女史の後を追って、ラングーンにやってくる。実際、1988年のビルマは、ネ・ウィン大統領の10年以上にわたる強権政治に加え、前年の高額紙幣廃止令で、学生などの反政府運動が激化していて、無差別に銃を放つ兵士や、血まみれで病院に担ぎ込まれる学生などの光景に、女史が、直接出くわすようになっていた。

88年国民民主連盟(NLD)書記長に就任

 騒然たるラングーンの自宅で、病床の母も加え、家族5人がそろったマイケル・アリス一家、ちょうどそこへ尋ねてきたのは、ビルマの民主化を求め、反政府で結集する政党を作り、総選挙を要求していく−その“長”に、日本への抗日闘争と、英国への独立闘争の英雄であったアウンサン将軍の娘であるスーチー女史が就任して、国民を引っ張って行ってほしいと、要請にやってきた、反政府運動の、教育界、宗教(仏教)界、法曹界、経済界などの幹部たちであった。政治は素人と断る女史だったが、たまたま同席した夫マイケルの、「君がやるべきだ」という助言に動かされ、ついに1988年の8月、結成された国民民主連盟(NLD)の書記長に就任する(当時議長に就任したのはティン・ウ氏、ティン・ウ議長も、女史の最初の軟禁の際には、同時に軟禁されている)。数十万人もの聴衆を前に行った、「私は長く外国にいて、夫もイギリス人ですが、祖国への愛は少しも揺るぎません。いまビルマで起きていることを改善するため、皆さんとともに全力を挙げたい」という力強い就任演説をしたのは有名で、この映画でも、迫力のある群集シーンとなっている。

NLDの集会禁じ、銃口向ける軍

 NLD書記長に就任したスーチー女史は、腹を据えて、政治活動をはじめ、辺境の少数民族のNLDへの結集も図るため、ジャングルを突っ切り、山奥にまで、遊説の歩を進めた。 ネ・ウィン一派は、ことごとくNLDの集会を禁止し、会場に国軍を派遣して、集まる人を散らそうとしたが、なかなか効果を挙げられなかった。そしてあるときの、山奥での遊説の際、突然待ち構えていた国軍の兵士が、やってきた女史に銃口を突きつけ、「すぐに解散しろ、解散しなくば女史を撃つ」と叫ぶ事態が起きた。一瞬ひるんだ女史だったが、何事もないかのように銃口に向って前進、周りの人も群集も、一歩一歩無言で前進して、兵を圧した。仕方なく指揮官は、「打ち方やめ」と命じて、「今回は許可、次回はもっと厳罰に処す」と言い残して、兵は去った。
 この一件は、「女史が危うく殺されるところだった」と、世界中のメディアが報じた。しかし軍は殺さなかった。それほどまでに、独立の父とも言えるアウンサン将軍の娘という存在は大きく、権力側にとっても、殺すことで民衆の中に起きる余波が、恐ろしかったのである。

夫・家族のビザ取消し、女史の軟禁始まる

 NLDの拡大が面白くないネ・ウィン一派は、陰湿な女史一家への攻撃をはじめ、夫マイケルらのビザの滞在許可を取り消し、一家がイギリスへ戻るよう強制する。夫と息子は、この強制に従わざるを得なくなるが、女史は「私は滞在許可を貰うような外国人ではない。それに、ビルマ人として、ビルマの対しての責任を負っています」と述べて、居座りを決意、一家の愛が引き裂かれる運命が、始まることになった。
 そして、1888年の9月、国軍は形式的なクーデターを行い、ソウ・マウン国防相を議長とする、国家法秩序回復評議会(SLORC)なるものを組織して、軍事政権としての強権性を強めた。ネ・ウィンは表舞台から去ったが、SLORCの裏で、院政をしいた。そして、SLORCは、スーチー女史を、国民の中に泳がせることを、厳しく規制しようと考え、89年7月、スーチー女史とNLDのティン・ウ議長を、自宅軟禁処分にした。特にスーチー女史の自宅の周辺には、常に兵が滞留し、鉄条網などで取り巻かれ、電話線は切断された。スーチー女史は、こうして国民からも、世界からも、家族の愛からも引き裂かれてしまったのである。また軍事政権は、89年に、国名をビルマからミャンマーに、首都名を、ラングーンからヤンゴンに、勝手に変えてしまった。

総選挙無効、ノーベル平和賞は認めず

 こういう軍事政権の状況作りの中で、90年5月、国民やNLDが悲願として、実施を要求して来ていた総選挙が、40年ぶりに行われた。スーチー女史は軟禁状態にあり、外国人と結婚した者は、元首になれないという不可解な法律で、立候補すらできなかったが、それでもNLDは、SLORCに圧勝した。しかしNLDの議員が国会に登院して、政権党を作ることは出来なかった。選挙に不正があったという軍事政権の論理で、総選挙は無効となり、SLPRCが政権に居座り続け、女史の自宅軟禁も、解かれなかった。
 夫のマイケルは、イギリスにいて、このNLDの窮状、妻スーチーの窮状を、何とかしたいと思い、いろいろと動き出す。ノーベル賞委員会にも、妻の行動を、受賞対象に選んでほしいと考え、働きかけた。その結果、運よく1991年のノーベル平和賞に選ばれることになる、しかしこの受賞を、軍事政権は、国際的な謀略だとして認めず、女史の授賞式出席はおろか、国民の間の、受賞を祝う行事なども一切禁止し、軟禁の度を強めた。仕方なく、授賞式には、イギリスから長男のアレクサンダーが赴き、スピ−チを行った。それを軟禁されている自宅のラジオの国際放送で聞く女史の描写は、この映画の名シーンの一つでもある。

国際世論で女史一時解放、家族邂逅

 一向に事態が変化しないことに苛立つ夫マイケルは、国連で活動をしていたツツ太主教(ネルソン・マンデラに先駆け、南アのアパルトヘイトに反対し、84年ノーベル平和賞を受賞した人。聖公会ケープタウン大主教)を、ニューヨークの国連本部に尋ね、アジア各国が、スーチー女史の解放に動いてくれるよう、働きかけてほしいと要請する。
 ツツ大主教の働きで、スーチー女史の解放を求める、アジア各国の声明などが出て、1995年の7月、女史は6年間の自宅軟禁が解かれた。しかしそれは、日常生活上の自由が認められただけで、政治活動や、NLDとの接触は禁じられ、違反した場合の再拘禁が暗示されていた。  しかしこの解放は、再びヤンゴンに尋ねてきた、夫マイケルや、すっかり大人に成長した息子たちに会うのには、十分な時間となった。女史は夫に向かい、「道はまだ遠い。これ以上あなたに迷惑はかけられないから、私と別れ、自分の人生を追求してほしい」と申し出るが、マイケルは、「チベットやヒマラヤを研究することだけが、私の人生ではない。ミャンマーも既に、私に中にある」と答え、これからも妻への助力を惜しまないことを伝える。引き裂かれた家族愛は、真に引き裂かれることなく、結ばれているのだった。

癌に冒された夫、スーチー励ます最期

 アウンサン・スーチー女史の真の解放は、まだまだ遠かった。日常生活の僅かな自由はあったが、政治的には何もできないまま、無為に時が過ぎた。夫や息子の入国も、再び認められなくなっていた。そんなとき、聞こえてきたのは、夫マイケルが肺がんに侵され、余命いくばくもなく、オックスフォードの病院で、床に伏しているという情報だった。マイケル側も、女史が心配するのを恐れて、正確な連絡はしておらず、支援者が用意した秘密の電話で、二人がやっと話しあえたときは、マイケルはすでに、かなりの重篤になっていた。
 女史は、出国を考えた。出れば再びミャンマーに戻れないことを分かっていて、引き裂かれた家族関係を、耐えるのは限界だと思い始めていた。国に対する使命と、家族愛を優先したい思いとに、それこそ引き裂かれた毎日であった。再びやっとつながった電話で、女史は「イギリスに帰る」と伝えるつもりだった。しかし、それを察知していたマイケルは、「そんなことを考えるだけでも、いけないことだ。ここまで闘ってきたのだ。最後まで負けるな」と、機先を制して、女史の気持ちを押しとどめた。死期の近づくのを承知での夫の助力に、泣く泣く従ったスーチー女史は、それから間もなくの1998年3月、「アウンサン・スーチー女史の夫が、53歳の誕生日に亡くなった」というラジオの短い国際放送に接し、激しくむせび泣くことになる。引き裂かれた家族は、最後まで裂かれたままだったのである。

映画は2007年の僧侶先頭デモで括る

 映画のラストは、僧侶の反政府デモを中心とする、学生、労働者、市民の反政府運動が高揚し、軍が武器を使って鎮圧に乗り出し、全国的に騒乱状態になった.2007年のミャンマー、とりわけヤンゴンの騒乱を映し出す。この2007年まで、女史は、その時々の政府の経済政策批判などを、こっそり海外メディアに流したりするたびに、拘禁状態が厳しくなって、幽閉されているのと変わらぬ状態になったり、国際世論の批判が増えると、拘禁が多少は緩和され、日常の自由が与えられたりといったことの繰り返しで、実質的に政治活動の出来ない軟禁状態はずっと続き、1989年の最初の軟禁から、もう18年目を迎えていた。  あくまで非暴力の抵抗を続ける女史の方針で、その間NLDの活動も表舞台には出れず、遅々とした歩みであったが、敬虔な仏教国であるミャンマーで、僧侶がデモの先頭に立ったのは、画期的なことだった。しかしこの2007年の反政府運動も、軍によって鎮圧され、僧侶も大多数が逮捕されて、その行方の正確なことは、分からなくなっているという。だが、この2007年を一つの転換点として、ミャンマーの軍政が、氷解し始めたのは事実で、映画の撮影が終ったあとの出来事ではあるが、2010年にNLDは排除されてはいたが、一応国政選挙が行われ、10年10月に女史を解放、11年3月に、形式的に民政移管、同8月に女史の政治活動も認められ、今年の補欠選挙でNLDは圧勝(補選のため、まだ多数党にはなれていない)、スーチー女史も議員になった。その急速な民主化への歩みを暗示する、2007年の、僧侶のデモ隊と軟禁されている女史の、自宅の塀越しの感動的な会談が、映画のラストとして、用意されるわけである。この映画の撮影は、同じ仏教国の隣国タイで、殆んどなされたというが、よく出来たドキュメンタリー調の描写である。

現代史の一角を間違いなく捉えた映画

 英人学者の妻として、イギリス暮らしの中年女性が、たまたまビルマ独立の父、アウンサン将軍の娘であったことから、母の看病で帰ってきたビルマで、ビルマ民主化の運動に巻き込まれてしまう。以後、映画のラストまで18年間(現在までなら23年間)、軟禁という弾圧を受けながら、民主化達成まで頑張りぬいた、ノーベル平和賞受章者の、一人の女性の半生−それを、引き裂かれていく家族愛の物語としても、深く掘り下げながら、生々しいリアリズムで、ごく直近の事態までを描いて、ミャンマー現代史にもなり得ている映画としてここに完成した。
 その製作のきっかけを作り、自らも主演した女優ミシェル・ヨーは、最近の朝日新聞のインタビューで、「非暴力は最強のアクション」と、アウンサン・スーチーを褒め称えている。またフランスの娯楽活劇の製作者として、すっかり有名になってしまったリュック・ベッソン監督も、シナリオを読んで泣き、自分のデビューのころの映画つくりの理想に立ち帰って、まじめにメガホンを取った。その結果、20世紀から21世紀にかけての、世界史の一角を、間違いなく捉えた映画として、長く記憶されるべき作品に仕上がったと、私は思う。
(上映時間2時間13分)
写真提供:(C)2011 EuropaCorp−Left Bank Pictures−France 2 Cinema

全国主要都市の、主として松竹東急系劇場、各地のシネコンで、7月21日〜一斉上映
◆配給社 角川映画 03−3514−1556

《公式サイト》http://www.theladymovie.jp/

 

 

 
   

リストラされた組合長が同僚の強盗に遭う

労働組合の現代の衰退は何故と問う仏映画

組合に夢失った監督作『キリマンジャロの雪』

(2012.7.10)

木寺清美

 
 


ヘミングウエイとは無関係な題名

 このフランス映画の題名「キリマンジャロの雪」とば、ヘミングウェイの代表的な中編小説の題名である。それを忠実に映画化した、ヘンリー・キング監督、グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナーの主演の同名のアメリカ映画も存在する(52年作)。だがこの映画はそのリメイクなどではなく、ヘミングウェイとも全く関係がない、マルセイユを舞台にした、リストラされた、初老の労働組合委員長の、その後の人生と家族の物語なのである。しかもその物語は、ほろ苦い人生の終末を描きながら、労働運動をした者としての、労働組合の現状への、慙愧の思いが満ちたで物語となっている。それがアフリカ唯一の万年雪「キリマンジャロの雪」とどう関係するのか。

シャンソンにもある「キリマンジャロの雪」

 リストラ後に迎えた結婚30年の祝いに、子供たちや義弟、同様にリストラされた同僚らが、お金を出し合って贈ってくれた旅行券の行き先が、「キリマンジャロ山」の麓なのである。このアフリカ、タンザニアへの旅行は、映画の中では、実現しないまま終るのだが、フランス人なら誰でも知っているシャンソンにも、「キリマンジャロの雪」という歌があって、この結婚30年の祝いのシーンで、孫娘が歌ったり、エンドロールの背景音楽としても使われている。その歌詞は「人生で見てきた夢を、繰り返し見ながら、キリマンジャロの万年雪に抱かれて眠りなさい」という意味のもので、まさに、元労組委員長の、ほろ苦い人生の終盤にふさわしい歌詞であり、リストラに抵抗できない、現代の労働組合が、到達できなかった頂上(夢)を象徴する題名としても、選ばれたものと想像される。エンド・タイトルの直前に、この映画は、ヴィクトル・ユゴーの詩「哀れな人々」に着想を得たという断りも出てくるが、こちらの方は、どういう詩なのか、私は不勉強で知らない。調べる時間もなかったので、お許し願いたい。

籤引きで解雇者、苦渋の選択の委員長

 映画は、港町マルセイユの埠頭に港湾労働者を集めて、労働組合の委員長である、本映画の主人公ミシェル(舞台出身のベテラン俳優ジャン=ピエール・ダルッサン、仏の第一線監督作品への出演多く、最近では、フィンランドのカウリマスキ監督が、仏で作った『ル・アーヴルの靴みがき』にも主演)が、解雇される者を、順番に指名していくシーンで始まる。それは、全員の名札を入れた、ダンボールの抽選箱に、ミシェルが手を突っ込み、名札を、アトランダムに引き出すこと20回、その20人が、リストラの対象になるというシーンであった。引き出された名札を、読み上げられるたびに、落胆する労働者たちの表情が捉えられ、20人を指名し終えて、ミシェルは言う。「こうするより、方法がなかったのだ。トコトン闘って、会社を倒産させ、全員解雇になるよりは、次善の策だと分かっていただけると思う。しかもこうした無作為の抽選が、最も公平な方法だし、皆さん了解してほしい」と。そして、ミシェル自身の名札も、箱の中に入れられており、自分で自分の解雇札をも、最後に引き当てていたことが、解雇者がトボトボと帰り、集会が解散になったところで、明らかになる。抽選の手伝いをした、ミシェルの義弟で、同じ港湾労働者のラウル(ジェラール・メイラン)は、「委員長の権限で、自分の名前は抽選箱に入れなければ良かったのに」と残念がるが、「私はそんな特権を、行使したくはないのだ。」と返し、もう二度と使うことはないであろう脱衣ロッカーの前で、ミシェルは帰り仕度をはじめる。

労働者の夢への道を説く、張り紙を破棄

 そのロッカーには、ジャン・ジョレス(19世紀から20世紀初頭にかけての、仏の社会主義指導者、第一次世界大戦直前に、右翼に暗殺された)の写真と言葉が張られていたのだが、ミシェルはロッカーを閉じる直前に、その張り紙を破いて捨ててしまう。この何気ないシーンは、この映画の全体を貫く、重要なテーマを暗示している。その張り紙の言葉とは、「勇気とは、糸が絡まぬよう、紡績機を、きちんと見張ること。労働者が解放され、機械を僕として、より広く友愛に満ちた社会体制を・・・」というもので、まさに今日まで続いてきた、社会主義に支えられた労働組合運動の夢と理想が、掲げられていたのである。

ユーロ・コミュニズムとともに止まった歩み

 西ヨーロッパでは、米ソの冷戦構造を背景に、ユーロ・コミュニズムと名づけられた、ソ連の共産主義とは一線を画しながら、独自に労働者の地位向上と、社会福祉の実現を目指す、労働組合運動の高揚が、仏、伊、西を中心にあった。しかも70年代後半には、政権党に継ぐ第二勢力にまで成長したのである。しかし、規制緩和や、競争重視や、個人の責任を前面に掲げる、サッチャー(英)やレーガン(米)の新自由主義が頭をもたげ、資本主義が、グローバルな金融不況に迷い込む今日になると、もうユーロ・コミュニズムの勢力は、瓦解の一途を辿り、労働組合も、各会社のリストラに抵抗することすら、出来なくなってしまったのだ。

日本も、社会党の衰退とともに衰退

 日本もこの問題に対しては、いわゆる55年体制(自民党と、社会党の2対1の対立)として、長く引きずり、60年代末から70年代にかけて、蜷川京都府知事、美濃部東京都知事、黒田大阪府知事などの当選で、大都市の地方自治のレベルで、資本主義の中の社会主義が、一時的に高揚するが、国政での高揚は一度もなく、ユーロ・コミュニズムを指をくわえて眺める状況だった。そして90年代初めには、社会党の四分五裂と民主党への吸収で、いわゆる社会主義の潮流は、日本共産党と社民党の小さな組織だけになってしまった。今労働組合は、ヨーロッパとほぼ同様に、リストラに対抗する力を失っている。
 ミシェルが、自分が自分をリストラした日に、ジャン・ジョレスの写真と言葉を引きちぎる行為は、この映画の監督ロベール・ゲディギャンによる、従来型の社会主義と労働組合運動の、終焉宣言と受け取るべきシーンなのであろう。

労働運動家だった監督の今の苦渋を集約

 ところで、1953年生まれのゲディギャン監督は、マルクスの著書はほとんど読破したといわれる、フランスでのマルキシズムの論客で、80年代初めに映画製作を始めるまでは、「労働運動の歴史における国家の概念」といった論文も書き、ブレヒトの演劇論にも詳しい人だったといわれる。
 映画製作は、出身地のマルセイユを舞台にしたものばかりを作り、日本でも『マルセイユの恋』(97)『幼なじみ』(98)が公開されているが、同じマルセイユものでも、自らの労働運動への思いや、労働運動の現状を憂えて、映画つくりをしたのは、おそらく今回が最初なのであろう。リストラまでされてしまった、老労働運動家のその後の人生も、ほろ苦く苦労の絶えないものとして描いている。労働組合をそういう窮地に追い詰めてしまった現代社会への怒りもこめて、そこを真摯に描いていくこの映画は、初めての試みらしい覇気に満ち、これまでになかった、ユニークな労働組合映画を誕生させたといえる。

元組合長と家族の小市民生活もほろ苦く

 閑話休題。具体的な、映画の内容紹介に入る前に、作品の周辺を先に書いてしまった。しかし以上のことを念頭において、本作を見ると、想像以上に発見の多い鑑賞が出来、とても楽しめる映画になっている。
 港湾労働者の事務所に別れを告げたミシェルは、介護ヘルパーをしている妻マリ=クレール(舞台出身のベテラン女優アリアンヌ・アスカリット、仏映画への出演多く、とくに本映画の監督ゲディギャン作品へは常連で、脚本への協力などもしている)の事務所に寄り、外食に誘う。食事しながら、リストラの一件を全て語るミシェル。しかし妻マリ=クレールは、動揺することなく「今までも、ヘルパーをして家計を支えてきた。これからも可能な限り、私が支える。カートを引いて、スーパーのチラシを配る仕事も貰って来た。 時間つぶしと健康のためにあなたがやって」というわけで、リストラ後の小さな生活設計が、竹を割ったような性格の妻の判断で決められた。妻はさらにい言う。「労働組合の英雄と暮らすのは疲れるわ。これから気楽になって、かえっていいんじゃないの」と。
 このあと、娘夫婦や、息子夫婦、その孫たちと、休日を海浜で過ごすシーンがあるが、海浜に作ることになっていて、なかなか作れなかった、あずま屋を、作る暇ができてよかったねと、孫たちから言われ、息子からは「もう完全に引退するの」と聞かれて、「それはお父さんへの禁句よ」妻がたしなめるシーンなどが挿入される。リストラ後の、時間をもてあますミシェルの物憂げな生活が、生々しく活写されていくわけである。

結婚30年記念で、ツアー券贈られる

 暫くして、ミシェルとマリ=クレール夫妻は、結婚30周年のお祝いの日を迎えた。息子夫婦と娘夫婦に、孫と義弟夫婦を加え、ミシェルと同時にリストラされた同僚も加わって、埠頭にテントを張り、お祝いパーティが開かれる。その席上、孫たちは、シャンソンの「キリマンジャロの雪」を歌う。「あんなに遠くの夢の頂上にまでは、誰も行かないであろうけれど、行かなくても、もう直ぐ夜が来て、あの雪がこの麓までを覆だろう。お前はそこで、その雪に覆われて、ゆっくりお休みなさい・・・」と続く歌声に、マリ=クレールは、「素敵な歌だけど、夢が実現しない悲しい歌だね。」といい、ミシェルは、息子のフロに向って、「お前が孫たちに、この歌を教えたのかい?」と尋ねる。だがフロはそれらには答えず、小さな箱を出して、ミシェルとマリ=クレールに手渡した。そこには、出席者全員がお金を出し合ったのだという、キリマンジャロの麓までの、ガイド付きのツアー券と、多少の旅費が紙幣で入っていた。みんなの気遣いに、ミシェル夫婦は感謝をし、うやうやしく受け取る。また義弟のラウルは、「偶然に僕の家で見つけた」と言って、昔からコミック・ファンだったミシェルが、大切にしていて失くしたというコミックの古本を、持ってきた。ミシェルにとっては、これも願ってもないプレゼントだった。

突然強盗に襲われツアー券など奪わる

 そんな、リストラされた,元労働組合委員長のその後の生活に、やがて事件が起きる。ミシェルと妻と、義弟夫婦の4人が、ミシェルの家に集まって、カード・ゲームをしていたときに、覆面をした二人組みの強盗が入ってくる。銃を突きつけられ、4人とも粘着テープなどで縛られて、結婚30周年記念で、みんなから貰った、キリマンジャロへのツアー券と旅費、それに義弟が持ってきたコミックの古本、各自のクレジット・カードなどが奪われた。強盗は、単に「金を出せ」というだけでなく、「ツアー券と旅費があるだろう」と言って、金品を奪っており、ミシェルらは、これは仲間うちの犯行だと気付き、数日前のお祝いムードも何処へやら、一気に気がめいっていく。

奪われた漫画本持つ子供見つけ、犯人分かる

 数日後、ミシェルは、バスの中で、義弟ラウルから貰った、コミックの古本に良く似た書物を、抱えている幼い兄弟を見つける。「ちょっとみせて」とそのコミックを手にとって見て、良く似ているどころか、貰って盗まれたコミックそのものであることを、確認する。「珍しい本だから、大切にして読もうね」といって、その場は返すが、ミシェルは、バスを降りて歩いていく、その幼い兄弟を後をつけた。そして兄弟が帰って行った家が、元同僚の、ミシェルが引いた籤で、リストラ組みに入れてしまった、若い組合員クリストフ(グレゴワール・ルブランス=ランゲ)の家であることを確かめる。幼い兄弟は、クリストフの弟で、親のいないクリストフが親代わりになって。弟の養育の面倒も見ていたのであった。
 家に帰ってきたミシェルは、すっかりしょげ返っていた。「覆面の犯人が分かったよ。俺がリストラの籤を引いたクリストフだよ」と、力なく言うミシェルに、妻のマリ=クレールは聞き返す。「パーティにも出席して、祝ってくれた人なの?」「そうなんだ」というのがやっとのミシェルだった。

苦渋の選択で元同僚を逮捕、悲しい出会い

 ミシェルの通報で、警官が家の前に張り込み、クリストフの出てくるところを、逮捕するのにそんなに時間はかからなかった。ミシェルも警察に呼び出され、取調べ結果などが伝えられる。
 ミシェルとラウルのクレジット・カードは、銃を突きつけられて、暗証番号を教えたため、限度額一杯の5千ユーロを引きだされていたという。どうやらクリストフは、「元組合長を襲え」と共犯者からそそのかされて犯行に及んだらしく、分け前の1500ユーロとコミック本しか持っていませんでした。間もなく共犯者も逮捕出来ますので、残りと航空券は、そちらから取り戻します−というのが、警察の話だった。また銃が玩具だったことも知らされる。また警察は、クリストフについては、主犯でなく初犯でもあるので、情状酌量ということもあるかもしれないと伝えられる。そして、クリストフに会いますかという検事に誘われるように、ミシェルは取調室の一角で、クリストフと対面する。

犯人の元同僚から腐敗労動貴族呼ばわりされ

 ミシェルは、若いクリストフに言った。「半年間一緒に働いた仲じゃないか。新米の不利益も、会社と交渉をしてなくしてやっただろう。そして私も、君と一緒に職を失った。その私を襲うのか。何故なんだ」。黙っているクリストフにミシェルはさらに言った。
「共犯者にそそのかされたのだろう。分け前も1500と少なく、初犯だから、情状酌量もあるだろうと検事さんが言っていた。だから私は、何故私を襲ったのかが分からなくても、君を殴らない」と優しく言い、殊勝な侘びの言葉の一つも、クリストフから出るかと、期待した。ところがいきなり、クリストフは叫んだ。「分け前なんかじゃない。受け取った金は、解雇手当さ。あんな金、あんたは0なくったって平気なんだろう。あんたの日曜が目に浮かぶよ。脂ぎったステーキを食べ、よく冷えたロゼを飲む。組合の金でな。腐りきった交渉や、妥協に耐えたご褒美か。裏金をいくら貰ったんだ」。誤解や推察の基づく、若い組合員の欲求不満が、まさに収斂したようなクリストフの発言に、さすがのミシェルも堪忍袋の緒が切れ、思い切り、クリストフの顔面を殴ってしまう。

誤解による老若労働者の暴力が今を象徴

 このクリストフの発言は、ミシェルにとっては予想外の、ショッキングなものであった。労働組合員同士が、こういう形でいがみ合うことは、70年代末までの、ユーロ・コミュニズムが隆盛を極めていたときには、考えられない事態であった。以後20年以上の、新自由主義の跋扈と、グローバルな金融危機と、経済不況の慢性化の中で、労働組合の戦いは、経済の枠組みの中に押し込まれて、敗北の連続、労働者の要求は殆んど通らず、組合の存在意義すら、問い直されるという状況が続いた。その間に、組合員同士の関係も、組合員の精神も、ここまで腐敗してしまったのだ。正統なマルクスの研究家であり、映画監督になる前は、労働運動にも携わってきた、この映画のゲディギャン監督は、労働者によるエデンの園が築けず、夢破れて慙愧の思いに浸らされているが、とりあえず自分は、小市民の生活が出来ている、老いた元組合幹部と、仕事がなく、日々失業の恐怖にさらされている、若い労働者の対立を、強盗をした若い組合員と、リストラを阻めなくて、責任を感じている老労働者の関係の中に、万感をこめて、描こうとしたのが、この映画なのである。この暗澹たる取調室の殴り合いは、そんな労働運動の現状を象徴して、鋭い。

プロレタリア・ヒューマニズを何が破壊

 これから後、終盤へ向けてのこの映画は、クリストフを殴ったことで、すっかりしょげ返ったミシェルと、それを慰める妻マリ=クレールと、義弟ラウルら周辺の人物という構図で、ドラマは進行する。
 ミシェルは、クリストフの告訴を取り下げようとするが、事件は既に検察の手に委ねられていて、告訴の有無にかかわらず刑事事件として進行するといわれて、そのままになる。さらにミシェルは、キリマンジャロヘのツアーは中止し、返ってきた旅費と、航空券などを換金した金を、クリストフが刑務所に入り、働けなくなるために、養い人がなくなる、クリストフの弟たちのために、使いたいと言い出し、「目的外使用」だと、結婚30周年祝いに参加した孫や親族から異議が出るといった展開もある。個人のそんな小さな努力で、労働状況が変わるわけでもないといった主張も、なされている。しかし、ミシェルは、プロレタリア・ヒューマニズムというものは、そんな小さな個人のヒューマニズの集積を想定したものだという考え方で、個人を、隣り合った人間同士を、信じないでどうするとう思いで、クリストフの弟たちのために使うという方針を、貫くことにする。
 映画は、ミシェルの家族と親族が、野外で実施する、ソーセージのバーベキュー・パーティに、クリストフの幼い弟たちも、招待されるところで、閉じられているが、こうしたプロレタリア・ヒューマニズムを、成立しにくいものにした、現代の政治と資本とは何か。ゲディギャン監督は、そこを鋭く問いたいとして、この映画を作ったのだと、言わんばかりである。労働組合運動を、現状を踏まえた初の視点で捉えた、珍しい映画として、評価したい。

(上映時間1時間47分)
写真提供:(C)AGAT Film & Cie. France 3 Cinema. 2011

東 京 神保町 岩波ホール 上映中(7月20日まで)
名古屋 栄 名演小劇場 上映中
大 阪 梅田ガーデンシネマ  上映中(7月20日まで)
神 戸 居留地 シネ・リーグル神戸 上映中
福 岡 天神 KBCシネマ 上映中
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 7月21日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 7月21日〜上映
豊 橋 ユナイテッド・シネマ豊橋18 8月4日〜上映
広 島 タカノ橋 サロンシネマ 8月18日〜上映
仙 台 フォーラム仙台 8月25日〜上映
中 間(福岡県) ユナイテッド・シネマ中間16 8月25日〜上映
9月以降上映劇場
  札幌シアターキノ、青森シネマ・ディクト、秋田シアタープレイタウン、   フォーラム盛岡、フォーラム山形、フォーラム福島、新潟シネ・ウィンド   富山フォルツァ総曲輪、浜松シネマイーラ、ジョイランドシネマ沼津   伊勢進富座、岐阜CINEX、福山シネマモード、シネマ尾道   長崎セントラル劇場、宮崎キネマ館、熊本Denkikan、那覇桜坂劇場
他地区順次上映予定
配給社 クレストインターナショナル 03−3589−3176

《公式サイト》http://www.kilimanjaronoyuki.jp/

 

 

 

 
   

110国に716以上の基地、兵140万超

米の覇権主義、原油確保 軍産複合体

伊の記録映画『誰も知らない基地のこと』

(2012.6.27)

木寺清美

 
 



このところ、東京公開に合わせて紹介するという、この欄の鉄則が崩れ、本作も、東京、札幌、福岡、那覇、川越での公開が終わっている。しかし、この重要な主張を持つ本作を、未紹介にするのは、JCJとしての沽券にも関わる問題なので、遅ればせながら、あえて紹介させていただく。

伊の古都に米軍基地、国民の関心触発

 本作の原題「スタンディング・アーミー」は、「駐留軍」と言う意味である。この映画が初監督長編記録映画となる、二人のフリーランスの映像作家、イタリア系アメリカ人のエンリコ・バレンティとイギリス系イタリア人のトーマス・ファッツイが、この「駐留軍」に興味をもったのは、2007年に、イタリアのミラノに近い内陸の都市ビチェンツァで、世界遺産にも登録されている文化遺産がある都市であるのに、米軍基地建設の話が持ち上がり、住民の反対運動が起きて、選挙で住民投票を約束する議員までが当選したのに、イタリア最高裁が、反国家的行為であるとして、この住民投票を阻止してしまうという事件が起きたことからである。
 イタリアへの米軍の駐留は、第二次大戦後、ずっと継続されているのであるが、そういう同じ運命にある、第二次大戦の敗戦国ドイツ、イタリア、日本の中でも、最も少ない9000人台で、大戦後の冷戦構造の中で駐留が増えたイギリスとほぼ同数(因みにドイツは5万2000人台、日本は3万5000人台)であったため、国民の感心も薄く、戦後70年近くもたって、なぜ米軍が駐留しているのかと、疑問に思う人もあまりいなかったという。しかし、ビチェンツァの基地建設問題で、「駐留軍」が急に国民的関心になった。そして二人の映画監督も、世界中に展開される米軍駐留と米軍基地問題を、総花的に調べる映画を作ろうと、発想したのだった。

ノーベル平和賞のオバマが、国防費増

 映画は、オバマ大統領当選後の、米政府の軍事政策の説明で始まる。紛争地からの米軍の撤退や、軍縮、非核を奉じて当選し、ノーベル平和賞まで受賞したのに、新政権の軍事予算は、6800億ドルと発表され、金融危機対策費7870億ドルにせまる金額が用意され、ブッシュ政権の最後の国防費よりも、300億ドルも多いのであった。何故こんなことになるのか。映画は、国際政治学者チャルマーズ・ジョンソンにインタビューしている。
 ジョンソン氏は言う。「古代ローマ帝国は、紛争地に次々と軍隊を派遣し、紛争を収めるとともに、ローマの権益を広げて行った。しかし、終結後も、全ての軍隊を引き上げることはせず、平和維持を目的に、常備軍を駐留させて行った。これがローマの国防費、軍事費を膨らませる理由となり、ローマ帝国滅亡の、大きな原因の一つとなった。まさに現在のアメリカは帝国化し、古代ローマと同じことをやっている」と。米軍基地は、現在世界38カ国に716基以上あり、25万の兵士が駐留しているが、これは紛争地の駐留と基地であり、紛争終結後、基地を永久化し、そこに常備軍を置くようになってゆき、その数は、世界110カ国にも達し、兵士の数は、140万人を超えているという。

紛争終結後も一部を常駐、敵は創出

 ジョンソン氏はさらに言う。「これらの常備軍は、冷戦時代なら敵が明確になっているので、抑止力としての意味も明確であるが、冷戦終結後は、何に対する抑止力なのか、一見分からなくなっている。そこでアメリカは、ソ連などの社会主義国に代わるものとして、テロ・麻薬などを敵対するものとして、直ぐに創出した。また民族紛争を抱える国や、石油資源のある国には、橋頭堡的覇権を必ず確保するというのが、アメリカ帝国主義の鉄則で、その覇権主義に反するものは、これまた「敵対するもの」となる。それらは敵対する方向が明確でなく、テロなどは突然起きるので、これまで以上に金をかけた、八方を見据える強固な抑止力が必要だと、基地の必要性と国防費増大の根拠にしているのである」と。

島民追出し島全体が基地、珊瑚島破壊

 こうした役割を演じる、かっこうなアメリカ海軍基地が、インド洋のど真ん中に出来ているとして、カメラは、その珊瑚礁の島ディエゴ・ガルシア島に入っていく。約2000人の島民を全員追い出して、イギリやモーリシャスなどに移住させ、海軍のリゾート地のような基地が建設されたと言う。軍需産業ばかりでなく、さまざまな業種が海軍と契約をして、入り込んでいるという。その地は、アフガン、イラク、イラン、中東、アフリカの紛争国に近く、にらみを利かすにも、移動や出兵をするのにも、大変都合のいい地の利だという。
 イギリスに強制移住させられた元島民は言う。「珊瑚の島に、リトル・ニューヨークが出来たと聞くが、自然を破壊して、そんなものを作ることが許されるのか。こんな都会生活より、島の生活が懐かしい。帰りたい」と。

基地の消費経済が軍産複合体の基盤

 この映画は、軍産複合体のことにも触れる。基地では軍が訓練を行うたびに、さまざまなものが消費される。因みに世界中のアメリカ軍が、訓練で一日に消費する原油は、スウェーデン一国の一日の消費量に等しいという。従って、軍の中に入り込んで、商売をすれば、その企業は安泰なのだという。だからグローバルな軍需産業は言うに及ばず、規模を問わないあらゆる業体が軍と契約し、軍産複合体が形成されてしまうと、軍の方針や防衛見通しだけで、基地問題の帰趨を論じることが出来なくなり、さまざまな業体から陳情や横槍が入って、軍部だけでは、物事を決められない局面も、しばしば起きているという。

紛争後コソボにも基地、パイプラインも

 コソボ紛争のあと、紛争時の米軍は撤退したことになっているが、コソボには、ホンド・スティール基地が恒久的に存在し、紛争の再発や、テロ防止のために、米軍が常駐をし続けている。この基地の関わる軍産複合体には、KBR社という米企業が関わっているとされるが、この社は、ブッシュ政権下で副大統領だったチェイニー氏がかかわっている企業とされ、権益を持つ黒海油田から、コソボの基地まで、石油パイプラインを敷くことに成功している。ブルガリア、マケドニア、アルバニアの三国を通過するパイプラインであるが、チェイニー氏の外交力のためか、税や見返りが入ってくる各国とも、損にはならないという判断のためか、簡単にOKが出たという。パイプラインの建設にかかわった、地元企業の関係者は、「技術的にも簡単だったし、充分利益を上げさせてもらった」と、喜びを映画の中で語っている。

二監督、沖縄闘争に基地問題の縮図見る

 しかし、この映画が、最も力を入れているのは、“沖縄”の記録である。二人の監督は、自国の基地反対闘争が、モチーフとなって、この映画を作ったのだが、先祖伝来の土地を接収されて、執念深く反対を表明し続けている個人や、ヤンバルや辺野古の自然の破壊に反対し、もう約50頭しかいない沖縄ジュゴンの保護に努めている人、さらには一般の騒音や危険に反対している普天間基地周辺の住民などに、次々とインタビューし、米軍基地がもたらす負の問題点を、次々と明らかにする。そして「沖縄に来て、基地の何が問題なのかが、身にしみて分かった」と感想を、述べている。
 この映画は、沖縄の小学校に米軍のジェット機が墜落し、17人が死亡、200人以上が重軽傷を負った1959年のアメリカ占領中の事件から、04年の沖縄国際大学へのヘリコプター墜落事故、95年の酔っ払った外出中の、米海兵隊兵士による少女暴行事件など、沖縄で起きた、米軍基地がもたらす一般住民への、主な被害事件を、当時のニュース・フィルムなどを駆使しながら、説明をしている。そしてその殆んどが、治外法権的な処理をされて、住民は泣き寝入りという現実が示される。

兵士の無教養・粗暴当然、軍教育批判

 映画はさらに、ブートキャンプ(毎週応募してくる若者を、約3ヶ月で米海兵隊員にたたき上げる機関)に詳しい、ベトナム戦争の退役軍人で、平和活動家のアレン・ネルソン氏(この映画の完成を待たずに死去)にインタビューをして、一般の米軍兵士とは、何者かを語らせいるのも、なかなか鮮烈な構成である。
 ネルソン氏によると、事件が起きると、兵士の質やモラルが問われることが多いが、ブートキャンプの教育に、そんなものを教えるプログラムはない。あくまでも戦争の技術と兵器の動かし方を学ぶだけで、派遣される国の歴史や習慣や民族について、学ぶことはないから、事件は起きるべくして起きているという。事件が起きると、軍幹部は、「地元の人と、トラブルを起こすような意図は、全くない」と弁解するが、派遣地について全く無知なまま、全ての兵士が、自分の自由裁量で動くのだから、トラブルが起きない方が不思議だという。基地内にも遊興施設はあり、トラブルがイヤなら、軍自体が兵士を外に出すべきでないのだ。兵士にとって外出は、苦痛の多い訓練や、実戦配備から解放された瞬間の自由時間である場合が多く、初めから、酔っ払って騒ぐことが目的である−と、ネルソン氏は述べている。

沖縄の粘り強い基地反対闘争に学ぼう

 エンリコ・バレンティ、トーマス・ファツイの二人の監督は、この映画のパンフレットの中で、「日本の皆さんへ」という談話を出し、「私たちが沖縄で目にしたことが、政治的、社会的、そして精神的に、何よりも衝撃的だった。それは沖縄で出会った人々が、さまざまな形で、不平等な力関係に直面しながらも、希望を捨てず、気の遠くなるような長い期間、非暴力の抵抗をし続けておられると知ったからです。日本人の精神性の高さと心の強さに感激しました。世界平和を望み、基地をなくそうとする、日本中のそして世界中の人々が、この沖縄の人々に続いてほしいし、この映画が、そのために少しでも役立てば幸いです」(一部筆者加筆)、と。
 世界の38カ国に716箇所もある米軍基地、そこに駐留する駐留軍は、140万人にもなり、世界の警察軍のような顔をしながら、現代のローマ帝国とも言える、アメリカの帝国的覇権主義を支え、石油その他のアメリカの権益を支え、軍産複合体で、アメリカの大企業を支え、基地周辺には、さまざまな被害を撒き散らす。そして何よりも膨大な軍事費の無駄さ加減。二人のイタリアの映画監督は、そうした世界の米軍基地を訪ね歩き、基地の真実を、見事にフィルムの上に定着させ、世界の恒久平和を願う、優れた記録映画の一本を、誕生させてくれた。
(上映時間1時間14分)
写真提供:(C)Effendemfilm and Takae films

東京、札幌、福岡、那覇、川越の上映修了
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 上映中
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 上映中
大 阪 十三 第七藝術劇場 7月7日〜上映
京 都 東寺 京都みなみ会館 近日公開
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 近日公開
他地区順次公開予定
◆配給社 アンブラグド 03−6408−0625

《公式サイト》http://www.kichimondai.com/

 

 

 

 
   

亡命・帰還の一家の浮沈を追うドラマで

共産圏からユーロ圏のブルガリアを通暁

秀作現代史『さあ帰ろう、ペダルをこいで』

(2012.6.19)

木寺清美

 
 


年7〜8本製作の珍しいブルガリア映画

 この映画は、ブルガリア映画である。ブルガリアの映画が、日本で公開されるのは珍しく、60年代に『曲り角』という映画が公開されたという記録があるが、私は見ていない。当時のブルガリアは、ソ連を頂点とするワルシャワ条約機構加盟国の東欧諸国の一つで、ジフコフ第一書記の下、社会主義を標榜していたが、『曲り角』という映画は、男女の性描写も大胆な作品だったとかで、当時そういう傾向の映画が多かったスウェーデン映画に擬して、公開されたのではないかと、推察するものである。それ以上の詳しい資料が、私の手元にはないので、何も書けないが、以後「特別上映」を除いて、ブルガリア映画が、日本の商業ルートで公開されたということは、寡聞にして私は知らない。現に今も、ブルガリア映画は、年間7〜8本しか作られていないそうで、そんな中から、ドイツ、ハンガリー、スロベニア、セルビアの協力を得ているものの、こんな立派な『さあ帰ろう、ペダルをこいで』といった、ブルガリア映画が生まれたことは、驚きに値するし、これが2本目の長編劇映画であるという監督ステファン・コマンダレフが、ブルガリアから輩出したことは、とても喜ばしいことである。

ブルガリア現代史をたった一本の映画で

 さらにこの映画を、90年に、ソ連の崩壊にともなって、共産党の一党支配を廃止し、ジフコフ政権の不自由な圧制から脱したブルガリアの、時代の流れと、2007年に、最も遅れての加盟ではあったがが、ユーロ圏の一員として認められた自由主意義国ブルガリアの、今の姿とを、ずっと通暁するブルガリア現代史映画と位置づけていて、三代に亘る一家族の物語の中に、その現代史をはめ込み、一本の映画で、ブルガリアの全てを語ってしまうような、見事な構成の映画にしている点も、大いに評価したいところである。

亡命の独から帰還中に事故、記憶喪失に

 映画は、ブルガリアが、ユーロ圏への加盟が認められた、その2007年に、ドイツに移民していたらしいブルガリア人の家族、初老の域に達した夫婦と、30歳を少し過ぎた、働き盛りの息子アレックスの三人が、自由主義国となった祖国ブルガリアに戻ろうとして、一台の車で、国際道路を一気に駆けて抜けて行くシークエンスで始まる。そして、まだドイツ国内を出ないところで、父が運転を誤り、道路外に数回転して横倒しになる自損事故を起こす。事故で父母は死亡、息子アレックスも重傷を負って、病院に収容される。そしてア・レックスは、一命を取りとめるが、記憶喪失の身となる。
 そしてこの悲惨なプロローグに続いては、1970年代の、アレックスの誕生から10代までの、成長物語が展開される。

バックギャモンに囲まれて育った息子

 アレックスは、1975年に、ブルガリアの小さな田舎町に生まれ、バックギャモンと言う将棋や碁と同じボードゲームに囲まれて育った。バックギャモンは、世界最古のボードゲームの一つといわれていて、二個のサイコロを振って、その数だけ、丸いチップを動かし、自陣に数多くのチップを集めれば勝つというゲームで、ブルガリアには、愛好者が多かった。チップを動かす過程に、さまざまな妨害も出来るルールがあって、初心者と名人とでは、所詮、力の差があり、アレックスの祖父のバイ、ダンは、世間によく知られた、そのバックギャモンの名人だった。街角のカフェに、バックギャモンの競技場があり、人々は、暇さえあれば、そのカフェに寄り、バックギャモンに興じるのが、最高の近所付き合いだったが、アレックスの父ヴァスコもその仲間で、アレックスをつれて、よくカフェに通った。カフェでは、誰も歯が立たない祖父のバイ・タンが、皆から尊敬を集めていた。祖父にあこがれるアレックスは、「自分もやってみたい」と祖父に申し入れ、祖父からバックギャモンの手ほどきを受けることになる。アレックスが7歳の1982年のことであった。

カフェはスパイの巣、監視と密告を強制

 80年代、カフェは町最大の社交場になっていた。その一方で、ブレジネフ時代のソ連を背景に、人々の自由は制限され、集う人を監視する、ジフコフ政権の厳しい目が、カフェにも光っていた。あるとき、バックギャモンに興じる父ヴァスコを、陰からじっと見つめる男がいて、それに気付いた祖父は、「秘密警察のような卑怯なことはするな」と、男を怒鳴り、すごすごと男が帰っていくという出来事が起きていた。
 その数日後、父は、勤め先の人事部長に呼び出された。その人事部長は、カフェで、父や祖父を、こっそり伺っていたその人で、こんなことを言って、父を脅迫した。
 「お前は、陸軍時代に上官に暴行し、共産党青年同盟を除名になった男だな。違うと言ってもダメだ。ちゃんと調べはついている。おまけにお前は、この陸軍の在籍記録を偽造して大学に入学し、技術者になって、この会社に潜りこんだ。本来なら経歴詐称で、すぐクビにしてもいいんだが、お前の父親のバイ・ダンは、バックギャモンの名人と言う以外に、別の顔があるだろう。これも別の顔などないといってもダメだ。ちゃんと調べていあるのだから。あのカフェに寄って、多くの仲間とスパイまがいのことをやっているはずだ。そのバイ・ダンと仲間の行為一つ一つを、今後監視して、俺に報告しろ。怠ったらクビだぞ。きちんとやれば、お前の身分は保証してやる。」と。

東独留学中に、ハンガリー動乱を支持

 父ヴァスコは、人事部長のいう、バイ・ダンの別の顔につい知っていた。しかしそれは、あくまでも過去のことであり、現在のスパイ行為などについては、あずかり知らない話だった。だが、クビにされては大変なので、その場は承知して、引き上げるしかなかった。  バイ・ダンの過去とは、優秀な自転車選手だった青年時代のバイ・ダンが、54年の自転車競技で優勝して、その賞金で、東ドイツに留学したのだが、留学中に「ハンガリー動乱」が起き、それを支持する学生運動に参加、東ドイツのスターリン像の爆破にかかわり、ブルガリアに強制送還されたのである。帰国後、バイ・ダンは15年の刑に服した。以後、バイ・ダンは、政治とは決別し、バックギャモンの遊戯者としての腕を磨き、その筋の名人となった。名人として尊敬を集めている今、スパイ行為などは寝耳に水で、ヴァスコの知らぬことであった。
 人事部長に脅迫された経緯を、バン・ダムに話そうと思った父ヴァスコは、バックギャモンの一局を、バン・ダンと指しながら、「俺はもう手詰まりになった。どうしたものだろう」と持ちかける。バン・ダンは言った。「道は必ず開ける。状況が手詰まりなら、戦略を変えればいい。強行突破だ。最善の結果を信じて。」と。
 ヴァスコが妻ヤナと息子アレックスを連れて、西側への亡命に踏みきったのは、その夜のことであった。

記憶喪失の病院を、祖父が訪ね帰還へ

 2007年、ドイツから、祖国ブルガリアに戻ろうとして、交通事故で、父ヴァスコと母ヤナを失った、32歳の息子アレックスは、一命をとりとめたが記憶を失い、ドイツの病院に伏していた。そこへ尋ねてきたのが、祖父バイ・ダンだった。失われたアレックスの記憶を取り戻そうと、病院のフロアの片隅で、持ち込んだバックギャモンに興じ始める。しかしアレックスは、祖父から伝授された「勝つ方法」も、なかなか思い出せず、負け続けていらつく。バン・ダイは言った。「バックギャモンで、記憶が戻らなければ、祖国に帰るしかない。記憶さえ戻れば、死んでしまった父母にも、記憶の中で会うことが出来る。さあ帰ろう!」と。
 翌日、退院したアレックスは、バン・ダンが調達して来た、二人で漕ぐ、タンデム自転車に乗って、一路ブルガリアへと向うことになった。ここから映画は、ドイツからブルガリアへと向うロードムービーとなるが、その途中にも、一つ回想シーンが挟まる。

イタリアで捕まり、難民収容所に滞在

 回想シーンは、西側への亡命の途中、国境でつかまって収容された、イタリアの難民収容所での思い出だ。イタリアは、当時、亡命者の受け入れをしない国であったため、希望する第三国への亡命申請を出さねばならなかった。それが決まるまでの、一時的な難民収容所であった。しかし実態は、決まっても、国境越えの案内をする組織に、手引き料を払わねばならず、その額は、スイス300万リラ、オーストリア200万リラ、西ドイツ200万リラなどと決まっていて、金のない難民が多いため、自然滞在期間は長くなっていた。東側各国の、人種の坩堝のようになる一方、イタリア語が堪能になってしまった難民もいて、その一人であるシカゴという気のいい男に、ヴァスコらは、大いに世話になる。

収容所も不正、賭けゲームで稼ぎ脱出へ

 収容所の役人は、難民の数に応じて、イタリア政府が支給する経費で運営していて、外出の小使いとして、難民に渡す額はごくわずかで、残りで私腹も肥やしているらしいところもあった。数が多いほどうまみがあるとあって、第三国への斡旋をあまり急がないという、逆効果も起きていた。食事をめぐる不満がきっかけで、そのことを難民が追及するシーンもあり、ヴァスコやシカゴがその先頭にたち、役人から睨まれる。役人は、「民主主義国家は、無秩序や混乱には、寛容でない」と演説し、立場が変われば、どのような体制の国でも、同じであることを、この映画は描く。
 結局、ヴァスコ一家は、バックギャモンで金を賭けないという戒めを破り、収容所内で、賭けバックギャモンをやって、手引き料を稼ぎ、シカゴとも別れて、西ドイツ入りに成功する。

記憶回復へ、バックギャモンの手あわせも

 記憶喪失であるはずのアレックスの、こんな回想が語られる一方で.、祖父バイ・ダンの、ブルガリア国内での、過酷な体験も、ロードムービーの道すがら、語られていく。バン・ダンもまた、バックギャモンのゲーム盤を、闇ルートで売買したと、秘密警察に難癖をつけられ、さらに当局批判の発言と、ヴァスコらの国外逃亡を幇助したとされて、東ドイツ留学中に、スターリン像に傷をつけて以来の刑務所暮らしを、強いられたのだという。  道々、自転車を止めて、こうした回想を語りながら、バイ・ダンとアレックスは、バックギャモンの手合わせもしながら、ブルガリアへと急いだ。この手合わせもまた、バイ・ダンは、アレックスの記憶を呼ぶ戻すための手段と位置づけていた。
 そして、たまたま出合ったあるキャンプ場では、女性ダンサーに恋心を抱き、記憶のはっきりしている、病院での祖父との出会い以後のことを話し合う。そばで見ていたバイ・ダンは、いよいよアレックスに、記憶回復の兆しであると判断し、その決定的な場面が用意される。それは、イタリア国境で、あの難民収用所の在りかを思い出したアレックスが、立ち寄る決意を伝えたとき、それを、喜んだバイ・ダンが、許可したことだった。

難民収容所に立ち寄り、記憶が完全回復

 難民収容所は、ずいぶん様子が違っていたが、まだあった。そして何としても一番驚いたのは、その門番を、あのシカゴがやっていたことだった。アメリカへの亡命を、夢みていたシカゴだったが、結局、情勢の変化で、イタリアにとどまることが出来るようになり、門番に第二の人生を見出していたのだった。シカゴの熱烈な歓迎を受け、アレックスは、すっかり、記憶を取り戻すのだった。
 「やったやった」と喜び合う、バイ・ダンとアレックス。「人生はサイコロと同じ。どんな目が出るか、それは時の運と、自分の才覚だ」と、バイ・ダンは、バックギャモンの名人らしいウンチクを傾け、「これからの人生は、お前の番だし、ブルガリアの未来も、お前らの世代が、背負っている」と言って、バイ・ダンは、アレックスの手を硬く握るのだった。難民収容所に、一宿一飯の世話になり、夜が明けて見ると、バイ・ダンはいつの間にかいなくなっていた。「先にブルガリアへ帰る。もう一人で帰られるだろう」という伝言を残して。

 この映画の原作は、ブルガリア生まれで、ドイツで活躍する作家イリヤ・トロヤノフの小説で、トロヤノフは、この映画の脚本も担当している。トロヤノフ氏は、まだ幼なかった70年代に、ブルガリアの不自由な共産主義をきらって、両親に連れられて、ユーゴ、イタリアを経て、西ドイツに亡命し、その後アフリカのケニアにも移住、長くナイロビで生活もした人である。80年代にミュンヘンで、法律や民族学を学ぶが、アフリカ文学にも詳しい研究者として名を挙げ、アフリカ文学専門の出版社も、ドイツで創立する。そんな人だから、この映画(原作となった小説)は、自分の体験をそのまま書いた、実話のようなものである。アレックスが次第に記憶を回復していくロードムービー部分は、いささかご都合主義的な展開もあるが、トロヤノフ氏が、祖国ブルガリアのこれからに託す、メッセージみたいなものだと、理解が出来る。映画はそれを、先にも書いたように、一年に7〜8本というブルガリアの映画状況の中で、主としてテレビで活躍してきたステファン・コマンダレフ監督(1966年生まれ)が、2本目の長編劇映画として、演出したものであるが、わずか1時間45分の、一家の亡命と帰還の物語の中に、ソ連に追従していた時代から、ユーロ圏の一国になった現在のブルガリアまでの現代史を、全て刷り込ませたような見事な構成になっている。この映画を一本見ることによって、ブルガリアの全てが分かるような気分にさせられる。この映画は、大きな映画祭での受賞暦はないが、自国ソフィアでの映画祭の最優秀賞など、世界各地で、高く評価されている理由も、よく納得できる。

バイ・ダン役の俳優、バックギャモンのこと

 なお、バイ・ダン役の俳優ミキ・マイノロヴィッチは、旧ユーゴ(現セルビア)の著名な舞台・映画俳優で、同じ旧ユーゴの巨匠エミール・クストリッツアの作品には、出世作の『パパは出張中!』から、代表作の『アンダーグラウンド』、最近作の『ウェディング・ベルを鳴らせ』にまで、殆んどに出演している常連組で、最近は、フランス映画への出演も多い人である。重厚な中にも、人情味のある演技が、この映画でも、全体を席捲している。
 さらに付け加えると、バックギャモンなるボード・ゲームは、世界に3億人もの競技人口があり、欧米・中東では今も盛んで、日本にも奈良時代に渡来し、「盤双六」の名で、源平のころまで流行したという。私はまったく知らなかったが、碁、将棋、チェス、オセロ・ゲームなどの方が、ずっとマイナーなのだそうな。

(上映時間1時間45分)
東 京 シネマート新宿 上映中(6月21日まで)
大 阪 シネマート心斎橋 上映中
神 戸 元町映画館 上映中
他地区は順次公開
◆配給社 エスビーオー 03−6812−5410
◆宣伝社 ビターズ・エンド 03−3462−0345

《公式サイト》http://www.kaerou.net/

 

 

 

 
   

施設の子女を国家間で事実上の人身売買

4世紀に亘る大英帝国の児童移民を告発

ジム・ローチ初監督作『オレンジと太陽』

(2012.6.13)

木寺清美

 
 


大英帝国の罪、4世紀13万人の児童移民

 初めにお断りをしておかねばならないが、本作の紹介が遅れ、東京、仙台、名古屋、金沢では、上映が終わっている。しかし掲載を中止するには、忍びない内容なので、敢えて掲載したことをお詫びしたい。

 さて、この映画が描いている主題について、最初に説明することから入りたい。
 かっての大英帝国であったイギリスは、その連邦国であったオーストラリアやカナダなどに対し、政府承認の組織をつくり、児童養護施設に預けられていた、不幸な子供たちを、人口調節や労働力不足を補うための児童移民と称し、人権を無視して、事実上の国家間の児童売買をしていた、それも19世紀末から行い、中止された1970年までの間に、その数は、戦後だけで、約4500人に達し、19世紀末から、戦前までの数は、国自体が、全く把握していないという、近代国家としては、信じられないようなことが、行われていた。しかもこれは、19世紀末以後の、組織的に行われた、児童移民の数で、全く組織も法もなく行われた児童移民は、イギリスでは、アメリカへの移民が始まった17世紀から始まり、1970年までの約4世紀で、13万人に達するはずだと言う。このような児童移民を行った国は、一時七つの海を制する大国として、英連邦を広げて行ったイギリスだけで、世界唯一の人権無視、児童福祉違反が行われていたのである。

児童移民を初めて知った社会福祉士

 この映画は、父も母も知らないまま、児童移民として、オーストラリアで労働に従事し、大人になったが、「自分が何者か知りたい」と、一人のソーシャルワーカーに申し出た被害者が、初めて児童移民について知った、そのソーシャルワーカーを衝き動かし、真相解明に乗り出させた実話を軸にしたドラマで、実に分り易く、児童移民問題の不条理が描かれ、解明されて行く映画となっている。
 イギリス、ノッティンガム,1986年、ソーシャルワーカーのマーガレット・ハンフリーズ(エミリー・ワトソン)は、今日も、子育てが十分にできない家庭を訪れ、母親から子供を引き離し、施設に保護するという仕事に携わった。半狂乱になって抵抗する母親もいるので、母親の気持ちを思うと辛いが、ここは毅然として任務を執行することが大切だった。あくまで、児童保護法に基づく、子供を親の虐待などから守る、国の福祉政策であったからだ。そして、マーガレットはまた、児童保護施設から養子に出され、成人した人が抱える問題をサポートする「トライアングル会」も主催していた。

成人した児童移民、私は何者?と訴え

 あるときの「トライアングル会」で、マーガレットは、一人の女性シャーロットに声をかけられる。シャーロットは、ノッティンガムの児童養護施設にいた4歳のときに、船に乗せられてオーストラリアに送られ、養子縁組ではなく、オーストラリアでも施設のような所に入れられ、いろんな仕事をさせられながら、成人したという。しかし成人した今、ノッティンガムの出身だったという、おぼろげな記憶以外に何もなく、親は死んだとオーストラリアの施設からも伝えられているが、どんな親だったのか、死の真相も知りたいし、とにかく出自の解明に協力してほしいと、マーガレットは頼まれる。おまけに、シャーロットと同じような境遇の子は、当時数百人もいたという。親に代わる保護者もなく、子供たちだけを船に乗せ、数百人もオーストラリアに送るなんて、マーガレットの想像を超えた事柄だったので、たちどころに調べてみたいと思うようになり、シャーロットの頼みも受け入れる。
 そして一週間後、マーガレットは、同じ「トライアングル会」のメンバーである、ニッキーという女性から、「数年前、見ず知らずのオーストリアの男性から、「僕はあなたの弟です」という手紙を受け取ったことがあり、弟がいることを知らなかった私は、大変驚いた。しかしいろいろ調査して、弟であることに間違いがないことが分り、今は姉弟が助けあえる関係になっている」という話を聞かされる。このニッキーの弟ジャックもまた、血族から引き離されて、オーストラリアに送られていたのだ。

児童移民トラスト作り調査へ、母子対面も

 いよいよマーガレットは、児童移民に関する、「児童移民トラスト」という組織を作り、本格的は調査を開始する。マーガレットには、夫も、まだ小学生の息子もいたが、夫には、時には協力を仰ぎ、息子には、鍵っ子を我慢してもらうといった、犠牲を伴う調査だった。そしてまず、シャーロットの母親について、死んだりはしておらず健在で、ノッティンガムのパブで、働いていることを突き止める。驚くべきことにシャーロットの母親は、施設に預けた自分の娘が、児童移民に選ばれて、オーストリアに送られたことなど、つゆ知らず、どこかの養家で、幸せな人生を送っていると信じていた。養子に出した実子について、養父母と連絡を取り再会を求めたりするのは、固く禁じられているから、すっかり諦めて生活をしていた。児童移民で苦労をしていたのなら、もっと早く探すのにというのが、母親の立場だった。シャーロットと母親の、喜びの対面が実現する。

豪に乗り込んでの調査で分る大量犠牲者

 ニッキーとジャックの姉弟の母親探しは、ジャックのいるオーストラリアへ、マーガレットが乗り込んでの調査となった。そして現地の慈善団体の集会に参加したマーガレットは、オーストラリアには、ジャックと同様に、肉親を探してほしいという、元児童移民の人たちが、大勢いることを知る。マーガレットは、社会福祉委員を動かして、調査費と調査期間を公式なものにし、オーストラリアとイギリスを、往復する毎日を覚悟して、調査を進めて行く。そんな中で、オーストラリアに着いた途端に、モップを持たされ、清掃作業に従事させられた女の子が、以後40年間も、床を磨き続けているポーリーンという女性の事実や、クリスマスイヴに、施設の支援者から性的虐待を受け、以後精神を病んで、入退院を繰り返している男性の話などを、次々に知らされる。そして、ニッキーとジャックの母親探しも、一年前に亡くなっていたという、「もう少し早かったら」という悲しい結末になるが、それでも、生前の母親を知るという人物から、姉弟が母親の顔にそっくりだと指摘され、「出自が分かっただけでもよかった」と二人が涙ぐむシーンも用意されており、単なる調査ドラマではない感動がある。

役所から、寝た子起こすなと非難され

 マーガレットの動きは、両国政府の知るところとなり、保健省の会議に呼び出される。児童移民は、問題があることが分かり、1970年に、政府が自主的に終了している。もう済んだ問題で、寝ている子を起こすなというのが、保健省に集まって、マーガレットから話を聞こうとした人たちの大勢だった。
 マーガレットは、政府の無策や、社会福祉関係の人たちの、事なかれ主義を非難しているのではない。「児童移民トラスト」に集まってくる人たちは、自らが何者かを、知りたいだけである。だから調査をしやすいように、資料を積極的に出してほしい」と呼びかけ、何とかその約束を取り付ける。しかし、会議の帰りがけ、マーガレットに近づいて来た、一人の女性委員が言ったのは、「夫に世話をかけ、息子を鍵っ子にして、他人の事に口出しする資格が、あなたにあるの?」という嫌味だった。児童移民の犠牲者の過去を調べるというだけでも、権力側や、保守層の抵抗は、陰湿に続いたのである。

児童移民受け入れて、虐待する修道院も

 さらに調査の過程で、宗教団体もこの児童移民に関わっていて、決して良い評判ばかりではないことが、分って来る。特に「キリスト兄弟団」が運営する、ビンドゥーン修道院には、預かった児童移民を虐待して、使役に使っているという悪評があり、修道院を離れる者を脅迫して黙らせ、おまけに、養育は無償ではなく、各個人への貸金だとして、成人後の返済を迫っていたという。
 実態を知りたいと思ったマーガレットは、修道院を訪問しての、神父たちとの会見を申し入れるが、逆に、「これ以上教団を誹謗すれば、命を落とすことになるぞ」と、何処からとも知れない脅迫電話がかかって来て、不審な男に事務所を襲われ、マーガレットが逃げる一幕もあった。そんなわけで、修道院の許可は、なかなか下りなかったが、この修道院で育てられたレンという元児童移民の男性がいて、この男性は、虐待の事実を語りながらも、人を信じることが出来ない人間に育っていて、マーガレットの肉親捜しも、金儲けだろうと言い出す始末だったが、しだいに信頼関係は作られてゆき、マーガレットの修道院行きに、同行することになる。そんなことでやっと、修道院訪問の許可が下りる。
 マーガレットらを乗せた車は、いくつかの峠を越えた、その先にある、何やら妖気の漂うような盆地にたどり着く。俗世界から離れた、閉鎖社会であるその修道院は、異様な装束の門番らに迎えられて、マーガレットらは、20人近くの神父がうち並ぶ、部屋に通された。この修道院で育ったレンという証人を同行しているだけに、反論できない修道院側は、マーガレットの追及や質問に、ただダンマリを通すだけであった。
 修道院側をやりこめて、溜飲を下げたレンは、「私は8歳で、泣くことも怒ることも忘れた人間になっていたが、今日、泣き怒る感情を思い出した」と言い、マーガレットをも、ホッとさせる。

2009・10年に豪英政府は、正式に謝罪

 こうしたマーガレットの真剣な調査は、オーストラリアのマスコミを動かし、英豪両政府をも、動かずにはおれない状態になって行く。マーガレットが主宰する「児童移民トラスト」に、調査に必要な資料や資金を出すように求める、マーガレットの要求も、すんなりと通るようになって、マーガレットの活動は、飛躍的に進捗するようになって行った。
 映画のラストは、真夏にクリスマスを迎えるオーストラリアでの、クリスマス・パーティのシーンであり、マーガレットの尽力で、出自が明らかになり、血族の絆を取り戻した人たちが、三々五々に集まった。これには、妻に協力した夫のマーヴィンも、息子のベンも出席しての集いとなり、マーガレット一家の苦労が、出席者から称えられる。
 クリスマス・プレゼントの交換をする中で、息子ベンが用意したプレゼントがないことを、40年間清掃を続けてきた女性ポーリーンに指摘されたとき、ベンは、「僕はみなさんに母をプレゼントした」といい、一堂を笑わせるが、誠に的を射た表現で、映画のラストのなごみとしては、よくできている。
 映画は、このマーガレットの運動の結果、オーストラリア政府は、2009年にラッド首相が、イギリス政府は、2010年にブラウン首相が、それぞれの議会で、正式謝罪をしたということを、タイトルで示して、幕を閉じる。実に、17世紀からの人権侵害が、幕を下ろすのに、4世紀もかかったのである。

ケン・ローチの息子、ジム・ローチの作品

 この映画を、企画・監督したのは、イギリスの社会派の巨匠ケン・ローチ(『麦の穂をゆらす風』(アイルランド独立運動の悲劇)『この自由な世界で』(外国人労働者の無権利問題)など)の息子の、ジム・ローチ(1969年生まれ)で、これまで、TVドラマや、TVのドキュメンタリーを作って来たが、本作を映画への進出第一作とした。
 ジム・ローチは、この映画の女主人公マーガレット・ハンフリーズの著書「からのゆりかご−大英帝国の迷い子たち」を読み、英豪政府の謝罪のニュースにも接して、ぜひ「児童移民問題」を映画にしようと、マーガレットさん本人に会いに行ったそうである。そして数年間マーガレットさんと交際するうち、運動を始めた当初のマーガレットさんの姿を描くことが、最もアクティヴに問題をクローズアップ出来ると思い、父ケン・ローチの映画『レディバード、レディバード』の脚本なども書いたベテランの脚本家ロナ・マンロさんに相談、本作のような映画に仕上がって行ったという。その演出スタイルは、ケン・ローチと同様のケレンのないリアリズムで、時折、滋味ある情感を盛るあたりも、すっかり父親譲りである。
 実在の組織、実在の人物を描いたこの映画、「児童移民トラスト」は今も存在し、ノッティンガムと、オーストラリアのバースとメルボルンの三か所に事務所がおかれ、マーガレットがディレクター、夫のマーヴィンがプロジェクト査定者を務め、離散家族の再会を中立ちする福祉サービス慈善団体として、存在感を強めている。
 タイトルの「オレンジと太陽」は、オーストラリアのことを、皮肉をこめて呼んだものだと思われる。
(上映時間1時間46分)
写真提供:(C)Sixteen Midlands (Oranges) Limited/See-Saw (Oranges) Pty Ltd./Screen Australia/Screen NSW/South Austalian Film Corporation 2010

東京、仙台、名古屋、金沢の上映終了
大 阪 梅田ガーデンシネマ 上映中
京 都 烏丸 京都シネマ 上映中
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 6月16日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 6月16日〜上映
札 幌 大通 シアター・キノ 7月7日〜上映
近日上映予定劇場
  秋田シネマプレイタウン、新潟シネ・ウィンド、シネマテークたかさき、松本CINEMA   セレクト 静岡シネ・ギャラリー 浜松」シネマイーラ 岐阜CINEX 伊勢進富   座 岡山シネマ・クレール 福山シネモード 広島サロンシネマ 長崎セントラル劇   場 熊本Denkikan 大分シネマ5 那覇桜坂劇場
◆<配給社 ムヴィオラ 03−3262−5252

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自分を他人に育てさせた母が認知症に

小津映画目指し、実は母子葛藤辛口物語

井上靖の私小説の映画化『わが母の記』

(2012.6.2)

木寺清美

 
 


原田眞人監督は、私映画は無縁の人?

 この映画は、昭和の文豪と呼ばれ、文化勲章も受賞した故井上靖氏(1991年83歳で逝去)が、1964年から、約5年ごとに発表した、井上氏の母親八重(1973年に88歳で死去、晩年は認知症を患った)のことを書いた私小説「花の下」「月の光」「雪の面」(1975年にまとめて「わが母の記」として出版)を、映画化したものである。
 映画化を推進したのは、一般には、『突入せよ!「あさま山荘事件」』(02)や『クライマーズ・ハイ』(08)などで知られる、今年63歳になる原田眞人監督で、脚本も全部自分で書いている。原田監督は、青春時代の映画の勉強を、日本ではなく、いきなりロサンゼルスでしてきた人で、30歳で発表した処女作『さらば映画の友よ インディアンサマー』(79)は、そうした経験を叩き込んだ実験的作品で、映画狂の幻想を描いていた。しかし、こうした実験的精神を前面に出した原田作品は、『KAMIKAZE TAXI』(95)にしても『バウンス KoGALS』(97)にしても、ベスト10に入賞しながら、マイナーな映画として、殆ど興行からは無視された。逆に『栄光への挑戦』(86)のような裕次郎のボクシングものや、『さらば愛しき人よ』(87)のような郷ひろみのヤクザ映画などの活劇、また『金融腐蝕列島 呪縛』(99)のような社会派映画の監督として、評価されてしまい、きめの細かい演出設計などは無縁の人と、誤解されてしまう不幸を背負ってきた。

原田監督と井上靖同郷、小津安二郎再検

 ところがこの映画は、その原田監督が、実にきめの細かい演出で、井上氏の私小説を映画化したものであり、原田眞人にも、こんな側面があったのかと、驚くほどである。原田監督は言っている。「僕と井上氏は、同郷で、僕が通った静岡県立沼津東高校の大先輩にあたる(井上氏が通学の頃は、静岡県立沼津旧制中学)。そんなことから、井上氏の多彩な作品の中から、「わが母の記」「しろばんば」「幼なき日のこと・青春放浪」などの私小説ジャンルのものを読み返し、映画にしようと、10年来温めてきた」と。そしてさらに、「小津安二郎の美学を、見直してみたいという思いもあった」と言っている。

激しいドラマのある「小津」を目指した?

 しかし出来上がった『わが母の記』は、小津安二郎の、あのロー・アングルの静謐な家族物語とは、だいぶ違う。すでにある家族の絆に、些細な外からの力や、あるいは、内から突き上げる力があって、少し波風が立ったのを、元に戻すこと、つまり平凡であることそのものに、価値を見出す過程を描くことに、関心があるのが小津映画だが、この井上靖の世界は、表面平静を装っていても、激しく絆が壊れている状態を、認知症の人を介護するという格闘を通じて描くという、相当にドラマティックな家族の物語が、展開されるからだ。それを敢えて、静謐に繊細に描こうとするところに、原田監督が目指す新しい小津安二郎があるのだろう。活劇や社会派映画や、一面狂気とも言える人間の断面を、実験的手法で切り取って来た、原田眞人らしい視点や構成が、はめ込まれた小津安二郎であって、小津の世界そのままのの、再生とは違うのである。

井上靖の原作も、通常の私小説でない

 そもそも、井上靖は、私小説作家でない。母を描いたこの三部作を、「小説ともエッセイともつかぬもの」と、井上氏自身が告白しておられるが、本格的な作家生活のスタートとなった芥川賞受賞作「闘牛」にしても、下山事件を扱った「黒い潮」や、登山事故を扱った「氷壁」にしても、元毎日新聞記者であった氏にふさわしい、記者的視点が色濃く出ている、社会派的リアリズム小説である。そして昭和の文豪として円熟味を持ち始めた頃には、「敦煌」や「楼蘭」など、数多くの歴史小説の秀作を書いた。決して私小説作家ではないのである。だからこの「わが母の記」三部作も、通常の私小説とは、少し雰囲気が違っている。まさにエッセイという言葉も飛び出しているように、主人公の井上氏自身は、自己を客観視するような、架空の名前のついた人物としては登場せず、「私は」という表現で登場する、一人称小説になっている。家族や親族についても、「母」「父」「上の妹の志賀子」と言った調子で、名前はほとんど登場せず、たまに登場しても、必ず実名である。あくまでも私の立場から、母を見、家族を見、自分との関係の中での、母と家族の動きを描いている。
 そして、小説の舞台は、世田谷の井上氏の自宅、井上氏の祖父の代から住んでいる湯ケ島温泉に近い伊豆の郷里(現伊豆市門野原)、夏を過ごす軽井沢の別荘の三か所にほぼ限定され、それぞれで、井上氏と母が時を過ごした時のことが、描かれる。母が井上氏を離れて、上の妹志賀子や下の妹桑子らと過ごした時のことは、殆ど「伝聞」として描かれる。つまり、この小説における、井上氏の私目線は、徹底しているのであり、母の客観的な描写であるというより、井上氏のは母論であり、井上氏の認知症観であるということにもなっている。

原田監督は、原作にないフィクション

 このような私小説を映画化するにあたり、原田眞人監督は、大胆にフィクションを持ちこむ。「私」は、昭和の文豪と呼ばれる伊上洪作であると名付けられて、客観視され、母や妻や実妹には、八重、美津、志賀子、桑子などと、実名を使うが、原作では描写の少ない娘たち(母からは孫)は、架空名で登場して父に意見するなど、家族の物語の重要な一部を客観的フィクションとして、挿入している。三女の琴子(宮崎あおい)が、祖母八重(樹木希林)を、父や叔母が、たらいまわしするのを批判し、「おばあさんの立場になって、認知症に当らねば」と怒るシーンがあるが、これなどは原作にない映画の創作のようだ。まさに、井上氏の「私」のエッセイとして、単なる「私」の人生観照として、家族全体が描かれた私小説が、監督の手で転換され、相当にドロドロとした、家族同士の衝突の物語として、再生されて行くのである。それは、小津安二郎の美学を再生させたいと願った、監督の意図の一部をも裏切り、むしろ激しいシニシズムや、社会批判を込めたこの監督の埋もれた代表作『KAMIKAZETAXI』などの片鱗を伺わせるもので、小津映画の静謐さとは全く別物の、家族物語が生まれていく。

井上氏、曾祖父の妾の子にされ母に恨み

 そもそも『わが母の記』の重要なモチーフは、小説も映画も、井上氏自身(映画では伊上洪作=演じるは役所広司)が、幼少のころから、血の繋がっていない祖母に預けられて育ち、実父母の下で、他の弟妹たちと、いっしょに暮さなかったこと、そしてそのことを、「私を捨てた母」として、井上氏自身が、ある頃まで恨みに思い、母もまた、一種の慚愧の念を抱いていたという関係を、老境に達した母との付き合い、認知の始まった母の介護を通じて、いかに解消して行くか、というところにあったようだ。
 井上氏の育ての祖母は、曾祖父の妾に当る「ぬい」という人で、曾祖父の死後、その遺言に基づき、祖母の世代の「ぬい」が、戸籍上は母の養子となり、同じ伊豆の郷里に、別に居(と言っても、土蔵を改良したような棲み家)を構えて、井上氏を、事実上のわが子のように育てたという、奇態な関係になっていたのである。映画には、伝聞としてしか、この「ぬい」さんの話は出てこないが、実際は、母や弟妹たちが、軍医などをしていた父とともに、北海道や東京などを転々とする間も、井上氏だけは、この「ぬい」さんとともに伊豆の土蔵に残され、連れて行かれなかったことが語られる。映画の冒頭は、この父(三国連太郎)の臨終の場面なのだが、最後の見舞いに来た井上氏に当る伊上氏と、手を握り合い、この問題を詫び許し合うと、後で分かるシーンが挿入されている。

妾の子にしたのを悔いていると思えず・・

 この、自分を、曾祖父の妾の「ぬい」さんに預けた真意を、母に尋ねてみたいという伊上氏の立場と、おそらく慙愧の念を抱えたまま、認知症が亢進して行っているに違いない 母八重(実際は分らない)との葛藤が、この家族の絆の物語の、中心命題なのである。  ドラマは、父の死後、認知症が進み始めた母を、伊豆の郷里に、お手伝いさんだけで、置いておくわけにゆかず、まだ独身の、伊上氏の下の妹桑子が、一旦東京の自宅に引き取ったあと、桑子が伊豆に赴き、母と一緒に住んで、面倒を見ることになる。そんなシチュエーションが語られたあと、桑子とともに、母が世田谷の伊上宅に尋ねて来たときの、母と息子の喧嘩の模様が描かれる。毎年伊上氏が、母の名前で送っている、伊上氏の弟の誕生日祝いを、まだ送っていないと、母が伊上氏を責め、認知症の亢進に辟易している伊上氏と、口喧嘩になるが、苛立つ伊上氏に、母が「あの女に育てさせたのは、一生の不覚だった」と、「歪んで育った伊上氏が悪く、その原因はあの女にある」と言わんばかりのセリフを吐き、さらに伊上氏を残念がらせるのだった。

川奈ホテルの母の誕生日が悲しみの日に

 数年たち、母の誕生日祝いを口実にした、伊上一族の最後の家族旅行というわれるものが、伊豆の川奈ホテルで行われた。しかし主役の母は、誰の目にも認知症と分る程度にまで症状が進み、とくに自分の夫の父の記憶を忘れ、「お父さんは欠席か」と尋ね、皆を悲しませる。伊上は、「まだ自分を捨てた母を許してはいないのだが、認知が進み、その記憶も忘れられては、喧嘩にもならない」と、冗談めいて言い、一同をさらに悲しませた。そして、本音を吐いてしまった自分に、自己嫌悪を感じた伊上は、一同から離れてこっそり忍び泣くのだ。一同は、気を紛らわせるためにビリアードを始めるが、はじけ合う球の響きは空しく、母への祝い心を、軌道に乗せることは出来なくなっていく。

孫の世代と祖母との関係も描かれる

 さらに数年たち、郷里の伊豆では、仕事の都合がついた、伊上氏の上の妹の志賀子・明夫夫妻が、伊豆にやって来て、母と同居し、桑子からバトンタッチをして、母の面倒を見るようになっていた。だがその婿の明夫が、交通事故に遭い、母の隣室で療養をするようになって、また問題が発生した。母が、寝てばかりの明夫を非難し、「働かない婿なら御飯をあげない」とわめき、ゆっくり療養も出来ないのだという。伊上氏は、仕方なく世田谷の自宅に母を引き取ることになるが、執筆を優先する伊上氏夫妻は、十分に母の面倒を見られない。結局、娘の三女琴子の提案で、軽井沢の別荘に母を連れて行き、その孫の琴子、書生で運転手の瀬川、伊豆からついて来た母付きのお手伝い貞代の三人で、面倒を見ることになる。この挿話は原作にないもの(原作では、夏の避暑で、伊上氏も含め、一家が軽井沢に集まるときに、母もつれて行くことになっている)で、祖母の認知症を巡る、孫の世代の反応を描きたくて創作したと、原田監督は言っているが、さきに触れた、琴子が、父の世代の、祖母のたらいまわしを批判するシーンも含め、郷里と東京と別荘の、三つの居住地を持つ、お金持ちの一家の「介護生活」を、多少皮肉っぽく描こうとした、原田監督の意図が隠されているように、私には思えた。小津安二郎を、再生させると言いながら、このあたりが、小津の「庶民生活」とは根本的に違う部分である。ほかにも、一家総出で、伊上氏の新刊書の印税の検印を、何万冊分もやるシーンがあるが、反発する琴子を、「誰の御蔭で安穏な生活が出来ている?お父さんの小説の仕事に協力しなさい」と、母親らが叱かるのも、原田監督の『KAMIKAZETAXI』などの社会派映画的要素の片鱗が、覗いたシーンだと、私には映った。

捨て子を問いつめ、母の悔い引き出す

 いずれにしても、この映画は、庶民派の家族物語ではなく、相当なお金持ちの家族物語であり、主人公の伊上氏は、母の介護そのものには深入りせず、母への恨みを晴らしたい一心で、伊上氏の心に映じた母だけを、映像で見つめる展開になって行く。他の親族も、文豪の家長に一目置き、母以上に神経をとがらせる関係で、その関係を無視するのが、創作された孫の世代というわけだ。描かれる期間も、88歳で逝った母八重さんの74歳から84歳くらいまでで、母の認知症を、とことん追った映画にはなっていない。
 映画は終盤になって、孫世代の動向がいろいろ描かれる。長女の郁子は早々と結婚し、母親となるが、二女の紀子は、ハワイへの留学を検討していた。目的のはっきりしない留学に伊上氏は反対で、いかに父親を説得するかが、紀子の課題だった。また三女の琴子は、写真家の卵となり、父の書生の瀬川と付き合っている。これも伊上氏にとっては、あまり面白いことではない。そんなことの中で、いよいよ認知症が進んだ母八重が、「息子をあの女(おぬいさんのこと)に盗られた」とわめき散らし、「お母さんが捨てたんですよね、お母さんが私をお置き去りにしたんですよね」と、禁句にしていたものを、伊上氏は、念押しして言ってしまう。しかしそのとき、若い頃から、多少とも詩歌に素養があった母が、いかにそのことで苦しんできたかを、夜空の月に託した詩を詠んで表現し、認知症とも思えない表情をしたため、井上氏は,思わず母を抱きしめて嗚咽し、追いつめて悪かった、母にも慚愧の念はあったのだと気付く。ラスト近いこのシ−ンが、この映画のクライマックスであり、泥まみれの感情が描がかれる、この小津らしくない小津映画の、最も感動的なシーンである。

原田眞人監督の新ジャンルの代表作

 このクライマックスを境に、ドラマは、母子の絆を取り戻した、伊上氏の平静な日常と、母の介護に本格的に入って行く姿が捉えられる。頑固さが消えて、二女のハワイ留学を許す気になった伊上氏が、横浜港の劈頭に、二女をお送りに行ったあと、母が倒れたという連絡で、郷里に駆けつけた伊上氏は、和解と介護にもっと精励することを誓って、老母を背負い、伊豆の海岸を散歩する。その二人の柔和な顔で、映画はしめくくられる。  社会派でもあり、実験派でもあった原田監督が、異質の私映画的な家族の物語に挑戦し、これまでの作風の片鱗を残して、きめの細かい描写に精励し、新たな代表作を、ものにしたともいえる今回の成果に、私は迷うことなく拍手をお送りたい。先の第35回モントリオール映画祭でも、審査員グランプリを受賞した『わが母の記』は、そんな映画である。原田監督は、世田谷の井上邸や、郷里伊豆の由緒あるところを、そのまま撮影に使用する許可が出て、1970年代までの昭和の雰囲気を、再現できたのもよかったと述べているが、そういうところにも、こめの細かい描写を、さらに生かす要因があったと言える。
 役所広司、樹木希林とも適役で、渾身の演技を見せている。
(上映時間1時間58分)
写真提供:(C)2012『わが母の記』製作委員会
全国主要都市、松竹系劇場・各地のシネコンで上映中
◆配給社 松竹株式会社 03−5550−1589

《公式サイト》http://www.wagahaha.jp/

 

 

 
   

瀬戸内舞台に、リアルでファンタジック

人間の絆の回復と、妖怪との愉快な友情

存在感あるアニメの誕生『ももへの手紙』

(2012.5.20)

木寺清美

 
 


日本の現代アニメ状況から説き起こせば

 宮崎駿監督らが主宰する、スタジオジブリのアニメ『千と千尋の神隠し』が、ベルリン国際映画祭で金熊賞(グランプリ)や、米アカデミー賞の長編アニメ賞を取って、国際的に話題を呼んでから、もう10年が経つ。間断なく作り続けられているスタジオジブリのアニメは、いささかマンネリ気味もあるが、その後も高い評価を続けている。しかし、日本のアニメはスタジオジブリばかりではない。  そんな中で、近年注目されているのは、アニメ版『時をかける少女』(06)や『サマーウォーズ』(09)を発表し、間もなく『おおかみこどもの雨と雪』の公開が控えている細田守監督とそのグループだ。これまでのところは、奇をてらわず、現代の日本の若者の青春をリアルに描き出したアニメであり、スタジオジブリ作品で言えば、『耳をすませば』の路線である。
 ほかに、専門家が高く評価したものに、原恵一監督の『河童のクウと夏休み』(07)がある。「クレヨンしんちゃん」というルーティン・アニメとつき合う中で、第9作の『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』(02)という大傑作をものにした原監督が、ルーティンを抜け出て作った意欲作だが、文部科学省が喜びそうな、教育映画的アニメである点に、私は感心しなかった。その後原監督は、『カラフル』(10)という、生死の境を行き来する青春心境もの作ったが、素材が、アニメの素材(直木賞小説)としては疑問があり、パンチ不足の作品に終った。
 スタジオジブリ以外の日本のアニメでは、勿論、押井守の「攻殻機動隊」や庵野秀明の「新世紀エヴァンゲリオン」といったシリーズ・アニメに人気は高いが、これらは、SF宇宙ものが嫌いな、私の関心の外にある。むしろ、生煮えでも、現代社会をちくちくと刺す、
 棘のあるサイコ調アニメを作った今(こん)敏(さとし)監督(ホームレスと捨て子を描いたアニメ『東京ゴッドファーザーズ』(03)は傑作)を、高く評価したいが、46歳の若さで、一昨年他界したのは惜しまれる。

現代日本アニメの才能の協力で誕生

 こうした日本のアニメ状況の中で、今回登場した、今年46歳の沖浦啓之監督の『ももへの手紙』は、従来のアニメの「妖怪もの」と言うパターンを踏襲しながらも、父を亡くした思春期の少女が、家族の絆を確認していく経緯を、リアルに、かつファンタジックに、うまくまとめた感動作で、スタジオ・ジブリ以外からは、久しぶりに出た、佳作アニメの一本といえる作品になっている。
 沖浦監督は、『攻殻機動隊』や『イノセンス』の押井守の下で、アニメーターとして、腕を振るってきた人だが、壮大なロマンを追い求める押井守に対し、日常の中の小さなロマンを大切にしたいというような、人のようだ。そして『ももへの手紙』は、『千と千尋の神隠し』の重要なスタッフの一人であった安藤雅司が、作画監督として協力し、これに、『エヴァンゲリオン新劇場版:破』や『サマーウォーズ』のスタッフも加わって、完成されており、現在の日本のアニメ界の先頭を行く人たちが、協力し合って生まれたアニメなのである。
 日本のアニメの製作現場は、世界的に評価が高く、経産省までが、アニメ技術の輸出などを、言い始めているが、実際のアニメ製作現場の労働者たちは、劣悪な労働条件で働いており、それは手書きからコンピューターになっても変わらない。しかも低賃金を我慢しないと、東南アジアなどへ現場を移す空洞化は、すでに進んでおり、その対策の方が先なのである。そんなときに、トップレベルだけではあっても、業界内部で協力し合い、才能を出し合う体制が出来るというのは、よいことではないか。作品の質以外のこの面でも、沖浦体制は、注目したいのである。

瀬戸内の美しさ、民俗史に基づく脚本

 さて『ももへの手紙』は、美しい島々の点在する、瀬戸内海の風光で始まる。その中を、ももの母のいく子の郷里がある、汐島に向って進むフェリーに、小学校6年のももと、母いく子が乗って、デッキに立っていた。父がサラリーマンをしている東京で、何不自由のない生活をしていたももの一家だったが、その父を事故で亡くし、生活を立て直すため、母とともに、母の郷里の島に帰るところだったのである。
 このアニメには、小説やコミックの原作がなく、数人の協力者を得て、沖浦監督自身が オリジナルで脚本を書いたものである。執筆に当たっては、沖浦家の祖先が鞆の浦付近にあり、桃山学院大学の教授でもあった、叔父の沖浦和光氏が、瀬戸内海の民俗史に詳しい民俗学者だったこともあって、いろいろ話を聞き、それを参考に脚本つくりに励んだと沖浦監督は述べている。このため、汐島(架空の島)という舞台は、実際には、芸予諸島の大崎下島を想定しているとのことで、綿密なロケハンも行ったという。そんなことから、冒頭のシークエンスから現れる、瀬戸内の風光は、実に美しく緻密で、行き交う船、ミカンの段々畑、古い民家の町並みなど、アニメとしての水準は高く、見る人の心を奪う

父の死に慙愧を抱え、母と島の新生活

 島での新生活は、雑貨屋で知り合った、同じ6年生の男の子とその妹など、新しい友達も出来、橋から海に飛び込むなど、島の子供たちらしい大胆な遊びに誘われ、同じ遊びには付き合えないものの、順調に推移するかのようであった。しかし、父を亡くした悲しみは、母のいく子ともども、なかなか癒えることはなかった。
 とくにももは、父の死に絡んで、慙愧の念にさいなまれていた。それは、父が会社に行ったまま、事故で帰らぬ人となった日の朝、遊びに連れて行く約束を、いつも仕事を理由に破ってしまう父を責め、父娘喧嘩をしたのだった。しかも、父と最後に交わした言葉が、「お父さんなんかキライ」と言う罵声であった。悲しみの葬儀も終えた日、父の遺品となった机の引き出しから、「ももへ」と言う表書きだけが書かれた、手紙を見つける。その手紙は未完成なもので、数日中に完成させて、ももに渡そうとしていたらしいことがうかがえるが、約束を守れないことをわび、決してももとの約束は軽んじてはいないということを述べて、大人にとって、仕事がいかに大事かを、書き始めていた。父親の真意を、曲解していたことを知らされたももは、さらに苦しみが増し、慙愧の思いを、抱え込むことにンなったのだった。それは、父(自分の夫)の死を、早々と割り切って、新生活に踏み出す母への反撥とも、裏表の関係だった。

ももの周りに現れた、三人の天界の妖怪

 父へのすまない思いと、母への反撥で、戸外で友達と遊ぶことが多くなったももは、あるとき、突然の俄か雨に襲われ、島の鎮守の森に駆け込み、祠の軒下で、雨宿りをすることになった。雨はなかなか止まず、何やらごく近くで物音がして、ももが振り返ると、そこには、丸坊主の小人のような、少年だか中年だか分からない奇妙な人物が立っていて、ももに「見つかってしまった」とばかり、物陰に慌てて隠れたのを、見届ける。
 -それまでも、ももが、家で一人で留守番をしていると、食べようと思って冷蔵庫に残してあったプリンが、いつの間にかなくなっていたり、かすかに、ももの名前を呼ぶ声が聞こえて来たりして、気味悪くなり、家を飛び出したことが、あったのだが、どうやら、隠れた人物が、そのときもいたのだろうと思ったももは、怖がるのを止め、意を決して、「みんな出てくるように」と呼びかける。
 ぞろぞろと現れたのは、その小人の妖怪マメと、ヒョロリとしたカッパのような風貌のカワ、それにリーダー格で、殆んど真四角な顔で髭を生やした大男のイワの、3人の妖怪だった。この三人の個性的な妖怪の描きわけが、これから後も、すこぶる面白い。

「黄表紙」から天界に呼ばれ見守役の妖怪

 このアニメ映画は、ここから、瀬戸内の日常を捉えたリアルなアニメから、ファっタジックなアニメヘト変質する。と言っても、島の生活の日常的背景が、変わるわけではない。 妖怪のリーダー・イワの話では、三人とも、ももといく子を見守るよう、天界の命令を受けて、江戸時代の「黄表紙」の中にいたのを、わざわざ呼びだされ、空から派遣されたのだという。それを証明する天界発行の「通行手形」を、三人ともが持っていて、ももに示した。いわば天界へ行った父と、現世のももと母とを結ぶ、通信役みたいなものなのである。それと知ったももは、もう妖怪たちを恐れなくなり、友達と同じように話すようになる。ただ、家といわず、鎮守の森の祠といわず、ももが一人でいるときは、何処へでも現れて、話しかけてくるため、いささかうるさいなと、ももは思い始めていた。
 沖浦監督の話によると、この妖怪の三キャラクターは、江戸時代の俗な絵物語である「黄表紙」の中で発見し、このアニメに取り入れたものだそうで、三キャラクターの会話や仕草が、落語か漫才のやり取りのようになっていて、とても楽しいのも、そのためだと分かる。また、もも以外の人間に見られたら、妖怪たちは、たちどころに天界へ戻らねばならない設定になっていて、ももと妖怪たちのマンガチックな展開のほかに、母らに見つかりはしないかというスリルが、全体に加わっていく。

見守報告を天界に送る妖怪、父の手紙も

 妖怪たちは、腹が減ったとして、冷蔵庫の食べものを、こっそり拝借したり、母のいるすぐ隣の部屋に現れたりして、ももをハラハラさせるが、時々、天命の発信元に、手紙を送り、何やら連絡を取り合っているようでもあった。単に、もも以外の誰かに見つかってはいけないというだけでなく、見守りの義務がある、ももや母親を見失っても、天界に強制送還されることになっているのだと、妖怪たちはももに告白する。そして見失っていない証拠に、一日一回は、手紙を送らなければならないのだと、嘆いた。妖怪の仕事は、単に気楽に、漫談のようなことをやっていればいいというだけではないことを、ももは知って、より強く、妖怪との心を通い合わせるようになっていく。そうした忙しさの中で、父親の遺品の、ももに当てた書きかけの手紙も、間違って天界へ送られてしまう。ももにとっては、悲しいことだったが、天界にいる父親とも、心を通わせるきっかけになるかも知れず、妖怪を責めはしなかった。
 そんなことよりも、その頃のももは、母のいく子が、父の死を忘れたかのように、島の小学校で同級生だった幸市と、慣れない島の生活をいろいろ教えてもらって、仲よくなって行くのを、とても気にしていた。

旧友との交際で母娘喧嘩、病の引金に

 汐島を台風が襲うかもしれないという予報が出始めたころ、ももは、父を忘れて、幸市とつき合う母と、些細なことで喧嘩をし、降り出した雨の中を、外へ飛び出した。心配した母いく子は、雨の中をずぶぬれになりながら、ももを探したが、見つからず、持病の喘息を悪化させてしまう。
 鎮守の森の祠で、妖怪たちともに雨宿りをしたももは、喧嘩をしたももが妖怪たちから責められ、母に謝るべきだといわれる。母と和解する決心をして、戻ってきたももが見たものは、高熱を出して寝込んでいる母親だった。ももの必死の看病にも拘らず、母の病状は好転せず、島の医療にも限界あると判断されて、対岸の四国の大きな病院に、入院させる必要のある事態となって行った。
 しかし台風が汐島を襲うという予報は的中し、風雨は時間を追うごとに激しくなってきて、瀬戸大橋も通行止めになったらしいという情報が、伝わってくる。

妖怪も協力、病の母を、台風の中運ぶ

 幸市が自分の車に母を乗せて運転し、台風を突っ切ることになるが、とても一人では自信がないと幸市は言い始め、ももも手伝えるような年齢ではなく、どうしたものかと困惑しているときに現れたのが、妖怪たちであった。もも以外の人たちに顔を知られ、天界に強制送還されるのは承知の上で、手助けを申し出たのだと、リーダー格のイワは言う。そもそも、母とももとの喧嘩を止められず、母の喘息を悪化させたのも、見回り役の妖怪としては失格で、どうせ天界へ戻される身だから、もう顔がみんなに知られても、構いはしないのだと、重ねてイワは説明した。こうして、幸市が運転し、妖怪たちが、それぞれの力で、台風を追い払うために乗った車は、病身の母とももも乗せて、全速力で、暴風雨の中を、通行を禁じられている瀬戸大橋を突っ切って、四国の病院を目指して行った。

スタジオ・ジブリ外の存在感あるアニメ

 父の死をきっかけに、崩れ始めた母娘の絆、郷里の島での生活も、旧知の人ばかりとはいえ、なかなか打ち解け合うまでにはならなかった、人々の絆が、この台風を突っ切って、母を病から救うという、団結の行為を通じて、一気に再生され強まっていく。そんなクライマックスとして、このアクション・アニメの場面は、良くできており、妖怪と、もものファンタジックな関係も、妖怪の方から現世に近づいていくシチュエーションで、よりリアルな意味を持っていく。
 『ももへの手紙』は、どんなシーンでも、自由に描けるアニメの特性を生かした、人間の絆の回復の物語として、大人も子供も楽しめるできばえになっており、スタジオジブリ作品以外から生まれた、、久しぶりの存在感のある、長編アニメーション作品として、評価されるべきアニメーションである。細田守、原恵一に続いて、沖浦啓之監督の名も、日本のアニメ界を背負う一人として、記憶しておきたい。
(上映時間2時間)
写真提供:(C)2012『ももへの手紙:』製作委員会
全国主要都市の系列にこだわりないシネコン、各地のシネコンで一斉上映中
◆配給社 角川映画 03−5213−0681

《公式サイト》http://momo-letter.jp/

 

 

 

 
   

探偵映画的緊迫感で、二家族の迷走描く

イラン社会の矛盾に切込む新しい映画

ベルリン、米アカデミー受賞作『別離』

(2012.5.8)

木寺清美

 
 


中・上流描く、新しいイラン映画の登場

 本作は、去年のベルリン映画祭で、グランプリ(金熊賞)を獲得し、今年2月の米アカデミー賞で、外国語映画賞を獲得した、新しいイラン映画である。新しいというのは、これまでのイラン映画の名作とされた作品は、アッバス・キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』(87)にしても、マジッド・マジディ監督の『運動靴と赤い金魚』(95)にしても、バフマン・ゴバディ監督の『亀も空を飛ぶ』(04)にしても、いたいけな子供、それも貧しい家庭の子供に焦点を当て、子供自身に何の罪もない労苦が降りかかっている事実を描き、政教一致で、あからさまに、政治社会批判が出来ない、イランの体制を、子供の世界から、間接的に批判したとされるものが多く、『亀も空を飛ぶ』にいたっては、不発弾を拾う子供たちを描いて、イラク戦争にイランのクルド人をも巻き込んだ、隣国イラクの政体を、はっきりと告発する内容だった。この映画のように、イランの中流家庭の悩みに材をとり、はっきりとイラン社会を批判する姿勢を見せた映画は、これまでなかったから、新しいということになるのである。

イランは貧しい子供世界だけではない

 一昨年日本でも公開された、この映画の監督アスガー・ファルハディの前作『彼女が消えた浜辺』(09)という映画でも、ファルハディ監督は、有閑マダムとその夫たちや友達の、海浜でのバカンスを描き、一人の女性が行方不明になった理由が分からないという、不条理をテーマにしながらも、こんなに生活に余裕のあるイラン人もいるのだという、一種の反撥すらも生むような、新しいイラン社会を提示して見せ、イラン映画も、少しずつ変質しつつあることを感じさせた。あまりにも、上流社会のバカンスを描いた映画だったので、私はこの欄で『彼女が消えた浜辺』を取上げなかったが、今回はごく普通の中流家庭の話であり、人間性の喪失についての緊迫したドラマが、全編に亘って続くので、どこの国の観客にとっても、切実さが迫ってくる。アカデミー外国語映画賞受賞の理由も納得できる、重量感のある映画になっている。つまり、イラン社会は、これまでのイラン映画が取上げた、貧しい子供世界ばかりではない。真の大人社会の矛盾は、どういう形で存在するのか、そのことに初めて切り込んだ映画が、本作なのだ。

娘教育のため移住か、父の介護で残留か

 映画は、要約的に言えば、どんな映画か。裁判沙汰にまでなっている夫婦の対立に、被害、加害、殺人などといった他の家族の視点が重なり、単なる家族間対立ではない人間性の喪失、人間が人間の問題を解決できない不条理にまで、事態が深刻化していく模様を、実に緻密な構成と緊迫感で、ファルハディ監督に言わせれば、「探偵のいない探偵映画のようなもの」で描いた作品というべきものである。
 映画は裁判のシーンで始まる。法廷に立つ男と女は夫婦であり、そこは離婚調停の場であった。妻シミンは、11歳になる一人娘テルメーの将来を考えて、イスラムの教義が全てに優先するイラン社会を嫌い、国外に移住したいと考えていた。夫ナデルはこれに反対だった。なぜならテヘラン市内の中流のアパートで、同居している自分の父が、アルツハイマー症で、その介護を、しなければならないからだった。自分と娘の教育を、何よりも優先する妻、父の介護を何よりも優先したい夫、その対立は、離婚調停に持ち込まれていたのだ。たった4人の、夫婦ともに安定した職業についているごく中流の、このイラン人の家族は、すでに崩壊寸前で、14年続いた夫婦の結婚生活に終止符が打たれようとしていた。また夫ナデルは、父の介護のほかに、シミンとの離婚は認めても、娘の親権を主張して、海外移住を認めず、離婚調停は不調に終ってしまう。妻ミシンだけが、実家に戻るという、別居生活だけがスタートした。

低所得者層の介護人が、教義持ち込む

 やがて夫ナデルは、家の掃除や、父の介護のために、ラジェーという女性を介護人として雇う。この女性は、テヘラン市の、低所得者層が住む南部地区から、2時間もかけて、上流や中流家庭の多い北部まで、市バスで通ってきた。しかも、子守がいないとかで、幼女をつれての出勤だった。仕事を始めさせてみると、ラジェーには、さまざまな問題があった。掃除や家事には役だったが、最も手伝ってほしい、アルツハイマーの父親の介護には、役に立たなかったのだ。なぜならラジェーは、敬虔なイスラム教徒で、男性の肌に触れると罪になるという教義を、かたくなに守る人だったからだ。父親が失禁をした際も、排泄物、血液、死体、豚肉に触れることを禁じている教義に違反しないかと、電話で教会に問い合わせるほどだった。そんなことでは介護人の資格がないと、ナデルを怒らせたが、教会からどういわれたのか、その後はしぶしぶ介護の仕事もやり始めた。だが父親も、ラジェーの介護を嫌がり、しばしば戸外を徘徊し、その都度ナデルが探しに行かねばならないという忙しさが、かえって増えるようになった。

介護人に暴力、流産し殺人罪で告発さる

 ナデルが娘のテルメーと外出したある日、帰ってくると、ラジェーはおらず、父親はベッドに手を縛り付けられて、気を失っていた。やがて、帰ってきたラジェーに、ナデルは、激しく罵声を浴びせ、理由も聞かずに、「もう来なくていい」と手荒に追い出してしまう。その晩ナデルは、ラジェーが病院に入院したと知らされ、病院に様子を見に行くと、ラジェーが流産をしたと聞かされる。手荒に追い出された際に、入り口で転倒したのが原因だと、ラジェーは主張しているらしい。それにしてもナデルは、ラジェーが妊婦だったとは、知らされていなかったのだ。
 流産した胎児は、19週(133日)経っていて、母体の中で120日以上経過した胎児は、「人間である」とするイスラムの教義があるため、追い出された際の転倒が原因だとすると、胎児は既に人間で、殺人罪が成立することになり、ナデルはラジェーから告発され、官憲に身柄を拘束されてしまう。

乱暴な介護を逆提訴、介護人家族にも問題

 こんな告発は、まるで濡れ衣のようだと思うナデルは、妊婦だとは知らされていなかったと主張する一方、逆に父の介護が、ベッドに縛り付けるなど、乱暴であったことを取上げて、逆提訴する。しかし、ラジェーはしたたかに主張し、クビになるのを恐れて、はっきりとは、妊婦だとは言わなかったが、それと分かる日常の会話があり、いつもいつ気付かれるかとオドオドしていた。もし気付かないなら、ナデルは優しさのない男だと述べ、裁判合戦はもつれる様相になった。
 しかし、ラジェーの家族にも、さまざまな問題があることが、明らかになってくる。ラジェーは、スラム街が多い、テヘラン南部の出身で、自らも貧しかったが、靴屋に勤めていた夫ホッジャドは、クビになって失業中で、その代わりにラジェーが働かねばならなくなっていたのだ。だが、その行動は、夫には内緒にしていたらしい。

介護人家族の夫の体面、父の親権疑う娘

 イランの教義では、男は、妻子を養う義務があり、妻となった女は夫に仕え、原則社会に出て働いてはいけないことになっていた。こうした教義に忠実な習慣は、貧しい低下層の人々ほど、根強く持っているといわれ、ラジェーが介護人をしていることをよく知らなかった夫ホッシャドにとっては、男の沽券に関わる問題だった。このため、胎児を殺したのはナデルでも、働きに出たラジェーにも、流産の責任の一端があると妻を責める。
 おまけに、裁判を通じて、ナデルにも新たな問題が発生する。11歳の娘テルメーが、「ラジェーの妊娠を知らなかった」という父ナデルの裁判での証言を疑い始め、「お父さん、嘘をついていない?」問うのだった。ナデルが親権を主張して、妻シミンの、娘と一緒に移民したいという主張が通らず、テルメーも、そのことに納得していたはずだったが、テルメーの本当の心の懊悩が、頭をもたげて来たのだった。ナデル・シミンの夫婦と娘の間にも、どろどろとした不条理が、横たわっていることが明らかになり、二つの家庭は、裁判と家庭争議の、解決できない憎悪や対立の渦に、巻き込まれていく。  

イラン革命で、低所得者層の教義厳格化

 ここでこのドラマが、イランという国柄の中で、どういう問題に収斂していくのかを、わかり易くするために、歴史と国情について、少し整理をしておこうと思う。
 1979年のホメイニ師によるイスラム革命が起きるまでのイランは、まさに石油に頼るアラブの王様の国だったが、王族の貧しい国民を虐げる政治の一方で、イスラムの教義への遵守は、それほどきつくなく、上流中流の人たちは、西欧化した生活を受け入れていたといわれる。しかし、ホメイニ師のイスラム共和国が誕生し、イスラム共和党が実験を握ると、実権が民衆に移ったことは間違いないが、政教一致で、政治の中心に、イスラム・シーア派の原理主義が、ドンと居座ることになった。たちどころに翌80年から起こったのは、隣国イラクとのイラン・イラク戦争で、シーア派の原理主義を警戒する、イラク・スンニ派の攻撃であった。イスラム教同士の派閥抗争は、妥協のない熾烈なもので、波状的に8年も続いた。その間に、シーア派は、原理主義の鎧を、ますます部厚く着込んで、自己防衛をした。イランは、女性の外出時の、顔を隠す「被り物」をともなう黒衣(イランではチャドルという)の着用の厳格化、あらゆる公共施設など、家庭外の場所での男女別席、結婚前の男女の交際の禁止などが、強く推進され、違反する行為は、全て公共の秩序を乱す者と認定された。(サッカーの試合を女性は見ることができないので、男装してサッカー場に入り、警察に捕まるという映画があった。)男が働き女は家庭にというのも常識となり、イスラム共和党の直接的な支持層とされる、低所得者こそが、これらの習慣を、厳格に守らされたのである。
 1997年に、改革派のハタミ大統領が当選してからは、これらの習慣は、少し緩和され、女性のチャドルを脱ぐ人や、社会進出も多くなったと報じられているが、大筋では今も変わらないという。

事実上のカースト無視して、制度進行

 一方、パーレビ国王の時代に、既に生活習慣が、西欧化していた中・上流の人たちは、厳格なイスラム革命を嫌って、国外脱出、西欧に移住する人が多くなっていた。早稲田大学イスラム研究機構の貫井万里助手は、「1982年から94年の間に、アメリカに移住したイラン人は、6万4千人に及び、ロスのウェストウッドには、イランゼルスと呼ばれるイラン人コミュニティがある」と、本映画のプレス用資料の中で、書いておられる。
 つまりは、この映画に描かれている、さまざまなシチュエーションは、中流と、低所得者層との間に、インドほどではないが、事実上存在するカーストを、比喩化して設定されたものと言える。そして、それぞれが直面している不合理と悩みが、夫と妻の考え方の違い・対立として、顕在化して行っているイランの現状に、符合するドラマとなっているのである。
 イランの中・上流の人たちは、国の介護制度に乗って、老いた両親を施設に入れるのは、恥であるという意識が強いそうだが、女が男の肌を触れない教義や、男女別席や、女性の社会進出を歓迎しない風潮などを、そのままにして、先進国並みの介護制度が、形だけは作られており、さらに、介護人に低所得者層の女性が進出するのを黙認するといった、矛盾した行政が実施されている。そこから、この映画に起きるような、不条理な対立が、現実にも、起きてきているのである。

婚資問題も離婚に障害、不条理な結末

 もう一つ,イラン社会に巣食う、離婚や別離を容易にはさせない、厄介な問題があった。それは、結婚に当たって、婚資と呼ばれる、結納金よりはもう少し多額な、持参金のようなものを、男の方が用意しなければならない習慣があったことだ。だからこそ、社会で働くのは男であり、女は家庭に入るべきとされてもいたのである。しかし結婚に当たって、多額の金銭を用意できる男は数が少なく、金額だけを決めて結婚に至るケースが多いという。それも男の沽券に関わる問題だから、今払うのでないなら、多額の取り決めもOKだと、見栄を張るケースも多いという。そのことが、離婚に際しては大きな問題となり、未払いの婚資をどのように支払うかを、裁判で決めてもらうことが、必要になったりする。決め方によっては、二度と人生で立ち上がれないほどの負担を、背負わされる男性もあり、そもそも離婚を男が嫌がり、離婚を男の方からは言い出さない風潮も、助長されているという。このため裁判は長引くのが必至で、また逆に、長い裁判を嫌い、婚資を要求する権利を放棄する女性も、出始めているという。
 この映画で、結局裁判所は、殺人罪で拘束されたナデルの保釈金を、実家の裕福な妻ミシンが、肩代わりして払うように奨め、婚資もミシンにあきらめさせて、その金を、ホッジャドとラジェーへの和解金にするよう、ナデルに奨めるが、これは、こうした婚資事情を、裁判所が配慮した結果だと思われる。しかし、それでもこの映画は、最終結論が出ない、不条理のまま終わる。

アスガー:ハルファディ監督、新才能か

 監督のアスガー・ハルファディは、今年40歳になる人で、本作は5本目の長編映画、殆んどの作品で、製作と脚本を兼ねている。その意味では、自己の世界を、作品上に色濃く刻印したいという気持ちの強い監督だということは出来る。しかし日本では、本作と、上流階級のバカンスを描いた前作『彼女が消えた浜辺』以外は、公開されていないため、これまでにない新しいイラン映画であるという以外に、作風などについて論じるのは、困難である。ただ従来のイラン映画が、しばしばイラン国内で、上映禁止になることがあったのに比べると、何故かハルファティ作品は、公開禁止の憂き目に遭ったという報道はない。しかも、ベルリン映画祭も、米アカデミー賞も、正式のイラン代表作品として、ノミネートされた。
 監督自身「この映画は探偵のいない探偵映画だ」と言ったあと、「いくつもの、問いかけが散りばめられていますが、明確な考え方や答えを描いていません。見る人それぞれが、登場人物の気持ちになって、直面した問題を、考えてみてください」と言っているように、投げ出されたまま終る、この映画の際限のない不条理の世界が、かえって幸いし、イランの現在の制度や社会の矛盾に対する、手厳しい批判の映画であるにもかかわらず、「答えがないから」と言う理由で、当局は、公開禁止にしなかったものと思われる。そういう意味では、ハルファティ監督は、そういう地点に自作を置く、老獪な知恵者として、イラン映画に新しく咲いた才能といえるかもしれない。
 それにしても、イランの特殊な社会が投影された、苦渋のドラマと見せて、どのような国の制度も共通する、一般的な国民の苦渋のドラマに敷衍させていく手腕は、相当なもので、誰しもが、緊迫感のある映像に釘付けになりながら、別離に絡む二つの家族の苦渋に共感する、映画体験が出来る映画である。
(上映時間2時間3分)

東 京 渋谷 文化村ル・シネマ 上映中
川 崎 川崎チネチッタ 上映中
札 幌 大通 シアター・キノ 上映中
金 沢 シネモンド 上映中
大 阪 梅田ガーデンシネマ 上映中
京 都 烏丸 京都シネマ 上映中
神 戸 元町映画館 上映中
高 松 シネマ・ソレイユ 上映中
福 岡 天神 KBCシネマ 上映中
佐 賀 シアター・シエマ 上映中
長 崎 長崎セントラル劇場 上映中
宮 崎 宮崎キネマ館 上映中
名古屋 栄 名演小劇場 5月12日〜上映
長 野 シネマポイント 5月12日〜上映
大 分 大分シネマ5 5月12日〜上映
函 館 シネマアイリス 5月19日〜上映
熊 本 Denkikan 5月19日〜上映
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橿 原(奈良県) MOVIX橿原 6月9日〜上映
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福 山 シネフク・シネマモード 6月9日〜上映
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仙 台 フォーラム仙台 6月16日〜上映
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富 山 フォルツァ総曲輪 6月19日〜上映
福 島 フォーラム福島 6月23日〜上映
那須塩原(栃木県) フォーラム那須塩原 6月23日〜上映
伊 勢 進富座 6月23日〜上映
福 井 テアトルサンタ 6月23日〜上映
高 崎 シネマテークたかさき 6月30日〜上映
7月以降上映劇場
  苫小牧シネマトーラス、フォーラム盛岡、フォーラム山形、浜松シネマイーラ、   新潟シネウィンド、
◆配給社 マジックアワー 03−5784−3120
      

《公式サイト》http://www.betsuri.com/

 

 

 
   

サイレント映画に閉塞感破る自由求め

無声からトーキーへのハリウッド描く

アカデミー賞の仏映画『アーティスト』

(2012.04.27)

木寺清美

 
 


無声時代描く『ヒューゴ~』と対象の妙

 この映画は、2月の米アカデミー賞で、作品賞など9部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演男優賞など5部門を受賞した、押しも押されもしない、2011年の、話題作である。しかし本作を、2011年のベストワン、アメリカ映画だといえないのは、主なスタッフやキャストはフランス人であり、フランス資本で作られたフランス映画だからである。 1927年から29年にかけての、映画がサイレントからトーキーに変わるころの、米ハリウッドを描いたものであり、必然的に英語でドラマが進行する映画となり、対象期間にアメリカで公開されて、セリフが英語の映画は全て対象とするアカデミー賞の決まりに基づいて、選考対象となって受賞に至った幸運なフランス映画なのである。事実、フランス映画の、外国語映画賞部門ではないアカデミー賞本賞の受賞は、アカデミー賞85年の歴史の中でも、初めてとのことである。
 しかもこの映画の受賞は、「初めて」にとどまらない、話題を提供してくれる。つまり受賞争いのライバルだった映画、11部門で候補となりながら、撮影、美術などの技術賞ばかりの5部門の受賞にとどまったアメリカ映画『ヒューゴの不思議な発明』が、これまた、映画がサイレントだった、映画の草創期のを描いたものだったことである。しかも、このアメリカ作品が、米ハリウッドに対抗する当時のパリ映画界に素材を求めており、偶然とはいえ、見事な対象の妙を見せたのである。

夢や感動を求め、生理的刺激を排す

 『ヒューゴの不思議な発明』については、既にこの欄で紹介済みであるが、一口に言えば、3D技術など、最先端の映画技術を使って、フランスの映画草創期の映画技術の、発明実践者であったジョルジュ・メリエスを、現代によみがえらせることで、映画のあるべき姿を考える−といった映画であった。この『アーティスト』は逆に、モノクロ・サイレント映画を、もろに再現し、サイレント時代の「情感」を、たっぷり懐かしみながら、映画の真の姿を探ろうとするもので、同じ過去の時代にアプローチしながら、全てにわたって、対象的な映画になっている。しかし究極的に、両方の映画が到達するのは、夢や感動を与えるのが映画であり、刺激や生理的緊張を与えるだけなのは、真の映画ではないという同じ地点であり、そこへ行くまでの、別々の二筋道を、両映画は、示してくれているのである。

没落する無声スター、トーキー女優上昇

 『アーティスト』のストーリーは単純である。映画がサイレントから、トーキーに変わる変革期のハリウッド(映画の時点は1927〜29を想定)、サイレント映画の大スターだった、ジョージ・ヴァレンティンが、映画出演のきっかけを作ってやった小娘女優に、トーキーには出ないと、お大尽振りを発揮したため、没落して追い越され、大女優になっていくのを、あれよあれよと見るばかり。元小娘女優は、金銭的なことも含めて、没落スターを物心両面でささえ、タップダンサーとして復活させる−といった、涙と愛の物語だ。これを、仏監督ミシェル・アザナヴィシウスが、音楽だけがフィルムに刻まれている、モノクロの、字幕のセリフで進行する、俗に言うサウンド版サイレント映画(ラストだけトーキー)として撮った。
 そして、このサイレントスター役を演じた、仏俳優ジャン・デュジャルダンが、アカデミー主演男優賞をとったのである。デュジャルダンは、今年40歳の俳優で、同じく監督賞をとったアザナヴィシウス監督とは、これまでの仏国内でのヒット作である、スパイ・コメディ「OSS117」シリーズに出演以来、タッグを組んでおり、今回もそのタッグの延長線上で金的を射止めたわけで、国際的に躍り出たのは、これが初めてという俳優だ。  また監督のアザナヴィシウスも、「サイレント映画にある自由が、とても魅力で、この素材を暖めてきた。」と言っており、現代の映画の、製作条件の窮屈さ、閉塞感のみなぎる社会情勢、そう言ったものへの、アンチテーゼとして、この映画を提示し、現代の映画に失われているものを、取り戻そうとしたらしいことは、ありありと分かる出来ばえである。


無声映画新作発表で逢うスターと小娘

  映画は、1927年、このサイレントスターの、新作サイレント映画『ロシアの陰謀』の、発表会のシーンで始まる。映画中映画のような形で、新作サイレントが上映され、満席の客が、スクリーン上の一挙手一投足に反応して興奮する様が、こまめにとらえられる。そして、舞台下の最前列には、10人ばかりの楽士が陣取り、伴奏音楽を奏でている。日本なら、これにまだ弁士がついたのだが、ハリウッドの上映会では、それはない。しかし、当時のサイレント映画の上映会というものが、どんな風に行われたか、手に取るように描かれる。
 舞台挨拶に立ち、やんやの喝采を受け、ファンに囲まれ、大混乱の中で、劇場前の階段を下りてくるサイレントスター。そこでスターは、駆け上がってきたファンの少女とぶつかる。スターと小娘の最初の邂逅だ。突き飛ばされても怒らず、微笑んだスターに、小娘は感激し、思わず接吻をしてしまう。それが「この娘は誰だ?」との見出しつきの大写真となり、翌朝の新聞に掲載されて注目され、小娘は、この映画会社のオーディションを受けるチャンスを得る。得意なタップダンスを披露してみせる小娘を見かけたスターは、楽屋に彼女を呼びこんで、「スターになるには特徴がいる」と言って、彼女の頬に、メイクの墨で、小さなホクロをつけてやる。それから小娘は女優としての階段を、上り始めるのだった。

トーキーを断るスターと、出演の小娘

 2年の時が経過して、1929年。スターの属する映画会社は、サイレント映画の製作中止を発表した。じりじりと人気を延ばし始めていたトーキー映画に、全面的に切り替える決心をしたのだった。目の表情や体の動きで、見る人が自由に心理を解釈できるサイレントと違い、セリフによって、心理解釈が特定されてしまうトーキーには反対だとするスターは、とても声を出すような演技は出来ないと、会社方針に反対した。結局スターは、契約を打ち切られることになり、怒って会社を後にする。その階段を下りる場面に、トーキーへの出演を頼まれて、階段を上がってきた、女優ペピーとなった小娘を重ねているが、これは没落していく者と、上昇していく者とを、階段を使って表現したすぐれた場面で、冒頭の階段での接吻の場面とも、呼応している。

没落スターの悪夢、アヴァンギャルドで

 この後、スターが悪夢を見るシーンも設定されている。スターは、会社で、トーキーのテスト版を見せられた嫌な体験を思い出すと、周りの食器や調度品が、音を立てて崩れだし、電話のベルや犬の鳴き声が、アトランダムに入り乱れる。サイレント映画なのだが、こうした自然音だけは、挿入されて強調される。何故かと思ってみていると、やがてスターがベッドの上で目覚めるシーンが入って、トーキー嫌いのスターが、悪夢を見ていたのだとわかる。サイレント映画としては、なかなかハイカラな描写なのだが、サイレンと時代のフランス映画には、アヴァンギャルド映画の伝統もあって、ハリウッドのサイレント時代を描いた映画であっても、フランス人のアザナヴィシウス監督には、アヴァンギャルドも描いておきたいという思いが、あったのではないか。

自作は大コケ、自殺図り犬と元小娘が救出

 数ヵ月後、「まだサイレントは生きている」と、スターは、監督も兼任する自作自演で、一本のサイレント映画を作ったが、進んで上映する映画館もなく、大コケにこけて、自己破産に近い状態になる。新進スターになっていた小娘ペピーは、心配してスターを訪ねるが、スターは、心を閉ざして追い返す。妻とも離縁、運転手の給料も払えず、ついに思い出の品々を、全てオークションで売り払うことになる。意外に品々は売れたのだが、ペピーが裏から手を回して、買い取っていたのだった。このあたりの展開は、よい意味で、ウエルメイドに作られた、メロドラマ調なのだが、古きよき時代の、サイレント映画が得意とした「情感」をてんこ盛りにしていく。
 やがて、酒に溺れる毎日になったスターは、唯一の財産のフィルムに火を放ち、自殺を図るが、愛犬の気転で、ペピーが駆けつけ、燃える部屋からスターは救出された。トーキー映画の女優への道の、きっかけを作ってくれたスターへの感謝の気持ちは、誰よりも強いと言うわけで、その後、命を救ったスターの再生の道をさぐったペピーは、タップダンサーとして、トーキーのスクリーンに、スターを甦えらせることを考えるのだった。

無声映画を支えた実在の人物にも擬して

 ストーリーをざっと紹介すると、まあこんな具合になるのだが、没落していくサイレントスターと、トーキーの波に乗る女優との、恩義をめぐる情愛ものといったメロドラマなのだ。それを目と体の動きで、心理表現する、懐かしいサイレント映画の手法で再生して見せたのである。そこには、数多くのサイレント映画の名作からの転用もある。  そもそも主人公のジョージ・ヴァレンティンという名前は、ルドルフ・ヴァレンティノから取ったものだろうが、トーキーを待たずに病死したヴァレンティノとは、そぐわない部分も多く、むしろ、トーキーで、監督業にも進出して、あまり成功しなかったダグラス・フェアバンクスの方を、擬している部分は多い。
 また、トーキー初期に活躍した大女優は多いが、ガルボにしても、ディートリッヒにしても、母国とハリウッドで、サイレント、トーキーをまたにかけて活躍しており、トーキーで小娘から成りあがった、この映画のヒロインとは少し違う。女優ペピーを演じたベレニス・ベジョは、アナザヴィシウス監督の夫人であることが、むしろ話題である。

無声映画の名作にも擬して、品位高める

 ところで、「情感」を重視したサイレント映画といえば、最高作はチャップリンの『街の灯』であるが、盲目の貧しい花売り娘を助けようと、献身するのは、チャップリンの方で、女優ペピーが献身するこの映画とは、男女が逆になっている。しかし、愛情を表現する一人芝居のシーンなどでは、ずいぶんチャップリンを真似ているようにも思えた。  またそれほど出番は多くないのだが、サイレントスターの私生活には、常に飼い犬がまとわりついているという設定で、火事のシーンでは、犬が重要な役割を演じるが、これもチャップリンの『犬の生活』への思いを、見通しているように思えた。というのは、豪邸に住む飼い主と犬の関係が、飼い主の没落で、チャップリンの浮浪者二人と、野良犬の関係へと、すんでのところで落ちていくのを、辛うじてとどまるという設定においてである。哀愁をはらむ犬の演技は、『犬の生活』によく似ていて、犬に教えられるシチュエーションは、同じだからだ。
 また、ラストのタップダンサーとしての再生は、フレッド・アステアやジーン・ケリーを擬したもののようだが、アステアは、サイレント時代は舞台の人で映画に関係なく、ケリーも初めからトーキーの人である。
 このように、実際の映画史の中にあるサイレント名作のエッセンスを、巧みにこの新しいサイレント映画に取り入れることで、アナザヴィシウス監督は、サイレントの自由さで、単に現代の閉塞感や、現代の映画製作条件の窮屈さを批判するだけでなく、出来上がった映画作品の品位を高めようとしたものと、私は受け取った。『ヒューゴの不思議な発明』は豪華に、『アーティスト』はつつましく、それをやってのけた映画として、評価しておくべきなのであろう。

(上映時間1時間41分)
写真提供:(C)La Petite・Studio 37・La Classe Americaine・JD Prod・France 3 Cinema・Jouror Productions・uFilm

全国主要都市の劇場、各地のシネコンで、一斉上襟中
◆配給社 ギャガ・GAGA(ギャガ・コミュニケーションズ)

《公式サイト》http://artist.gaga.ne.jp/

 

 

 
   

世界夢みた若者、傭兵志願でイラクへ

政治・軍隊の影で、民間人と傭兵犠牲

戦争ビジネス描く『ルート・アイリッシュ』

(2012.4.16)

木寺清美

 
 


バクダッドの空港と市街地結ぶ危険道路

 題名の『ルート・アイリッシュ』とは、バグダッド空港から、米軍を中心とする、いわゆる多国籍軍が駐留していた、グリーンゾーンと呼ばれる、バグダッド市の中心街にあたる地域までの、約12キロの道路のことで、経済活動上も、軍事活動上も、イラクでは最も重要なルートとされているものだが、同時にまた、テロリストに、最も襲われ易い、イラクで最も危険な道路ともされているルートのことである。なぜアイリッシュと呼ぶのかは、いろいろ調べたが、分からない。
 フセイン政権が、多国籍軍によって倒された当初は、アイルランド軍も参加していて、この地域がアイルランド軍の担当だったのではないかとか、イギリスでテロと言えば、真っ先に連想するのが、アイルランドの独立運動の関わってきた、IRAのテロのことなので、テロの頻発する地域に、この名がついたのだろうとか、私は勝手な想像をしている。勿論それらはいずれも根拠のないもので、とんでもない間違いである可能性も高いので、勝手な記述のご容赦を。

危険地域に同僚残し、帰国した同僚

 さて、この映画は、そのルート・アイリッシュで、イラク戦争を一緒に戦って、イギリスのリバプールに先に帰っていた同僚の携帯に、「今すぐ電話に出ろ」と言う言葉を残して、何らかの事件に巻き込まれ、命を落してしまったイギリス兵について、所用で電話に出れなかったことを悔いるその同僚が、その真相をさぐるというドラマになっている。イラク戦争を背景にした、サスペンス調のドラマであり、そのドラマを通じて、明らかにされることは、最も危険な場所で頻発する、テロと暴虐の実態を、白日の下にさらすということである

犠牲はイラク人、米軍犠牲のみの米映画

 仮想の民衆の苦しい生活や、抗う民衆の姿などを、常に映画にしてきた、イギリスの社会派の名匠、ケン・ローチ監督の最新作なのだが、その製作意図について、ローチ監督は、こんな風に言っている。「イラク戦争の最大の犠牲者は、イラク人である。にも拘らず、イラク戦争の非人間的な実態を描いたとして、アメリカで作られた、『ハート・ロッカー』(不発弾処理の米兵の苦闘)『告発のとき』(米兵としてイラクに派遣された息子の死の真相を究明する父を描く)『グリーン・ゾ−ン』(米兵の制圧管理区域にも、危険がいっぱい)といった映画は、すべて米兵も犠牲者だという立場の映画だ。米兵より何十倍も多いイラク人の犠牲に触れた映画は、断片的な記録映画だけ。私は、犠牲になったイラク人について、そしてその犠牲は、どのようにして発生しているのかについて描きたかった。ずっと私と一緒に仕事をしてきている、製作のレベッカ・オブライエンも、脚本の、ポール・ラヴァーティも、同じ思いで仕事に臨み、ポール・ラヴァーティは、実際にあったいくつかの事実から、この映画の主人公たちを、創造してくれた」と。だからこの映画はフィクションであるが、ルート・アイリッシュの危険と暴虐についての、ありえた事実の報告でもあると、ケン・ローチ監督は言っているのである。

米軍撤退だけ?傭兵ビジネスの撤退は?

 さらに、ケン・ローチ監督は、数多いイラク人の犠牲に対する思いだけでなく、去年(2011年)の12月14日に行われた、米軍のイラクからの完全撤退に合わせて発表された、オバマ米大統領の、イラク戦争の「完全終結宣言」についても、「真のイラク戦争の終結は、全ての戦争請負業者たちが、あの地から去って、はじめてなされると、我々は信じている」とも言っている。まさに、この映画に登場する、元同僚の死を調査するというドラマの中で描かれる、死んだイギリス人兵士と、一足先に帰国して、死から免れたイギリス人兵士は、ともに、イギリス国軍として、正規に派遣された兵士ではなく、コントラクター(民間の傭兵)であったという事実である。撤退したのは正規軍だけであり、イラクのさまざまな機関との間には、業者が暗躍し、用心棒としての民間の傭兵は、完全に払拭されてはいないのだという。この映画は、そうした問題を批判することをも、テーマの一つにしている。

傭兵としてイラクへ。国旗もない葬儀

 映画は、ルート・アイリッシュで命を落した、イギリス兵フランキーの葬儀が行われている、2007年のリバプールから始まる。普通名誉の戦死をしたイギリス兵の葬儀は、ユニオンジャックの英国旗に包まれて、軍の代表も参加し、厳かに行われるものだが、会場の教会は、普通に病死した市民の家族葬が行われているかのような、もの静かなものだった。葬儀に参加した、死んだフランキーの元同僚のだったファーガスは、慙愧に耐えないといった表情で、いらだっていた。葬儀の合間に、回想が何度もインサートされる形で、二人の過去が語られるが、二人は5歳で出会った幼馴染で、ハイティーンになるまで、二個一のような生活を続け、リバプールのマージー川を行き来するフェリーに乗って、いつか二人で、船旅の世界旅行をするのを、夢みていた。その夢の延長線上に、コントラクター=傭兵として、イラク戦争に志願する選択があったのだ。戦争をビジネスとする企業の、派手なパンフレットは、正規軍と違い、任務と引き換えに、大金を手にすることが出来ると書いてあり、学もチャンスもない二人にとって、それは人生を上昇機運に載せるまたとない機会であり、子供のころからの「世界へ」の夢をも、実現するものであった。最初に事情を知ったファーガスが、フランキーを誘い、イラク行きが決まったのだった。しかしイラクでは、軍の命令ではなく、会社がイラクの機関と契約した内容にもとづき、会社命令で、あちこちに派遣されるシステムに嫌気がさし、ファーガスは先に帰国していたのだ。

フランキーの最後聞く、遺品にも携帯

 イラク行きのそういう経緯から、ファーガスは、フランキーの死に、責任を感じていた。おまけに、「今すぐ電話に出てくれ」と言ってかけてきた国際電話に、携帯のそばにいなくて出られなかっただけに、よけいに慙愧も思いは募った。葬儀の前に、遺体安置所に忍び込んで、フランキーの遺体と対面したファーガスは、フランキーと確認できるものの、損傷の激しい黒焦げの遺体に、大いにショックを受けていた。「一体イラクで何があったのか」−ファーガスは、真相を解明せねばと、強く思うのだった。
 ファーガスは、イラクで知り合った、フランキーとの共通の友だちである、地中海に浮かぶ、マヨルカ島の近くのイビサ島(スペイン領)出身の女性マリソルが、葬儀に参列していて、ファーガス以上に悲しみに沈む、フランキーの妻のレイチェルとともに、そのマリソルが多少とも伝え聞いているフランキーの最後について、聞き取りをした。テロリストの犯行かと思えるような、車の爆発があったらしく、フランキーの死は、その爆発と関係があるらしいのだが、マリソルも、目撃者でないから、よく知らないという。ただ、フランキーの遺品として、現場処理をした者から受け取ったものがあると、マリソルにいわれ、フランキーの妻のレイチェルとともに、フランキーの携帯電話と手紙を、受け取る。

携帯の中身、米軍の民間人処刑の映像

 フランキーの遺した携帯電話には、ルート・アイリッシュで撮られたと見られる、さまざまな映像が残されていて、アラビア語の会話に満ちているため、ファーガスは、イラク出身のミュージシャンであるハリムを訪ね、翻訳と解析をしてもらった。
 そこには、幸せそうなイラク人家族の映像が撮られている後に、何者かが発した銃声とともに、二人の少年が銃殺される様子が、収められていた。ハリムの携帯全体からの解析によると、銃殺したのは、ネルソンという正規の米軍兵士で、少し前に米軍の小隊がテロ組織の襲撃を受ける事件があり、その犯人を探して報復する作戦を命じられた米軍の小隊に、下働きとしてフランキーが同行させられていたらしい。その小隊の兵士であるネルソンは、出会った少年たちをテロリストだと断定し、いきなり処刑しようとしたのだが、民間人に銃を向けるのは違法行為だと、フランキーが一旦阻止、にも拘らず、暫く間をおいてネルソンが処刑を強行してしまう−そんな顛末の記録のようだった。

フランキーに何が?戦争ビジネス暴露へ

 コントラクターは、契約先がイラクの機関であろうと米軍だろうと、契約に基づく命令を出す会社の言いなりになり、用心棒や、下働きのガードマンのような存在でしかないことに、嫌気をさして、ファーガスは先に帰ってきたのだが、フランキーは、もう少し金を稼ぎたいし、イラク人のためになっている部分もあるとして、残ったのだった。その結果、マリソルらからの伝聞によると、罪もない民間人を、取り調べもせず処刑する現場に立会い、フランキーは、大いなるショックを受けていたらしい。
 そのフランキーの上に何が起って、死に至ったのか。ルート・アイリッシュで起きた車の爆発に関係があるのか。「今すぐ電話に出ろ」とかかってきて、ファーガスが出れなかった電話とも、関係があるのか。ファーガスは、フランキーの妻レイチェルとも協力しながら、イラク軍にいる知人のトミーとも連絡しあって、真相の究明に乗り出す。そのミステリアスな展開は、それは民間の傭兵、コントラクターを派遣する軍事企業の秘密を暴く行為でもあった。

傭兵にすべてを擦りつける落とし穴

  ここから先の展開は、携帯電話を取り戻すため、レイチェルの家に賊が入り、たまたまいた、翻訳解析者のハリムが怪我をさせられるなど、スリリングな展開もあるが、少年銃殺事件は一応公になり、ネルソンも含めて、取り調べが行われることになる。その過程で、米軍内で常態化している拷問(拷問はジュネーブ協定違反で、オバマ大統領も、実態調査に乗り出したといわれるが、調査も拒否して、現場は独断専行しているといわれる。駐留地での米兵の犯罪は多いが、米軍の体質は、何処も同じなのだ)の様子、特に水責めの拷問の様子などが描かれ、最終的には、全部コントラクターの仕業と言う、罪のなすりつけ解決が、図られていく。イラクの復興支援の名の下に行動するコントラクターたちの、弱い立場を保護する意味で、一切裁かれることなく、刑事責任も問われないという議決が、イラク議会で、指令第17号としてなされたが、これが逆になった。「どうせ責任を取らなくていいのだから、都合の悪いことは、全て傭兵のせいにしておけ」と言うことになり、そうなれば、テロ組織の報復は、傭兵に向うことになり、また正規の米軍が、自作自演の罪隠しをすることも可能となる。まさにフランキーが落ちた落とし穴は、そういう落し穴だった。民間人銃撃の罪は、コントラクターを雇っている軍事会社の中で、解決しろということになって、フランキーが乗っていたタクシーが狙撃され、炎上したのだった。

ケン・ローの時宜を得た新たな問題作

 リバプ・ールのマージー川のフェリーに乗って、世界に羽ばたくことを夢みた二人の少年は、とんでもないところに、羽ばたいたのだった。「正規軍の撤退だけでなく、戦争請負業者がイラクの地から去らない限り、イラク戦争の真の終結はない」という、はじめに紹介したケン・ローチ監督の言葉は、このラストに来て、より重く感じることだろう。因みに戦争請負業は、ジャーナリストの西谷文和氏の調べでは、米軍兵士やジャ−ナリストなどのエスコートに、コントラクターを派遣すると、一日、日本円換算で7万円、ハイクラスの要人らをエスコートすると、一日50万円から100万円を請求するという。米のハリバートーン社という、戦争請負業のCEO最高経営責任者は、年に4200万ドルもの所得を申告したと伝えられる。欧米では、戦争請負業は何の規制もなく、発展を続けているという。
 なお、本筋とは直接関わらないのだが、イラク戦争から帰ってきた兵士、特にコントラクターには、悲惨な体験をした人に発症する、PTSD心的外傷後ストレス傷害になる人が多いということにも、少し触れていて、ファーガスが責任感から、それに近い症状を訴えるシーンを作っている。
 また、ケン・ローチ作品の常だが、ファーガス役など一部を除いて、素人やら、これがデビューの俳優やらを使い、また俳優以外のキャリアの人を、わざと使うなど、ベテランやスターを揃えないキャスティングをして、現実感を出している。
この映画は、まさに時宜を得た問題作で、ケン・ローチのまた新たな傑作の誕生である。
(上映時間1時間49分)
写真提供:(C)Sixteen Films Ltd, Why Not Productions S.A., Wild Bunch S.A., France 2 Cinema, Urania Pictures, Les Films du Fleuve. Tornasol Films S.A, Alta Produccion S.L., U.MMX

東 京 銀座テアトルシネマ 上映中
千 葉 千葉劇場 上映中
大 阪 シネ・リーブル梅田 上映中
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 上映中
京 都 烏丸 京都シネマ 上映中
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 5月5日〜上映
札 幌 大通 シアターキノ 5月19日〜上映
名古屋 栄 名演小劇場 5月19日〜上映
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 5月26日〜上映
福 岡 住吉 ユナイテッドシネマ・キャナルシティ13 5月26日〜上映
高 碕 シネマテークたかさき 6月2日〜上映
浜 松 シネマイーラ 6月16日〜上映
仙 台 フォーラム仙台 6月23日〜上映
那 覇 桜坂劇場 6月30日〜上映
7月以降上映予定劇場
  川越スカラ座、フォーラム盛岡、フォーラム福島、フォーラム山形、フォーラム八戸、秋田シアタープレイタウン、富山フォルツァ総曲輪、長野ロキシー、伊勢進富座、長崎セントラル劇場
◆配給社 ロングライド 03−3547−4017
        

《公式サイト》http://route-irish.jp/

 

 

 

 
   

1860年代の公民権運動を背景に

黒人差別に抗う米南部の女性たち

メイド役の黒人女優が名演『ヘルプ』

(2012.4.10)

木寺清美

 
 


アカデミー助演女優賞の収穫の一本

 『ヘルプ』とは、ここでは、白人の上流家庭に雇われている、黒人女性のメイドのことを指している。『ヘルプ』についで、チラシなどに書かれているサブタイトル「心をつなぐストーリー」は、日本でつけられたもので原題にはない。しかし、言いたいことも言えず、差別に対する不満が鬱積している黒人メイドたちの誰かが、ふと漏らした不満が突破口となって、メイド間に次々と告白が広がり、閉塞状況がぶち破られていく様を、サブタイトルにしたもので、映画内容を分かり易くする、良いサブタイトルである。
 しかもこの映画は、2月末の米アカデミー賞で、作品賞、主演女優賞、そして助演女優賞に、白人女優と黒人女優の二人がノミネートされ、黒人女優のオクタヴィア・スペンサーが受賞した、2011年のアメリカ映画の収穫の一本に数えられる作品でもあるのだ。

差別の残る南部、公民権運動で疼く

 アメリカの黒人奴隷が解放されたのは、南北戦争最中の1863年の、リンカーンの奴隷解放宣言によってであるが、南部における、綿花栽培やメイドとしての、黒人の強制労働は、延々として続き、20世紀に入っても、バスの座席が、白人席と黒人席に分けられるなど、黒人差別は、露骨に残っていた。それが1960年代の、差別撤廃を求める公民権運動の高まりの中で、奴隷解放宣言からは一世紀以上も経って、やっと白人との差別がなくなってきたのである。その中心となって運動を推進した、マーティン・ルーサー・キング牧師が、1968年に偏狭な黒人差別者に、狙撃されて暗殺されるなど、大きな犠牲も払われての、差別撤廃の獲得だった。
 この映画は、その1960年代の、まさに差別が強く残る、アメリカ南部、ミシシッピー州ジャクソンを舞台にした、黒人と白人の確執のドラマなのである。このジャクソンという町では、キング師に続くもう一人の公民権運動の指導者メドガー・エヴァーズが暗殺されKKK団による黒人殺害事件も起きたのである。

社会派を避け、庶民の日常もので進行

 と言っても、この映画は、鮮烈な社会派映画ではない。エヴァーズの暗殺や、KKK団の事件も、あっさりニュースで流すだけの扱いである。当時の公民権運動の高まりは、ドラマの背景に押し隠し、この町に住む人たちの生活や心情を、女性中心に、笑いをはらみながら活写していく。そういう軽いタッチのドラマ構造で、日本映画で言えば、少々上流の人たちにスポットがあてられてはいるものの、さしずめ“長屋もの”とでも呼べるような、味わいであることに、まずは注目しておきたい。
 ドラマを生み出した原作者のキャスリン・ストケット(白人女性)は、この町ジャクソンの出身であり、映画と同題名の小説「ヘルプ」を、自らの体験を基にした処女小説として発表した。また脚色、監督、製作したテイト・テーラー(白人男性)も、同じジャクソンの出身であり、執筆中からストケットを知っていて、「本が売れなければ私が映画にする」と励まし、「ヘルプ」がベストセラーになる前から、自らの2本目の長編映画の題材に選んでいたという。まさに、ジャクソンの人たちの日常を、日常感覚で描くには、もってこいの原作者であり、監督であるというわけだが、同時に、その日常から少し離れて、問題意識を持って日常を見る目も、二人にきっちり備わっていて、それが、このドラマを、優しく猥雑な中に、骨っぽさがあるドラマとして、成功させた、大きな要因であると考えられる。

作家志望の白人女性が、差別に気付く

 映画は、原作者自身の分身ではないかと思われる、大学を出て、ジャクソンに戻ってきた作家志望の白人女性スキーターが、地元の新聞社に就職して、家事に関するコラムを書けと命じられて、取材をするところから始まる。
 最初に思いついたのは、最も簡単な実家の取材だった。母シャーロットと、スキーターの実質的な母である、黒人のメイドのコンスタンティンから、話を聞けば簡単に記事が書けると思ったのである。南部の町の白人上流家庭では、1960年代でも、実母は殆んど子育てをせず、黒人のメイドに任せて、ダンスの会やお茶の会、トランプの賭け事のブリッジなど、地域の社交に精を出すのが、当たり前になっていた。スキーターにも、そういう実母と、育ての母ともいえる黒人のメイドがいたわけだが、作家志望で記者生活をスタートさせたスキーターですらが、そういう黒人差別をはらむ社会習慣の矛盾に、鈍感な白人女性として、登場する。そして、暫く家を空けていた間に、長く住み込んでいた育ての母の黒人メイドが、いなくなっていて、実母がその理由について、言葉を濁して語らないという現実にぶつかる。さすがに鈍感な女性記者スキーターも、南部の黒人メイドの上に、何かが起きていると感じる、ドラマのスタートになっている。

差別の実態本出版へ、メイドの証言集め

 スキーターは、この南部社会の矛盾いついて、単なる「家事」の取材にとどまらず、黒人メイドの現実を伝える本に著わそうと決心し、ニューヨークの出版社に電話をする。すると、編集者から、「メイドたちの生の声が取れるなら、出版できる」との返事が返ってくる。まさに原作者キャスリン・ストケットの行動そのものが、主人公の行動となって、物語は」展開することになる。
 こうしてスキーターは、実家で埒があかなかった取材を、友人のエリザベスの家で、長くメイドをして来て、もう50歳の坂を迎えようとしている黒人女性エイビリーンに、取材を行うことで、何とか成果を挙げようと考えた。彼女は、表面上は穏やかなベテランのメイドなのだが、すっかり心を閉ざしていて、なかなか取材には応じなかった。そしてそれは、単に心の問題であるだけでなく、南部で黒人が自由に物を言うことは、自分の身を、危険にさらすことも意味していた。その彼女が、取材を受ける決心をするのは、後で詳しく述べるが、同じメイド仲間の、理不尽な事件がきっかけとなるのだ。実際に口を開いてみると、言い淀んだだけのことはあると、差別に実態本納得させるだけの、深い訳が秘められている、すさまじい差別体験だった。

息子を犠牲に、18人の白人の子養育

 中でもスキーターを驚かせたのは、あちこちの白人家庭をたらいまわしにされて、18人もの白人の子供の養母になったという体験である。それでも彼女は、白人を恨むことなく、誇らしげに言う。18人の中で、いい加減に育てた子供は一人もいないと。この告白には、頭が下がる思いと、悲痛な思いが交錯して、スキーターは大いに悩んだ。おまけに、白人の子育ては、自分の子育てより優先する絶対命令であり、18人を育てるのに忙殺されている間に、わが子の悩みを、充分に聞くことが出来ず、親の役目を果たさないまま、24歳でなくしたという告白には、スキーターもすっかり同情するのだった。

各家庭に黒人用トイレとの非人間的奨め

 この中年の黒人メイド、エイビリーンをめぐっては、もう一つ、苦渋のエピソードが紹介される。スキーターとハイスクール時代の同級生に、ビリーという露骨な人種差別主義者の白人女性がいるのだが、このビリーは、「黒人は不潔で、白人の子を、病気から守るためには、トイレを別にしなければ」と主張し、黒人メイドのいる白人家庭に、黒人用トイレを作る運動を展開している。社交の席上で、ビリーに感化された、エイビリーンの雇い主のエリザベスも、本心ではそこまでしなくてもと思っていても、白人社会で白い目で見られるのを恐れて、エイビリーンに、自分だけのトイレを作るように命じる。黙々と命令に従って、トイレを作るエイビリーンの姿に、スキーターは、いよいよ社会の矛盾を、告発せねばと、思いはじめるのだった。

残念!主演女優賞逃がすエイビリーン役

 ところで、このエイビリーンを演じる、ヴィオラ・デイヴィスという黒人女優が素晴しい。理不尽な黒人差別に抗う気持ちを持ちながら、現実を運命と定め、白人の養母に徹しきる−そんな引き裂かれた人間像を、見事に演じている。スキーターの取材を受け、万感の思いが訥々と、次第に溢れるように出てくるあたりは、見る者を感動させる。後で述べる二人の女優の、アカデミー助演女優賞候補とともに、主演女優賞候補に挙げられたのだが、『マーガレット・サッチャー』を演じた、メリル・ストリープに受賞をさらわれた。あの映画は、サッチャリズムの本質に触れない、単なる家庭人としてのサッチャー伝で、そのためにJCJの本欄では取上げないが、いずれにしても、いくら名演と言っても、認知の始まった元女性宰相に、大した意味はない。『ダウト〜あるカトリック学校で~』(08)という映画でも、助演女優賞候補にもなったことのある、このベテラン黒人女優ヴィオラ・デイヴィスの、役柄、演技の重みにこそ、主演女優賞を与えるべきだったと強く思う。
 やがて、このエイビリーンのスキーターへの告白は、黒人メイド間に密かな話題を生み、エイビリーンの家に、大勢の黒人メイドが集まるようになり、スキーターに口々に、差別の実態を、教えてくれるようになる。

家族用のトイレを使って、解雇される

 映画はさらに、一組の黒人メイドと、雇い主の白人女性の問題にも、切り込んでいる。エイビリーンが、スキーターの取材を受ける決意のきっかけとなった、友人の黒人メイドに起きた事件−まさにそのことに切り込んでいくのである。
 その友人の黒人メイドは、ミニーと言って、黒人と白人のトイレを別にする運動を行っている、露骨な人種差別主義の白人女性ビリーがいる家庭の、メイドだった。ミニーは、エイビリーンに比べれば、不満を内に秘めて、黙々と命令に従って仕事をするタイプとは違い、料理の腕が町一番という評判があるように、外交的で、言いたいことは言うタイプだった。だから黒人用のトイレが別になるのも、我慢がならず、家族用のトイレを使ってしまう。それがビリーに見つかり、たちどころにメイドをクビになり、ビリーの家庭から追い出されてしまう。この事件が、エイビリーンをして、スキーターへの告白を決心させるのだが、ミニーの方は、「黒人の立場を考えない愚行で、失職して生活が苦しくなった責任を、どう取るのだ」と、黒人の夫からも責められ、いよいよ苦境に陥っていく。

復讐劇が展開、ラストへ諷刺が盛上る

 そんなミニーを雇用して、助けてくれたのが、シーリアという白人女性だった。シーリアは、夫がビリーの元カレだったので、ビリーに嫌われており、白人でも低所得者層の出身のため、社交界からは閉め出されていて、孤立しているという点では、黒人メイドのミニーとも似ていた。そうした境遇の類似性から、肌の色を超えて、二人は親密になっていく。ミニーは最初、スキーターの、エイビリーンや大勢の黒人メイドからの取材に、「白人の癖に、黒人問題に首を突っ込んで、黒人の味方のような顔をするな」と、大変な剣幕だったのだが、「本が出版されれば、誰の発言かがばれて、また新たな白人社交界グループからの、実態をばらした個人への、陰湿ないじめが始まる」という心配が出始めて、急に奇想天外な、白人への復讐を思い立つ。ミニーはそれを「保険」だといい、「この話を書けば、あの露骨な差別主義者ビリーが、書かれているのはよその町の話だといい、資料提供者を非難することは出来なくなると思うよ」といって、とんでもないビリーにまつわるスキャンダルを、スキーターらに提供した。ここから映画は終盤にかけ、トーンは軽いまま、社会派映画的なアプローチが、展開されていくことになる。それは、一種の白人への復讐劇で、猥雑なドタバタの中に、風刺効果が上がるのだが、そのことについては、見ての楽しみということにしておく。この復讐劇では、ミニーの新たな雇い主のシーリアも、上流社会が馬鹿にする60年代のファッションなどを身につけて、一役買うのである。アカデミー助演女優賞の候補になったのは、このミニー役の黒人女優オクタヴィア・スペンサーと、シーリア役の白人女優ジェシカ・チャスティンで、オクタヴィア・スペンサーが初受賞した。

養母にも悲しい真相、見事な構成の名作

 最後に映画は、冒頭に触れた、スキーターの事実上の養母である、黒人メイドのコンスタンティンが、実家を去っていて、事情を知るらしい実母が、言葉を濁して、語らないという事態について、改めて触れる。それは、明らかになって見ると、復讐劇の風刺とはまた別の、鮮烈な悲しみに包まれていた。具体的には、これも見てのお楽しみとするが、騒ぎのあとに、しんみりとするエピソードを配置する構成の妙に、すっかりうならされてしまう。白人の作家の卵が、取材にかこつけて、黒人差別の実態を暴いていくという話を、エピソードの狂言回し的な縦軸に据え、様々な差別の実態を、横に広げて語りつくし、白人への笑いを含んだ、猥雑な復讐劇で盛り上がり、最後に、悲しい事実が、他人ばかりに目を向けていた、作家自身に上に降りかかってくる。見事な構成の名作というしかない。
(上映時間2時間26分)
写真提供:(C)2011 DreamWorks U Distribution.Co.,LLC, All Rights Reserved

全国主要都市の東宝系劇場及び各地のシネコンで、一斉上映中
◆配給社 ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン

《公式サイト》http://disney-studio.jp/movies/help/

 

 

 
   

少年が育てた農耕馬が、第一次大戦に

苦難の馬の生涯通し、戦争と人間批判

スピルバーグの社会派新作『戦火の馬』

(2012.4.4)

木寺清美

 
 


動物愛護とヒューマニズムに満ちた映画

 この映画は、社会派映画と娯楽映画を交互に作る、スティーブン・スピルバーグ監督の新作である。昨年末に公開された『タンタンの冒険』が、『インディ・ジョーンズ』の児童版といった娯楽映画だったから、今度は、社会派映画の順番である。原作は、1970年代半ばからイギリスで活躍している、今年59歳になる児童文学作家マイケル・モーパーゴが、82年に発表して、ベストセラーとなった、映画と同題名の「ウォー・ホース」である。モーパーゴの児童小説は、イギリスの学校教材にも採用されている品位の高いもので、動物愛護精神とヒューマニズムをはずさない、スピルバーグの映画化によって、より品位を増した、感動作が誕生した。
 一言で言えば、この映画は、イギリス南西部の緑の丘陵地帯の農場で、少年によって育てられた、サラブレッドの血を引く農耕馬が、戦争と飢饉によって引き起こされた農家の窮状を救うため、軍用馬として売られ、第一次世界大戦に駆り立てられ、戦火の下をくぐる苦難の生涯を送るという、馬の物語である。

貧農の少年がサラブレッドを農耕馬に

 映画は、馬のセリ市で始まる。農耕馬を買いに来た貧しい小作農が、地主への意地から、なけなしの金をはたいて、サラブレッドを競り落としてしまう。連れて帰ってきた馬を見て、妻は烈火のごとく怒り、地代の徴収にやってきた地主からも、その馬を農耕馬に育てられなかったら、もう地代の支払いを待ったりはしない、たちどころに土地を取上げると宣告される。牧場で、この馬の誕生の瞬間を見ていて、眉間に菱形の白いマークのある、精悍で利発そうなこのサラブレッドを、好きになっていた、この農家の息子アルバート少年は、自分が責任を持って、農耕馬に育てると約束する。
 それからのこの農場は、馬をジョーイと名づけ、アルバート少年の頑張りで順調に経過する。農機具で、少年の手の皮膚が擦り切れ、馬も、馬具で、サラブレッドの毛並みが擦り切れて、すっかり農耕馬になって行った。少年の「ホーホー」という呼び声に、馬は高くいなないて、忠実に従った。こうして農地には、新しい開墾地もふえ、野菜の収穫も、うなぎのぼりに増え、農家の家計は、安定を取り戻したのだった。しかしその安定を、1914年に勃発した第一次世界大戦と、それと前後して起きた、イギリス南西部の風水害が、突き破ることになり、アルバート少年の農家は、再び一気に、困窮のどん底に突き落とされることになった。

戦争や約束は、飢饉、軍用馬に売られ辛い別れ

 少年の父親は、その困窮の打開策として、馬ジョーイを、軍用馬として、軍に売り渡す決心をした。ジョーイがいないことに気付いた少年は、慌てて馬の引渡しが行われている村の広場にやってきて、「売らないで」と父親に懇願する。だがそれは無理だった。農耕馬なのに、珍しく毛並みが良いジョーイに、陸軍のニコラズ大尉が気に入り、自分が乗る馬に選定して、譲渡契約を既に終えていたのである。少年は、傍らで行われていた兵隊の募集に、年齢をいつわって応募し、馬の行く戦場に、自分もついて行こうとするが、偽りの年齢がばれて、馬とは、結局別れねばならない運命となっていく。一緒に野山を駆け巡った、少年と馬との強い絆も、戦争と飢餓には勝てなかった。
 馬ジョーイは、兵士に手綱を引かれ、入隊を希望した若者の列とともに、戦場へと向う。涙ながらに見送る少年アルバートに気付いた馬は、振り返ろうとするが、「前を向け」という兵士の手綱さばきに押しとめられて、少年の視界から去って行く。断ち切られる少年と馬とのこの交情のシーンは、なかなかの名場面だ。

仏平原の戦闘で、騎乗者失い独軍に

 こうして馬ジョーイは、訓練を経て、ニコラス大尉が騎乗する、騎兵隊の馬となった。騎兵隊の中で、最も俊足といわれている、スチュワート少佐の黒馬トップゾーンに、ジョーイは競走で競り勝ち、ニコラス大尉を、得意げにする。
 程なく騎兵隊には、フランス戦線に赴くようにとの命令が下る。いよいよ前線に出発というその前夜、ニコラス大尉は、少年に送るジョーイのスケッチを始めた。「馬を大切に使い、戦争が終ったら、必ず返却する」という約束を、アルバートしたことを、ニコラス大尉は思い出し、前線に出る前の姿を、記録しておこうと思ったのである。
 そしてその記録は、少年の所に届くころには、既に約束が反古になっていた。翌日から始まった、フランス平原で激突したイギリス軍とドイツ軍の戦いの中で、砲弾の下をくぐったジョーイは、その瞬間。背中が軽くなるのを感じた。いつの間にか、無人の馬になって、ジョーイは、砲火の中を駆け回っていた。ジョーイは砲弾の命中を免れたが、背中のニコラス大尉には命中し、帰らぬ人となったのである。
 こうして、戦闘が収まってからも、ジョーイはフランス平原をさまよい、ドイツ軍に捕らえられ、馬の世話係りの若い兄弟兵士の、囚われの身となる。その厩には、既にスチュワート大佐の黒馬トップゾーンも、捕らえられて、収容されていた。

独軍脱走兵と逃げた馬、仏の農家に

 ドイツ軍にも、厭戦気分の若者がいるものである。馬係りの兄弟兵士ギュンターとミヒャエルも、そうした二人だった。弟のミヒャエルだけが前線送りとなったとき、兄のギュンターは、弟の属する小隊から、弟を奪い、二人して脱走することを、計画する。そして動き出した小隊の行軍に馬を突っ込んで、弟を実際に奪うと、ジョーイとトップゾーンの二頭の馬で、脱走を敢行、フランス平原を、前線とは反対の方向に、まっしぐらに駆け、とある農家の風車小屋に身を隠した。しかし、ギュンターもミヒャエルも、追っ手のドイツ軍に見つかってしまい、脱走の重罪で、処刑場へと引き立てられていく。
 水車小屋に残された二頭の馬は、翌朝、この農家の少女エミリーに見つけられる。そして、この農家の少女と祖父に囲まれて、手厚く飼われることになった。アルバート少年の馬ジョーイは、ここではフランソワと名づけられて、優しく扱われる。緑の自然に囲まれて、時折、少女の乗馬の友をするだけの、束の間の平和が、ジョーイの上に訪れたのだった。

農家の少女と駈歩中、再び独軍襲来

 なぜこの農家には、少女エミリーと祖父しかいないのか。それにはわけがあった。略奪にやってきたドイツ兵に抵抗した両親は、その場で銃殺されたのであった。たまたま目撃しなかった少女に、祖父は事実を隠し続けてきたのだが、もはや、事態を感づき始めた孫娘エミリーに、すべてを打ち開けざるを得ないと判断し、厩に孫娘を呼び全てを打ち明ける。そして母親がいつも使っていた馬の鞍を出してきて、形見として大切に使うように、少女に渡すのだった。エミリーは、その鞍をフランソワ(ジョーイ)に掛け、緑の丘陵を渡る駈歩に出た。
 それを見送った祖父は、にわかに不安にさいなむ、丘陵の頂きから、谷へ降りていくエミリーと馬。その姿が見えなくなると同時に、祖父は慌てて頂きに駆け上がった。不安は的中した。谷を覆うばかりの勢いで、攻めあがってくるドイツ軍の大軍がそこにあった。

大砲牽引の重労働、脱出して鉄条網に

 フランス人農家に囲われた、ジョーイにとっての、束の間の平和は終わった。馬と少女は、引き離され、ドイツ軍の野営陣地に連れて行かれた。そこには黒馬のトップゾーンも、既にとらわれていた。
 今回は、先にとらわれたときのように、脱走を目論むような、いい加減な兵士は、周りにいなかった。ジョーイとトップゾーンは、すぐさま戦闘要員として前線に送られ、辛酸をとことん嘗めさされるようになる。二頭の馬は、来る日も来る日も、大砲を牽引して、戦火の中を駆け巡る運命に、さらされることになった。そしてトップゾーンは、傾斜地を牽引していたときに、大砲が倒れ、その下敷きになって、死んでしまう。一方、.牽引している綱が外れたジョーイは、とっさに前線を脱出した。そしてイギリス軍がいるだろうと予想される方向に、走りに走った。だが、イギリス軍の陣地にまでは、辿りつくことが出来ず、二重三重に張り巡らされた鉄条網に絡まれて、身動きできなくなっていた。身動きすればするほど、鉄条網が深く体にまとわりつき、傷ついた皮膚からは、血が吹き出て、 もがく力もなくなっていった。

英独兵士が協力、鉄条網の馬を助ける

 「鉄条網に馬が絡まって、もがいている」と気がついたのは、イギリス軍の塹壕から、双眼鏡で外を覗いていた、イギリス軍の若い兵士だった。その兵士は、ドイツ軍に攻撃するなと白旗を立て、塹壕を出て、その馬のところまで近づいていった。鉄条網の絡まりはひどく、間単に解けるような状態ではなかった。そのとき反対側からも、ドイツ軍の兵士一人が、近づいてきていた。その手には、鉄条網を断ち切る、ハサミまでが用意されていた。イギリス軍兵士は、そのハサミを、ドイツ側から借り、ドイツ兵の見守る前で、次々に鉄条網を断ち切って行った。それは戦場に咲いた、一輪の美しい花とでも言った、敵同士の友情のシ−ンであり、動物愛護とヒューマニズムに満ちた、凄惨殺伐な、中盤以後のこの映画の中では、一服の清涼剤ともなる、強い印象を残すシーンである。

破傷風で薬殺寸前に、元少年と再会

 助けられたジョーイは、血まみれのまま、イギリス軍の野戦病院に連れて来られた。そして、診察した軍医が判断したものは、破傷風にかかっているから薬殺と言うものだった。連れてきた若い兵士は、「それはあまりにも可哀そう」と抗議するが、多くの負傷兵の治療に当たっている野戦病院では、人間優先の当然の判断だった。
 だがそのときだった。馬ジョーイの耳がピクリと動いたのは。かって聞いたことのある、「ホーホー」という少年の声、その声は次第に大きくなって近づき、傷ついた馬の前に、成人して兵士になっていた、あのアルバート少年が現れたのである。
 ニコルズ大尉の約束を信じて、大尉の死で、約束が反古になっているのも知らず、ジョーイを探すことをも、目的の一つにして、出征してきた元アルバ−ト少年、鉄条網から助けられた馬が、野戦病院に収容されたと聞いて、駆けつけてきたのだった。薬殺寸前に、奇跡的に実現したアルバートとジョーイの再会。泥と血で、真っ黒になっていた馬の眉間を洗うと、菱形の白いマークが現れ、まがうことのないジョーイだと確認され、アルバートとジョーイは抱き合う、薬殺を主張していた軍医の判断が、覆ったのは、言うまでもない。

戦争が豊かな自然や馬の表情を壊す

 この映画は、戦争の犠牲となって、とことん辛酸をなめる馬の物語である。いくつかが学校の教材にも選ばれている、品位の高い児童文学を書くことで知られるイギリスの作家マイケル・モーバーゴのベストセラーの映画化だ。
 スピルバーグ監督は、およそ次のような意味のことを言う。「原作にほれ込んでから7ヶ月目には、もう撮影に入っていた。馬を通じて、人間の性が描けると思ったからだ。だが、ロケ地に選んだ,イギリス西南部のデヴォン州ダートムアと言うところは、染み入る緑の自然が一杯のところで、またあまり表情が豊かでないと思っていた馬が、豊かな感情を、表情や目つきや体の動きで表現することを知った。自然も馬も、映像で真の姿を捉えるには、私の技術は貧しすぎて、捉えきることは出来なかったが、人間の性が引き起こした戦争が、そのような自然や馬の表情を、ぶちこわしていることだけは、表現したかったのだ」と。

200万頭も犠牲になった第一次大戦の馬

 第一次世界大戦では、まだ騎馬戦が主役で、戦場に大量の馬が、動員された。そして大戦で死んだ馬は、100万頭とも200万頭とも言われている。今の戦争は、大量破壊兵器が主役だ。人間そのものに、あっという間に何百万人もの犠牲が出る。スピルバーグは、この映画を通じて、そこまで言いたかったのだろうと、想像される。
 いずれにしても、動物愛護精神と、ヒューマニズムに満ちた、秀作であり、2011年のアメリカ映画を、代表する一本であり、スピルバーグとしても、代表作の一本に数えられることは確実な作品である。米アカデミー賞は、作品、撮影、美術。録音、音響編集、作曲の6部門にノミネートされながら、無冠に終ったのだが、そんなことを気にすることはない。
(上映時間2時間27分)
写真提供:(C)Dream Works U Distribution Co., LLC. All Rights Reserved
全国主要都市の主要劇場、全国各地のシネコンで、一斉上映中。
配給社 ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン

《公式サイト》http://Disney-studio.jp/movies/warhorse/

 

 

 

 
   

仏映画草創期背負い、店番に落ちた監督

J・メリエスを再生させた少年冒険物語

新技術で昔描く『ヒューゴの不思議な発明』

(2012.3.21)

木寺清美

 
 


映画草創期描く二作品がアカデミー賞争い

 この『ヒューゴ不思議な発明』は、この2月末、アカデミー賞の作品賞など、主要5部門に耀いた『アーティスト』と、アカデミー賞を争い、同じ5部門を獲得した、去年のアメリカ襟画を代表する一作である。しかしその獲得した5部門は、撮影、美術、録音、視覚効果など、裏方の技術賞ばかりで、作品、監督、主演男優、作曲、衣装デザインの主要5部門を獲得した『アーティスト』にはかなわず、オスカー争いは、敗れたともいえる作品なのである。しかし、部門候補になった数だけで言えば、11部門にも達し、各候補鎖作の中では最多であり、やはり2011年のアメリカ映画を語るには、逃すことの出来ない快作なのだ。

米映画がパリを、仏映画がハリウッドを

 しかも、その内容が、映画の草創期・サイレン時代へのオマージュという点では、『ヒューゴの不思議な発明』も『アーティスト』も同じであり、こんな偶然は、アカデミー賞の長い歴史に中でも、初めてと言ってもいいほどの、珍しい現象である。だが、そうでありながら、両作は対象的に違っていて、『ヒューゴの不思議な発明』は、3Dなど、最新の映画技術を駆使しての華やかな大作だが、『アーティスト』は、懐かしいモノクロ・フィルムの世界の再現に、力を尽くす地味な作品であり、また『ヒューゴの不思議な発明』は、パリを舞台にしたフランス映画の草創期を描くアメリカ映画であるが、『アーティスト』は、米ハリウッドの草創期を背景にして、俳優の盛衰を描くフランス映画であるといった具合に、見事に180度違う対象を見せているのである。フランス映画が、米アカデミー賞の、外国語映画賞でなく、本賞に耀くのは、初めてのことだそうだが、これもハリウッドを舞台にしたものだけに、全編英語の映画であったことから、対象作品となったもので、珍しい偶然の重なりが、幸運をもたらしたものなのだ。

駅の時計台に住む孤児が出会う玩具店店主

 『アーティスト』については、筆者はまだ見ておらず、このため、一般に言われている、上記のような相違について語れるだけで、本作との詳しい比較はできない。だが、比較ではなく、『ヒューゴの不思議な発明』そのもの価値も、大変高い作品であり、ここでは、『ヒューゴの不思議な発明』賛といった形で、その魅力について、語っていこうと思う。  舞台は、1930年代のパリ。駅の時計台裏の屋根裏に住む、孤児の少年ヒューゴ(エイリ・バターフィールド=『縞模様のパジャマの少年」08)で・イギリスのインディペンデント映画新人賞を受けた、イギリスで今ひっぱりだこの子役とか。全編を通じて、達者な演技)が、まず登場する。屋根裏から駅の雑踏を覗くカメラアングルが、3Dを意識して、冒頭から素晴しく、何が起こるのだろうという期待感に引き込まれていく。
 母を早くに亡くし、父親をも火事でなくした少年ヒューゴは、町をうろついて、知人から食べものを恵んでもらうと、あとは,時計台の裏に帰って、時計のねじを巻くだけの生活だったが、時計職人だった父親の遺品である、壊れてしまっている機械仕掛けの人形を、大切に隠し持っていた。その動かし方や修理の仕方などが書かれた一冊のノートも、ヒューゴは大切に持っていたのだが、人形の胸にある、ハート型の鍵穴に、ぴったりの鍵がないと、人形は動かせず、少年の亡父(ジュード・ロウのチョイ出演)も、生前、時計の修理だけでなく、博物館の所蔵品の修理も手がけた体験を生かし、その人形の謎を解明うとしたのだが、鍵が見つからず、果たせないまま、火事に遭って他界したのだった。
 

父の遺品機械人形を動かそうと盗みに

 ヒューゴ少年は、その父の後をついで、何とか機械仕掛けの人形を動かそうと、駅構内のおもちゃ屋に忍び込み、いろんな部品を次々と盗んでは、屋根裏に持ち込んでいた。店主のジョルジュ(ベン・キングスレー)は、次々となくなるおもちゃやその部品に、不審を抱き、犯人を捕まえようと、虎視眈々と狙いを定め始めたときに、少年は、ねずみの玩具を盗もうと店内に入った。そして、店主のジョルジュに捕まってしまったのだった。
 少年は、「もっと他にも盗んだだろう。白状しなければ、駅の公安官に突き出すぞ」と、店主から脅されて、ポケットの中に隠し持っていた、ドライバーやネジやガラクタ類を、全部差し出さねばならぬハメになる。そして大切な亡父の機械人形についてのノートまでが、店主の手に渡ることになった。店主はそのページをパラパラとめくっていて、急に顔色を変え、盗んだものだけでなく、そのノートまでも取り上げ、少年の哀願にも返さないという。結局、毎日店員として玩具店に通い、盗んだ分だけ働いたら、返してやると、店主に約束させることになり、少年は、それから玩具店で、働くことになった。

店主の養女が、機械人形の鍵を持参

 店主には、イザベル(クロエ・グレース・モレッツ)という、ヒューゴと年格好が同じ養女がいた、早くに両親をなくした境遇もヒューゴと同じで、名づけ親であるジョルジュ夫妻に引き取られ、育てられていたのだ。店で出会った二人はすぐに意気投合する。そしてイザベルが、映画館に行くことを禁じられていることを知ったヒューゴは、彼女を連れて、映画館に無銭潜入することに成功し、幼いデートを楽しむ。その帰り、駅の時計台裏に住んでいる孤児であることを打ち明けたヒューゴは、思いがけず、イザベルが胸元にブローチのように下げている鍵が、探している。機械人形のハート型の鍵であることを知る。早速、時計台裏の屋根裏に、イザベルを誘ったヒューゴは、おそるおそる、その鍵で機械人形を動かしてみる。動き出した機械人形は、一幅の絵を描き出し、それにジョルジュ・メリエスと署名した。何のことか分からない二人は、その絵をジョルジュの妻(イザベルの養母)に見せると、妻は驚いて、口をつぐんでしまった。それは、ノートを見て驚き、ノートを返そうとしなかった、ジョルジュ自身の態度とも呼応していた。
 二人は、映画アカデミー図書館を訪ね、謎の店主のことを調べる。そして店主が、リュミエール兄弟が、シネマトグラフを発明し上映した、19世紀末から20世紀にかけての映画 草創期のパリで活躍した、有名な映画監督ジョルジュ・メリエスその人であることを知る。そして機械人形が書いた絵が、メリエスが02年に作った代表作『月世界旅行』の一シーンであることも分かる。だが、図書館の情報には、メリエスは、500本もの作品を作ったが、一本しか残されていないとか、戦争に行って既に戦死したとか、いい加減と思われる情報も、書かれていた。

メリエスは元奇術師、トリックを多数考案

 ここで、メリエスの実録に少し触れておく。メリエスは、1961年、パリで製靴会社を経営する父親の下に、三人兄弟の末っ子として生まれた。兵役の後、ロンドンに行き、友人の洋服会社に勤める傍ら、言葉が分からなくても理解できる奇術ショーを見るのに、没頭するようになる。パリに帰国してからは、父親の仕事を引き継がねばならぬ事態となるが、1886年、父親が引退するのに合わせて、製靴会社の権利は、全て兄に売り、そのお金で奇術劇場を購入、オーナーになるとともに、奇術師としても活躍、30以上の奇術の新趣向を考案して上演した。時あたかも、リュミエール兄弟のシネマトグラフの発明・上映に遭遇し、これからは映画の時代だと、撮影所を設立、奇術のトリックを生かした、SF調の短編映画を、次から次へと生み出した。オーヴァーラップ、移動撮影など、映画の表現技術を発明したのもメリエスだった。そしてその作品数は、全部失われてたった一本しか残っていないどころか、現存するものだけでも約180本あり、この映画の監督のマーティン・スコセッシらスタッフは、撮影に当たって、その全部を見てメリエスの理解に努めたと告白している。こうして代表作『月世界旅行』(02)などが生み出されたのだが、様々なサイレンと映画が洪水のように生み出される20世紀初頭の中で、メリエス映画も飽きられ始め、海賊版も横行するようになった。このため年に60本以上作られていたものが、1911年には、たった2本に激減、、撮影所の設備は、次々に売り払われる苦境となり、23年には、債権者に追われて、自宅も売りはらい、メリエスは、モンパルナスの玩具店の店番をするまでに落ちぶれたという。いわば、ジョルジュという、駅構内のおもちゃ屋の店主として、メリエスが登場するこの映画は、原作者ブライアン・セルズニックや、脚色者ジョン・ローガンや、監督のマーティン・スコセッシが、このメリエスの実録に基づいて設定した創作なのである。

冒険ファンタジーで辿るメリエスの業績

 さてここから映画は、玩具店の店主が、巨匠ジョルジュ・メリエスと知った、ヒューゴとイザベルの少年少女が、店主を市井に埋もれさせるのは忍びないと、1930年代のパリに復活させようとして、20世紀初頭のメリエスの業績を辿っていく、ファンタジーとなる。しかもそれは、現代の3D技術を大いに駆使した、奥行きの深い映像として、見事に捉えられ、秘密のノートと、機械人形に記憶させられた秘密のメッセージに誘われる形で、メリエスの当時の撮影セットが再現され、『月世界旅行』の製作過程が、改めて明らかにされて行くファンタジーとなる。それは草創期の映画史の再確認であるとともに、過去の良き体験を現代に再注入する作業でもあるといった、二重三重の深い意味を絡ませ、単なる少年少女の冒険ファンタジーに終らない。サイレント映画が好んで描いた、ドタバタや追っかけの懐かしいシーンも再現されており、駅の公安官がドーベルマン犬を使って、少年らを追うシーンなどは、その典型である。

スコセッシ監督、映画の精神の刻印に成功

 実録ジョルジュ・メリエスでは、第一次世界大戦に行って、行方不明といううわさまであった、忘れられたメリエスが、モンパルナスの玩具店で発見されて。改めてメリエスの業績が話題となり、31年にレジョン・ドヌール勲章を、授与されるまでになる。この映画の、30年代のパリへの、メリエスのファンタジックな復活は、まさにこの実録に呼応したものとして、原作者やスコセッシ監督が、創作したものである。
 スコセッシ監督は言う。「メリエスはマジシャンの出身である。リュミエールの映画に接し、映像のマジシャンたろうとした。これこそが映画の精神なのだ。そういう映画の精神とメリエスを、現代のフィルムに焼き付けたい−そう思い続けてきたことを、今回実現したんだ」と。『アリスの恋』(74)や『タクシー・ドライバー』(76)で、いわゆるアメリカン・ニューシネマの旗手の一人として、米映画界に屹立したマーティン・スコセッシは、その後『レイジング・ブル』(80)や『グッドフェローズ』(90)、さらには『ギャング・オブ・ニューヨーク』(02)など、様々な映画に挑戦して今日まで命脈を保ちつづけ、三度もアカデミー賞の監督賞にノミネートされながら受賞を逃し、『ディパーデッド」(06)という活劇大作で、やっと監督賞をものにした。そういう巨匠の名を得るまでに苦労をした苦労人が、本当に映画の魂そのものを映像に焼き付ける仕事で、70歳の自らの年齢に耀きを与えたともいえるわけで、またもや主要部分の受賞を逃したこの映画は、いかにもスコセッシらしいとさえ、いえるのである。
(上映時間2時間6分)

写真提供:(C)2012 Paramount Pictures. All Rioght Reserved
全国主要都市東宝系劇場、一部松竹東急系劇場、各地のシネコンで、一斉上映中
■配給社 パラマウント ピクチャーズ ジャパン 03−6271−3630
■宣伝社ティー・ベーシック 03−6418−2691

《公式サイト》http://www.hugo-movie.jp

 

 

 

 
   

放射能汚染はウラン採掘場からあった

災害や事故だけでない原発の危険訴え

『イエロー・ケーキ』クリーンなエネルギーという嘘

(2012.3.7)

木寺清美

 
 


放射能汚染は原発事故という呑気な誤解

 放射性物質が地球を汚染し、人類の危機を導くのは、原爆をはじめとする核兵器が使用されたときと、今回の福島原発のように、原発が、天災や事故で破壊されたときの二つであるという、呑気な誤解が、一般に広がっていることを、この映画は見事に覆し、我々に反省を強いるであろう。
 原発から出る放射性廃棄物の、完全な処理方法が、まだ確立されておらず、原発は破壊されなくとも、人類を危機に導く物質を貯めていくものであるということが、その次には知られているけれども、実はそれだけではない、もっと大元のところで、原発が増えれば増えるほど、何の事故も天災もなく、廃棄物を閉じ込めていても、汚染は進んでいくという大問題が、大昔から、横たわっていたのである。それは、原発での発電の原料となるウラン(=ウラニウム)の、採掘現場での汚染である。旧東ドイツのチューリンゲン州とザクセン州にあたる南部地域(ここは統一ドイツになってから、新たな採掘は停止されている)、カナダ、アフリカのナミビア、オーストラリアなどに、その採掘現場はあり、殆んど野天掘り状態で、周辺や従業員を、それも1930年代から、四分の三世紀にも亘って、汚染し続けてきたのである。
 このドイツ映画は、そのことを暴き、その視点から、増え続ける原発問題に警告を発する、貴重な映画である。

イエローケーキとはウラン粉末と固形物

 ところで、イエロー・ケーキとは、天然のウラン鉱石を精錬して得られるウランの、黄色い粉末のことで、これを固めて燃料棒とし、それを束ねて、原子炉内で核分裂させ、発する熱で発電機を回して、電気を起こす。発電時に二酸化炭素を発生させず、燃料のリサイクルも可能なことから、クリーンなエネルギーと呼ばれているのだが、それは完全にウランを原子炉内に閉じ込めている間だけのことで、全くの嘘であるということが、採掘現場の現実を知るだけでも分かるのである。今回の災害や事故で現れた危険性、原発廃棄物の処理が、思うに任せぬところから出てくる危険性、それら以前に、採掘地から出る危険性にも、早くから問題にしなければならなかったはずなのに、これらもまた、「安全神話」が掻き消してきたのである。
 かくてこの映画は、旧東ドイツ南西部の、採掘跡地の問題から、まず探っていく。

東独、危険性知らせず採掘、汚染を放置

 ここは、東ドイツに設立された、ヴィスムート社というウラン採掘会社が、独占的に採掘し、当時世界第三位のウラン産出量を誇り、冷戦時代のソ連へ、100%輸出され、核兵器と原発の原料となっていた。12万人もの従業員が、高給で採掘に従事したが、東ドイツ政府もソ連も、その危険性については、従業員にすら知らせず、現在元従業員から発生する、肺がんの発症率は、大変高いものになっているという。またウランは、1トンの鉱石から、わずか数グラムしか取れないのだが、残りの鉱石は、放射能を発生させたまま、40年間も無造作に山積みされて来たという。それが現在はボタ山と化し、2億トンもの危険な汚泥が、周辺に流れ出ているという。それらが映し出される黄色い映像は、観客までをも、身の毛もよだつ怖い体験に引き込んでいく。このヴィスムート社の採掘現場は、統一ドイツになってから採掘が停止され、今放射能の除染措置が講じられているのだが、65億ユーロもの税金を投じながら、有効な徐染策がみつからず、半減期が来て、自然に放射能が弱まるのを、待っているだけというのが、実態という。

カナダのウラニューム市、情報管制下に

 だが、この東ドイツ西南部は、採掘が停止されているから、まだ救いがある。この映画がさらに尋ねる、カナダ、ナミビア、オーストラリアでは、今も間断なく採掘が繰り返され、世界中の原発に、燃料を送り続けているのである。
 カナダの採掘現場は、カナディアン・ロッキーを越えた、遥かハドソン湾を望む、冬には氷と雪に閉ざされる、湖の地域にある。ノースウェスト・テリトリーと呼ばれる、この極寒の地の真ん中に、ウラニュームシティと呼ばれる小さな町があって、ここにカナダの採掘会社キャメコ社と、フランスの採掘会社アレバ社が進出して、採掘場を設けている。取材班が進入するには、高いハードルがあって、なかなか取材許可が出なかったようだが、アレバ社には、やっともぐりこむことに成功している。たが、広報員も付き添ってのお仕着せの取材だから、アンチ・ウランの観点から、危険であるとか、従業員に被害が出ているといった話は、一切聞けなかった。従業員はすべて、原発の原料を支えているといった責務に喜びを感じ、安全服に身を固めて、作業をしているから、危険性はないと信じこんだ発言しかなく、むしろ気持ちが悪いくらいである。しかし、ウランの選鉱くずは、無造作に、採掘場の横に廃棄され続け、雨や雪解け水などとともに、汚泥となって流れ続け、近くのネロ湖に流れ込んでいた。周りの真っ白な雪と、チラリと見える緑に比べ、一面にセメントを流したようになってしまった湖の光景は、自然とはいえない異様なものである、 ネロ湖はもう魚もとれないし、昆虫のような生物もおらず、水草も生えなくなったと従業員は言い、広大な廃棄場なんだから仕方がないと、憮然とはするのだが、自分の問題とは考えられないようである。
 なお、カナダから採掘されたウランは、アメリカの殆んどの原発と、フランスの一部の原発に、送られているという。

国家経済が、ウラン採掘に頼るナミビア

 続いてカメラは、アフリカ南西部に位置する、ナミビア共和国の、ウラン採掘場に移る。  旧東ドイツのウラン鉱が、事実上の廃鉱となった現在では、ナミビア共和国は、世界有数のウランの産出国となっているという。中でもナミビア西部にあるロッシング鉱山は、ナミビア最大のウラン鉱山で、特権階級に属する、女性を中心にした従業員が1300人もいて、採掘にも後方業務にも携わって、忙しく立ち働いている。カメラは、採掘の最前線までは入れなかったので、ヤード内で、制服や平服で、トラックを運転して物を運んだり、小走りに建物から建物へ行き来する彼女たちを、捉えているだけであるが、近代都市の近代的な設備のある工場風景と、殆んど変わらず、みんな生き生きとした表情なのに驚く。休憩時間には、社員食堂のようなところで、若い女性従業員が、就職前と後では、収入が天と地ほどにも違ったこと、文化的な生活もでき、趣味や夢に時間とお金をさくことも可能になったことなどを、喜々としてしゃべるのを、とらえている。
 支配人も、自信を持って語る。「ナミビア経済は、ウランによって支えられており、30年間ウランを採掘し続けて、ここまで来た。一時鉱脈が枯渇し、もうナミビアも終わりかと思われる時期もあったが、最近新たな鉱脈が二つ見つかり、あと30年は操業の継続が可能になった。彼女たちは、ウランでナミビアを支えるために、選ばれ、特別に教育された大切な労働者であり、特権階級である。女性の雇用促進が法制化されて、男と同権利以上の女性労働者が、急速に増えた」と。
 しかし、30年間のウランの採掘で、夥しい量の廃棄物や選鉱くずがたまっており、それらはナミビア砂漠に放置されている状態と言う。広い土地のある、人口密度の小さい国は、自然の汚染にもおおらかであることが、浮き彫りにされるのであった。

豪州では、ウラン採掘に反対する原住民

 ウランの世界最大の埋蔵国であるオーストラリアでは、少し事情が違っていた。  未来のウラン鉱脈地として、世界中の目が注がれているのは、オーストラリアの北部地域、地図で見れば、蟹のハサミが左右から囲い込むような形の、カーペンタリア湾の、西南奥の地域、つまり、平原と河と台地が広がる地域である。ここに活動するのは、個々の私企業ではなく、国際原子力資本と呼ばれる民間資本の国際協力で設立されたアレヴァ社という会社である。しかし今、アレヴァ社の開発計画は、軌道に乗っていない。何故かといえば、それはこの地域に住む原住民アボリジニの、ミラー族やジャック族が、ウランの採掘に反対しているからである。ミラー族の女性族長イヴォンヌは、だましうちのような形で堀り出されたウランを、元に戻せという運動を展開した。ウラン鉱石を掘り出しさえしなければ、ミラー族の生活に変化は来ず、放射能汚染もなく平穏だった。私たちの故郷を汚すな、そして壊すなという主張なのである。大柄な肥満体で、怪異な風貌のイヴォンヌが、この正論を、カメラに向かってまくし立てる迫力は、相当なものである。アレヴァ社は、ともかくミラー族周辺の採掘場は閉鎖して、埋め戻さざるを得なかったという。  また、ジャック族の族長ジェフリーは、「私たちは、この土地から食べ物を得ていた。何処へも移動したくない。これから永遠にここで生きるので、環境は汚されたくないし、きれいな水も、飲み続けたい。ウラン鉱石の採掘には反対だ」とはっきり言う。
 こうして、世界最大のウラン鉱脈の開発は、思うようには進んでいないのだが、反対の少ない地域での、アレヴァ社の開発は、徐々に進んでおり、この映画の撮影中の、2005年から、2010年の5年の間にも、30基もの原発が世界で増え、まだ新たに150基もの原発の建設が進んでいるという状況下では、豪州のウラン鉱石の採掘が、ストップすることはないという。因みに、ウラン鉱石の価額は、原発が始まったころに比べると、20倍の高値になっていて、ナミビアのように、国の経済を、ウランに頼るところが出てきても、おかしくはないのである。

東独のウラン採掘汚染は、知らされず

 監督は、旧東ドイツに生まれ、東ドイツで、ドキュメンタリー監督としてのキャリアを積んだヨアヒム・チルナーである。
 チルナー監督は言っている。「ベルリンの壁が崩壊する以前に私は、ヴィスムートという会社が、世界第三位の産出を誇るウランの採掘会社で、東ドイツ南部地域で、露天掘りをして、環境を害し、殆んどのウランを、ソ連に輸出していたことを、知らなかった。ヴィストーム社は、最高の軍事機密を担う会社として、外からは誰も触れルことの出来ない秘密に、満ちた会社でした。現在のドイツ政府も、当時のことや、採掘がストップし、除染などの復興作業が始まってからも、遅々として進まない理由などを、詳しく把握している模様だが、何故か情報をオープンにすることは、意識的に避けている。私はこの映画で、分かる限りの採掘情報をオープンにし、映像化する努力をした。それはドイツばかりでなく、カナダについても、ナミビアについても、オーストラリアについてもである。原発問題は、今後起こる災害や事故のことだけでなく、ウラン採掘の時点から、問題をはらんでいることを、知るべきである」と。「ましてや、発電の際に、CO2が出ないからと言って、クリーンなエネルギーなどと宣伝する欺瞞を、直ちに止めるべきである」とも。

日本にも人形峠問題が、採掘を問直すとき

 最後に、この映画には描かれていないが、日本のウラン事情について、私の知る範囲で記しておく。現在の日本は国産でウランを採掘する能力はなくなっていて、世界中のウラン鉱脈に、ほとんどの電力会社が、こぞって出資をしているというのが、現状である。ただ過去に、人形峠問題というのを引き起こしている。岡山県と鳥取県の県境の人形峠付近で、1955年にウラン鉱床が発見され、国から交付金が出て開発が進み、ウラン濃縮プラントまで建設された。しかし品質が悪く、様々な品質向上が試みられたが、採算に合うところまでは到達できず、46年後の2001年に、完全閉鎖が決まった。一時は、新しい地場産業が開発できると、大いに沸いたが、放射能を含む処理不可能な残土を残しただけで、住民の撤去要求にも、「微量」と言う理由で、今も放置されている。
 原発の燃料問題は、その採掘の時点から、こういう厄介な問題を、引き起こすものなのである。総じて、「放射能が微量」というだけで、放置されているこの問題を、問い直すべきときが来たことを、この映画は、教えている。
(上映時間1時間48分)
写真提供:(C)2010 Um Welt Film Productionsgesellschaft

東 京 渋谷アップリング 上映中(3月9日までの予定)
大 阪 九条 シネ・ヌーヴォX 上映中(3月18日までの予定)
札 幌 大通 シアター・キノ 上映中(3月16日までの予定)
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 4月7日〜上映
金 沢 香林坊 シネモンド 4月上映予定
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 4月上映予定
京 都 東寺 京都みなみ会館 4月21日〜上映
山 口 山口情報芸術センター 5月3日、5日の2日間のみ上映
新 潟 シネウィンド 5月5日〜上映
福 井 福井メトロ劇場 5月5日〜上映
全国順次上映
◆配給社 パンドラ 03−3555−3987

《公式サイト》http://pandorafilms.wordpress.com/roadshow/yellow

 

 

 
   

私のため教育右傾化に抗う不屈三教師

君が代起立斉唱、C査定を司法が追認

土井敏邦監督の新作『“私”を生きる』

(2012.2.16)

木寺清美

 
 


君が代不起立で最高裁、都教委を追認

 今年(2012年)の1月16日、君が代不起立で、東京都教委から処分を受けた171人の教員に対し、最高裁判決が出た。戒告・減給・停職などの処分を、ただ追認するだけであったこれまでの司法判断に、「減給、停職などの重い処分は慎重に」という判断が出て、歯止めが掛けられた判決だと、さも画期的なようにマスコミは報道した。しかし、原告171人中168人という、戒告処分を受けた大部分の原告は、行政(都教委)側の裁量の範囲の処分で、「不起立一回で戒告」という基準も概ね妥当とされ、上告を棄却されているのである。重い処分には、単に回数を基準にするだけでなく、式典妨害の程度など、もっと事情が必要として、実質処分が取り消されたのは、3回の不起立で、停職3ヶ月になった一人と、減給処分を受けた一人だけで、校長の対応を批判する文書を配るなどした、このドキュメンタリー映画にも描かれる根津公子さんの停職3ヶ月は、妥当として、上告を棄却したのである。まさに分断判決で、マスコミが言うような、画期的な歯止めでもなんでもないのである。
 さらに悪いことには、「個人の歴史観、世界観に由来する問題なので、重い処分は慎重であるべき」と述べながらも、そもそもの江戸時代から明治に掛けての、君が代の成立過程と、その歌詞の意味には全く触れず、1999年に、無理矢理に国旗国歌法が成立させられるまで、国歌とする法的根拠すらなかった事実について、一切触れない判決であり、またもや「君が代」そのものには踏み込まない、「逃げ」の判決に終ってしまったのである。

非常勤講師不採用でも都教委追認の判決

 また今年(2012年)1月30日には、定年後の合格率が、90%を越えている非常勤講師採用試験に、不合格となったのは、都立三鷹高校長時代の教育的活動を、不当に低く評価した、都教委の恣意的差別によるものだとして訴えていた、元三鷹高校校長土肥信雄さんの裁判の判決が、東京地裁で出された。この判決も、都教委の主張をほぼ追認するもので、たった10秒の主文朗読で、不採用は不当との元土肥校長の訴えは棄却された。勿論、土肥元校長は、控訴をして闘いを続けられるが、戦後すぐの民主主義教育スタートの時代からは、180度右展開してしまった、今日の国の文教方針は、それを追認する各都道府県の教育委員会方針を、さらに右傾化した司法が追認することによって、いよいよ戦前に回帰する、教育の暗黒化が固定化されてきたのである。
 低い評価をされた、土肥元校長の活動とは、毎朝校門に立って、登校してくる生徒一人ひとりに「おはよう」の挨拶をし、課外活動などにも積極的に参加して、生徒一人ひとりの名前と性格を覚えることを、モットーにした活動である。「校長は校長室から出るべし」と主張したもので、その一方で、03年10月23日に都教委から出された「卒業式、入学式では、日の丸を掲揚し、君が代を起立斉唱しなければならない。違反した教師は、業務命令違反で処分する」という、いわゆる「10.23通達」には、一種のファシズムを感じ、さらに06年4月に出された、「校長等による、都教委方針等の提案を、職員会議で挙手議決することを禁ずる」という、いわゆる「学校経営の適正化通達」には、「都教委のいうことは、何でも正しい。文句を言わず従え」という強権主義を感じたという。このため、「学校経営の適正化通達」には、反対の意志を表明し、都教委に対して意見書を提出した。これらの行為が、土肥元校長の、あらゆる側面での「C」評価につながり、その「C」評価の結果、非常勤講師不採用となったものだった。

君が代の伴奏拒否の音楽教師佐藤美和子さん

 この映画は、この1月16日の最高裁判決でも、上告棄却となった根津公子さんの、君が代不起立の闘いと、土肥信雄元校長の、裁判闘争や講演活動を追い、さらに、キリスト教信者で、天皇より、キリストの方が大切だとして、君が代を弾くことを拒否した、小学校の音楽教師佐藤美和子さんの闘いも描いている。
 佐藤さんは、01年3月の小学校の卒業式で、校長から指示された、君が代斉唱の伴奏を、宗教的理由で拒否をした。その前年にも、日の丸掲揚反対を意味するピースリボンを胸につけていて、それも手伝って、演奏拒否で、都教委の訓告処分を受けることになった。こ の処分に対して、佐藤さんは、「自己のアイデンティティを、都教委方新という特定の教育行政で、ゆがめられるいわれはない。思想、良心、信教、真の教育の自由を、不当に制約する:ものだ」として、処分撤回を求めて04に提訴した。、一審二審と請求棄却の判決が相次ぎ、08年の最高裁での上告棄却で、佐藤闘争は、敗退が決まったのである。そして今は、必ずしも君が代を演奏しなくてもよい、養護学級の音楽教師をしている。

『君が代不起立』に描かれた違憲判決どこに

 映画は三部構成のようになっていて、根津公子先生、佐藤美和子先生、土肥信雄元校長の順に、その闘いと活動が描かれていく。
 根津先生の闘いは長い。この「映画の鏡」でも紹介したことのある、06年末に完成した『君が代不起立』(松原明監督)というドキュメンタリー映画がある。03年に「10.23通達」があったあと、君が代不起立ぐらいで処分されては大変と、通達そのものを、憲法違反にしてしまおうという、いわゆる「予防訴訟」が、都教祖内の228人の有志の先生にいよって、取り組まれたことがある。約2年半の時日を要して、06年の9月21日に、「10.23通達は、思想及び良心の自由を保障した、憲法19条に違反する」と言う画期的な違憲判決が、東京地憂で出たのである。勿論その後の上級審で、この判決は全て覆され、全くのもとの木阿弥になり、228人の原告の先生方は、右傾化が進む司法の前に、玉砕してしまったのだったが、『君が代不起立』は、この画期的な違憲判決に至るまでの、先生方の闘いを、中心に描いたものだった。そしてこの『君が代不起立』の中でも、闘う根津先生の姿が、しばしば画面に登場する。

突出者は叩く、処分容認判決にも不屈に

 根津先生は、君が代が国歌になって行く歴史的な成立過程や、天皇の世を崇めることを意味する歌詞の意味を、子供たちに教えることなく、式典で儀礼的に歌うことに反対するという明確な意思を持っていて、その意志を通すことが、根津先生の「“私”を生きる」なのであるから、「10・23通達」後の04年の卒業式などでも、それまで通り、敢然と不起他立を通した。そのため、懲戒処分となり、05年では、定年まで失職せずに息長く闘うため、「起立はするが、歌わない」方針に切り替えたが、斉唱の最中に思い直して着席したため、余計に目立ったとして、停職一ヶ月の処分を受ける。そして転校命令も出たが、転校先の学校には、停職期間が解けるまで、足を踏み入れることを禁じられ、仕方なく、校門前で、登校してくる生徒に声をかけ、不当処分反対のビラを配る日々となった。
 そして06年でも8回目の不起立を通し、処分が停職3ヶ月に拡大される。そして、その年の9月に上述の違憲判決が出るが、上級審で覆えされる。それでも根津先生の闘いの姿勢には、変化は生じなかった。今回の『“私”を生きる』では、いかに都教委や司法の右傾化が進もうと、「私」は変わらないという強い意志が、根津先生自身の口から語られ、不当処分反対で、校門前に立ち続ける姿が映し出される。冒頭に書いた、今年1月16日の最高裁判決では、もう一人の停職3ケ月の処分を受けた教師に対し、不起立の回数だけでの処分は重すぎるとして、とり消されたが、校門に立ち続けるなどしている根津先生は、上告棄却となったのであった。突出して闘う者を弾圧するという、都教委、司法、国家の意思が、明確になったのであるが、この映画に描かれる根津公子先生の、柔和な“私”の表情に、真に人間的なのはどちらかを、観客は、おのずと知るだろう。

天皇よりキリストの佐藤先生カナリヤに

 続いて、佐藤美和子さんの“私”が描かれる。既に先に触れたように、小学校の音楽の先生であった佐藤先生は、キリスト教の信者という立場から、ずっと君が代、日の丸に疑問を持ち続け、式典会場のピアノで、君が代の伴奏をすることを断ったところ、訓告処分を受けたのである、その後も処分は不当の裁判闘争を行ったが、08年の最高裁で、上告棄却の判決を受け、処分撤回はならなかった。
 この佐藤先生は、何処にそんなな不屈の闘志があるのかと疑われるくらい、楚々とした女性なのだが、代々牧師の家庭に生まれ、祖父は、戦時中、反戦思想の持ち主として投獄されたこともある人なのだという。そのことを佐藤先生は、同じく牧師である父親から、何度も聞かされて育ったのだという。そんなことから、忍び寄る戦争の影や、偏狭なナショナリズムの影には敏感な、私があるのだろうともいう。
 養護学級の子供たちと仕事をしながら、「辛いと感じる今の自分にこそ、大きな存在の意味があるのだと、思えるようになりました。カナリヤが、炭鉱事故の危険を予見するように、か細いカナリヤのような音楽教師であっても、世の中の右傾化の危険を、敏感に感じて知らせる存在であり続けたいと、最近は思っています。」と語る、佐藤先生の表情に、一点の曇りもないのである。
 印象的なシーンがある。なぜ「君が代」を弾かないか、都教委で事情聴取された佐藤先生が、廊下のようなところで呼びとめられ、これから聴取する上司のような人に、「それでは、佐藤さんにとって、天皇とキリストのどちらが大切なのですか」と問われるシーンである。いとも簡単に、「キリスト」と答えた佐藤さんを見て、その上司は、びっくりしたような表情をするのが捉えられている。“私”を生きる佐藤さんには、当たり前のことが、都教委にとっては、そういう発言が非常識なのだ。そこまで、個人の自由を認めない、偏狭なナショナリズムが、何の疑問も持たない“慣習”として、都教委に勤務する人たちの心に、巣食ってしまっていることを、このシーンは、如実に示している。

職員会議の挙手・採決の禁止に校長怒る

 最後に登場するのは、元都立三鷹高校の校長先生土肥信雄さんである。土肥元校長先生は、先に述べたように、毎朝、登校する生徒を、校門前で一人ずつ迎え、課外活動にも積極的に参加して、一人ひとりの個性や名前を覚えようとし、校長室から外に出る校長として、生徒にも父兄にも評判はよく、真の教育家と評価されていた人なのである。そういう校長が、なぜC評価で、合格率90%という、非常勤講師に採用されず、裁判所も妥当な判断だとして、不合格を追認するのか。
 土肥先生は、1948年京都生まれ、東大農学部卒、卒業とともに入ったのは、三菱商事であった。商事会社でやった主な仕事は、牛肉の輸入だったというが、消費経済の一歯車に過ぎない仕事の内容に満足できず、働きが直接人間に関わるような仕事がしたいと、通信教育で教員免許を取り、小学校を経て、都立高校の社会科の先生になった。管理職になるまでの土肥先生は、イデオロギーを前面に出して、何事かを主張するような活動家ではなく、都教委の指導に強権主義を感じる一方、都教祖の活動にも、理念は理解するが、指令を伴う行動には、ファシズムを感じてしまうといった教師だった。神津高校の校長時代に出された「10.23通達」には、結果的に個人の思想の自由を認めないことになることに、疑問を感じたが、日の丸掲揚,君が代斉唱を起立で行うことには、校長として素直に従った。しかし、三鷹高校の校長に転出したあとの、06年の4月に出された、「職員会議での挙手、採決の禁止」という、いわゆる「学校経営の適正化通達」には、職員会議を単なる連絡会議にし、都教委の方針を完全無欠なものとして強引に押し付ける、ファッショであるとして反対し、意見書も提出した。この行為が、校長としての「C」評価につながっていくのである。

権力への自己保身は、生徒への無責任

 残念なことに、「土肥元校長の、非常勤講師への任用を不合格としたのは、都教委の恣意的判断。つまり裁量権の乱用による報復である。よって、速やかに不合格を取り消し、この報復によって生じた、物理的精神的損害を償うため、東京都は、1850万円を支払え。」という訴えは、1月30日の請求棄却の、東京地裁判決によって、無残にも打ち砕かれてしまったが、土肥先生の闘いは、これからも続く。
 土肥先生は言う。「私は生徒に、思ったことはきちんと発言しなさい。それが社会人の義務ですと、教えてきました。私が今、権力に自己保身したら、生徒への責任は取れません。今は間違いなく、教育がどんどん右傾化し、言論の自由がなくなってきています。戦前の日本に戻るのではないかとの、恐怖を感じます。事実、「10.23通達」のときは、日の丸、君が代の成立過程などを深く考えず、スポーツの国際大会などでも、国旗国歌として認定されてしまっているから、慣習化を認めてもいいのではないかとの思いも少しあり、起立斉唱に抗うと、校長の職位を奪われるのではないかとの不安もあって、はっきりと反対の意志表明をしなかった。しかし、「学校経営の適正化通達」が来て、職員会議が形骸化されることがはっきりして、日の丸君が代問題も、鵜呑みにするのは間違っていると、はっきり分かりました。教育の右傾化に反対する−そのことを今はっきりと表明しなければ、将来に禍根を残す−そんな思いで、闘いを続けます。それが、今の私に正直に生きていることになります」と

中東専門の土井敏邦監督、国内に目移す

 この映画は、09年に『沈黙を破る』という、イスラエルとパレスチナの紛争の真只中に取材に赴き、イスラエル人や、元イスラエル兵士の中に、イスラエル側の暴虐が数多くあることを内部告発し、またイスラエルの拡張強権主義が、紛争の長期化と混迷を招いていると、禁を破って発言し、反戦活動をする人が増えている事実を取材して、一本の記録映画にまとめた土井敏邦監督の、最新作である。イスラエル=パレスチナ問題は、土井監督のライフワークであり、1980年代半ばから、現地入りして、すでに4本のパtレスチナ問題の長編記録映画をものにしており、『沈黙を破る』は、その第4部であり、さらに第5部『ガザに生きる』を製作中ある。そんな監督が、日の丸君が代問題などで、困難な闘いを敢えてしている東京の先生に、一転してカメラを向けたのは、「パレスチナ問題もまた、弱い立場の人間が、強大な権力に対して、基本的人権を認めよと闘い続けている問題なのだが、同じ闘いが、日本の足元にもある中で、遠いパレスチナのことだけを伝えていて良いのかと、自問したことによるもので、その緊急課題的要因が製作動機になっているという。そして先生方にカメラを向けながら、その自問はさらにふくらみ、私だったらどうしたか、敢えて荒波を立てず、穏便に過ごす道を選んだのではないか、しかし穏便の道を選んだとしても、やがて、それは本当の「心のやすらかではない」ことに気づき、闘いの道に帰ってきたかもしれない−などと、自分い問い続ける撮影日々だったと、述懐している。  まさに日本の右傾化の先兵は、石原都政下の教育行政であり、これを放置すると、憲法改悪の突破口も、ここから開けてきそうに思えてならないのだと、土井監督は言う。


大阪も、行政・司法が右傾化に突っ走る

 実際、大阪府でも、橋下徹知事下の去年6月、「通達」ではなく、君が代の起立斉唱を求める「条例」が、全国で初めて制定されており、「職務規定に3回違反すれば免職」とはっきり規定した、「大阪府教育・職員基本条例案」なるものも、まもなく議会に提出されることになっていた。橋下氏のあとを継いだ、大阪維新の会の松井知事は、減給、停職、免職などの重い罪は、回数だけで決めるのではなく、「事情」などを考慮して、慎重に決めなければならないという最高裁判決が出たことで、その部分は見直すと表明しているが、東京についで大阪も、右傾化路線を突っ走っていることに、変わりはないのである。
 また、この2月6日には、君が代不起立で訓告処分を受けた、大阪府門真市の小学校の教諭が、処分撤回と慰謝料を求めた裁判で、「訓告は条例に基づく処分でなく、裁判の取り消し対象にならない」という、門前払いに近い「逃げ」の判決が、大阪地裁で出されたが、付帯的な判決理由の中に、「当時の校長が、式典での君が代起立斉唱を求めたのは、学習指導要領に基づく、儀礼的行為として求めたもので、儀礼的行為は、思想・良心の自由を侵さない」という文言がついており、右傾化の司法による追認は、大阪地裁でも同様であることを、まざまざと証明した。
 この右傾化に抗って、“私”を生きている、東京の三人の教師の記録であるこの映画は、ある種の歴史の転換点を描いた映画として、今後も生き続けるだろうが、転換点での舵取りを間違わぬように、この映画を生かしたいものである。
(上映時間2時間18分)
写真提供:(C)土井敏邦
東 京 渋谷アップリング 2月25日〜上映(東京の第一次上映終了、第二次上映)
大 阪 十三 シアターセブン 上映中(シアターセブンは第七藝術劇場と同ビル)
横 浜 関内 ニューテアトル 2月11日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンターKAVCホール 2月18日のみ上映
仙 台 桜井薬局セントラルホール 3月24日〜上映
佐 賀 シアターシエマ 3月下旬上映予定
近日上映劇場
  名古屋シネマテーク、京都シネマ、広島横川シネマ
自主上映申し込み、DVD購入の詳細は、doitoshikuni@mail.goo.ne.jp
◆配給・宣伝社 浦安ドキュメンタリーオフィス
          mobile 070−5454−1980
          fax 047−355−8455

《公式サイト》http://www.doi-toshikuni.net/

 

 

 

 
   

ユダヤ少女と女性記者の人生が交る感動

ヴィシー政権下のユダヤ系仏人狩り描く

過去隠蔽、不条理の彼方に光『サラの鍵』

(2012.1.27)

木寺清美

 
 


ユダヤ系仏人監督の情熱の一作

 1974年パリ生まれの映画監督、ジル・パケ=ブレネール監督は、2001年にデビューしてから、コメディやサスペンスを作ってきたが、親や祖父の時代の出来事で、自分は知らないナチによるユダヤ人虐殺の問題、つまりホロコーストの問題を、いつか映画にしたいと思い続けていたという。何故ならば、パケ=ブレネール監督は、ユダヤ系フランス人で、祖父、曾祖父、大叔父が、ナチにつかまり、ホロコーストで命を落していることを、自らの家系の話として、教えられていたかである。それが、2006年になって、この映画の原作であるタチアナ・ド・ロネの実録的小説「サラの鍵」に接し、「これこそが、私が作りたいホロコーストを題材にした物語だ」と膝を打ち、早速、映画化権の獲得に乗り出したという。出来上がった映画は、一昨年の東京国際映画祭に出品され、監督賞と観客賞を、W受賞したが、ドイツに占領されていた時代のフランスの、ナチの傀儡政権であるヴィシー政権が、ユダヤ系フランス人の収容虐殺を、積極的に推し進めたことを描き、このヴェルディブ事件と呼ばれる、フランスでのユダヤ人の迫害で、1万3000人のユダヤ系フランス人が、検挙され、8000人が虐殺された事実を、白日の下にさらし、当時と現代の二つの視点から事件に光を当てることで、ジャーナリズムとは何かと言った命題までをも、浮かび上がらせる映画となっている。しかもそれは、正義と出自の、苦闘相克を描く、感動の人間ドラマでもあるのだ。

10歳の少女、弟閉じ込め収容所へ

 1942年のパリ。ヴィシー政権による、ユダヤ系フランス人狩りは始まった。いきなり自宅への手入れが入り、パリのあちこちから集められた、同じ運命のユダヤ人は、一旦、パリ郊外の競輪場に収容された。この映画の一方の主人公である、当時はまだ10歳の少女であるサラの家族も、永年の住居にしていたアパートに踏み込まれ、あたふたとした大混乱の中で、当面の身のまわりの品だけの所持を許されて、父母とともに引き立てられていく。しかしサラはその寸前、以後の全ての運命を決定づける、一つの気転の行為を起こしていたのだ。
 日常の大人たちの会話から、近々、自分たちの家族をも襲う、恐ろしい事態を察知していたサラは、引き立てられる寸前、幼い弟を、昨日のかくれんぼの続きだといって、納戸に隠し、鍵を掛けたのである。以後、この変哲もない納戸の鍵は、見えないまま、ドラマの中央に座り続ける重要な小道具となる。掛けたあとサラは弟に言う。「すぐ戻るから、わたしが戻ってくるまで、この納戸から出てはダメよ。」と。そして、弟の行方を案じる父母たちの心配を引っ提げたまま、一家は、混乱の渦の中に流されて行った。
 サラは、道中も競輪場でも、納戸の鍵を失わないようにしっかり肌身につけ、「私は子供だから、帰してほしい」と、係りの者や警官に、必死に訴え続けた。帰って納戸から弟を出さないと、弟は死んでしまうという思いに、取りつかれていたのである。競輪場からさらに、アウシュビッツの収容所送りとなる者の名前が、次々と呼び出されていく中で、サラは、コワイコワイと泣く芝居まで演じて、巧みに脱走を図ることに成功する。そして弟の待つ、自宅のアパートへと急行した。果たしてサラは、弟を救出し、ユダヤ人狩りから、完全に逃れることが出来たのか。スリルとサスペンスをはらんだまま、物語は、現代のパリに移る。

女性記者、出産封じ迫害の真相取材へ

 この映画のもう一人の主役、もう45歳になるアメリカ人女性記者ジュリアは、フランス人の夫と結婚をして、パリのアパートで、ごく普通の幸せな生活を送っていた(この現代は、一応、1942年からは60年後の、2002年という設定に鳴っている)。子供に恵まれない夫婦であったが、なんと45歳になって、待望の懐妊をし、喜び勇んで夫の話すと、「いまさら赤ん坊に振り回されるような日々を、送りたくない」といい、懐妊を喜んでくれず、ジュリアの苦悩が深まっていた。
 しかし仕事の面では、雑誌社から、「フランスにおけるユダヤ人迫害」についての、詳細な調査報道の記事を求められていて、自らの妊娠という個人的な問題に、いつまでも悩んでいられないという、状況にあった。丁度1995年に、当時のフランス大統領シラク氏 が、ヴェルディブ事件について、「ナチの傀儡であったとはいえ、フランス政府であったヴィシー政権が、フランス国籍のユダヤ系フランス人を、つまり国民を迫害し、8000人も虐殺したことは、由々しき問題で、政府として正式にお詫びする」と言う声明を出し、ヴェルディブ事件が、正式に歴史の闇ではなくなったのだが、まさにその闇の部分を解明する、困難な記事の執筆に、ジュリアは、取り掛かろうとしていたのだった。

記者の自宅にユダヤ人居住の疑惑

 ジュリアは、ヴェルディブ事件について、いろいろと調査をしていて、自分が今住んでいるアパートの地域が、マレ地区と呼ばれるパリの古い地域であり、当時、虐殺されたユダヤ系フランス人が、数多く住んでいた地域であることを知る。そしてさらに、今自分が、夫の家族とともに住んでいるアパートそのものが、そうしたユダヤ人が居住していた部屋ではなかったのかという、衝撃的な疑いに突き当たるのだった。
 それは、たまたま、マレ地区のアパートが、改築されることになり、建物の過去の歴史が、次々と明らかにされ、夫の家族が、つまり夫の父親たちが、そのアパートを手に入れたのが、ユダヤ人狩りがあった1942年であることを、知ることによってだった。一方で、残されたユダヤ人狩りの記録をたどって、マレ地区のアパートに、必死に戻ろうとして、脱走までした少女がいたことを知る。ジュリアは義父を問い糾す。誰からこのアパートを譲り受けたのか。どのような状況下で、譲り受けたのか。しかし問われる義父も夫の家族たちも、寡黙だった。忌まわしい過去とは、すでに決別しているし、いまさら思い出したくもないというのが真情で、夫もまた、「なぜそんなことを調べる。真実を知って、誰が得するのか、世界が、今より幸せになるのか」と、逆に問いただし、妊娠した子供の出産をめぐって深まった夫との溝は、より深い不信の淵に、沈んでいくことになった。それでもジュリアは、追及の手をゆるめなかった。私は妻であり母である前に、ジャーナリストなのだからと。

ユダヤ少女は母となり、アメリカに

 こうしてジュリアは、夫らとともに住む自らのアパートが、譲り受けなどという生易しいものでなく、強引な接収で手に入れたものであることを知る。そしてそれは、まさにサラという少女が、弟を閉じ込めたアパートであることも知る。しかし接収の際、サラと弟が再会したのかどうかも分からず、にもかかわらずサラは、何らかの理由で追いたてられ、その後成長し、母親となり、アメリカに住んでもう老境を迎えていることが分かってくる。  ジュリアは、それ以上取材に深入りすることに反対する夫を押しのけて、アメリカにわたる。そして、自分よりも、半世紀以上も苦闘の人生を送ってきたサラに、やっと出会う。しかし、サラもまた、そして、サラが息子を産み、その息子から派生した親族たちもまた、ヴェルディブ事件いついては寡黙だった。封印した過去を、いまさら教えてもらいたくないという思いが共通していて、ジュリアの問いかけも空振りが続き、何も聞き出せない状態が、暫く続く。自分の夫の家族の寡黙、そしてサラの家族の寡黙、二つの沈黙の狭間から、ジュリアの取材が、少しずつ、隠されたひみつを暴き出す、そしてやがて明らかになる、サラの息子に隠されていた秘密は、それこそ驚愕の事実とも言うべきものであった。

隠蔽の過去の解明、ミステリー映画風

 この映画は、相当な部分が、ミステリー映画仕立てである。雑誌記事のために取材を続けるジュリアは、事件の捜査官のように描かれる。だから、これから見る人の興ざめを防ぐために、最後に明らかになることを、そのプロセスにおいても明らかにすることは出来ない。ただこの映画は、知られたくない過去に蓋をする、関係者全ての行為に、よいとも悪いともいっさい裁断せず、勇気とか弱気とかのレベルで、批評眼をはさむこともせず、大きな時代や社会が、個人を踏み潰した不条理として、受け取るべきだと観客に迫っている。大きな波が打ち寄せるように、不条理の悲しみがラストに打ち寄せたあと、不条理を超えて生きてきた、登場人物たちの生命力に、映画はわずかな光を認め、ジュリアが、夫から出産するなといわれている、45歳の懐妊について、結論を出すのも、このラストのお陰という描き方になっている。つまりは、不条理の中でも、真相追究を、最後まであきらめないという、ジャーナリズム精神の賛歌といったテーマも、横たわっているわけで、その意味でも、とても良い映画である。重要な小道具として、上手く使われているサラの鍵も、もう一度確認される。大戦中と現代の二つの視点から、ナチの暴虐を描き、今も続く戦争の暴力に、反省を促す秀作にもなっている。

仏国民のタブーに挑んだ勇気ある映画

 95年のシラク大統領の正式謝罪を経ても、ヴェルディブ事件いついて、フランス国民が語るのは、いまなおタブーであるという雰囲気が、漂っているという。そんな中で、事件を取上げた原作者の勇気、そして、祖父ら血縁三人を、ナチによって失った、ユダヤ系フランス人である、ジル・パケ=ブレネール監督の、アイデンティティを確認するかのような製作決断を、これまた、大いに称えたいと思う。
 ヴェルディブ事件に触れたフランス映画は、過去に一本だけあるという。イギリスの故ジョセフ・ロージー監督が作った、アラン・ドロン主演の『パリの灯は遠く』(76)で、ユダヤ人と同姓同名の画商が、自らの潔白を証明するために、ユダヤ人の方の同姓同名者を、探しまわるが、見つけたときは、既に収容所送りになっていたという不条理が描かれる。しかし本作のような、多角的な視点はなかった。その意味で本作は、フランス映画史の中で、記憶されるべき貴重な一本だといえる。
(上映時間1時間51分)
写真提供:(C)2010 - Hugo Productions - Studio 37 - TF1 Droits Audiovisuel - France2 Cinéma

東 京 銀座テアトルシネマ 上映中、新宿武蔵野館 上映中
さいたま ユナイテッド・シネマ浦和 上映中
横浜 川崎 千葉 立川での上映終了
札 幌 札幌駅 シネマ・フロンティア 1月28日〜上映
八 戸 フォーラム八戸 3月10日〜上映
仙 台 フォーラム仙台 2月11日〜上映
山 形 フォーラム山形 3月3日〜上映
福 島 フォーラム福島 3月3日〜上映
那須塩原(栃木県) フォーラム那須塩原 3月24日〜上映
新 潟 ユナイテッド・シネマ新潟 3月24日〜上映
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 3月3日〜上映
浜 松 浜松シネマ・イーラ 3月31日〜上映
名古屋 栄 名演小劇場 2月4日〜上映
大 阪 シネ・リーブル梅田 上映中
京 都 烏丸 京都シネマ 上映中
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 上映中
和歌山 ジストシネマ和歌山 3月17日〜上映
岡 山 シネマクレール丸の内 3月17日〜上映
広 島 シネツイン本通り 2月25日~上映
福 山 シネマモード 3月24日〜上映
松 山 シネマサンシャイン大街道 3月31日〜上映
福 岡天神 KBCシネマ 1月28日~上映
北九州 シネ・プレックス小倉 1月28日〜上映
長 崎 長崎セントラル劇場 3月10日〜上映
熊 本 Denkikan 3月3日〜上映
大 分 大分シネマ5 3月31日〜上映
那 覇 シネマバレット 3月31日〜上映
4月以降近日上映劇場
  フォーラム盛岡、秋田フォーラス・シネマパレ、シネマテークたかさき、岐阜CINEX、   伊勢進富座、金沢シネモンド
配給社 ギャガ・GAGA(ギャガ・コミュニケーションズ)
       

《公式サイト》http://www.sara.gaga.ne.jp/
 

 

 

 
   

土木作業しかない若者、解雇された移民

現代日本の貧困と閉塞感を見事に描いた

新人監督の国際映画祭受賞作『サウダーヂ』

(2012.1.19)

木寺清美

 
 


製作集団“空族”、富田克也監督の挑戦

 この映画『サウダーヂ』(ブラジルから日本への移民の母国語、ポルトガル語で、「郷愁」の意)の、富田克也監督は、1972年生まれ。甲府の高校を卒業して、音楽の道を目指して上京するも、なかなか出口を見出せず、フェリーニの映画に影響されて、映画の道に転進、様々な職業で働きながら甲府で映画を撮影しはじめる。2000年から三年を掛けて、『雲の上』(寺の息子が、寺に伝わる龍の伝説、つまり何かいいことのある雲の上=天に憧れながら、犯罪の道に落ちていく話)を完成、その製作スタッフが、『雲の上』の上映過程で、製作集団“空族”(くぞく)を結成、2007年には、“空族”の第二作として、甲府の郊外の国道20号線を舞台に、道路沿いのパチンコ屋と消費者金融のATMを往復する、元暴走族の荒れた青春を描いた『国道20号線』を作った。この作品は、高く評価する批評家もいて、全国のミニ・シアターで上映されるまでになった。満を持して2009年から取り組んだのが、今回の『サウダーヂ』で、その1年間にわたるリサーチの過程で、通称「シャッター街」と呼ばれる、不況で閉鎖された商店街など、『サウダーヂ』の出演者らの生活の場を活写したドキュメンタリー『FURUSATO2009』も、先に生まれている。とにかく“空族”や冨田監督の撮影方法は、スタッフもキャストも、土日や休日ごとに集まって(富田監督自身、トラックの運転手で、それが生活費や製作費を生み出す基盤)、数年掛けて完成させるというもので、『サウダーヂ』も例外では、なかったのである。

土木作業の汗、絶叫の音楽、移民の貧困

 『サウダーヂ』は、富田監督の出身地甲府の町を、丸ごと取り込もうとした発想から出発したものだが、リサーチしてみると、甲府は昔とはすっかり様変わりし、県庁所在地とは名ばかりの地方都市で、しかも東京に近すぎることから、独自の地方文化も育たないという、不毛に近い都市だった。勿論、若者の文化や生活の場も貧しく、若者にとって、手っ取り早い職場は、土木作業(敢えてこの映画は「土方」と表現する)しかなく、その土木業も不況の影響で風前の灯だった。その社長らの、悲痛な苦境をどうするのかを、映画は追うことになる。
 一方、そのような閉塞感いっぱいの街と、若者の状況の中でも、HIPHOPとダンスといった若者の音楽文化は、シャッター街の裏の、うらぶれた場所で、悲鳴に近い叫びとともに、辛うじて命脈を保っていた。この破れかぶれに聞こえる若者の音楽の「汗」が、土木作業の「汗」と、カットバックされるように描かれる。そして一人の青年ラッパーの破れかぶれを、映画は追うことになる。
 そして最後には、いつの間にか甲府に巣食っていた、移民の工場労働者が、工場からの大量解雇によって街に溢れ、貧困を引っさげたまま、日本の若者の土木作業員や、破れかぶれのラッパーと絡みつく。それは、主として日系ブラジル人の予想以上に大きいコミュニティに入り込むことであり、タイ人やフィリピン人の、コミュニティにも入り込むことであった。『サウダーヂ』という映画は、製作集団“空族”と富田監督の、そういう甲府の現状への挑戦なのである。

タイにいた男やラッパーも、土木作業に

 二人の若い男が、ほかに客がいない食堂で、向かい合ってラーメンを食べながら、自己紹介をし合っているところから、映画は始まる。土方の堀精司と、派遣で同じ土木会社にやってきた保坂である。保坂は、最近までタイに住んでいて、暑いところには慣れているから、土木作業は大丈夫だという。精司は、妻恵子に隠れて、タイからの移民女性が経営するタイパブに通っているため、保坂と話が合いそうに思う。
 HIPHOPグループ「アーミービレッジ」に所属する天野猛は、グループのライブも、客の反応も、上手くいかない現状にイラつき、ブラジル人のコミュニティが運営するディスコに、夜、顔を出す。しかし入口で守衛と小競り合いになり、入ることは出来なかった。そして次の日の朝、派遣の土方として、精司と保坂のいる同じ土木会社に、彼も姿を現わした。猛の父は自己破産し、パチンコに逃避する日々で、弟も引きこもりのため、HIPHOPどころではない、一家の柱として稼がなければならない立場だったのだ。そしてこの土木会社でも、多くのブラジル人労働者が働いているのに遭遇し、楽しみも労働も、ブラジル人が、日本人から奪っていくというふうに、猛は思うようになっていたのである。
 しかし、汗と砂ほこりにまみれた一日が終ると、猛は、精司と保坂にさそわれるまま、タイパブに赴いた。タイ人ホステスと談笑し、殆んど日当を飲み代に使ってしまった猛だったが、何故か外国人と付き合うことに、違和感を持ったままで、気持ちよく酔えなかった。「北朝鮮がパチンコで俺の親父を搾取し、大きな顔で外国人が、甲府を席巻している。親父の自己破産も、外国人による金の持ち逃げが原因だ」と、外国人に対する恨めしい思いが、猛の心には、募るばかりだったのである。

失業者溢れるブラジル人コミュニティ

 少し郊外の山王団地や田富町には、ブラジル人(主として日系)のコミュニティがあった。殆んどは、甲府周辺の中小企業の工場で働く労働者なのであるが、リーマン・ショック以後の不況で、大量に解雇され、殆んどは失業者だった。ブラジル人のHIPHOPグループである「スモールパーク」で、メインMCをやるデニスとその恋人のピンキーも、失業者で、失業保険で辛うじて食いつないでいた。しかし、日本にきてからの歴史が浅い、一般のブラジル人移民は、生活の手段がなくなり、ブラジルへの帰国を余儀なくされ、山王団地のブラジル人も、ひところの三分の一に減っていた。
 そんな中、このコミュニティの自治会長を務めるブラジル人、ファボン一家の悩みが描かれる。ブラジルに帰国するのか、日本に残るのか、それともフィリピンに行くのか。このフィリピン行きというのは、ファボンの妻マリアがフィリピン人で、日本での移民同士の結婚だったのだ。ファボンは、可能な限り日本で頑張る決心をし、帰国するブラジル人に対して、その都度、励ましながら見送った。そういう決心をしたのは、何とか仕事があり続けさえすれば、日本の給与ベースが一番高く、生活の安定が望めるからだった。それでも生まれた2人の子は、将来にわたって、三つの国籍のどれを選ぶかという悩みを、抱え続けることになる

請負えば赤字、大規模建設は一方で進む

 精司らが雇われている土木会社も不景気だった。土方の親方山中は、連日営業周りをしていたが、思わしい仕事を、次々と契約するには至らず、今請け負っている仕事が終ればどうなるのか、先行き不安を抱えたままだった。そんなときに限って、安く値切ったレンタル重機が故障し、工事現場に置いておいた鉄板は、何者かに盗まれた。それでも工事を止めれば、たちどころに倒産というわけで、修理代がかかろうと、資材費が割高になろうと、重機を修理し鉄板を追加注文して、工事は続けねばならなかった。だが仕事をすれさするほど、赤字が増えるという、悪循環に陥っていた。高台から見渡すと、そこは、甲府に進出してきた、スーパー・イオンの建設が始まっている広大な更地。入札制度の壁に阻まれ、指定業者になれなかった精司らの会社は、東京から押し寄せた、この大手建設会社の仕事ぶりを、指を加えて、見ているだけだった。
 このシーンは、不景気の中で起きている建設業界の理不尽を、まるでドキュメンタリー映画ようなシーンで表現している、秀逸な場面なのだが、たまたま撮れたからと言って、「イオン」の名前も消さず、そのまま映画に使用するという素人考えが、この映画を駄目にしていると、完成して配給会社や上映劇場を探しているときに、その筋の映画専門家から言われたと、富田監督は、有料試写会の質疑応答で明らかにしていた。だがそれは事実だし、事実だからこそ、映像として説得力もあるのに、なぜいけないのかと富田監督は、さらに憤慨していたが、この映画は、フィクション映画の撮影中に起きた、こういう怪我の功名とも言える幸運にも、多大の魅力がある映画なのである。 日本、対ブラジルHIPHOPバトルに敗る

 そんな閉塞状況の中で、猛の元恋人である“まひる”が、猛のHIPHOPグループ「アーミービレッジ」と、ブラジル人のHIPHOPグループ「スモールパーク」のバトルを計画し、持ちかけてくる。“まひる”は、猛と別れて、暫く甲府を離れ、上京していたのだが、危うくクスリ中毒になりそうになっただけで、夢は破れ、故郷に帰ってきていた。HIPHOPの催しで何らかの成果を挙げて、猛を見返さないことには、別れたことの意味を失うという心境に、追い詰められていたのだ。そこで、日本人ではあるが、リオデジャネイロに本部があるラッパーの、カボエラグループに参加しているナラハリメンバーの応援を得て、日本対ブラジルのバトル企画を持ち込んだもので、そこには、応援の力でブラジルを勝たせて、猛を見返す目論みが、はじめから仕組まれていたのである。事情を知らない猛の「アーミービレッジ」は、分けの分からないポルトガル語なのに、「スモールパーク」の圧倒的な迫力と、聴衆の支持の前に敗れ去ってしまう。
 「何をやっているのだ」と、猛は「アーミービレッジ」の仲間に対して荒れた。引きこもりの弟も、久しぶりにラッパーとして舞台に立ったが、空しい思いをしただけだった。ブラジル人ばかりのコミュニティになっている山王団地は、以前猛が住んでいたところで、もあっただけに、猛の外人嫌いは、バトルの敗戦でますます高まり、外人を排斥して日本を守ろうとする、いわゆる偏狭なナショナリズムに、傾き始めていた。

旧世代、町改革に動かず、怪しげな人動く

 シャッター街の所有者ら、古い世代の大人たちは、町の復興に全く意欲を示さなかった。若者がいろいろ企画を立て、施設の貸借を申し入れても、不動産は活用せず、ただ持っていればいいという姿勢で、一切提案に乗ってこなかった。うごめいている大人は、怪しげな連中ばかりであった。ブライダルサロンを経営している中年男笹川の実像は、地元選出の若手国会議員赤尾大輔に取り入り、様々な事業に手を広げようとする、政治ゴロみたいな男だった。その男の秘書兼愛人の由美は、山奥で探し出した、解毒効果があるという、怪しげな化粧水、日輪水なるものを販売している中年男富岡と結託し、地元テレビのコマーシャルづくりなどに乗り出しているが、元ホステスで派手好きな精司の妻恵子は、この由美の怪しげな組織に取り込まれていく。夫精司とともに、赤尾議員のパーティに出たときは、議員を取り巻く派手な装いの女性たちに、元ホステス心がくすぐられ、精司の存在など忘れて、夢中に近づいていく。

移民・日本人労働者、閉塞状況打破出来ず

 あらゆる立場、あらゆる局面で、閉塞状況をぶち破れないまま、時が過ぎていく甲府の町、日本に残留する決心をし、失業保険で辛うじて食べていた「スモールパーク」のメンバーのブラジル人、デニスとピンキーも、保険が切れていよいよ行き詰まっていた。思いついた道は、盗難車でも堂々と売買してしまう、中古車販売のブローカー業で、辛うじて食べられていたものの、ブラジル人というだけで、日本人市場では、なかなか取引応じてもらえず、先行きは真っ暗だった。バトルでの活躍などは、ウップン晴らしみたいなもので、殆んど生活には役に立たなかった。
 精司は、妻の恵子が家庭を顧みず、浮ついた交際をするようになってからは、ますますタイパブにのめりこみ、日本人と混血のタイ人ホステス・ミャオと親しくなって行った。しかし、精司の働く土木会社が、存続している間は、遊ぶ金もあったが、倒産して失業と言うことになると、パブで使う金にも困ることになる。実際、会社の親方山中の、日々セールスという努力にもかかわらず、ひ孫受けのような仕事しかなく、ついに会社の解散が決まってしまう。
 路頭に放り出された精司は、土方の仕事も、タイに行けば、もっとたくさんあるのではないかと考え、タイに一緒に行って生活しようと、ミャオに迫った。タイについての知識は、タイに住んでいたという同僚の保坂から得たもの程度しかなかった精司だったから、ミャオからはこともなげに拒否される。「タイに行って、もし仕事があったにしても、日本の十分の一くらいの収入にしかならないのよ。それに仕事もない貧しい家族が、タイで私の送金を待っている。これはまだ、当分続けなればならない私の仕事なのよ。私の人生は縛られた人生、仕方がない」と言って、帰りたい郷愁はあるものの、日本に残留し続けることを、強く表明した。

遂に血を見る日本と移民の同じ困窮者

 若者労働者も、移民も、ラッパーも、出口の見えない行き詰まりに差し掛かっていた。町の有力者も、甲府の改革には、動こうとしなかった。新しい有力者といえるのかどうか、怪しげな人物だけが、跋扈し始め、先の見えない、見ようとしない女たちが、それに引きずられていた。そんな中で、行き詰まりに苛立ち、空元気だけを振りまいていたのが、猛だった。
 この映画の出演者は、一部を除いて、“空族”に共感して集まってきた素人俳優によって支えられているが、この猛を演じた田我流(でんがりゅう)は、元山梨県一宮町に実在するstillichimiyaというHIPHOPグループの本物のラッパーで、市町村合併で「一宮」の名が消えるを嘆いて、「いまだ一宮」というグループの名にしたほどの、郷土愛者だった。しかし猛ほどの排他主義者ではなく、「演じにくい」と文句を言っていたそうだが、儲からないから店のシャッターを閉めてしまうという、大人の考え方には、猛同様納得できず、猛の心理を頭で理解して、必死に演じたという。
 そんなわけで、田我流は、ブラジル人憎しで、「スモールパーク」のデニスが、猛の元恋人まひると、一緒にいるところに偶然出くわし、持っていたナイフで、デニスを発作的に刺し、警察に逮捕されてしまうラストまで、ファナティックに演じたのだった。

ナント三大陸映画祭で受賞、ベスト1作品

 この映画は、甲府の現在を、丸ごと捉えようとする発想から始まって、様々な局面の閉塞状況を、点描しただけの映画に終っているかもしれない。しかし全編が、ドキュメンタリーのようにすごく生々しく、身につまされるのである。それは、富田監督以下“空族”のみんなが、小手先の技術を使わないで、それぞれの事象に、正面から全霊でぶち当たったからであろう。
 プロの配給網、上映手段からは、白眼視されたこの映画、フランスの著名な映画芸術誌「カイエ・デュ・シネマ」の書き手の目に止まり、誌上絶賛されたのがきっかけで、スイスのロカルノ映画祭に出品するチャンスを掴み、経済大国日本にも、こんなうらぶれた現実があるのだと、受賞はしなかったが、評判となった。そして、たまたま客員として参加していた、フランスのナント三大陸映画祭の関係者が、「うちでも上映しよう」と考えるようになり、ついにナント三大陸で、是枝裕和の『ワンダフルライフ』(98)以来のグラン・プリを獲得することと、なったのである。
 日本の甲府と東京のこれまでの上映でも、知られざる映画のまま、終りそうだったが、この受賞で息を吹き返し、今東京では、ロングラン再映中である。全国各地の上映も軌道に乗りそうである。まさに低調だった2011年の日本映画に「活」を入れる、新人監督の、売れることを意識しないで作った、3時間近い大作である。
(上映時間2時間47分)

札 幌 蠍座 5月1日〜上映予定
東 京 オーディトリウム渋谷 上映中(第二次上映)
横 浜 黄金町 シネマジャック&ベティ 1月21日〜上映
石 和(山梨県) テアトル石和 2月11日〜上映
新 潟 シネウィンド 4月7日〜上映
富 山 フォルツァ総曲輪 3月17日〜上映
金 沢 シネモンド 4月上映予定
松 本 松本シネマセレクト 3月11日のみ上映
浜 松 浜松シネマイーラ 4月上映予定
大 阪 九条 シネ・ヌーヴォ 2月11日〜上映
     十三 第七藝術劇場 3月3日〜上映
京 都 新京極シネラリーベ 3月24日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 4月14日
〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 上映中
佐 賀 シアターシエマ 5月上映予定
*甲府、広島の上映は終了
配給社 空族(くぞく)
宣伝社 カプリコンフィルム

公式サイト》http://www.saudade-movie.com

 

 

 
   

1950年代末の毛沢東の右派弾圧で、

収容所に送られた政治犯の苦闘描く

新鋭王兵監督の公開禁止作『無言歌』

(2012.1.10)

木寺清美

 
 


50万人もの労働改造、餓死者相次ぐ

 この映画は、2010年のヴェネチア映画祭で、コンペではなく特別上映され、サプライズ・フィルムとされた中国映画であるが、香港・仏・ベルギーの合作で、中国政府は、中国映画とは認めず、公開禁止にしている。この映画の大部分は、甘粛省の彼方のゴビ砂漠で1946撮影されたが、中国政府の横槍を予測して、無届け無許可だったため、地方の役人は、撮影隊をゴミにたかるハエのように扱い、常に追われる危機と直面しながらの撮影だったという。
 なぜ中国政府は、この映画を目の敵にしたか。文革の始まった1966年よりも10年近く前の1957年、毛沢東政権はその前年に、言論の自由を保障するとして、「百家争鳴、百花斉放」を掲げたにもかかわらず、行過ぎた右派の分子(文核時代は走資派という言い方をした)を糾すと称して、「反右派闘争」を展開、50万人もの政治犯を、「労働改造」の名の下に、辺境の「強制収容所」に送って虐待、餓死者が相次いだ。その政治犯の苦しみを描いたのが、この映画なのである。


公開禁止はノーベル平和賞不認知と同根

 ケ小平以後。開放経済政策をとり、今や世界第二の経済大国にまでのし上がった中国は、いまだに共産党の独裁政権。だから、1948年に共産党革命を達成した毛沢東を、否定はしておらず、今も毛沢東は、神格に近い扱いである。党の方針に反対する者は拘禁され、真の意味での自由はない。天安門事件(1989)以後、自由を求める数多くの中国文化人が、海外に亡命して活動しているが、それらの文化人や、国内で人権の回復を求める人たちを束ねて、2008年に出した、真の議会制民主主義などを求める「08憲章」の、中心的な取りまとめ役だった劉暁波(リウ・シアオボー)氏が、ノーベル平和賞を得たのを認めていない(その前に仏在住の作家高行健(カオ・シンチェン)のノーベル文学賞も認めていない)中国政府の考え方と、この映画の公開禁止は同根で、50年代末に、毛沢東が行った弾圧を、中国政府は「人権違反の誤りであった」とは、認めておらず、そこから公開禁止の処置が出てくるのである。

原作は楊顕恵の小説、生存者尋ねて脚色

 映画の原作は、1946年生まれ(戦後生まれ)の作家楊顕恵(ヤン・シェンホイ)が、2000年に“上海文学”に連載した、「夾辺溝の記録」(この映画の原題も「夾辺溝」)という、いわゆるノン・フィクション小説で、連載直後も出版されたが、2008年に、きちんと再販されたものを、この映画はもとにしている。90年代末から、ドキュメンタリストとして活動をはじめ、日本占領中に作られた瀋陽の廃れいく工場地帯の歴史を、9時間の記録映画にまとめる等した、中国の最も新しい世代の監督王兵(ワン・ピン)が、この小説の中から、19章あるもののうち、「上海女」「逃亡」「一号病室」の3章を選んで、原作者も加わって、独立した挿話としてでなく、まぜこぜのストーリーに脚色したのがこの映画だ。また執筆に当たっては、王兵監督が、当時の追放された政治犯の生き残りの人々を、数多く訪ねて歩き、そのインタビューや取材内容を、脚色に生かしたという。

原作が出来るまでにも、入念な真実が

 東大の中国文学の教授であり、「中国映画」という著書もある藤井省三教授は、「夾辺溝の記録」について、この映画の解説文書の中で、次のような解説をしている。  「上海女」の章は、次のような文章で始まる。「この物語は、李文漢という右派が、私に話したことだ。彼は湖北省の人で、高校卒業後、解放軍に参加し、建国後、義勇軍に入隊し、朝鮮で戦った。朝鮮の戦場で負傷し、肋骨三本を、アメリカの爆弾で吹き飛ばされた。帰国して治療を受けたのち、公安部に残って仕事をした。しかし、出身が、大資本の家庭だったため、1957年に右派とされ、公職を解職され、夾辺溝での労働改造に送られた。」と。
 つまり、「上海女」の主人公李文漢は、毛沢東の共産党革命成功時に、高卒であったということだから、当時としてはインテリであり、1948年の建国にも貢献し、その後すぐ起きた朝鮮戦争でも、金日成を助ける中国義勇軍に参加し、朝鮮の南側と、それを助けるアメリカ軍と戦い、名誉の負傷をした人物ということである。にもかかわらず、家庭が裕福であったという理由だけで、50年代末の毛沢東の反右派闘争の犠牲者に、簡単にされてしまったというわけである。

出会った作者と主人公の語りを素材に

 そして藤井教授は、この文章の中の「私」とは誰かと推理している。続いて、「遊牧員として働いていた李文漢と私は、牧場脇の小屋で同居し、信頼しあい理解しあった。そして李文漢は、私にこの物語を、話し始めたのだ」というくだりがあることにも注目し、楊顕恵が1946年生まれで、反右派闘争と文革の狭間の、20歳にも満たない青年時代に、蘭州の生産建設兵団の農場で、働いていたという記録もあることを勘案し、だから「私」は作者自身の楊顕恵ことだと思うと藤井教授は断定している。まさに1960年代前半、牧場の生産兵団で出会った、李文漢と楊顕恵が、一方は反右派闘争の闇を語り、一方はその闇を聞いたのであって、それを2000年まで暖めていた楊顕恵が、小説にしたのであると推定される。おまけに監督王兵も、さらに生存者にインタビューを重ねて歩いているから、いかにこの物語と映画が、真実に基づくものであるかが分かると、藤井教授は、描かれていることの信頼性を、保証している。まさにその真実の保証が、公開禁止にする中国政府の、最も気に障る部分なのであろう

くすんだ青空と茶色の荒野の壕生活

 1948年、毛沢東の革命は希望だった。1956年、毛沢東は自由な批判を歓迎するといった。人々は未来を思い、はつらつと発言した。しかしその数ヵ月後、彼らを弾圧する「反右派闘争」が始まった−というタイトルとともに、映画は始まる。1960年10月、そこは、中国甘粛省西部の砂漠地帯、右派と指弾された政治犯が収容されている、夾辺溝労働教育農場の高台県明水分場である。
 轟々と風が鳴り、砂が舞う荒野。一本の木も生えていない、地平までが見渡せる荒野。空はあくまでも青くくすみ、雨など絶対に降らさないという表情で、これまたくすんだ茶色の大地にのしかかる。このくすんだ青と茶色の色彩設計が、映画全体を統一する美学で、話が展開されるにつれ、死と隣り合わせの苦役や、凄惨な運命や悲惨な悲劇を象徴するのにふさわしい色彩設計であることが、冒頭から示されているのだと、暫く見れば分かるようになっている。
 そんな大地を歩いてきた一群の男たちが、張られた粗末なテントの前に集められる。「労働改造」の名の下に、派遣されてきた“右派”と呼ばれる政治犯たちだ。隊長の命令で班分けされ、それぞれの宿舎に振り分けられる。宿舎とは名ばかりの、昼間でも中は真っ暗な、大地に掘られた穴倉のような壕である。原作者が、直接話を聞いたと推定される人物李文漢は、冒頭から早くも登場し、8号壕に収容される。

苦役に過ぎない開墾、死者も相次ぐ

 映画は8号壕に収容され、同室となった政治犯たちの物語が、その後展開されることになる。李のほか、管理者の所長から、班長を命じられている陳(チェン)、董(ドン)、魏(ウェイ)、張(チャン)、駱(ルオ)先生と呼ばれている男などが、次々と登場する。  日々の仕事は、ただただこの荒野を、農地にするために開墾をすること。しかしそんなことが、あり触れた農機具しかない手作業で、できるわけがなく、日々、ただ無為な土の掘り返しをしているだけなのだ。しかもそれは重労働であり、殆んど粥だけという食事では、肉体的に耐えられず、次々と死んでいくという悲惨なことになる。
 土堀りの最中、一人の男が突然倒れこむ。二人の男が抱き起こそうとするが、歩けない。よく見るともう男は既に死んでいる。仲間たちは、その男の死を悼むまもなく、次の作業へと、苦役は続く。班長の陳が、所長に呼ばれ、稼働状況を聞かれるが、三分の一は、歩くことが出来ず、土堀りに参加できないと答える。

物々交換の正規外食事、妻の離縁も多数

 夜。ランプの灯の中で交わされる陳と董の会話も切ない。与えられる食事では足りず、物々交換で管理者から、個人的に別の食べ物を調達するというような、ヒドイことも行われていた。その交換用の持ち物が、ズボンとシャツしか残っていないことを二人は嘆いているのだ。それらを食べ物と交換してしまうと、来年の夏、着るものがなくなってしまうからだった。しかし陳は、やぶれかぶれに言う。「そんな先の心配よりも、今生きぬくことを考える方が、重要ですよ」と。そこまで事態は、逼迫していたのだ。また董が持つロンイジンの時計も、この壕生活では、交換してほしいと言うものがおらず、役に立たないことが分かる。
 そうこうするうちに、魏には離婚訴訟の判決文が届いた、それは妻の離婚要求を認めるというもので、魏は「勝手にしろ」と大いに荒れた。右派の烙印を押されて、時代に合うように転向できない男は、私の夫ではないという、つれない妻も多かったそうだが、町に残された妻子が、「右派の家庭」だと,近隣から後ろ指を指され、やむなく夫と縁を切って、毛沢東側に転向するというケースも、相当数あったらしい。魏のケースがいずれかは、映画は描いていないが、毛沢東によって、家庭が壊されたケ−スも、相当数あったことが分かる。妻の離婚通知は、このあと班長の陳にも届き、落胆させる。

荒野の彼方に無造作に捨てられる遺体

 死んで行った者の処理も、悲惨で壮絶だ。毎日誰かが疲労と飢えで死ぬ,冬の零下20度にもなる高台県明水分場、遺体は粗末な布団に包まれ、驢馬に引かせた荷台に乗せられ、荒野の彼方に運ばれて行って、無造作に捨てられる。埋葬などない。その寒々とした即物的描写は、身も凍るほどの悲しさと怖さだ。
 冬になって、配給は一日250グラムに逆に減らされ、餓死せよと命じられているようなもの。荒野にわずかに生える雑草から、わずかな種でも採って食べようとする老人や、ねずみを捕まえてぐつぐつ煮る者、変なものを食べて吐く者がいれば、その吐瀉物の中に残った穀物粒を、拾い食いする者もいる。こうした見るも無残な光景を、直視せよと映像は迫る。
 あるとき、張と呼ばれていた男が所長に呼び出され、「お前は死体食ったろう」と指弾され、縛り上げられて、どこかに連れ去られてしまう。おそらくそのまま処刑されたらしい。大岡昇平の「野火」という、太平洋戦争中の、フィリピン・レイテ島の凄惨な戦いを描いた小説に、仲間の死体を食べる兵士の話が出てくるが、人肉を食する悲劇は、社会主義革命後の中国にもあったのである。王兵監督は、前述のように、これら全てが、生き残りの政治犯から取材したものだといっている。

上海からの医師、僻地医療は遠く客死

 ペンを取る力がなくなった者が、辛うじて元気な同僚に、家族への手紙を代筆してもらうシーンがある。「必ず返事を。滋養のある食べ物を、送ってほしい」と、文面はとても切実だ。そして李文漢は、収容所に送られてくるまでは、上海で医者をしていた董から、「僕が死んだら、布団でくるんで、壕の一番奥へ隠してほしい。そして上海の妻に連絡し、遺体を引き取りに来てもらい、上海で埋葬してほしい。ここに埋められるのは耐えられない」と頼まれる。董は妻とともに、上海で病院勤めをしていて、家族の反対を押し切って、僻地医療にでも従事するような感覚で、半ば志願してここに来た。自由の大切さは唱えていたが、取り立てて政治的発言をしてきたわけではない。だから健康など無視したひどい現実の中で苦悩し、何とかしようと思ったが、誰一人飢餓から救うことはできなかった。自分の甘い考えを、慙愧の思いで反省する日々なのだ。
 李が董の思いを承知した翌朝、董は死ぬ。約束どおり、遺体を壕の奥に隠すが、すぐに見つかってしまう。そして董の遺体は、その願いも空しく、砂漠の奥深くに運ばれて 埋められた。

神の怒りにも匹敵、医師の妻の号泣

 やがて上海から董の妻がやってきた。李は、とても董の最後を語ることは出来ず、「董は命令で外出している」と嘘をつくが、いつまでも待つという妻の態度に、ついに董が死んだことを打ち明けてしまう。わっと泣き伏す妻。しかし気丈にも、夫の遺体と対面したいという。「何処に埋葬されているか分からない。荒野の中を探し回るのは危険、あす上海に帰るように」と、李は説得するが、それも聞かず、妻は、来る日も来る日も荒野を歩き回るようになる。
 李は実は、董の遺体の捨てられた場所と、その状態を知っていた。数日前に、荒野をうろついていて、見つけたのだ。しかしそれは、正視できる状態ではなかった。無残にも衣服は剥ぎ取られ、あちこちの肉も抉り取られていて、野ざらしだった。そんなところへ妻を案内することは出来ず、知らないといい続けたのだ。しかし妻は、執念で夫の遺体をみつける。天と大地をつんざくように号泣する妻。この悲しみの極限的表現には、どのような形容の言葉も無駄であろう。もうそれは、悲しみを通り越した、神の怒りの声とでも言うべきものであるからだ。
 李は、黙々と董の遺体を荼毘に付し、董の妻は、その遺骨を持ち帰った。

李は、病臥の師と別れ、逃走で生き残る

 映画は終盤「逃走」について語る。何とか生き延びた李文漢は、ずっと同室で病臥していた駱先生を連れて、脱走を計画する。駱先生は、今でいう一級建築士で、「先生」と呼ばれるだけの知識人だった。毛沢東が百家争鳴を唱えたときに、「プロレタリア独裁」という表現をやめて、「全国民独裁」という言葉を使おうと提案しただけで、「右派」とされ、収容所送りになった。李もその経緯にずっと同情し、師事し続けた。しかし病人を抱えての逃走は、大変だった。駱先生は、歩けなくなったとき、「私を師と思うなら、私の命令を聞け。私を置いて逃走するのだ。健康なものまで犠牲になることはない」といい、自ら死を選んでしまう。一人で行こうとして戻るなど、何度も躊躇した李は、結局自分のコートを駱先生に掛け、一人で逃走してしまう。
 1960年末、約4年続いた反右派闘争は、開墾の成果を何一つ挙げられないまま、、一旦終了し、生き残った収容者は、それぞれの故郷へ戻されることになる。その間際に魏が死ぬ。「魏は身ぐるみはがされ、布団などの持ち物も、全て持ち去られた」という目撃者の報告に、班長の陳は、「死んだ者より、生きている者が大事だ」と答えていた。
 その陳が、班長なるがゆえに、最後まで残れと所長から命じられる。壕に一人残った陳とも思える男の、しのび泣くような歌声が響く中、「苦難の末に非業の死を遂げた人々と、辛くも生き延びた人に捧げる」というタイトルがかぶさって、映画は終る。

再現を超え色彩美に彩られた芸術作
   
 監督の王兵や原作者の楊顕恵は、この毛沢東の反右派闘争の闇を、再現しようとして、正確を期するために、伝聞や取材を重ねたことは、前半部分で詳しく述べた。そして、中国共産党の過去の闇であるとは認めない、中国政府によって、出来上がった映画は、公開禁止になった。映画は、まさに悲惨な事実の再現であるが、その執拗なリアリズムにとどまらず、残酷美、凄惨美、荒涼美とでも呼べる美意識が、作品全体を覆っており、見事に抑制された、芸術作品に仕上がった。第五世代とか、第六世代とか、中国映画の歴史的流れを語るときは、監督の世代で分類するのが通例になっているが、もうそういう分け方から決別することになっている今、敢えて分けるとすれば、王兵監督は第七世代と言うしかない新鋭である。その新鋭が、10年近い記録映画への専念を卒業し、初のフィクションを演出するに当たって、リアルなドキュメンタリズムを持ち込んだのは当然としても、このような個性的な色彩美までを確立してしまうのは、稀有な才能である。王兵監督は、中国映画に新しい金字塔を、うち立てたといえる。
 この映画が、公開禁止に抗って、世界中で公開を重ねることが、天安門事件以後の中国の人権問題を、解決する糸口にもなるだろうし、2011年。日本で公開された外国映画の、べスト上位に食い込む作品であることも、間違いのないことである。

東 京 ヒューマントラストシネマ有楽町 上映中
大 阪 茶屋町 テアトル梅田 上映中
         十 三 第七藝術劇場 上映中
京 都 烏丸 京都シネマ 上映中
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 1月14日〜上映
札 幌 大通 シアター・キノ 2月中に上映
山 形 フォーラム山形 1月14日〜上映
仙 台 桜井薬局セントラルホール 近日上映
横 浜 関内 横浜ニューテアトル 1月14日〜上映
高 碕 シネマテークたかさき 近日上映
長 野 長野ロキシー 近日上映
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 1月28日〜上映
広 島 広島サロンシネマ 近日上映
福 岡 天神 KBCシネマ 2月4日〜上映
大 分 大分シネマ5 近日上映
熊 本 Denkikan 近日上映
那 覇 桜坂劇場 近日上映

◆配給社 ムヴィオラ 03−5366−1545

《公式サイト》http://www.mugonka.com/
 

 

 

 
   

70年代末、アルゼンチンの軍事政権下

子供の目で描く弾圧に無抵抗な大人たち

子供も密告者になる怖さ『瞳は静かに』

(2011.12.28)

木寺清美

 
 


3万人不明、孤児売買のアルゼンチンの闇

 1985年製作のアルゼンチン映画に、米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した、『オフィシャル・ストーリー』という名作があった。
 1976年のアルゼンチン、軍事クーデターで、大統領のイスに座った、ビデラ将軍は、比較的善政を敷いていた、それまでのペロン大統領夫妻の時代に終止符をうち、反体制派の弾圧に乗り出し、強制連行、拷問、処刑を繰り返す恐怖政治を敷いた。当時の若者を中心に、およそ3万人が、今も行方不明であり、1983年に、7年半ぶりに民政に戻って以後も、軍事政権の闇を追求する営為は延々と続き、去年やっと、ビデラ元大統領に、終身刑の判決が下っている。
 3万人が連行されていたころは、そうした処刑で孤児となった、幼児や新生児が政権の手で、売り飛ばされ、子供のない軍人や、海外の養子希望者が、金銭で孤児を買ったといわれ、その数は、およそ500人もいるという。
 『オフィシャル・ストーリー』は、そのような売買された養子の問題を、養母の立場から追及していく、社会派の感動のドラマであったが、今回のアルゼンチン映画『瞳は静かに』も、そのような恐怖政治の時代の、庶民の生活を、子供の目線で描いたもので、当時子供だった、ダニエル・ブスタマンテ監督の、苦々しい思い出が二重焼きになった、優れた映画なのである。

8歳の息子、母の事故死で生活一変

 舞台は、アルゼンチン東北部の地方都市サンタフェ、時は、軍事政権による恐怖政治時代の、1977年夏から78年夏までの一年間、アンドレスという名の8歳の少年を主人公に、一緒に暮らす祖母オルガや、兄の小学上級生のアルマンドや、父ラウル、そして、母との秘密の交流があったらしい幼馴染のアルフレドや、学校の先生や、政府情報局の人物らしいセバスチャンなどとの、かかわりのドラマが展開されていく。
 はじめ住んでいた、少し広い家には、病院の看護婦をしている母と、アンドレスとアルマンドの兄弟だけが家族だった。父や祖母、親戚の人たちは、近くの別の家に住んでいて、母は父と別居をしていたのである。だから母と息子兄弟の日常は、忙しい母への家事の手伝いや、社会生活で迷惑をかけないようにという、母の口やかましい躾などで埋められていた。これに対して、息子たちを、サッカー選手にしたい父は、この地域の情報局の中心人物セバスチャンとともに、しばしば母と息子に会いに来て、サッカー教室へ通うことを息子に求め、母とも軋轢を繰り返していた。そういう母と父に引き裂かれた日常が、母が、病院から少し外出したときに起きた、交通事故によって、母が他界し、突然一変してしまう。この交通事故も、単なる事故ではなく、軍事政権の闇が絡んでいるように思えるのだが、その点を、この映画は詳しくは描かない。

母が隠した本、経緯を知る子供の前で焚く

 親戚中が集まっての母の葬儀が終ると、アンドレスは兄アルマンドとともに、母と住んでいた家に別れを告げ、祖母オルガや父ラウルの住む家に、移り住むことになる。そしてその移転の日、父は天井裏に近い場所に、多くの本が隠されているのを見つける。ほとんどが軍事政権が、焚書の対称にしている本で、見つかったら、家族全体に「反政府派」としてのレッテルが貼られてしまう可能性があり、この父の発見は、親戚中を慌てさせた。さらに奥深く隠そうとする父に、「そんな甘い判断ではダメだ」と祖母らが反対し、全部焼却してしまうことになる。
 前庭に置かれたドラム缶の中に、石油が注がれて火がつけられ、次々と放り込まれていく本。母が大切にしていたのを知っているアンドレスは、そんなことをしてもいいのかと思い、母が傷つけられているような痛みも感じて、燃えていく本をじっと見つめていた。しかし、「これから私がお母さんの代わりをするからね」と、懇々と説明をした祖母のオルガからも、「亡くなった母の所有物は、始末しなければならないのだ」と、諭されると、「そんなものかなあ」とも思ってしまう。だがアンドレスは、本が本当は母の所有物ではなく、時折尋ねてきた、母の幼馴染の男だとされるアルフレドが、「持っていてほしい」と言って、置いていった本である事も知っていた。そして、アルフレドは、母の葬儀にも姿を出し、「気を落すな」と声をかけてくれた優しい人なのだが、何やら集まった親戚の人たちからは、迷惑そうにされていたのも知っていた。
 おまけに、母と住んでいた家は、すぐに売りに出されることになった。

女傑の祖母、イエスマン父がサッカー強要

 新しい家では、祖母オルガが全てを取り仕切り、父ラウルも頭が上がらないようだった。親戚は言うに及ばず、近隣の人たちも、ことあるごとに、オルガに相談しにやってきていて、“レディ・オルガ”と呼ばれていた。古いしきたりは、何でも知っている権威者であり、またオルガの意向を無視して、ことに当たると、役所に通報をされてしまうという、怖さを秘めている女傑だった。アンドレスも、これまでのように、口やかましいだけの母に反撥するのとは、分けが違っていたので、祖母の前ではおとなしくしていた。
 この祖母の言いなりになる父の、サッカー選手になれという息子への要求は、母がいなくなって、さらに強まった。セバスチャンとともに、選手になることの、これからの人生にとってのメリットが、いかに高いかを、父は、アンドレスに向って言って聞かせた。アンドレスは、その殆んどを、馬耳東風に聞き流している感じだが、父親に叱られるのが怖くて、サッカー教室にはしぶしぶ通う。当然のことながら練習にはあまり身が入らないが、父親の目が光っている間は、通り一遍のことは、無難にこなす。こうしてアンドレスの純真な子供心は、スポイルされていくのだった。
 映画の中では、父親が頭を下げるセバスチャンという人物の素性が、父親が信頼している役所の人だという程度にしか描かれていないのだが、軍事政権の情報局の人物だという設定になっていて、当時の軍事政権は、国民をサッカーに夢中にさせ、直接政治に眼を向けさせないようにしたといわれているだけに、アンドレスへのサッカーの奨励も、それなりに使命を帯びて、父親に近づいたものと思われる。

子供はシエスタに反撥、大人社会の闇暴く

 サッカーに口やかましい父は、その一方で、スペイン語圏の人々の、古臭い慣習に弱く、その慣習を守ることも、無条件に子供に押しつけた。アンドレスが、最も反撥したのは、寸暇を惜しんでサッカーの練習をしろという一方で、「今はシエスタだから、昼寝をしろ」と、真昼間に何もしないでいることを、強制したことだった。事実、スペイン語圏の民族の古い習慣である昼寝シエスタは、経済のグローバル化とともに、最近は消え始めており、習慣を守る人も、減っているのが実情で、活発な子供たちを、わざわざコントロールして、昼寝を強制する人も、少なくなっているといわれる。そんな中での父の強制は、アンドレスにとっては、ただの小うるさい指示でしかなく、父の姿が見えなくなると、アンドレスは、ベッドを抜け出し、友達との路上遊戯に参加していく。
 しかしそこで行われる遊びは、路上を闊歩する武装兵を真似て、棒やバットで武装しての戦争ゴッコである。折角のシエスタに反撥しての遊びが、軍事政権の影を落とした遊びであるというところに、この時代の子供たちの悲劇が、隠されているともいえる。この映画の原題は、「Andres no quiere dormer la siesta(アンドレスはシエスタ(昼寝)をしたくない)」というもので、この時代の大人社会に反撥した子供たちの行動が、大人社会の矛盾を、おのずから炙りだすというところに、この映画のテーマがあることが、このシエスタの挿話のあたりまで来て、観客は気付かされるように構成されている。

反体制派への弾圧を、見てしまう体験

 戦争ゴッコといえば、ある日の夜、アンドレスは、びっくりするような、大人社会の出来事を見てしまう。物音で目覚めたアンドレスが、地下室の窓から、かすかに覗く道路上に見たものは、近隣に住む一家が、武装兵士や警官に、引き立てられていく姿だった。いずれの人も、暴力的な引き立てはやめてほしいと叫び、引き立てる理由を示してほしい懇願していた。しかし兵士たちは、それらに応えず、有無を言わせず引き立てた。素直に引き立てに従わず、抵抗したためか、いずれの人も血を流し、衣服が破れていた。アンドレスは一部始終を見ていて、大人同士が、何をしているのかは、よく分からなかったが、子供に対して禁止する暴力が、大人の間で大手を振って罷り通っていることを知る。しかも翌日、祖母も父も、全ての家族が、物音で起きたことは確かなのに、夜中の出来事を話題にするのは、避けようとするかのような、よそよそしさに満ちていた。アンドレスの大人に対する不信は、さらに高まっていく。

もとの家で反体制派のビラが見つかる

 この辺りから、子供の目で、静かに坦々と描かれていた、サンタフェの街の大人社会の闇が、いよいよ色濃く描かれていくことになる。
 祖母や父の押し付けから、解放されたいと、本能的に感じ始めていたアンドレスは、まだ買い手がつかない、母と暮らしたもとの家に、こっそりと忍び込む。懐かしい空き家を尋ねることで、心の癒しを求めたのである。そしてそこでまたアンドレスは、移転の時には見つからなかった、本とは別の、反体制派の結集を呼びかけるビラを見つけるのである。ビラに書かれていることは、アンドレスには理解できなかったが、本と同様、母の幼馴染のアルフレドが持ち込み、母に隠させたビラであることだけは、知っていた。
 時を同じくして、サッカーの競技会が開かれた。兄のアルマンドは、父の指示を守って、素直に競技に参加したが、アンドレスは、競技場まで参加すると言って来ていながら、エスケープしてしまう。その途中でアンドレスは、情報局の人たちのものらしい自動車に接触しそうになり、間一髪事故を免れる。「どこの子供か」と詰問される中で、見つけられたのが、元の家から持ち出した、反体制派のビラだった。「なぜこんなものを持っている?」とさらに詰問されるが、そこに突然現れて、上手くとりなしてくれたのが、母の幼馴染のアルフレドだった。だがそのことで、アルフレドが窮地に立ったことを、アンドレスは知る由もなかった。むしろ、その後出会った情報局の人セバスチャンに、母と親密だったアルフレドについて、その知るかぎりを、何の罪の意識もなく、密告とは知らずにしゃべってしまう。

子供の密告で、反体制派の車焼かれ不明に

 焚書の対象にされている本や、反体制派のビラを、母のところへ持ち込んでいたアルフレドの車が、黒焦げになって、街の郊外で見つかったという情報が、祖母オルガのところにもたらされるまでに、それほど時日はかからなかった。だが、反体制派の情報を、いち早くキャッチして、当局に密告することで、家族と近隣の安泰を図ってきたオルガにとって、アルフレドの車が黒こげになるまで、知らなかったことは、オルガにとっては、大きなミスであった。身内に近いところに、アルフレドという反体制派がおり、既に故人であるとはいえ、身内にも母という反体制派がいたことを、率先して通報できなかったことは、オルガにとっては、耐え難い屈辱であった。それも、わずか8歳の孫の少年に、事実上出し抜かれたからだと分かってくると、そういう、オルガにとっての、恐るべき子供を、育てていたことに、さらに悔恨の情が募った。
 そんなとき、アンドレスは、従兄弟らを仲間に引き入れ、ビー玉遊びをすると称して、ワインのコルクに火薬をつめたものを多数作り、路上の焚き火の中に投げ込み、爆竹のような破裂音をさせ、さらに家の中にも乱入し、部屋のあちこちに投げ込んだ。まさにそれは、火炎瓶によるテロ行為と、なんら変わるところがないもので、消火に大童となる大人たちを尻目に、アンドレスの眼は、祖母や父に一矢を報いた満足感にひたっていた。

監督の子供時代の体験をそのまま映画に

 ダニエル・ブスタマンテ監督(脚本も)は、軍事政権の恐怖政治時代、10代前半の子供だったという。作中のアンドレスと同様の思いで、大人社会を見、抑圧に耐えていたという。90年代から、ミュージック・クリップやCM、ドキュメンタリーを作るプロダクションを設立して、活躍してきた同監督が、初の長編劇映画に、自分の子供のころの体験を、素材に選んだのは、自然な成り行きだったという。世の中の仕組みも、大人のいう善悪の価値も、判らない子供であっても、抑圧から、自由になりたいという心理は、本能的に備わっているもので、いわば、軍事政権下の、アンファン・テリブル(恐るべき子供)を描きたかったのだと、同監督は言う。その意味では、十分に成功した映画であり、アルゼンチン国内でも評判はよく、新人監督賞を得たりしている。
 ただ、1976年から83年に至る、アルゼンチンの軍事政権時代については、他国ではあまり知られておらず、「1977年夏」「1978年春」などという、時勢を示すタイトルが出て、エピソードが重ねられていくだけの構成で、背景の軍事政権の謀略が、近隣で起きた逮捕劇以外に、説明されないのでは、アルゼンチン国民は良くても、他国の観客には分かりにくい。その点だけが、少し残念である。76年から83年にかけ、アルゼンチンでは、こういう恐怖政治があったことを、念頭において鑑賞されることを、お奨めしたい。
 祖母役のノルマ・アレアンドロは、『オフィシャル・ストーリー』にも養母役で出て、カンヌ映画祭の主演女優賞をとった、アルゼンチンの名女優、アンドレス役の子役コンラッド・バレンスエラは、映画初出演。いずれも熱演である。

東 京 新宿K’sシネマ 上映中
        渋谷アップリング 上映中
大 阪 梅田ガーデンシネマ 1月7日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 近日上映
京 都 烏丸 京都しねま 近日上映
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 近日上映
全国順次
配給・宣伝社 Action Inc 03−3770−3936
 

《公式サイト》http://www.action-peli.com/andres.html

 

 

 
   

金使わずに常勝球団にした元スカウト

アスレチックスのGM B・ビーン伝

データ重視で選手再生『マネーボール』

(2011.12.9)

木寺清美

 
 


ブラッド・ピット製作主演の野球映画

 この映画は、選手強化費を、湯水のように使う、ヤンキースやレッドソックスと違って、貧乏球団なるがゆえに、それらの三分の一にも満たない強化費で、低迷球団を常勝球団に押し上げた、オークランド・アスレチックスの実在のスカウト出身の、ジェネラル・マネジャー、ビリー・ビーンを描いたものである。演じるのは、今やハリウッドきっての人気スター、ブラッド・ピットで、女性憧れの優男風の役柄は払拭し、この癖のある人物を、眉間にしわ寄せ、ときには磊落に笑いとばす演技で、見事に演じきっており、この映画の製作者の一翼も、担っただけのことはある責任感で、立派なスポーツ映画を誕生させた。  原作は、ビリー・ビーンの成功を、ドキュメンタリーとして、2003年に出版して、ベストセラーとなった、作家マイケル・ルイスの「マネー・ボール」だが、決して起承転結のある小説ではない。この原作を、『ソーシャル・ネットワーク』でアカデミー脚色賞をとったアーロン・ソーキンと、『シンドラーのリスト』でアカデミー脚本賞とったスティーヴン・ザイリアンといった、二人の優れたシナリオライターの手で脚色し、2005年度アカデミー賞で『カポーティ』に主演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン、本作でもチームの監督役で出演)をもたらした、ベネット・ミラー監督がメガホンをとり、ここまでの作品に仕上げたのである。


スポーツ万能少年が凡庸な選手を経て

 ビリー・ビーンなる人物は、スポーツ万能で、野球ばかりでなく、アメリカン・フットボールにも才能を見せ、スタンフォード大学のフットボール・チームから、奨学金つきで誘いを受けるほどの選手として、高校時代を送った。頭脳も明晰で、なかなかの美男とあって、女の子にもモテモテの少年だったという。
 そんなビリーだから、高卒後、大学を断り、プロ野球界を目指したビリーは、鳴り物入りでニューヨーク・メッツに入団することになる。しかし入団後のビリーは、鳴かず飛ばずの外野手で、数年メッツにいたが芽が出なかった。「必ず一流選手になる天性のアスリート」という、友人知人世間一般の期待に押しつぶされ、また失敗を受け入れられない誇り高い性格も災いして、無為な4年をメッツで過ごした。戦力外通告を受け、ビリーは、さらに6年間、控えの外野手として、メジャーのあちこちのチームを、転々とする選手生活を送ることになる。そして10年目を迎えたとき、ビリーはグローブを置く決心をし、球団経営の一翼に携わる、フロント内での仕事をする決断をし、オークランド・アスレチックスのフロントに入るが、やがて間もなく、いわゆるフリーのスカウトマンに転進する。そしてここでも約10年、鵜の目鷹の目で、使える選手を探す仕事を、地道に続けた後、2002年、オークランド・アスレチックスのゼネラル・マネジャーの椅子を獲得するのだ。

前任GMの改革引継ぎ、データ重視論へ

 その仕事は、貧乏球団であるために、選手強化に金を使えず、低迷球団であり続けたアスレチックスで、永年ゼネラル・マネジャーを続けてきた、サンディ・アルダーソンが、90年代半ばからアスレチックスの改革に乗り出し、元弁護士という、野球は素人という立場を逆手に使って、単に実績のある一流選手を集めるというだけではない、様々な視点からの、チーム強化策に、取り組み始めていた。ビリーは、そのアルダーソンの後任として、GMに就任したのであり、野球人の常識とは違う視点で、野球を見るという薫陶を、アルダーソンから得ての就任であった。
 当時経済界は、コンピュータを駆使した様々なデータで経営診断をする、データ主義の経営が、もう常識となっていた。野球界にも、この時点から20年以上も前の1977年に、ビル・ジェイムズという人物が、「野球年鑑のようなもの」を発行し、18種類のデータ情報を掲載した。このときは、コンピュータがまだ完全な普及をしていなかったため、貴重なデータとして重宝がられたが、すぐにコンピュータが普及、それらデータを使って、さらに多角的な、野球解析が出来るようになった。「野球年鑑のようなもの」も.以後毎年、ジェイムズや出版社の手で、次々発行されるようになり、野球の究極は得点争いだから、全ての要素が、どう得点に貢献するかの研究がなされ、打点や本塁打の数字よりも、四球や出塁率、長打率の方が重要であるという指摘を、されたりもした。
 ビリーは、アスレチックスのGMに就任するに当たり、このジェイムズが明らかにしたデータや理論を、この時期に活用することを考え、産業界がコンピュータを駆使して出す経営指針のように、いかに常勝チームにするかの指針を、生み出していこうと考えた。これが後に、「マネーボール理論」、つまり低予算で、強いチームを作る方法、といわれるものになっていく。

経済アナリストを、計算・助言者に導入

 さてドラマは、これまでのところが、殆んどイントロで、ビリーが、アスレチックスのGMに就任したところから、佳境に入る。実在のビリーは、この「マネーボール理論」を実用化するために、経済アナリスト・チームを雇い入れ、他チームとは違う戦い方を編み出そうと計画した。そうすれば、それにふさわしい選手、つまり、高い金銭を提示して、取り合いになる、一般的な意味での、一流選手集めに、狂奔する必要もなくなる−と考えたのである。そして、この局面を、映画では、スティーヴン・ザイリアンとアーロン・ソーキンという、二人の優れた脚本家の手で、経済アナリスト・チームを、団体ではなく、一人の天才的なコンプユーター技術者に置き換える方法を、考え出させたのであった。つまり、ビリーの協力者として、ここからアスレチックスに雇われてくる、イェール大学卒の、ウォール街でも通用するであろう、優秀な才能を持つ、技術者兼アナリスト、ピーター・ブランド(ジョナ・フィル)なる人物は、映画の中だけで創造された人物であり、クリーブランド・インディアンズに先に就職していたのを、引き抜く形で、ビリーが獲得するという展開にしている。こうして創造された、映画上の人物ピーターの存在で、後半のドラマ展開は、とても面白くなっている。

高齢者、故障者もデータ次第で再生へ

 ビリーとピーターは、年俸の高い一流選手を集めるのではなく、「年齢が高い」「故障を抱えている」「トラベル・メーカーで、チームに溶け込むのが不得手な選手」などの中から、まだ使える選手を、いかにして探し出すかに執心する。打者の価値を決めるのは、打率や打点、本塁打数ばかりではない。四球も含めた出塁率、同じ安打数でも、長打率はどうかなど、得点に貢献する要素を、こと細かく調べ、獲得すべき選手を、調べていく。ビリーも片腕として、コンピュータと格闘し、この何処にもないデータを生み出していく。野球は素人なので分からないと、繰り返していたピーターも、しだいに野球が面白くなっていく。
 ビリーは、このピーターがはじき出したデータに基づき、まだまだ使えるのに埋もれている選手を中心に、獲得に乗り出していく。故障を抱えているキャッチャーであるスコット・ハッテンバーグという選手を、出塁率や長打率の高いバッティングで評価して、今まで守ったことのない一塁手として使うことまで想定して、獲得に乗り出したのも、その一つだった。このような選手の獲得の仕方を、古いスカウトやメディアやファンは、クレイジーだと馬鹿にした。そして、アスレチックスのアート・ハウ監督(フィリップ・シーモア・ホフマン)からも、「現場のことは現場に任せろ。現場が要請した選手を、獲得できるよう、努力するのが、スカウトの仕事だ」と反撥される。しかし、ビリーとピーターは、「我々は、並みのスカウトではない。ジェネラル・マネジャーとそのアシスタントだ」として、こうした批判には動じなかった。

一年目から常勝球団、やっかみ批評も

 2002年のアスレチックスは、こうして、大きな強化費は使わずに、ビリーらが選んだ異色のメンバーで、シーズンに臨んだ。一流選手は他チームに去り、ピーターの変な計算に基づいて集められた選手ばかりで、迎えるシーズンで、「今年も最下位」との下馬評が、アスレチックスを包んだ。だが、蓋を開けてみると、下馬評を打ち破り、サヨナラ・ゲームも多数含む、連勝に継ぐ連勝を記録し、アメリカン・リーグの新記録に当たる20連勝を達成したのである。一流選手が去り、特異な選手ばかり集められた状況に、特異な選手自身が反撥し、やる気を出し団結したのが、一番大きいと見られ、必ずしも、ピーターの特異な計算が、100%実を結んだのではないという、やっかみ半分の批評が、一番多く出たが、いずれにしても、アスレチックスは好成績を残し、CS(クライマックス・シリーズ)進出を決めるのだった。

結果に一喜一憂せず、常にデータ作り

 この一年目にしての大成果にも、ビリーは冷静だった。「マネーボール理論」よりも、分けあり選手たちの、自らの再生の成果とする、やっかみ半分の批評にも、「勿論そういう側面もある」と謙虚な反面、理論を選手たちに徹底させた成果だと、自画自賛も忘れなかった。
 第一ビリーの、GMとしての日々の試合への関わりは、異色だった。この映画は野球映画であるが、ベーブ・ルースや、ルー・ゲーリックを描いた、かっての野球映画のように、ドラマティックな一つ一つの試合の展開が、そのままドラマの展開に、重ね合されるような描き方は、一つもされていない。試合場面は全て淡彩的で、ポイントになった試合だけが、記録映画のような扱いで、挿入されるだけである。それはビリー自身が、毎回試合を見に行って、一喜一憂するというようなことは、しなかったからである。試合中も会社にいて、コンピュータを操作していて構わないという立場を、貫いた。重要なのはデータだという考え方で、数週間単位で、集めた結果を解析し、予測どおりの、出塁率や長打率が、実現しているものは、更なる精励を本人に伝え、実現していないものは、修正を要求する。監督やコーチにも、そのような形でのGMの関与を認めさせ、習慣化させたのである。ビリーにとって、試合ごとの勝敗や、その勝敗に到達するまでのドラマなどは、重要ではなかったのである。しかしこうしたビリーらの対応が、個々の選手にとっては、これまでにない新鮮な励みになって行ったのである。

マイナー選手起用、道具・コートも本物

 そのようなことを描く映画であるから、一見、素っ気ない記録映画のように見る場面も、大変リアルな映像に構築する必要があった。ミラー監督は、個々の選手の演者には、著名な俳優や、演技が上手過ぎたりするベテラン俳優を起用することを、極力避けた。俳優としては素人だが、野球には長年関わっていて、マイナー・リーグで、鳴かず飛ばずでいるような、ともかくは本物の野球選手らを、数多く集めて演じさせた。訳あり選手が、本物の力を出し始めるというドラマだから、マイナーにいて、メジャーを目指すが、なかなか実現しないという選手に演じさせれば、より効果的に、現実感のある映像を、創造できると考えたのである。そしてその考えは、概ね実現しており、おまけに、ユニフォームや、バット、ボールに至るまで本物を使い、練習コートなども、大学の野球部の、本物の練習コートなどを借りて、撮影をしたと、ミラー監督は言っている。野球映画としては、動きの少ない裏方のドラマであるこの映画が、真実味を帯びて胸に迫るのは、このような現実感のある映像作りよるものであると、納得させられる。

破格の年俸の移籍断り、優勝を目指す

 こうして、ジェネラル・マネジャー就任一年目から、成果を出したビリー・ビーンは、その翌年、常勝球団の一つで、人気もあり、選手強化費なども潤沢な、レッドソックスから、破格の契約料で、「わがチームのGMになってくれないか」という誘いを受ける。その提示された年俸は、GMの年俸としては、大リーグ史上、最高のものだったといわれている。しかし、ビリー・ビーンは、「マネーボール理論」で、低迷球団を、常勝球団にするだけでなく、リーグ優勝をさせ、ワールド・シリーズでも勝つことが、究極の目的であり、アスレチックスで、それを実現させたいと言って、レッドソックスの誘いを断わってしまう。このように、ビリー・ビーンが男気を見せるところで、この映画はラストを迎え、「ビリー・ビーンは、今も、この究極の目的を目指して、アスレチックスで頑張っている」という、タイトルが出る。
 華々しい活躍をした選手の野球映画は、これまでもいくつも作られているが、裏方のスカウトの伝記映画は珍しく、大金が舞い飛ぶ、俗世間的な醜い裏の話でもないため、清々しい感動も伴っている。見るべき最近のアメリカ映画の一本である。
(上映時間2時間13分)

全国主要都市の系列を問わない主要劇場で、一斉上映中。
  全国各地の系列外シネコンでも、一斉上映中
◆配給社 ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

《公式サイト》http://www.moneyball.jp/
 

 

 

 
   

葬られた思想家の復活願う監督の力作

中国映画初の本格孔子伝『孔子の教え』

「史記」に「論語」を重ねた構成が独特

(2011.11.26)

木寺清美

 
 


中国共産党が葬った孔子の復活願って

 孔子についての伝記映画が、中国で作られるのは、実質初めてなのだという。戦時中に、『孔夫子』という映画が、香港の監督の手によって、製作に着手されたことがあるらしいが、未完のままとなり、40分くらいの未完成フィルムが現存するものの、勿論公開はされていない。今回、陳凱歌(チェン・カイコー)や張藝謀(チャン・イーモウ)らと同世代の、いわゆる第五世代の女性監督胡玫(フーメイ)の手によって、しかも、脚本執筆に2年をかけ、33回も書き直して、ほぼ完璧と言っても良い孔子伝映画が完成したことは、中国映画界にとっても、記念すべきことではないだろうか。中国映画史に、この映画の名が、何らかの形で刻まれることが望ましい。
 というのも、2500年前の、戦乱多い春秋時代を生きた、この大思想家を、唯物論、唯物史観を基礎におく、マルキシズムを信奉する中国共産党は、長くないがしろにし、自国が世界の誇る思想家として、認めなかった。それが、文革時代には極に達し、自由な映画作りを抑えられた第五世代にとって、孔子を見直すことが、一つの悲願となっても、少しもおかしくはないからである。胡玫(フーメイ)監督は、まさにそのことを、今回の映画で、実現したのである。

「論語」を歴史的事実で実態の例証へ

 そしてこの映画の魅力は、中国におけるこうした孔子の復活を目指したという命題以外に、「論語」を中心とする孔子の思想そのものを、歴史的事実に即して、例証していくという命題も持っていて、この点にも、多大の魅力がある。つまり孔子を、今日、弟子と対話の形をとった言行録である「論語」を通じてしか、知らない人が多いため、単なる思想家と誤解されているが、行動の人であり、苦悩の人であったことを、歴史的事実をもって描くことで、言行録の依って来たるところを、例証していくというドラマになっているのである。しかもその歴史的事実は、最初の孔子伝とも言われている、孔子より約400年後の漢の時代に活躍した歴史家司馬遷が編纂した「史記」の中のある「孔子生家」を下敷きにして構成されたと、フーメイ監督が明らかにしている。

孔子入門の様相「義を見て〜」の局面は?

 孔子とその弟子たちによって編纂されたとされる「論語」は、儒教として日本思想の支柱の一つともなり、日本人に親しまれている古典である。「十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(みみしたが)い、七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず」などという、孔子が自分の一生を振り返って、生き方のありようを示した有名なくだりは、わが国では、「不惑の年」などという言葉だけが一人歩きし、四十歳になって生き方が定まらず、フラフラしている人物を叱責する言葉として、しばしば使用されている。しかし、こういう日本の「論語」の取り入れ方は、まさに「論語」読みの「論語」知らずであるということが、この映画によって、随所で証明されるのである。
 例えば「子曰く、義を見て為ざるは勇なきなり」という言葉は、「見て見ぬ振りをするな」という程度の意味に、日常的に使われているけれども、実は、春秋時代の魯の国の役人に仕官した孔子が、当時当たり前になっていた殉葬(主君の葬儀に、召使や奴隷が全員殺され、併葬される)の習慣をなくすため、弟子の子路(しろ)に命じて、殺される予定の一人の子供漆思弓(しつしきゅう)を匿わせたのだが、そのとき逡巡した子路に対して、孔子が発した叱責の言葉だと説明される。「漆思弓を匿えないのは臆病だ」と、子路を叱ったのである。
 このようにこの映画は、孔子伝であるとともに、孔子の思想入門、儒学入門のような様相をたたえて、ドラマが進行していく。

役人として孔子は、殉葬の廃止に成功

 映画は、紀元前501年、春秋時代の小国・魯で、地方役人として成果を挙げた孔子が、魯の君主定公から、褒めてもらっているところから始まる。魯の没落貴族の家に生まれた孔子は、当時の知識人であったことから役人に仕官され、たった一年で成果を上げて、定公に才を見込まれたのである。当時魯は、三桓(さんかん)と呼ばれる三つの権力家に,国政の実権を握られ、三家のほしいままにされていたため、君主定公はこれを糾そうとしていて、孔子は早速、大司寇(だいしこう)という、司法長官のような中央の役人に起用されるのだ。
 孔子がすぐに取り組んだのは、魯にだけ残って、周辺国にはない古い礼制(習慣、制度)を改革することだった。たまたま起きていたのは、三桓の中の一つの家、季孫斯(きそんし)が、他界した父親の葬儀を取り仕切るに当たり、殉葬を実施しようと、父親の奴隷たちの殺戮を、次々に実施していた。その難から逃れてきた一人の子供を、孔子は弟子の子路に命じて助け、その子漆思弓も、弟子に加えるよう計画する。漆思弓は、難を逃れる際、負傷して片腕を失うのだが、その痛々しい姿を、要職の会議で見せ、非人間的な殉葬の廃止を訴え、孔子が弟子として漆思弓を保護することも訴えて、その双方を、季孫斯にも、定公にも、認めさせてしまうのである。まさに、「義を見て為ざるは勇なきなり」の言行が、ここに結実するのであった。

隣国との交渉でも戦略家であった孔子

 大司寇の役割を見事に果たし、殉葬の改革に成功した孔子は、だんだんと強国になって行った魯を、さらに周辺国に認めさせるため、隣国の斉と、友好条約を結ぶ手筈に、外務大臣のように。関わっていくことになる。逆に斉は、魯を脅威に感じ、定公の捕獲と、孔子の暗殺を企てていた。魯と斉の間にある夾谷(きょうこく)で、定公と、斉の君主景公の会談が行われることになり、孔子と弟子の顔回と冉求(ぜんきゅう)が、その準備を進めるのだが、孔子は万一のことを考えて、万全の体制を敷くことにした。それは万一の場合、魯の軍の指揮権を持っている、季孫斯の家来の公山不狃(こうざんふちゅう)に、出兵を依頼しておくことだった。しかし。季孫斯との間には、殉葬をめぐっての妥協が成立したが、公山不狃は、あずかり知らぬことだという立場で、孔子の出兵依頼を、こともなげに断ったのである。
 兵を用意できず、不安のうちに、定公と景公の会談は始まった。しかし孔子は、兵を待機させる予定だった背後の岩山に、自力で牛車を集めて待機させるという、次善の奇策に出た。そして孔子と、景公の家来の黎鉏(れいしょ)を加えて始まった会談では、同盟の契りを交わす証しとして、「第三国から、斉が攻められたときには、魯も兵を送る。その見返りとして、30年も前に斉が魯から奪った汶上三城(ぶんじょうさんじょう)と呼ばれる地域を返還する」ということが、取り決められた。だが、それで会談は平和的に終ったというのではなく、一悶着が起きる。取り決めに不満を持つ黎鉏が、孔子が兵を携えずに、会談に臨んだと見て、自らに兵を動かし、定公と孔子を取り囲んだ。機転を利かせた孔子は、背後の岩山に用意した牛車を激しく動かし、いかにも兵を用意しているかのよう見せ、黎鉏を恐縮させる。こうして、悶着は、戦いに至らず、一滴の血も流すことなく収束し、魯にとって悲願だった汶上三城を、取り返すことが出来たのである。
 このあたりの挿話は、孔子が、大思想家であると同時に、かなり策略も弄する政治家であり、外交官であり、戦略家でもあるということを示す挿話となっている。

戦略外交の才人として各国注目の孔子

 魯と斉の同盟で、孔子が示した非凡な才能は、他国にも聞こえるところとなり、あちこちの国から,招聘状が届いて、孔子の教えや戦略を学ぼうとする者が、増えて行った。中でも、事実上の弟子になろうとさえ考えたのが、衛の君主霊公の妻・南子だった。南子は、絶世の美女として、当時他国にまで聞こえていた婦人であり、霊公を篭絡して、衛の権限を君主以上に手にしている人物とされていた。そういう人物からも、孔子は招聘され、親しくなって行くのであるが、実際に招聘に応えるのは、魯の内部改革に失敗し、弟子とともに14年にわたる放浪の旅に出てから、衛に立ち寄るときで、映画でも後半に描かれるのだが、ここではその顛末を、先に書いておこうと思う。

衛の招聘、南子と鞘当てを面白

 招聘に応えたとき、孔子が、はじめに霊公から頼まれるのは、兵の育成だったのだが、そこまでやるのは、このとき既に魯の要職を去っているとはいえ、売国行為になるため、さすがの孔子も断わってしまう。それは「仁に反することで、私は仁のためには、わが身を捨てる覚悟だからだ」と伝える。ところが霊公の妻の南子は、簡単にはあきらめず、色仕掛けで孔子を誘惑し、衛国内にとどめさせようと必死になる。その必死さの一つは、南子自らの少ない知識を絞って、孔子の矜持をくすぐり、孔子に一目を置かせようとする行為だった。かねてから孔子は、「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」(詩を詠んで人間的感情を呼び覚まし、礼にのっとって、人格形成を充実させ、音楽を学んで心のハーモニーを完成させる)ということを述べて、教養を積むとはそういうものだという持論を持っていたのだが、南子はそこに目をつけて、詩の話で、孔子の心を引こうとするのであった。しかし孔子は、詩の次に来る礼の大切さを説き、礼がなくなれば国は滅びると説いた。そして「朝(あした)に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」と述べて、礼による統治は、そのような高潔な君子によって、初めて成し遂げられるものだと説いた。南子は、孔子を篭絡しようとして、逆にやり返される結果となり、孔子を衛国内にとどまらせることに失敗する。孔子は、衛を去るとき、内乱を予測するのだが、衛はその予測どおりの道を辿り、その混乱の中で、淫行をくりかえしたとされる南子は、「朝に聞いて夕べに死す」君子とは、かけ離れた地点で、命を落とすことになっていく。しかしこの挿話は、フーメイ監督らの「史記」の新解釈による、全くの創作であるという。そういうことも大胆にやる映画なのである。

行動の人孔子、魯内権力削ごうと戦乱に

 ところで、孔子が、春秋時代の思想家として、当時の各国に評判が広がったと先に書いたがかいたが、そこまで話を巻き戻す。孔子はその評判で、国相代理にまで出世し、魯の中で、大きな権限を持つようになった。  早速取り組んだのは、相変らず、魯の中の大きな権力として君臨する三桓の、力を弱める施策だった。具体的には、三桓が支配する三都の,定められた高さを遥かに超えている城壁を、取り壊すことだった。三都は、季家の費邑、叙孫家の郈邑(こうゆう)、孟家の郕邑(せいゆう)のことだが、秘密裏に進めていた取り壊しが始まったところで、弟子の公伯寮の裏切りで、季孫斯と、叙孫武(しゅくそんぶ)の知るところとなり、取り壊しが一時頓挫する。それでも季孫斯は、孔子の描く国つくりに協力し、費邑の城壁の破壊を看過するが、家来の公山不狃は納得せず、続いて郈邑の城壁が壊されたところで、兵を蜂起させ、魯の首都曲阜(きょくふ)になだれ込んできた。孔子は、戦いは望まぬとしながらも、側面から攻める孔子の兵法を駆使して、公山不狃軍を、辛うじて撃退する。孔子としては、思想ばかりでは収まらない、武力を行使する、最初の側面が描かれる。
 「論語」のフレーズを、歴史上の挿話に重ねて語っていく、孔子伝が、この前後では、CG技術も駆使した、相当に激しい戦闘描写がなされており、モブ・シーンだけが浮き上がったような印象もあるのだが、孔子を、思想家の枠だけに閉じ込めず、行動の人として描く以上、戦闘も、背景描写も、リアルでなければならないという、監督の考えに基づくものと思われる。

君主まで抱きこんだ反孔子勢力に敗る

 孔子が、国相代理として、魯国の改革に積極的になればなるほど、孔子を取り巻く環境は、反撥や遺恨などで、厳しくなっていった。結局三桓の権力を弱める施策は成功せず、城壁も、費邑、郈邑は壊されたが、郕邑は壊されないままとなった。その時点で、三桓は再び団結して孔子に対峙し、魯の定公や孔子の弟子の公伯寮までもを抱きこみ、同盟国斉 にまでも、協力を申し入れ、孔子の追い落としにかかったのである。そして定公からも決別を言い渡され、孔子は失意のうちに、妻子や弟子を残し、一人放浪の旅に出るのである。

失意と説法の放浪の旅、弟子も同行

 こうして映画の後半は、放浪の旅に出た孔子が、再び魯に戻るまで、14年の月日が経つのだが、その月日を、旅の途中で合流してきた弟子たちと、招聘のあった、春秋時代の諸国を、教義を説きながらめぐり歩く−その経緯の描写として、重ねられている。それらの一つ一つは、少し並列的に詰め込みすぎていて、「論語」の解説のようになっているきらいもあるが、孔子が苦悩の連続に追い込まれたことだけは、よく描けている。前半の行動の人に対して、後半は苦悩の人として、描かれており、孔子が、ただ座して説法をするだけの思想家ではないことだけは、伝わってくる。「先生が形ならば、弟子はその影だ」と言って、追いかけてきた顔回。孔子の教えが書かれた木簡を、馬車一杯に積んで追い付いて来た冉求や子路たち。孔子のために自己犠牲を果たして追ってきた、それら弟子たちに、孔子は、ただただ感謝しながら、キリストと12使徒のような、放浪の旅を続けるのだが、訪れた、宋、鄭、陳などでは、招聘当時のような人気はなく、教義を説いても、疎まれ、蔑まれることの方が多かった。

各国の要請に応え弟子を失う苦悩の人に

 しかしいざとなれば、孔子はあちこちから頼りにされた。  孔子が魯を離れている間、魯は斉に攻め込まれ、定公も亡くなっていた。季孫斯が軍の総指揮をとる立場になっていた魯では、孔子に苦境を救ってほしいという使者をよこす。孔子は弟子の冉求を魯に戻し、孔子の兵法で斉を撃退させる。そしてそのまま、魯の苦境を救うため、冉求は魯にとどまった。
 また内乱と外冦で疲弊している衛の国では、君主の霊公までが崩御し、孔子に救いが求められ、弟子の子路が衛に派遣されることになる。そして衛の戦乱の中で討ち死にしてしまうのだ。
 そのころ、顔回もまた、孔子一行が、吹雪の中を旅している際、教えの木簡を積んだ馬車が、割れた地面の氷の中へ転落し、木簡を救おうと、何度も氷の中へ潜って、凍死してしまう。次々と弟子を失った孔子は、失意の中で、先に魯に帰った冉求に求められるまま、魯に帰ることになる。
 まさに晩年は、苦労の連続といった孔子伝(蔡国を尋ねたとき、冬の山中の廃村で、食料がなくなり、わずかな残りを弟子に分け与え、自分は弦を弾いて空腹に耐えるといったシーンもある)で、そこまでは孔子について、深く知らない者には、大思想家の晩年がこんなに悲惨だったのかと、驚かされることが多いのだが、それを包み隠さず描くことで、フーメイ監督は、「孔子は超人ではない、普通の人だった」と言いたいのだろうと思う。

史実と「論語」の記念すべき孔子伝映画

 「史記」の中の「孔子世家」を下敷きに、歴史的事実や挿話に、「論語」のフレーズを重ねる構成で、孔子の儒教思想を否定して来た、中国共産党の施策に反撥する第五世代の女性監督が、初めて中国映画に作り上げた孔子伝。単なる机上の大思想家ではなく、非常にアクティブな人物であったことを、描ききったこの孔子伝。今日の行過ぎる自由と、力あるもののわがままの見直しにも、十分参考にしなければならない孔子伝−そういうものが、今日の中国映画に生まれたことを、とりあえずは喜びたいと私は考える。いろんなものを詰め込みすぎて、ドラマが並列的だという批評もあるが、為政者としての活躍も、戦闘シーンも、弟子との交流も、すべてリアルに再現しようという意図の下に、きちんと構築されており、これはこれで、記念すべき孔子伝映画の完成だと言っていい。
 中国共産党も、ケ小平以後の自由化政策の中で、孔子をあえて否定することをしなくなり、今年の一月、天安門広場の東側の国家博物館前に、高さ10メートル足らずの、孔子の巨大石像が、建設されたのだという。ところが3ヶ月後の4月20日、突然撤去されてしまった。いまだにその理由ははっきりせず、中国政府が抱える、天安門事件関係者を放逐し続ける、いわゆる「人権問題」と、関係があるのかどうかも分かっていないという。もちろんこの映画は、上映禁止などにはなっていない。それは、この映画が、そんなことを許さない、力のある映画だということも、意味していると思う。
 なお、孔子を演ずるのは、香港スター周潤發(チョウ・ユンファ)である。予想以上に適役であり、熱演である。
(上映時間2時間5分)
写真提供:(C)2009 DADT CENTURY(BEIJING) LIMTED ALL RIGHTS RESERVED

東 京 シネスイッチ銀座 上映中
大 阪 梅田ガーデンシネマ 上映中
名古屋 栄 名演小劇場 上映中
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 上映中 札 幌 すすきの ディノスシネマズ札幌劇場 12月中に上映
仙 台 フォーラム仙台 12月17日〜上映
神 戸 元町映画館 12月24日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 1月2日〜上映
山 形 フォーラム山形 1月7日〜上映
盛 岡 フォーラム盛岡 1月21日〜上映
福 井 メトロ劇場 1月28日〜上映
近日上映劇場
  フォーラム八戸、フォーラム福島、松本シネマセレクト、岡山シネマクレール   那覇桜坂劇場
◆配給社 ツイン 06−6361−5172

《公式サイト》http://www.koushinooshie.jp/

 

 

 

 
   

伊リアリズムの再生作、さらに一本登場

ナポリの暴力企業犯罪集団カモッラを暴く

『ゴッドファーザー』凌ぐ秀作『ゴモラ』

(2011.11.15)

木寺清美

 
 


創作だが事実下敷きの挿話でカモッラ描く

 『やがて来たる者へ』に続いて、再びネオ・リアリズム(イタリアン・リアリズム)を、今に再生させる、イタリア映画の傑作が公開されている。今回は、ナポリに今も巣食う「カモッラ=CAMORRA(ゴモラ=GOMORRAはカモッラのフィクション名)と呼ばれる、暴力・企業犯罪集団の実態を描くものである。カモッラは、18世紀からナポリに巣食い、シシリーのマフィアとともに、イタリアの二大恥部とされている闇の組織で、登場人物は、事実に基づく創作とされているが、すさまじいリアリティを持っていて、カモッラの実態が暴かれていく。カモッラが、このような形で、イタリア映画に登場するのは初めてで、2009年のカンヌ映画祭で、グランプリ(第二位賞)をとり、ヨーロッパ映画祭でも数々の賞に輝いたことで、国内でも大ヒットとなり、カモッラの実態と、そこにうごめく人物たちの、非人間性に包まれた悲劇的結末を、イタリア国民も、初めてつぶさに知ることが出来た作品だという。

『ゴッドファーザー』の甘美さを排除

 しかもこの映画の構成・演出は、『ゴッドファーザー』のように、組織の中の人物の生業(なりわい)と、個人・家族を物語るというような、甘美さもある「ロマン」ではない。人物の生業の現実そのものを、即物的に切り取って提示するという、ドキュメントの方法である。そこには物語に必要な、詩情や情念は、意識的に排除される。それはイタリアン・リアリズムの旗手の一人、フランチェスコ・ロージ監督が、マフィアの若者が殺された顛末を描いて、マフィアの非人間性を暴いた、乾いた映画『シシリーの黒い霧』(62、ベルリン映画祭監督賞作品)に近い構成・演出であり、その意味で、まさに、ネオ・リアリズムを、今に再生させようとして成功した、『やがて来たる者へ』に続く、正真正銘のイタリアン・リアリズム再生作品であるということである。

組織の格好良さは、非情の淵に落ちること

 映画は、敵対するカモッラの中の二つの組織が、常に抗争を繰り返している地域で育った若者、トトの物語で始まる。トトが生活をする場は、ナポリ郊外にある、その形から「帆船」と呼ばれている、幽霊船のような集合住宅である。この集合住宅は、まだ草原であったこの郊外の地に、60年代から70年代にかけて建てられた、公共住宅なのであるが、1980年に、古代都市ポンペイの遺跡が、埋まってしまうほどの大被害が出た、ヴェスヴィオス火山周辺の大地震のさいに、ナポリ市民も相当に被害を受け、被災者たちが、倒壊しなかったこの住宅に、住み着くようになって、しだいにスラム化したといわれる。そして今では、カモッラの巣窟のようになり、麻薬密売の一大市場になっていると言われる。そして、2004年から05年にかけて、カモッラ内の二つの麻薬密売組織の、凄惨な抗争事件が起きたのであるが、トトの物語は、この事件に想を得たものと見られる。
 この住宅に育ったものは、早く大人になり、一人前の麻薬密売人となって、組織の中を闊歩するのが青春の夢なのであるが、トトは、カモッラが主催する恐ろしい度胸試しに敢えて志願し、恐怖に耐えて、待望の組織入りを実現させる。ところが、親友のシモーネが、カモッラ内の、対立する別の組織で働くようになり、トトは、シモーネの組織に殴りこむ先兵を命じられる。憧れの格好良さの中身は、友情や私情を挟む余地のない、非情そのものの中で、生きることだと学ばされるのだ。
 それを嘆いたのがシモーネの母親マリアで、組織の面々に給料を配って歩く仕事で、温厚な相談役として知られるドン・チーロは、息子シモーネを助けて欲しいとマリアから相談を受ける。しかし、ドン・チーロの立場でも、どうすることも出来ない抗争だったから、自分の命と引き換えに、仲間を売るこしか思いつかなかった。非情な判断は、とめどなく非情を上塗りしていくだけなのである。

カモッラの不法投棄で成り立つ産廃業

 トトとドン・チーロらの物語は、いかにカモッラが非情かを示す物語だったが、ロベルトの物語は、この地域の産業廃棄物の処理が、この非情なカモッラの組織に、事実上任されていて、違法な社会問題を投げかけていることを、暴く話だ。
 理学系の大学を卒業したロベルトは、フランコが社長の産業廃棄物の処理会社に、普通の就職をしたつもりで入社する。技術的な管理を任され、収入も多く、希望に溢れた仕事ぶりだった。しかし内情が分かるにつれ、有害物質の不法投棄や、労働者の使い捨てや、労働環境の劣悪さが、眼に余る状態になっていることを知る。そしてそれをフランコに進言しても、「それでよいのだ」「社の方針に従わない者は去れ」といわれ、技術者としての良心が傷つけられるが、どうすることも出来ない。
 実際、ナポリを州都とするカンパーニア州には、ヨーロッパ中から、有害物質を含む産業廃棄物が、カモッラ企業の安請け合いで、どんどん集まるようになり、特に州北部の地域は、「死の三角地帯」と呼ばれるほどに、緑の大地が汚染され、社会問題化しているという。とくに、2008年に、イタリア産モッツァレラ・チーズが、日本で輸入禁止になったのを、覚えている人もあると思うが、これは、モッツァレラ・チーズの産地として有名な、この地域の水牛の乳から、ダイオキシンが検出されたためだということである。
 ロベルトは、結局フランコ社長に失望し、産廃業界から去っていく。

低賃金、闇金融の伊ファッション界の裏

 バスクワーレの物語は、イタリア産ファッション・ブランドの裏の世界を描くものだ。 バスクワ−レは優秀な仕立て屋だったが、カモッラが牛耳る闇金融業者から、不正な融資を受けている、弱小の縫製工場で働いていた。この会社は、安い縫製賃と、短い納期で、イタリアのブランド物の縫製を、こっそり受けている下請会社で、そのような仕事でも、会社間の競争は激しく、競売・落札などがあって、緊急に仕事を処理するためには、カモッラがらみの闇金融の世話にならざるを得ないのだった。おまけに従業員の待遇は、ぎりぎりまで低賃金に抑えられており、優秀な縫製専門家と見られているバスクワーレでさえ、十分には評価されなかった。
 そんなとき、中国人のジャンが経営する縫製工場から、中国人のお針子の指導者として、働いてくれないかと、頼まれる。自らの腕が評価されて嬉しかったバスクワーレは、会社に内緒で、二足のわらじを履き始めた。そのことがカモッラの組織に洩れ、ジャンの会社が襲撃を受ける。ジャンは凶弾に斃れ、バスクワーレも大怪我をする。実際、ヴェスヴィオ火山の麓の沿岸地域は、昔から縫製工場が集まっているところで、近年は、イタリア、ファッション界に進出を目指す、中国人の会社が増え、この映画のような軋轢も、実際に起こっているという。それにしても、イタリアの有名ブランドの裏を、臆面もなく暴露するこの映画の勇気も、大変なものだ。
 バスクワーレこの大怪我をきっかけに、業界から足を洗い、トラックの運転手を目指す。

組織の武器庫を知って、処刑される若者

 街のチンピラ意識で、カモッラも恐れずに街を跋扈し、ケチな犯罪を繰り返している二人の若者、マルコとチーロの物語は、一番悲惨である。もともとこの遊び人の二人は、眼の上のたんこぶのような存在として、組織から追われていたのだが、あるとき追われて、水牛の牛舎に身を隠したところ、その牛舎が、組織の密輸した武器の、隠し場所であることを発見する。これだけの武器があれば、組織に追われても平気と、有頂天になった二人だが、組織はそんな有頂天を許さない。絡めてからあぶりだされ、悲惨な結末を迎える。大企業などとかかわっていないチンピラを、組織が抹殺をすることは簡単、むしろ武器庫の存在を知ってしまったことが、彼らにとっては、かえってあだとなり、カモッラの経済体制を覆す、大物の敵と同じようなレベルの報復を受け、虫けらのごとくに命を失う。  それにしても、武器を発見する水牛の牛舎のシーンのような、何でもない設定に、意外とリアリティがある。先に書いた、カモッラが集める産廃の有害物質で、水牛の乳が汚染され、モッツァレラ・チースが輸出できなくなった問題が、いかにも不衛生な、水質に異常がありそうな、その牛舎と武器庫の描写で、裏付けられるようにも描かれているからである。

悪の糾弾ない結末に、告発の清冽な決意

 映画はこれらの物語を、並行的に描いて行き、いずれもが悲惨な末路を辿る。悪いのはカモッラの組織だと、はっきりあげつらうこともせず、投げ出すように映画は終る。フランチェスコ・ロージのイタリアン・リアリズム作品『シシリーの黒い霧』が、マフィアの悪を暴露したが、罪を問うことなく投げ出した結末なのと、よく似ている。証拠をつかませるようなポカはしないのが、カモッラの闇組織であり、政治も地域経済も、そして地域の住民も、「さわらぬ神にたたりなし」と組織を容認し、体制に組み込んでしまっているのが現実だと、この映画は言いたげである。『ゴッドファーザー』のような甘美なドラマは何処にもない。ロベルトが産廃業界を去り、バスクワーレがトラックの運転手になるのが、せめてもの救いであり、そのバスクワーレが、運転手になって以後、テレビで、自分がデザインし縫製したドレスを、女優が着ているのを見るシーンがあるが、これを一条の光とするしかない、凄惨な現実が胸に迫る映画である。しかもそれを、堂々とやってのけているところに、イタリアン・リアリズムの、告発への清冽な決意がある。

巧みにカモッラの攻撃を避けた造作で告発

 この映画には原作がある。マッテオ・ガッローネ監督とともに、脚色にも自ら加わっているロベルト・サヴィアーノという人の、ノンフィクション小説の処女作「死都ゴモラ」(邦訳は河出文庫)がそれである。原作も、イタリア国内で100万部も売れて、サヴィアーノは。時の人となったそうだが、それまでも、主として犯罪組織のリポートを、雑誌などに寄稿してきた人で、犯罪集団から睨まれ、官憲の護衛が、ずっと続いている人という。だが原作のヒットで、カモッラが暗殺の対象にしたとしても、やりにくい条件が、かえってと整ったのだという。カモッラは,あくまで表向きは、正業の企業集団の顔をしているから、闇に葬れない犯罪には、手を染めない。そこがまた憎いところで、ガッローネ監督以下この映画のスタッフは、そこを知って、敢えて告発をしたかのような「つくり」にしてあるのだという。「実際撮影中に、邪魔はなかったし、完成後も問題は起きていない。カモッラをゴモラにするなど、「つくり」はフィクションだからだろう」と、プロデューサーのドメニコ・ブロカッチは言っている。

ドキュメンタリー出身の監督への期待

 ガッローネ監督は、1968年生まれで、80年代半ばから、カメラマンとして活躍し、90年代半ばからは、ドキュメンタリー監督として、活躍を始めた。イタリアン・リアリズムを再生させるだけの素地を、十分に持った監督ということができ、本作は、長編ドキュメンタリーも含め、6本目の長編映画である。
 このところ、前回紹介の『やがて来たる者へ』の、ジョルジョ・ディリッティ監督を含め、伊映画界に、イタリアン・リアリズム復活の潮流が、捲き起こり始めているということだが、さらにドキュメンタリー界などから、数監督の、秀作数作が生まれて、その潮流を、本物の流れにしてほしいと思うのは、私一人ではないだろう。
 なお、この映画の出演者は、フランコ役のトニ・セルヴィッロを除いて、あまり有名な俳優は出ておらず、セミ・プロ、素人から、多数の出演者が選ばれており、撮影現場周辺の住人からも、その他多勢役には、多数選ばれているという。こういう出演者の選び方も、まさにイタリアン・リアリズムなのである。
(上映時間2時間15分)

東 京 渋谷 シアター・イメージフォーラム 上映中
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 11月19日〜上映
大 阪 十三 第七藝術劇場 12月24日〜上映
京 都 東寺 京都みなみ会館 12月24日〜上映
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 12月25日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 2012年1月上映予定
近日上映予定劇場
  札幌シアターキノ、川崎市アートセンター、シネマテークたかさき、
  新潟シネウィンド、静岡シネ・ギャラリー、金沢シネモンド、富山フォルツァ総曲輪、   岡山シネマクレール丸の内、広島サロンシネマ、大分シネマ5
◆配給社 紀伊国屋書店、マーメイドフィルム
◆宣伝社 VALERIA

《公式サイト》http://eiganokuni.com/gomorra/

 

 

 
   

ネオ・リアリズム再現の伊映画の傑作

大戦末期、北伊でのナチの暴虐を描く

赤子守る少女に光『やがて来たる者へ』

(2011.11.5)

木寺清美

 
 


「マルザボットの虐殺」のリアルな再現

 2009年に作られ、2010年のダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞(イタリアのオスカーといわれる伊最高賞)を受けたこの映画は、第二次世界大戦の末期、1944年9月29日から10月5日までの8日間、北伊のボローニャに近い、モンテ・ソーレ山一帯の山村で、付近を根城にしていた、ナチとファシストへの抵抗組織であるパルチザンが、敗走中のドイツ軍の急襲を受け、村民の大部分を含む、771人が虐殺された、いわゆる「マルザボットの虐殺」と呼ばれる事件を、映画にしたものである。
 映画化に当たって、製作、監督、脚本、編集を担当したジョルジョ、ディリッティは、戦後すぐのイタリア映画を席巻し、その後もイタリア映画の基調となり続け、世界の映画のリアリズムを、根本から見直すきっかけを与え続けてきた、いわゆるネオ・リアリズム(=イタリアン・リアリズム)を、出来る限り正確に、今に再生させようと努力しており、その狙いが、達成できた傑作になっている点も、注目に値する。それは、米のハリウッド映画を中心にした今の映画の多くが、CG技術のみを中心にすえ、現実にはありえないバーチャルな映像を駆使して、より過大な生理的ショックを与えることと、映画を見世物化することに、邁進しようとしている−その動きに、歯止めをかけようとする試みに、他ならないからである。

演出のほか、素材までネオ・リアリズム

 また、戦後すぐの、ネオ・リアリズムと称せられるイタリア映画は、大戦末期のイタリア国民の苦渋を、題材にするものが多かった。最も有名な作品は、ロベルト・ロッセリーニ監督の『戦火のかなた』である。1943年7月、シチリア上陸に成功した連合軍(主として米軍)は、ドイツと同盟関係の、イタリア軍の守備隊を蹴散らし、北進を始めた。立憲君主国だったイタリアは、この時点で国王がムッソリーニを逮捕し、バドリオ元帥を代わりの首相に立て、連合軍に降伏、9月には休戦協定を結んでしまった。枢軸国側はドイツだけになり、さらにナポリに上陸した連合軍に追われて、イタリア半島を北へ敗走しながらも、ムッソッリーニを救出、スイス国境に近いガルダ湖畔に、「イタリア社会共和国」という別の政権を樹立した。そしてイタリア軍は、一部が「新ムッソリーニ軍」として、この政権に従ってゲリラ化し、あちこちに出没、もともと、ナチとムッソリーニに抵抗するために結成された、パルチザン(国民解放委員会)のゲリラ戦とが入り混じり、43年秋以降のイタリアは、地方の国民を巻き込んでの、非常にややこしい戦況が続いたのである。『戦火のかなた』は、そのような状況になった、イタリア国民の苦渋のエピソードを、ドイツ軍の敗走、連合軍の進攻とともに、南から北へと綴ったもので、ナチの残党に捕まったパルチザンの兵士が、体に重石をつけられて、ポー河に次々と、生きたまま放り込まれる挿話の、即物的リアリズムが、大変有名である。
 また。ルイジ・ザンバ監督の『平和に生きる』というネオ・リアリズム作品は、新ムッソリーニ軍の兵士と、ナチの監視員が、まだ残っている北伊の山村で、村に匿われていたアメリカの黒人兵が、終戦と錯覚して、ナチ監視員とともに酔っ払ったため、山村の状況がすべて明るみに出て、ドイツ軍の急襲を受け、大混乱のうちに、黒人兵も監視員も殺されるという悲劇だった。今回の『やがて来たる者へ』は、このような状況が、戦後65年以上を経た今に再現され、戦争の悲劇を再確認する、演出面だけでなく、内容まで含めて、そっくりネオ・リアリズム映画なのである。

美しい風光、村人の日常を牧歌的に

 しかし映画は、最初から、鮮烈な戦闘場面があるわけではない。季節感を現わす、山村の美しい映像と、牧歌的な村の生活を、仔細に描写することから、説き起こしていて、最初は1943年のクリスマス直前の、冬の映像で始まる。連合軍は、イタリア南部のドイツ軍を掃討し、44年6月のローマ解放に向けて、ローマへの道を、北進中の時期であったのだが、この北イタリアの山村は、まだ新ムッソリーニ軍も混ったドイツ軍に、占領されていた。しかし一方では、近隣の山に篭るパルチザンたちが、ドイツ軍の眼を盗んで、時々現れ、食糧や物資の調達を、図っていた。村人たちも、パルチザンを積極的に匿い、物資の調達にこっそり協力していたから、牧歌的な風光とは逆に、村人の心には、緊張がみなぎっていた。

8歳の少女の目から描かれる農村生活

 そんな中で、一つの、比較的大きな農家に焦点が合わされていく。大家族の中に、マルティーナと呼ばれる、8歳の少女がいた。家族の中での最年少で、同年齢の家族がいないためか、何故か家族からはなれ、自閉症気味の、孤独な日常を、繰り返していた。それというのも、数年前、まだ赤ん坊だった弟が、病気になり、あやすつもりで抱いていた少女の腕の中で、息を引き取ってしまうという、悲しい過去を持っていて、そのショックで、自閉症気味になったのだと、説明される。しかし映画は、ことあるごとに、そのマルティーナの目で、家族を見、村の中の出来事を見るといった。卓抜な視点で、進行していく。

教会行事や村の会合、少女の母の妊娠

 雪のちらつく中を、教会に集まって、神父から講話を聞くクリスマスの、村人たちの敬虔な一日が去ると、村は雪深くなり、屋内での黙々とした農作業の日々が続く。そんな中で、パルチザンとの交流も、前述のごとくこっそり行われ、そこから戦況のニュースも伝わってくる。そんなとき、マルティーナの母親がまた身篭り、秋には出産らしいという話が、家族の中に流れて、マルティーナも少し、うきうきしてくる。なぜなのかは、先に生まれた弟が、少女の腕に中で死んでしまったとういう、前述の悲しい過去があるからであり、そのことがここで回想的に説明される。
 雪深い冬が去り、山肌一面に花が咲く春となり、種まきの農作業が始まり、また家畜小屋の中での、牛や豚たちの世話も忙しくなる。父や祖父母や叔父たちが、入り乱れて、それらに勤しむ傍らでは、マルティーナとは、10歳ほども年齢の違う若い叔母たちが、農作業をもっとやれと口うるさくいう祖母の眼を盗んで、のどかにダンスに興じている。一方、男たちは、食堂に群がり、また夜には村の会合を開いたりして、農産物の価額の安さを嘆き、これ以上収入が落ち込むと、子供たちを、学校に通わせることもできなくなると嘆く。早く戦争が終ってくれれば、経済も好転し、いくらかはマシになるのではと語り合うが、まだこの村には戦火は遠く、牧歌的な雰囲気の描写が続いていく。

初聖体拝領、安産祈願、出産、ナチ襲撃

 暑い夏の日射しが照りつけるようになり、連合軍によるローマ解放のニュースが流れる。連合軍に期待を寄せる村人の表情がゆるむ中、子供を初めて神の神子にするための、聖体拝領の儀式がしめやかに行われ、子供たちもまた、生き生きとした表情に彩られる。マルティーナの新たな弟の、安産祈願も行われ、村人たちが最も忙しい、秋の収穫の季節へと、時は移ろっていく。そして、マルティーナの母親も、無事に出産をし、村人たちから祝福される。しかしこの頃から、戦況の影響を村も受け始め、ある日、車やトラックで、どっとやってきたドイツ軍に占領されてしまう。
 村人たちは、一軒一軒、踏み込んできたドイツ兵に、銃を突きつけられ、家宅捜索を受ける。パルチザンを匿っていないかどうかの捜索で、抵抗する者は、その場で射殺された。そんな悲惨な光景の中でも、女の子ばかりが集められ、壁際に立たされたときに、男の子たちが、無邪気にも、その意味を理解しないまま、手で銃を構えるしぐさをして見せるシーンがあり、とても痛ましい。ドイツ軍の将校が、この様子を見て、「我々誰もが、教えた通りに、子供たちはしてくれている。我々の教育は正しかった」と言って、処刑ゴッコを褒めるのだ。このシーンについてディリッティ監督は、「子供は、教えられた通りに、大人の真似をするものだ。教育の大切さを指摘し、同時にナチの教育が恐ろしいものであることを、指摘したかった」と言っている。

神父銃殺、集団処刑、使役後射殺の無残

 さて、ナチの暴虐のシーンは長い。村人たちが、どのようにして処刑されたか、その処刑のケースの一つ一つが、丹念に描かれて行くからである。誰が、どの家で、逃げ込んだ一人のパルチザンを匿ったか−その捜索、といったようなことではなく、もう軒なみに大勢のパルチザンを匿っており、その行為は、もう村ぐるみのものだと判定したナチは、パルチザンの捜索などは中止して、村人ぐるみの集団処刑を、次々と実施していく方針に転換、残虐行為はエスカレートを続けて行く。教会に逃げ込んだ大勢の村人たちは、神父もろともナチに追われて、再び外に出されて束にされる。集団処刑を感じた神父が、この人たちは関わりのない村人たちで、何もしていないから許すよう、談判を始めるが、将校は聞き入れず、談判中の神父を処刑してしまう。その光景に悲鳴を上げ、さらにおびえる村人たち。しかし間髪をいれず、銃声が、四方八方から村人の集団に向けて鳴り響き、阿鼻叫喚の中で、累々と死体の山が築かれていく。
 山に逃げた村人たちも、しだいにドイツ兵に追い詰められ、窪みの広場に集められて、一斉に射殺される。最後まで、ドイツ兵に命じられて、荷物運びをさせられた二人も、荷物を運び終えたら、その場で射殺、逃げた一人も、森の中まで追いかけられ、背後から無惨に銃弾をあびせられる。

少女、ナチの目を盗み、赤ん坊と森へ

 パルチザンと村人が、根こそぎ、ドイツ兵の歯牙にかかって、非業の死を遂げていく中で、マルティーナだけは、物陰に潜んで、処刑を免れていた。そしてその、細い短い腕には、生まれたばかりの弟が、しっかりと抱かれていた。ドイツ兵が家の中にいなくなった隙を見て、マルティーナは、弟を抱いたまま、こっそり森の中に入っていく。大木の陰の窪みに身を隠したマルティーナは、安堵した表情で、弟を抱きしめる。凄惨な虐殺のシーンが重ねられたあとに据えられる、この少女と赤ん坊の、和みのカットが持つ意味は、この映画のラストとしてふさわしい。まさに「やがて来たる者へ」という一点の光なのだ。この邦題は、イタリア語の原題の、ほぼ直訳した題名であり、ディリッティ監督と共同で、プロデュースを担った女性、シモーネ・バキーニは、「題名には、生き残った赤ちゃんに捧げるという意味が、重ねられている。」と言っている。

赤ん坊と少女、創作の人物設定に意味

 実際、「マルザボットの虐殺」は、第二次世界大戦中に、イタリアで起きた虐殺事件の最大級のものであり、パルチザンと村民を合わせて、771人が殺され、その中でもパルチザンは、凡そ50人だったといわれるので、村民の被害は、ことのほか大きかったのである。しかもそのうち、およそ200人は、子供だったというから、さらに驚く。大人の死体の下敷きになって、5〜6人の子供が生き残っていたという記録もあるそうだが、生き残った赤ちゃんは、一人もいないことになっている。ディリッティ監督と、バキーニ・プロデューサーは、だから敢えて、マルティーナと、その弟の赤ん坊という人物設定を、創作で加え、「やがて来たる者へ」という一条の光を、映画に加えたかったのだと言っている。
 おまけに、戦後すぐのイタリアン・リアリズムを、再生するということも、本作の目的であったから、登場人物の大部分は、ロケ地で選んだ素人俳優に演じさせるという、当時の手法を踏襲した。マルティーナ役の少女も、現地で選んだグレタ・ズッケリ・モンタナーリという素人の少女だったと監督は言っているが、そういう現地現実主義を、完全に生かす演出力があったため、すべては成功につながった。1959年生まれで、戦後すぐのイタリアン・リアリズムを知らないはずのディリッティ監督が、そういう演出力を、どのようにして育んだのか、最後に、ディリッティ監督の、経歴に触れておきたい。

監督はオルミの映画学校に影響された人

 ジョルジョ・ディリッティ監督は、『木靴の樹』(76)『ポー川のひかり』(06)が有名な、エルマンノ・オルミ監督(一般には、60〜70年代に活躍した、第二期の、ネオ・リアリズム派の監督の一人と目されている人)が主宰する、ボローニャの映画学校に、80年代から勤務し、キャスティング・ディレクターなどを務めたあと、90年代から、数々のドキュメンタリーを撮り始め、『風は自分の道をめぐる』(05、日本未輸入)で、長編劇映画デビューを果たした人で、本作が二本目に当たる。ネオ・リアリズムの、正統な継承者の一人であるオルミ監督の影響を受け、また理論・歴史としてのネオ・リアリズムを、映画学校を通じて会得し、ドキュメンタリーで実践し、ついに、手法・素材ともに、第一期のネオ・リアリズム作品だとしても、おかしくないほどの映画を、リアリズム軽視の米ハリウッド作品が席巻する今に、生み出したのだと言える。
 「この映画が描いたものは、戦争下で、多数の民間人や子供たちが犠牲になった、歴史的事件の一つであるが、今もイラクなどでは、同じ状況が続いている。その戦争の悲劇の未来には、いかなるものがあるのか。悲惨のまま終ることなく、悲惨を踏み台にした、未来への光がないことには、同じ悲劇は繰り返されるだけ。そこで私は、悲惨な歴史の上に、生き残る子供の話を付け加えたのだ」とも語っているディリッティ監督。新たに生み出された、ネオ・リアリズム映画の傑作の、完成宣言とも受け取りたい発言である。
(上映時間1時間57分)
写真提供:(C)ARANCIAFILM2009
東 京 神保町 岩波ホール 上映中
大 阪 茶屋町 テアトル梅田 上映中
名古屋 栄 名演小劇場 上映中
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 11月26日〜上映
近日上映劇場
  秋田シアタープレイタウン、京都シネマ、広島サロンシネマ、那覇桜坂劇場
全国順次
◆配給社 アルシネテラン 03−5467−3730

《公式サイト》http://www.alcine-terran.com/yagate/
 

 

 

 
   

人間愛を無視して、武士の誇りありや?

困窮浪人の狂言切腹描き封建制を批判

『切腹』リメイクの見事な時代劇『一命』

(2011.10.24)

木寺清美

 
 


故小林正樹の名作を三池崇史が再生

 この映画は、故小林正樹監督が、62年に作り、当時のカンヌ国際映画祭で、審査員特別賞を受けた『切腹』のリメイクである。今回もカンヌに出品され、無冠に終ったのだが、50年近くも前の作品を知らない人も多く、スタンディング・オベーションに包まれたという。
 故滝口康彦氏の「異聞浪人記」という時代小説が原作だが、前作は、黒沢作品などにも参画した名脚本家の橋本忍氏が脚色し、日本の名作シナリオの一つに、数えられる一作となって、小林監督の下で名作映画になったのだが、今回は、『座頭市THE LAST』(10)の脚本や、『カタクリ家の幸福』(02、三池崇史監督)の脚本を手がけた山岸きくみさんが脚本を担当し、去年の『十三人の刺客』の、封建制批判のクライマックスで、リアルな殺陣をたっぷり見せて、立派なリメイク版をつくリあげた、三池崇史監督が、メガホンをとった。
 私は、本文を書くに当たって、『切腹』を見直したが、一番の違いは、ラストの殺陣の場面で、やや様式的な立ち回りになっている前作に比べ、「一人」対「多勢」の悲壮な立ち回りで、しかも「一人」は、竹光で闘うという凄惨さが、すごいリアリズムで描かれている。大筋の構成については、完璧なまでに緻密である前作を、ほぼ踏襲しているものの、このリアルな殺陣によって、封建性の悲劇性が、より深く表出されたことは確かであり、三池監督は、『十三人の刺客』に続いて、悲愴な時代劇の秀作を、もう一本ものにしたと言える。

取潰しの外様藩の浪人溢れ、生活困窮

 時代は、江戸の寛永7年、大阪夏の陣で手柄を立てた譜代大名の井伊家の藩主が、三代将軍家光の後見人となって、幕政を敷いた時代である。取り潰しにあった、芸州広島藩福島家の浪人侍が、譜代大名の最右翼だった、この彦根藩井伊家の江戸屋敷を尋ね、「新たに召抱えてもらえる就職口(藩)もなく、武士の面目を失ったので、切腹をしたい。ついては玄関先と介錯人を貸してほしい」と、切腹を申し出たところから、物語ははじまる。
 この井伊家藩主直孝が、将軍家光の後見人であったが、将軍職を家光に譲った二代将軍秀忠も存命中で、江戸幕府が、次々と諸制度を施行し、幕政の中心となった、鎖国や参勤交代も、準備中だった時代である。当然のことながら、譜代大名の整備と、外様大名の整理も、次々と行われ、お家取り潰しになる外様大名も多く、譜代では、とても雇いきれず、浪人が巷に溢れた。太平の世となって、剣の道場を開いても商売にならず、農業の真似事をしたり、傘張りの内職をしたりして身過ぎを得たが、農民や町人のレベルにも達せず、「学」を生かして、寺子屋よりも小規模の、塾を開く者もあったが、いくらの収入にもならなかった。生活に困り、武士の象徴である刀を売り渡し、竹光をさして、辛うじて武士の矜持を守る者もふえ、そんな武士人生に絶望をする者は、繁栄する譜代大名の屋敷の門前での切腹を申し出て、自害し果てる、悲壮な覚悟の武士も増加した。井伊家の屋敷に切腹を申し出た、元芸州広島藩の武士も、そんな人生に絶望した、中年の浪人であった。自らを津雲半四郎(市川海老蔵)と名乗った。

窮乏の浪人の切腹流行、狂言に発展

 門番から、そういう浪人の訪問を聞いた、井伊家家老の斎藤勘解由(かげゆ)(役所広司)は、「またか」と渋い顔をする。というのも、少し前に、同じような切腹希望の、若い浪人侍がやってきて、庭先を血で汚されたばかり。同じ迷惑を、受けたくない嫌悪感とともに、そういう庭先切腹が流行する風潮を、困ったものだと思ったからである。それも、本当に武士の矜持を守るために、真剣勝負の切腹をするのならまだいい。その若侍は、いざ切腹を決行する段階になって、しばしの猶予と、3両の金子を求め、「あす必ず戻ってきて切腹をするから」と、「武士の矜持のため」と最初に言った決断とは、ずいぶん覚悟のない言動に打ち変わり、大いに迷惑をした記憶が、よみがえったためである。実を言うと、武士の門前切腹が始まって以後、面倒を嫌った大名家では、幾ばくかの金品を渡し、「他家の門前でやってくれ」と追い払うところも増えたため、切腹の覚悟などないのに、その金品を目当てに切腹を申し出る狂言切腹が、真剣切腹を上回って、流行し始めていたのである。

切腹申し出の前に、狂言切腹があった

 斎藤家老は、ともかくも、切腹を申し出た中年の浪人を、庭先に誘い、「本当に切腹をする覚悟があるのか。」と問いただし、一日の猶予と3両の金子を求めた、見苦しい若侍の話をし、「井伊家は、幕府の重要な役割(家光の後見人、後の大老、老中)を担い、徳川将軍家をお守りしている大名家だ。金品を与えて帰すなど、そんな甘っちょろい風潮には、与みしない。武士に二言はない。切腹をするといったらしてもらう。それこそが武士道精神を守ることであり、わが大名家と幕府の仕事だからだ。」と述べ、「そのときの話を、も少ししてやろうか」と言って、斎藤家老は,さらに詳しく話し始めた。  家老は言う。「その若侍には、猶予も金子も許可しなかったら、ついに覚悟を決め、決行の段階となったが、なんと驚いたことに、抜いた刀は竹光で、真剣を貸してくれとまで言う。武士の誇りである刀を売り飛ばすこと自体ガ許されず、自ら招いた事態だから、竹光で切腹せよと命じ、介錯人の介錯も、十分に腹をかっ裂くまで、行わなかった。それは凄惨な切腹となったが、身から出た錆だから仕方がない。しかし最後は、立派にやり遂げた。天晴れであった」と語る。
 黙って聞いていた津雲半四郎も、「天晴れな話でありますな」と相槌を打つが、何やら突き上げてくる憤怒のようなものを、しきりに耐えているといった表情をする。「して、お主はどうする。確かあの若侍も、芸州広島藩福島家の浪人と言っていたよう思う。お主は存じているか、名は確か、千々岩(ちぢいわ)求女(もとめ)(瑛太)といったぞ」と、続いてたたみこむように語る斎藤家老に対して、「存じない」と素っ気ない返事をするが、その表情の奥には、何か分けがありそうに、瞳がギラギラしていた。

哀れ竹光切腹も回想場面のリアリズム

 映画はこのように、切腹を申し出た津雲半四郎が庭先に座り、庭の周りを、武装した家来たちが囲み、正面の縁の上に立つ斉藤家老とのやり取りで、進行していく構成になっていて、その話の内容が、回想シーンとして画面に展開されていく。
 リアリズムに撤することが、この映画の眼目であるだけに、千々岩求女の竹光切腹の回想シーンは、相当に凄惨なものである。一日の猶予と3両の金子を望んで入れられず、無念の決意で非業の死を遂げていく求女を演じる瑛太も、なかなかの熱演で、減量をして臨んだと伝えられており、なぜ一日の猶予と3両の金子を望んだのかが分かってからの、後の回想シーンでは、小さな寺子屋を開いて生活費を生み出している、妻子思いの温厚な貧乏侍を、一転して温かく演じている。脇役ながら、当時の貧乏な若侍の典型を、十分に再生した演技として、評価できると思う。

介錯人を指名、指名された三人不在

 さて、斎藤家老の話を聞いて、津雲半四郎は、「自分はそのような狂言切腹ではない」と繰り返し言い、だだ介錯人については、「こちらから指名させていただきたく、そのわがままだけは、許してもらいたい」と述べ、家老の承諾を取った。そして指名したのが、沢潟彦九郎、松崎隼人正、川辺右馬助といった、井伊藩を支える、名だたる剣の達人として知られた、三名の人物であった。ところが、三人が三人とも、病や所用などで、出所していないことが分かり、「その程度のことで、職場を放棄するのは、けしからん」と、思わぬところで、井伊家の沽券の関わる失態が浮上したことに、心底から怒った斎藤家老は、「使いをやらせて、直ちに出所するよう命じよ」と、部下に伝える。
 実を言うと、このくだりを、こんなに簡略化して紹介すると、味も素っ気もなくなるのであって、介錯人は一人であるから、一人ずつ指名して、その都度、不出所が分かり、失態が、次第に大きくなって、最後には、それぞれの理由が嘘で、三人とも前夜痛飲して酔っ払ったらしく、自宅にも帰っていなくて、出所を命じに行っても、本人に会えないという真相までが、明るみに出るのだ。そして介錯人探しで、待たされている間、「時間つぶしに、最近聞いた、切腹についての、私の伝聞を、お話つかまつろうか」と津雲半四郎がもちかけ、家老も仕方なく、「聞こう」と承諾する展開になっていく。だが、この伝聞は、半四郎自身の事柄であり、上手く騙された家老は、話の大部分を聞くまでそれに気付かず、殆どを聞かされてしまうという、巧みな構成になっている。

不在の介錯人探す時間つぶしの与太話が・・

 「千々岩求女は、あまり親しくはないが、確かに芸州広島藩福島家の藩士であり、聞き及ぶところでは、切腹の経緯はこうだ」と、半四郎は話し始めるが、実は求女は、半四郎の娘婿であった。その義父子の関係を伏せての話は、まさに泣かせる、当時の貧乏侍の典型とでも言える、話だったのであるから、強面の家老といえども、つい聞かされてしまうという、たくみな話術が展開されるのである。もちろん画面は、回想シーンとなって、観客には説明されていく。
 娘婿だった求女は、半四郎の同僚、千々岩甚内の子供だった。甚内は、半四郎と同様に、福島家取り潰しで浪人となり、おまけに妻を亡くし、男手一つで求女を育ててきたが、自らも病に斃れる。半四郎も、妻を亡くし、男手で娘美穂を育てていたため、甚内の遺児求女を引き取り、美穂とともに、兄妹のように育て、当然の帰結のように、二人を結婚させ、孫に当たる赤ん坊金吾も生まれた。半四郎は傘張りなどの手内職で家計を支える極貧の生活。それを、武道より学問が得意の求女が、寺子屋のような小さな塾を開いて、近くの町人の子を集めて教え、支払われるわずかな月謝で生活を支え、美穂もまた、縫い物の内職で家計の不足を満たした。求女の刀などは、早くに売り渡し、竹光となっていた。そんなぎりぎりの、互いの愛と絆だけが支えの、小さなファミリーを襲ったさらなる不幸が、美穂の不治の病と、まだ赤児の金吾の高熱だった。

無残な息子の遺体が、義父に届けられ・・ください

 医者を呼ぶ金も、薬商で薬を調合してもらう金もない、この浪人一家は、「夕方までには何とかする、それまで、お義父さん、妻と赤ん坊の介抱をしていて欲しい」と、突然求女が言い残して出て行ってからは、半四郎が、二人の介抱をしながら、首を長くして求女の帰りを待つことになる。
 だが、夕方になっても、約束の求女は、帰らなかった。そしてその日の夜遅く、どんどんと戸をたたく物音がして、井伊家の使の者だと名乗る、数人の男たちに担がれて、すでに遺体となった、血みどろの求女の胴体と首が、一家の義父のもとに、届けられたのだ。「これが、私が聞いた、千々岩求女という人物の、狂言竹光切腹の仔細である。」と、津雲半四郎は、話し終わって、さらに次のように言葉で結んだ。
 「聞くと、千々岩求女は、一日の猶予と、3両の金子を求めたそうだが、井伊家では、「武士に二言なし」と、武士の矜持を守らせることに汲々とし、竹光切腹を強要したようだ。貧しさに耐えている者に、一編の温情すらも、示さなかった武士の矜持とは、一体何か。病の妻と赤ん坊を守ろうとする愛情と、武士の矜持のどちらが大切か」と、問題提起し、家老の顔色をうかがった。そしてそこで初めて、話に出てくる義父は、実は「この私だ」と名乗ったのだ。

家老の斬殺命令下り、転がり出る髷三本

 「時間つぶしの与太話だと思って、聞いてやっていたら、何を抜かす。ちっぽけな家族愛などより、武士の矜持が大切なことは、自明のことである。しかもぬけぬけと、再び井伊家に来て、切腹の場を借りたいなどとは、無礼千万!皆のもの!たちどころに、この者を切って棄てよ」と、斉藤家老は、部下に命令を発した。
 取り囲む家来たちが、さっと剣を抜き、半四郎に迫ろうとするのを、再び「しばし待たれい」と制止した半四郎は、懐から、何やら人の髪の毛の束のようなものを三つ取り出し、「沢潟彦九郎殿の髷、松崎隼人正殿の髷、川辺右馬助殿の髷」と、三人のちょん髷を床に転がした。「三人とも、井伊家が大切にする武士の矜持を、既に失っておる。そのために出所できないにもかかわらず、病などと、偽りの報告で、糊塗するつもりだったのか」と、半四郎は、逆に家老を一喝し、三人の髷が、半四郎の手で、いかにして切り落とされたかの経緯を、話しはじめた。それは、酔って居眠りをしているところを切り落されたり、真剣勝負を挑んで敗れたりといった、恥ずかしい経緯ばかりであった。
 このあたりの、本当に与太話のように始まった述懐が、真相を暴き、半四郎の切腹申し出は、狂言でもなんでもない、井伊家への復讐であることが分かってくる緊迫感は、相当なもので、三池監督の演出も、『十三人の刺客』に劣らない見事なものである。

終末の殺陣が武家社会の腐敗炙り出す

 かくて、辱められた斎藤家老は、もう一度切腹を強行させようとするが、指名した介錯人以外での切腹はならぬと、半四郎が断ったため、事態は、取り囲む家来たちとの、「一人」対「多勢」の殺陣剣戟へと転化していく。そこから始まるリアルな殺陣剣戟シーンは、三池監督の去年の時代劇『十三人の刺客』のリメイク版を彷彿とさせるもので、『切腹』の様式性を、完全に排している。しかも真剣勝負は野蛮とする、半四郎の考えに基き、竹光で応戦する凄惨なリアリズムが、延々と続く。その悲愴な結末は、武士の矜持などという、つまらぬ概念に寄りかかるだけの、後期封建社会の、人間の腐敗を、余すところなく炙り出す。まさに傑作時代劇の誕生である。また時代劇としては初めての、全編3D撮影が行われ、3D版と2D版が、平行して公開されている。

三池崇史は、日本を代表する監督へ

 三池崇史監督は51歳、すでに80本近い作品を生み出している多作家である。OVシネマ(ビデオ全盛時代の、劇場用でない、オリジナル・ビデオ・シネマ)から身を起こした三池監督は、劇場用映画にも進出、キネマ旬報ベスト10にも入賞した、大人のファンタジー『中国の鳥人』(98)や、裏社会を、B級映画スタイルで描くことで、さらに迫真性を高めた、『日本黒社会LEY LINES』(99)『DEAD OR ARIVE犯罪者』(99)、そして国際的に評価されたサイコ・スリラー『オーディション』(99)と、次第に存在感を高め、その後、ハチャメチャとも見える様々な娯楽映画に、アウトロー的感覚をぶち込んできた人である。リメイク版とはいえ、『十三人の刺客』に続いて『一命』と、秀作時代劇をものにしたことで、名実ともに、日本映画を代表する監督の一人に、のし上がったといえる。また半四郎役の市川海老蔵も、なかなかの熱演で、暴力事件の前に撮影したものとはいえ、免罪にしてあげてもと思えるほどの、成果を挙げている。
(上映時間2時間7分)
写真提供:(C)2011映画「一命」製作委員会
全国主要都市松竹系劇場・各地のシネコンで一斉上映中
■配給社 松竹株式会社 03−5550−1589

《公式サイト》http://www.ichimei.jp/

 

 

 
   

70〜80年代の暴虐と建設のエチオピア史

国つくりとは?知識人の苦悩のドラマ

初のエチオピア映画『テザ 慟哭の大地』

(2011.10.12)

木寺清美

 
 


東京の観客に詫びて、あえて紹介する意味

 今回は、本欄の読者の方に、お詫びをすることから、始めなくてはならない。今回紹介のエチオピア映画、『テザ、慟哭の大地』は、東京では、6月から7月にかけて、渋谷のイメージ・フォーラムで上映されていたが、もう上映は、終わっており、今現在(10月初め)では、再映の予定なども全くなく、東京公開に合わせて、紹介をするという、本欄の原則に従うと、完全に原則破りの紹介記事になってしまうことについての、お詫びである。  本欄で、筆者自身の私事を明らかにするのも、初めてであるが,私は大阪に住んでいる。関西では、全国主要都市で一斉に公開される、メジャーの娯楽映画を除いて、殆んどの場合、東京より一ヶ月程度遅れて、映画は公開される。そんなタイムラグの中で、少しでも早く見られる機会を探し、何とか東京公開中に、紹介記事を出せるよう努力をして、本欄を維持してきている。そういう事情だから、JCJとして、ぜひ紹介したい映画でも、東京公開中に見れず、紹介をあきらめることが、これまでも幾本か発生している。首都圏在住者が、本欄を担当すれば、解決する問題であるが、JCJの内部事情で、これまでは実現していない。

上映されてこそのエチオピア映画初公開

 そういう状況の中で、東京公開が終わった『テザ 慟哭の大地』というエチオピア映画を、あえて紹介することにしたのは、10月の大阪公開が、この作品の日本国内公開の、二度目の機会で、名古屋、札幌、仙台、広島、福岡などでの公開も、いつのことなのか、全く決まっていないという状況では、不遇な扱いを受けている本作の存在を知らせることが、引き続き、日本国内での公開の機会を増やすことに、協力することになると、判断したためである。
 シネマトリックスという、あまり知られていない映画会社の輸入配給で、エチオピア映画といっても、どんな内容か分からないし、俳優や監督もなじみがない、ということになると、そういうものはヒットせず、内容を周知させるパブリシティにも手間がかかるとして、公開を尻込みしてしまうのが、業界の常識なのである。しかし、映画は、1970年代から90年代に至る、エチオピアというアフリカの黒人国の歴史を辿り、政治と民衆が、どのように関わりあったのかを、人間の尊厳を大切にする立場から描かれた貴重な映画だと言えば、興味を示す映画ファンも、相当数おられるであろうし、何はともあれ、100年を越える映画の歴史の中でも、日本では、映画祭を除く、一般映画館でのエチオピア映画の公開は、初めてであると言われると、東京の公開が終わったという理由だけで、紹介をやめてしまうのは、JCJとして、取るべき道ではないと、判断したのである。

帝政−軍事独裁−民主化下の知識人は?

 エチオピアは、アフリカ大陸では、最古の独立国とされ、ヨーロッパの列強が、アフリカ大陸を蚕食し、職民地化して行った19世紀末には、エチオピアの地を植民地にしようとしたイタリアの野望を、国民の蜂起と団結でくじき、皇帝をいただく君主国として、既に独立を果たしていた。1936年から41年にかけて、再びイタリアのムッソリーニに占領されて、皇帝ハイレ、セラシオは、国外に亡命するという時期もあったが、大戦後、再びエチオピア最後の皇帝として、復帰した。そして1974年の軍事クーデターで、皇帝が廃位されるまでは、西欧の17・8世紀型の、絶対君主として、ハイレ・セラシオが君臨した。、だが権力や土地は、一部の貴族や地主に集中したため、1950年代後半ぐらいから、人民の不満がくすぶり始めた。つまり、富裕知識人層の民主化運動、ブルジョワ革命のようなものを、招来して行ったのである。しかし、ブルジョワ革命は実現せず、これをうまく捉えた軍部が、クーデターによって、1974年のエチオピア革命を達成したため、西欧各国で、近代的な、文化や知識を学んでいた、ディアスポラと呼ばれるエチオピア人の知識人層が、民主化された祖国の建設に役立とうと、大挙して帰国してきた。しかし、社会主義国家を建設すると宣言した軍部が、しだいに強権独裁主義に落ち入り、反対派を50万人も処刑するなどの恐怖政治を敷いたため、ディアスポラは、軍事政権下で働く者や、再び西欧に脱出する者など、対立と分裂を生み、苦闘の人生を送ることになる。
 この映画は、いずれ祖国の近代化に資するためにと、ドイツで医学を学んだ、このようなディアスポラの一人の男性、アンベルブルの、70年代から90年代に至る、苦闘の人生を、描いたものである。

軍事政権倒壊寸前から20年を振り返る

 映画のドラマは、ドイツで医学の勉強をしていた主人公のアンベルブルが、1974年のクーデターで生まれた、社会主義を標榜する軍事政権に協力して、皇帝制を廃した祖国エチオピアの再建に資するため、帰国したあと、軍事政権が、強権独裁に変化していって失望し、今度は東ドイツに、医学の勉強に派遣され、ベルリンの壁の崩壊などで、再びエチオピアに帰国してくる、1990年から始まる。つまり、70年代から90年代に至る、激動のエチオピアの歴史を、一人の医学者を通して描くこのドラマ、とりあえずは、たどり着いた最後の時点から始めて、過去のすべてを振り返るという構成をとっているのである。
 1990年、混乱の東ドイツから帰ってきたアンベルブルは、義足の片足を引きずるようにして、疲れ果てた様子で、荒涼としたエチオピアの、自らの出身の村に戻ってくる。出迎えた年老いた母親と、長年一緒に暮らしてきたらしいアザヌと呼ばれる謎の女が、ともに敗残のアンベルブルを快く受け入れ、母子は抱き合って嗚咽する。しかし一家を取り囲む村人たちは、アンヘルブルの兄といわれる人物も含めて、帰還をあまり歓迎していないらしい目で、一家を見下し、複雑な過去が、アンベルブルを覆っていることが、想像されていく。

暴虐の悪夢と、朝露の夢の交錯に主題が

 映画は、この帰還の前に、「死にたくない」と叫びながら、病院の廊下のようなところを、ストレッチャーで運ばれる、包帯だらけの男の映像が、何やら訳ありにつけられていて、帰還後、実家に落ち着いてからも、同じ悪夢を、アンベルブルが何度も見るという展開になっている。どうやらアンベルブルが、東ドイツに渡っている間に、何かの事件に巻き込まれて、片脚を失ったのであろうと、想像されるのだが、寝覚めにアンベルブルが見る夢は、そんな悪夢ばかりではなく、少年期の楽しい思い出もあった。
 若者たちが輪になって、棒で地面をたたきながら、謎かけ遊びをしているシーンがでてくる。「出かけている間に消えるものは何?」という謎かけがあって、「雨」「愛」などと辿り、「テザ」に行き着いて、正解となる。「テザ」とは、早朝、木々の葉に結ばれる「朝露」のことであり、日が高く上るにつれて消え、外出から帰ってきた頃には、跡型すらもなくなっている。そういう儚い自然現象であるが、翌朝にはまた、清澄な露は木々の葉に結び、きらきらと光り輝く。この映画の原題は、「テザ」だけであり、まさにそういう清澄なイメージの少年期の原点と、その原点への回帰再生のイメージと、片脚を失った悪夢とが、交錯するところに、エチオピアの歴史はあると、この映画の監督が、言いたげなのに気付く。
「テザ」というエチオピア語には、「朝露」だけでなく、「幼少期」という意味もあるのだそうで、まさに幼少期の純真さ、国家のあるべき純真さとの、「かけことば」にもなっているのである。

人種差別で生き方変える70年代の留学

 こうして映画は、1990年から、アンベルブルの少年期に遡り、さらに70年代、医師を志して、エチオピアを離れ、ドイツに留学してケルンで生活している、青年期のアンベルブルへと、ドラマは回想の形で進んでいく。回想ドラマのはじめは、ケルンでのアンベルブルの生活が描かれる。それは、カメルーン出身の黒人女性である、アンベルフルの恋人カサンドラと、同じエチオピア人の親友のテスファエと、その白人の恋人キャビとの4人の生活である。4人はことあるごとに語り合うが、映画がその中からクローズアップするのは、ドイツの白人社会における、人種的偏見の問題である。肌の黒いエチオピア人のテスファエと、肌の白いドイツ人のキャビが愛し合っていて、キャビがテスファエの子を身ごもっているという事実は、大変異例なことで、出産後も平穏に、ドイツで暮らせるとは思わない方がよいと、カサンドラは真剣に説く。だから、知識を習得に来ている我々は、自分の人生のためだけにそれを使うよりは、祖国に帰って、知識を生かすことを考えた方が、より充実した人生になると、カサンドラは言うのだった。

帝政が廃止、海外の知識人続々と帰国へ

 そんな彼らに、ひそひそと伝えられてくる情報は、祖国エチオピアの1974年の軍事クーデターで起きた政変であった。皇帝ハイレ・セラシエは廃位させられ、マルクス主義を標榜する軍事政権が誕生したのだ。ケルンでテレビを見て、テスファエは大歓喜し、アンベルブルは、うれしくはあったが、やや懐疑的で冷静であった。第二次大戦後、イタリアからの独立を完全に勝ち取ったのは、彼らの父親らの世代であったが、その後も続いた帝政が、やっと終焉を告げたことに、テスファエは重要な意味を感じていたが、アンベルブルは、軍事政権でマルクス主義というところに、一抹の不安を持っていたのである。  テスファエの妻キャビは、既に男児を出産していたが、テスファエは、妻子をケルンに残し、祖国の建設に貢献するため、急いで帰国してしまう。これに対してアンベルブルは、恋人カサンドラとの愛の巣を、当分ケルンで続けるという、やや優柔不断な人生を選んだ。 しかし、数年を経て、軍事政権の実権を、メンギスツ大佐が握り、てきばきと国つくりを始めたとき、帝政を逃れて、海外に留学したり亡命したりしていた、いわゆるエチオピアのブルジョワの知識人層「ディアスボラ」たちが、大挙して帰国し始め、その波に乗るような形で、アンベルブルも帰国する。それは妊娠をしたカサンドラが、彼の前から姿を消し、中絶をしたらしいという情報だけが、もたらされたことへの、失意の裏返しのような行動でもあったのである。

祖国は軍事独裁に変化、黙って従う知識人

 しかし、帰国したエチオピアの首都アジスアベバの街は、聞くと見るとでは大違いで、てきばきとした国づくりなどとはずいぶん違う、異質のものになっていた。降りた空港の軍隊の警備は厳しく、街中のいたるところに見られるマルクスの肖像画が、威容を誇っていた。それは、マルクスの傘の下で、強権主義を押し通す、メンギスツ大佐の独裁以外の何ものでもなかった。メンギスツ大佐は、80年代に、自由を求めた学生や知識人を、50万人も粛清したとされるが、帰国したばかりのアンベルブルは、そんなことを知る由もなく、個人の人間性や、社会的な価値が無視される不自由さを、感じながらも、先に帰国したテスファエに指導されながら、病院勤めをするハメになっていく。
 しかし、その病院勤めも、院内をうろつく軍隊の監視のもとに行われ、息の詰まるような毎日であったばかりでなく、自分の娘に「革命」という名前をつけるほどに、性急な革命思想を持った労働者が現れ、「お前ら知識人は、社会主義の建設には余分な反革命分子だ」などと、非難してきたりした。そしてアンベルブルも、反革命分子ではないかとの疑いをかけられ、自己批判の尋問にかけられる。その疑いは晴れるけれども、あまりにも馬鹿にしていると感じたアンベルブルは、病院では先輩のテスファエに訴えるが、「政治が建設途中の過度期だから、仕方がないのだ」といい、当面は黙って、軍事政権や、過激労働者に従うのが得策だとの見解を述べて、我慢を強いられる。静かな医学者の研究生活などは、どこかに吹っ飛び、ただただ政治に奉仕するだけの医学者だった。

テスファエは虐殺、アンベルブルも障害者

 そうこうするうちに、不幸はテスファエとアンベルブルの上にも振りかかった。テスファエが、反軍事政権派の過激分子によって、虐殺されてしまうのである。アンベルブルは、その悲しみにくれている暇もなかった。たちどころに、テスファエが行くことになっていた東ドイツに、体制側の科学者の友好交流の一員として、代わりに派遣されてしまうことになる。当時の社会主義圏は、自由主義圏の経済発展にくらべ、GDPが伸びず苦しんでいたが、フルシチョフ時代の「雪解け」も蹴散らして、スターリニズムの強権主義に戻っていたソ連を中心に、東欧諸国の自由を求める動きも、すべて封じ込められていた。エチオピアの強権主義的社会主義も、社会主義圏の当時の状況の中では、すぐに改善されるというものではなかった。
 アンベルブルは、惨殺されたテスフェアの一部始終を、彼の家族に伝えねばと思い、東西ドイツが辛うじて交流できるベルリンへ行き、ギャビや成長した、混血の息子のテオドロスに会う。しかし、アンベルブルは、テスフェアの死について、何事も話せず、白人社会での、混血児の住みにくさについて、逆に相談を受けただけで、別れてしまう。そして、アンヘルブルもまた、間もなくベルリンで暴漢に襲われ、ビルの窓から突き落とされて、瀕死の重傷を負い、病院に担ぎこまれる冒頭の悪夢のシーンに回帰することになる。こうしてアンベルブルは、片脚を失ったのである。

エチオピア内戦とベルリンの壁崩壊

 アンベルブルは、その後東ベルリンで、負傷を癒し、義足生活に慣れるための失意の80年代後半を、鬱々と送ることになるが、その間にも、エチオピアと東ドイツの情勢は、刻々と変わっていた。エチオピアでは、エチオピアの北部地域エリトリアの独立問題も絡んで、メンギスツの独裁に反対する勢力との内戦が、激化する一方であるとの情報が伝わり、それを抑えるため、メンギスツ政権は、いたいけな子供までを、どんどん政府軍に徴兵して、戦わせているとのことだった。一方東ドイツもまた、89年の「ベルリンの壁の崩壊」が起き、社会主義体制は、一気に混乱を深めていた。アンベルブルは、障害者となった自らの失意から、立ち直っているとは言えなかったが、祖国と東ドイツの、情勢の変化に押し出されるように、この映画の冒頭に描かれている、1990年の帰国へと、物語は回帰することになる。
 帰国したアンベルブルは、母親と抱き合い、感涙にむせんだが、謎の女アザヌが一緒に住んでおり、兄や村人たちから、白い眼で見られることになったということは、冒頭に書いた。なぜそういうことになるのかが、これから終盤にかけての物語となる。

固陋な村の習俗からも浮き上がる知識人

 最初は、自ら知識人たろうとし、二度目は、似非社会主義を標榜する独裁軍事政権から命じられてではあるが、ともかくも東ドイツへ学びに出た、知識人としてのアンベルブルが、貧しい無知な一般人からは、憎まれたというのが、村人の白眼視の理由である。それは、そうした知識人の多くが、軍事独裁政権に協力し、少しでも文句を言う一般人をも、反革命分子として、大量に処刑して行ったのを、見てみぬ振りをしたことへの、しっぺ返しでもあったのである。だから、メンギスツ大佐の政府軍と、反対分子の内戦が、90年代に入って、いよいよ激しくなるにつれ、何もしない知識人への風あたりは、いよいよ強くなったのである。これに呼応するように、兄が弟のアンベルブルを、じゃけんにしたのは、長く祖国を離れ、現実の困難と闘った経験がない弟なのに、母親の愛を、長男の自分より多く受けていると感じたことへの、私憤であったし、謎の女アザヌがいる家として、疎まれたのは、アザヌに子供を生ませた男が、別の女性と結婚し、絶望したアザヌが、その子供を投げ殺したという過去が、告白で分かることで、固陋な習俗を、きちんと守ることが美徳である村の常識からは、規格外の女として、疎まれたのだと分かる。要するに、帝政が倒れ、軍事独裁政権が生まれ、暴虐に反対する勢力との内戦が激化してくるという、70年代から90年代へのエチオピアの変化にもかかわらず、古来からの村単位では、固陋な家父長制の前近代を、ぬけ切れていないという、エチオピアの混沌を、この映画は、描いているのである。

兵への子供狩りに接し、教師を選ぶ

 そんなエチオピア社会の自家撞着を、抜け出す鍵を握るのは、社会主義の仮面をかぶった、軍事政権の言いなりにならない知識人層の、自立なのであり、そのことに気付いたアンベルブルの、障害の体に鞭打った、新たな行動が、終盤描かれることになる。
 アンベルブルが村に帰ってから、激しく押し寄せてきたのは、政府軍による子供狩りであった。村人の悲痛な反対も無視して、農作業中の子供を、無理やりに徴兵し、内戦の前線に送り出す用兵として、使って行った。一方、ムッソリーニと戦い、イタリアからの完全独立を勝ち取った、アンベルブルの父親の世代のパルチザンが、身を隠したといわれる洞窟も出てきて、そこに軍隊から逃れた子供たちが隠れたり、アンベルブルとアザヌとが新たな愛を育んだりする、シンボリックなエピソードも描かれ、歴史は繰り返されることが、示される。そしてアンベルブルは、アザヌと事実上の夫婦関係になり、村から姿を消した、子供たちの教師の代わりを買って出て、教壇に立つ決心をするのである。消えてしまっていたテザ(朝露)は、いつの間にかまた、木々の葉に結び、折からの朝日に輝いていた−というのが、この映画が描いた、20年以上にわたる、エチオピアの苦渋の現代史の、結末なのである。
 事実、エチオピアは、1991年に、メンギスツ初代大統領が海外に逃亡して失脚し、アンベルブルのような知識人を中心にした、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が結成され、首都アジスアベバを制圧、以後の総選挙でも、圧倒的に信任され、今日までの民主主義的国家体制の基礎を敷くことに、成功しているのである

ハイレ・ゲリマ監督の世界遺産的作品

 この映画の監督ハイレ・ゲリマは、この映画の製作時(08)62歳、アメリカに在住し、ワシントンDCの、ハワード大学で、映画学の教授をしているエチオピア人である。日本でも、1984年に開催された「アフリカ映画祭」で、78年に作られた、同監督の作品『三千年の収穫』(地主の搾取が続いていた、帝政時代の農民の苦闘を描いたもの)が上映されているが、その『三千年の収穫』を含め、短編や、ドキュメンタリーなど、1971年から今日まで、10本の映画を世に問うている監督で、この映画の主人公アンベルブルのように、学び、祖国の建設に貢献しようとして外国に出た、エチオピア人なのである。そして自らの半生が、帝政、軍事独裁、現在に至る、エチオピアの激動史そのものに、動かされてきた半生であり、この映画はまさに、アンベルブルに自らを投影した、作品だということが出来る。
 08年のヴェネチア映画祭で、審査員特別賞など三賞を受賞するなど、数々の国際評価を得ている作品で、エチオピア映画史の、いやアフリカ映画史の、いや世界の映画史の、遺産の一つに、これからも数え続けられる作品だといっても、過言ではない。日本で初めて商業ルートに乗ったエチオピア映画だと喧伝されても、東京、大阪、名古屋以外での、公開の目途もたっていない状況は、大変嘆かわしい。『テザ 慟哭の大地』の内容が正確に伝わり、日本での公開の場が、広がることを、願うのみである。
(上映時間2時間20分)

東 京 上映終了
大 阪 九条 シネ・ヌーヴォ 上映中
京 都 東寺 京都みなみ会館 近日上映予定
他地区 上映予定は全く未定(2011年10月初旬現在)
■配給社 シネマトリックス 03−5362−0671

《公式サイト》http://cinematrix.jp/teza/
 

 

 

 
   

万感の思い溢れる道化役者の少年時代

スペイン内戦後を生きる道化一座物語

『ペーパーバード 幸せは翼にのって』

(2011.9.26)

木寺清美

 
 


著名道化役者の思い出軸の架空話だが

 これは、久しぶりに万感の思いで、見終えることの出来る、スペイン映画の感動編だ。去年のモントリオール映画祭で、観客賞を得たというのも、さもありなんという思いにさせられる。
 スペイン政府から勲章を貰うほどの、有名な道化役者を父に持つ、エミリオ・アラゴン監督が、50歳を過ぎて、製作、監督、音楽を一手に引き受けて作った、本格的な最初の劇場用映画であるが、監督自身は、テレビ、舞台の俳優兼演出家として、スペインでは既に著名な人であり、最近では、民間テレビ放送局一社の、経営者でもあるという人である。おまけに、父親ばかりでなく、叔父、従兄、弟、妹、甥、姪が俳優という、芸能一族に囲まれた人でもあるのだ。
 だからといって、「芸能」という狭い世界から、世の中を見るといった視点は、まったくない本作、父親の体験談など、父親から聞いた、スペイン内戦時代の、様々な話を軸に、いろんな人から聞いた当時の話を、ゴッタ混ぜにして作り上げた、全くのフィクションなのだけれど、完全な実話と思わせるほどに、現実感があり、人間描写も背景描写も、実に巧みなリアリズムで貫かれている。そして、人間性の喪失に至る、ぎりぎりのところまで苦闘しながら、フランコ総統の独裁に芸人が抵抗するとは、こういうことなのだと、納得させる映画になっているのである。

スペイン内戦で妻子失った役者が発端

 この映画の主人公ホルヘ(イマノル・アリアス=1956年生まれ、スペインのベテラン俳優。イヴ・モンタンに似た風貌が、歌手、俳優、知識人、抵抗の人であったモンタンを想起させ、よりこの映画のインパクトを、強くしている)は、腹話術師のエンリケ(ルイス・オマール=1957年生まれ、スペインのベテラン俳優)と組んで、スペイン内戦の最中も、マドリードの舞台で、コントを演じ、満場の拍手を浴び続けていた。ホルヘは、家庭的にも、優しい妻と息子に恵まれ、逼迫した世情以外は、言うことのない幸せに包まれていた。あるとき舞台を終えて帰る途中、抵抗運動を続ける労働者や市民に対する、フランコ軍の爆撃に遭遇し、空きビルにしばし避難する羽目になる。そしてやっとの思いで、家に帰り着いたホルヘの目に、飛び込んできたものは、爆撃で瓦礫と化してしまった家と、下敷きになって、息絶えている、妻と息子の姿だった。

道化のコンビに加わる12歳の道化の卵

 スペイン内戦は激化し、マドリードは、フランコ軍の攻勢で戦場となった。労働者らの人民戦線の分裂敗退で、1939年3月、ついにフランコ総統の独裁政権が成立する。その後も最後まで抵抗した、人民戦線派の残党を、2万人も処刑するという混乱も続き、道化役者の公演どころではなくなり、一座は散りじりになった。家族を失ったホルヘも、悲しむ間もなく、マドリードを離れた。そして一年後、ホルヘはマドリードに戻ってくる。その間、ホルヘが何処で何をしていたかは、一座の者にも分からず、映画もくわしくは描かないが、この空白期間が、新たな不幸を招くことになる。
 フランコの独裁は、より強権的になるものの、一応世情は静かになり、一座の公演も再開される。ホルヘは、以前同様エンリケとコンビを組み、内戦で生まれた戦災孤児である、12歳の少年ミゲルが、これに加わることになる。マドリードに戻ってきたホルヘは、エンリケの家に同居することになり、そのエンリケの家に、戦災孤児ミゲルも同居をしていて、出会ったのだ。おまけにこのミゲルは、芸人だった父母を、戦火の中で失っていて、既に芸人の卵としての才能を持っていた。新しい芸を覚えたいという意欲も相当なもので、ホルヘに次々と教えを乞うてきた。自分の息子を思い出すから、ミゲルの教師役はゴメンだとしていたホルヘも、逆にわが息子のように面倒を見てやるようになる。

強権政治下の笑いの公演を牧歌的に

 一座の公演は、多彩で楽しいものだった。一輪車乗りのピサロ、犬の曲芸師の老夫婦、そんな人たちが、次々と舞台に立ち、観客に笑いを振りまいていく。それらを映画は楽しく、リアルに、時には猥雑に描いていく。劇場外の世情が厳しいだけに、そこが、限定されたひと時の、天国のような救いの場所になっていることが、手にとるように分かる、こうした生き生きとした描写が続くのも、この映画の魅力である。戦火で眼鏡をなくし、再調達も叶わない貧しい芸人が、めがねなしで一輪車に乗り、舞台から転落するなどいう、笑えない椿事も、健康な笑いの中に描かれる。ホルヘ、エンリケ、ミゲルのグループには、もう一人、ホルヘの孤独を気遣かう若い女性歌手ロシオも加わり、コントと歌と腹話術の、笑いのグループとして、ヤンヤの喝采を浴びた。
 また、舞台以外の生活も描かれる。それは独裁政権下の、下界の厳しさと貧しさの描写でもある。闇市のような露店で買い物をする芸人たち、芸人たちの溜り場になっているバーのようなところで行われる、チンケなオーディション、バスや馬車を乗り継いで、地方巡業に出かけるエピソード、そのいずれもが、混乱の時代の貧しい芸人の現実を活写したものであるが、それでもやりたいことがやれている、ささやかな幸せが伝わる。そういう牧歌的な一時の幸せの描写を経て、芸人たちは、再び不幸せな現実に直面させられる。だが、その前に、ミゲルの母親探しというエピソードが、はさまれているのを、書かねばならない。

戦災孤児の母親発見、悲惨な認知症に

 戦火の中で両親を失い、戦災孤児になったミゲルであるが、劇場で上映されたニュース・フィルムの中に、母親らしい人物が写っているのを、発見する。「お母さんはまだ生きている。探して欲しい」と言い出すミゲル。ホルヘは、「期待するな」とミゲルを諭すが、こっそりと調査をはじめ、郊外の精神病院に収容されている母親を見出す。しかし実態は、会ってみなければ分からないと、ホルヘ一人で、母親に会いに行くことにする。ミゲルが母親とよく折り紙をして折ったという「紙の鳥」を、ミゲルに折らせ、携えていく。
 確かに母親は生きていた。しかし、戦火の下をくぐったショックで、強度の認知症になっていた。息子の思い出も、折り紙の記憶も失われて、殆んど反応をしないミゲルの母親に、ホルヘは、「息子さんは、芸人の血を引いて、とてもいい才能を持っている、私が父親代わりとなり、立派な芸人に育てます」と、約束するのだった。しかし、帰ってきたホルヘは、ミゲルに対しては、詳しい事情を話さず、「会いに行かない方がいい」と、会わせなかった。しかし、以後のホルヘとミゲルは、越えられなかった教師と弟子の関係が、本当の父子のような関係になっていく。

反戦歌歌ったホルヘ狙われ、監視員も

 さて、人民戦線の残党の追及に、手を緩めないフランコ政権は、約一年間行方が分からなかったホルヘを疑っていた。妻子を爆撃で失って、心情的に反体制派に与したのは事実らしく、政権側の疑いは、反体制派のフランコ政権襲撃事件に絡んで、「フランコとは暮らせない」というフランコ体制下の生活苦を歌った歌を、劇場で歌ったらしいというものだった。政権側は、ホルヘを監視するために、一座の下働き用員として、バストールという男を、いつの間にか一座に送り込んでくる。このことを、映画は、体制側の動きとして、観客にだけ、分かるように描いている。

軍のパトロール増え、海外脱出も視野に

 そして軍人による、劇場のパトロールも、再三行われた。それを見て、エンリケは、「ここには自由がない。自由な公演をするには、海外に行くしかない」と、海外脱出を主張するが、ホルヘは、たちどころには同意しなかった。一方では、大道具係のペドロが、反体制派の組織に身を置く分子で、反体制派の集会に出ないかと、ホルヘを誘ってくるが、こちらの方も、ホルヘは言葉を濁して、参加しようとはしなかった。それは「フランコとは暮らせない」を歌ったものの、自分は完全な反体制分子ではないという思いと、心情的には反体制派であるという矛盾を抱えた、芸人一般の心情を象徴していたといえる。それはまた、当時のスペインの一般市民の悩みを、象徴していたともいえるものである。

総統の前での御前公演命じられ、緊迫!

 そんな緊迫した状況下で今度は、「君たちは、巷の人気一座らしいが、フランコ総統の前で、一度、御前公演をやってくれないか」という命令が、政権側から伝えられてくる。一座の中には、反体制分子ばかりではなく、この機会に政権側に協力して、一座の安定を図ろうと考える団員もいた。だから御前公演の実施は、簡単に決まった。
 だがそれは、送りこまれたパストールらも、一座の裏で動き、ホルヘ拘束に向けての緊迫度が高まっていくことを意味していた。ホルヘはついに、「今度こそ海外へ脱出しよう」というエンリケの計画を受け入れ、ミゲルらとともに、南米のブェノスアイレスを目指す準備を始める。
 ここからは、御前公演を何とか成功させて、独裁政権に見破られないような派手派手の顔をしながら、裏で脱出の準備をするといったスリルが、ドラマ全体を覆い、サスペンスフルな展開となる。公演の最終日、いよいよ脱出を決行、ホルヘやエンリケの尋常でない様子に気付いた、パストールらが、急に持ち場を放棄して、軍とともに追跡に乗り出すあたりは、通常の活劇以上の緊迫感である。ホルヘだけが足止めを食い、マドリード駅を出発する列車に遅れそうになる最後の場面は、人生の分かれ道を描いた、数々の過去の映画の、駅頭の名場面と比較しても、白眉の一つに数えられる感動シーンである。しかしこの場面を、具体的に書くことは、映画紹介のセオリーに反するので、これ以上は書かない。

少年は、勲章まで得た喜劇役者に成長

 映画はこの後に、約60年後のエピローグがついているが、それがまた、含蓄の深い名シーンである。少年ミゲルは、立派な道化役者になっていて、もう老境を迎えていたのだ。1975年まで続いた、祖国スペインの、フランコ独裁を避け、中南米のスペイン語圏の国々で活躍し続けたのだが、それでも、民主化が実現した祖国スペインから、勲章を受けることになり、その授賞式に帰ってきた老道化役者として、登場するのだ。そして、自らの人生を振り返り、少年の頃の独裁政治との闘いや、その後のスペイン語圏での活動を、静かに語り始める受賞スピーチが、感動的に画面に重なっていく。架空物語であるこの映画の、最も太いエピソードある、「ミゲルの成長」は、このように、エミリオ・アラゴン監督が、実際に勲章を得た道化役者だった自分の父親(ミリキと呼ばれた有名な道化役者)の話を、転用したものである。アラゴン監督は、キューバ生まれのスペイン人で、父親と暮らした、アルゼンチンのブェノスアイレスで、ピアノを習得した思い出があるという。エピローグで、老人となったミゲル少年が、自らの人生を振り返る感動シーンは、まさにアラゴン監督が父親のミリキから聞いた事柄の再現だろう。

フランコと闘った民衆自身の芸術がない

 そしてアラゴン監督は言っている。スペインの独裁政治は、ドイツのナチ、イタリアのファシストのように、第二次世界大戦の終焉とともに、終わらず、戦後30年も続いた。それは、発生、成熟、伝播のすべての段階を通じ、独、伊とは違った独裁だったこととも、関係している。フランコ総統は、ヒットラーやムッソリーニのように、国民を騙し、選挙で第一党となったのではなく、独裁に反対する国民の運動を、武力で抑え、今で言うクーデターのような形で、政権の座に着いた。独裁体制の完成後も、国内の反対派の徹底した処断に力が注がれ、隣国に伸張して、戦争を仕掛けることはなかった。長期にわたって黙らされた国民は、この苦渋の時代を、それぞれの胸に持ちながら、フランコ時代も、民主主義体制に戻ってからも沈黙し、文章や言論のような形で、当時の実態を振り返ったようなものを、生まなかった。似たものがあるとすれば、内戦当時、スペイン国民を救うとして、外国から人民戦線を支援しようとした人たちの文章や言論として、残されているものということになる(ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」のように=筆者注)。やはりスペイン人の作品として、当時を描いたものがあるべきで、この映画の製作動機は、まさにそこにあると。

監督の父の話を。架空話の軸にして成功

 『ペーパーバード 幸せは翼にのって』は、たくさんの現実のエピソードを下敷きに、それらをない混ぜして、フィクションを構成し、その中で、当時の民衆の姿を浮かび上がらせた歴史ドラマであり、単なる道化師物語ではない。それがゆえに、これからも長く評価される、スペイン映画になったと言える。
 『ペーパーバード』(スペイン語の原題は、「紙の鳥たち」=当時の民衆を象徴しているような、良いネーミング」)という題名は、邦題には「幸せは翼にのって」という副題がつけられて、何やら軽くて甘い、コメディを想像させる。しかし映画の真の内容は、重い悲喜劇で、芸人ばかりではない、人民の闘いにまで目配せをきかせた重いものだ。
 スペイン内戦の過酷な状況が、冒頭に描かれるが、そのあとの前半は、一座の公演の模様や、役者たちの生活が、笑いの中に牧歌的に描かれ、どういうところにドラマが収斂するのか分からない、明るい軽さが続く。しかし政権側から偵察人が送り込まれ、軍隊の監視の下で、公演が行われるようになってくると、描写は俄かに緊迫度を加え、実話の再現かと錯覚させるほどの、見事なリアリズム映画になっていく。ラストは、名作『サウンド・オブ・ミュージック』に描かれた、有名な家族合唱団のトラップ一家が、ナチに追われて国境を越える、あの緊迫感に似たスリリングなドラマとなり、万感の思いが胸に迫る。フィクションの形を借りた、スペイン内戦時の、民衆の歴史ドラマという、アラゴン監督の狙いは、100パーセント達成されたといえる。
(上映時間2時間3分)
写真提供:(C)2010 Vers til Cinema、 Globomedia&Antena 3 Films. Exclusive Distributor: IMAGINA INTERNATIONAL、SALES、 All Rights Reserved.

東 京 銀座テアトルシネマ 上映中
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 上映中
大 阪 茶屋町 テアトル梅田 上映中
名古屋 栄 名演小劇場 10月1日〜上映
広 島 タカノ橋 広島サロンシネマ 10月1日〜上映
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 10月8日〜上映
秋 田 シアタープレイタウン 10月21日〜上映
福 山 シネマモード 10月22日〜上映
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 10月29日〜上映
仙 台 チネラヴィータ 10月29日〜上映
尾 道 シネマ尾道 11月19日〜上映
沼 津 ジョイランドシネマ沼津 11月19日〜上映
伊 勢 進富座 12月10日〜上映
札 幌 大通 シアターキノ 12月17日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 12月31日〜上映
今年中に上映の劇場(日程未定)
  福岡KBCシネマ、シネマテークたかさき(群馬県高碕)、松山シネマルナティック、   浜松CINEMA e−ra
◆配給社 アルシネテラン 03−5467−3730

《公式サイト》http://www.alcine-terran.com/paperbird/

 

 

 

 
   

ベルリン監督賞のポランスキーの新作

英政界の闇を衝いたサスペンス・ドラマ

アフガン介入絡む『ゴーストライター』

(2011.9.15)

木寺清美

 
 


国際人ポランスキーらしいサスペンス

 この映画は、『タンスと二人の男』(58)『水の中のナイフ』(62)『反発』(65)『袋小路』(66)『吸血鬼』(67)『ローズマリーの赤ちゃん』(68)『チャイナタウン』(74)『テス』(79)『戦場のピアニスト』《02》『オリバー・ツイスト』(05)などで知られる、フランス生まれ、ポーランド育ちの巨匠、ロマン・ポランスキーの新作で、去年のベルリン国際映画祭で監督賞を得た。ポランスキーは、その出自が示すように、ポーランド映画界から、身を起こして以後は、世界を股にかけて、さまざまな国の文化や歴史に関わる映画を、作り続けており、今回の映画も、国際人らしく、仏、独、英の合作だ。そして、1997年に18年ぶりに誕生した、イギリス労働党のブレア政権の闇、とくに2001年の9.11以後、アメリカに誘われる形で、アフガニスタンに軍事介入したイギリスの闇について、今回は、娯楽性豊かなサスペンス・ドラマの中で、語らんとしている。

ブレア元首相モデルの政治サスペンスか?

 もちろんすべては、架空の物語となっている。イギリスのBBC放送などにも勤務した、ジャーナリスト出身の作家ロバート・ハリスの「ゴーストライター」が原作であるし、ポランスキー監督とハリス自身が、この原作の脚色に携わっているが、ピアース・ブロスナン(4代目の007ジェームズ・ボンド役が有名)が演じる、アダム・ラングという架空名のイギリス元首相の自伝が、本人も承知で出版されることになっていて、それを執筆するゴーストライター選びが、元首相のお抱え弁護士も出席して行われるという設定は、どうみても、現実にあったイギリス政界の闇に関わる物語だと想定される。ラング元首相というのは、ブレア元首相をモデルにしたものだという大方の想像は、当たらずとも言えども、遠からずというところなのである。そういう迫真性をもって、この映画は,開巻から、展開、結末に至るまで、現実味を帯びたサスペンスフルな構造で、語られる。ヒチコック調のミステリー・サスペンスに、政治批判を加えたような、面白い作品で、さすがポランスキーは、ただ者ではないことを、この映画でも証明している。

前任者変死のゴーストライターに就任を

 映画は開巻から、謎めいた事件の匂いで始まる。そこは、どうやらアメリカの東海岸ではないかと思われるような、どこかのフェリー発着場、対岸の島から帰ってきたフェリーが、ゆっくりと岸壁に着き、次々と車が下りていく。すっかり車がなくなった後に、運転者のいない車が一台残される。場面が変わって、対岸の島の砂浜、男の水死体一体が、打ち上げられている。何者の水死体?
 さらに場面が変わって、ある売れない作家(ユアン・マクレガー=イギリスの演技派第一線男優、一般には「スター・ウォーズ」のオビ=ワン・ケノービ役が有名)が住む、ロンドンのマンションの一室。ここに、出版社の代理人が、ある企画を持って、その作家を尋ねてきていた。それは、元イギリス首相のアダム・ラング氏の自叙伝を、本人が書いた風にして代筆する、いわゆるゴーストライターになってくれないか、というものだった。25万ドルという破格の報酬は、おいしかったが、もともと「政治もの」は苦手な上に、今アメリカを講演旅行中のラング氏が、滞在しているアメリカ東海岸の対岸の島に、今夜中に出発し、島に滞在、一ヶ月以内に書き上げて欲しいという、ハードな条件があった。しかも、このゴーストライターには前任者がいたのだが、島から本土へ一時帰る途中で、フェリーから海に転落死するという事故があって、執筆が頓挫した。このため君に白羽の矢が立ったのだと、代理人は説明した。そして、前任者が調査して残した材料を、利用してくれても構わない−とも語るのだった。売れない作家は、こうして一気に、冒頭に描かれた事件の匂いに、巻き込まれていくのである。

英元首相の弁護士らの手で、強引に就任

 売れない作家は、報酬は別として、ややこしい過去がある、苦手なジャンルの、過酷な条件の仕事は、断るつもりで、「とにかく俺の顔を立てよ」という代理人に、無理やりに誘われて、ラング元首相の自叙伝を出版する、ロンドン中心部の、ラインハルト社まで出かけて行った。するとそこには、出版の担当責任者である、ラインハルト社ニューヨーク支店の、ジョン・マドックスと、ラング元首相のお抱え弁護士であるシドニー・クロールが待ち受けていて、引き受けたものという前提で、どういう視点、どういう構想で、自叙伝を書くのかと、矢継ぎ早やに質問を浴びせかけてきた。作家は、断ろうと思っていたスタンスを崩され、あれよあれよという間に、ゴーストライターを引き受けさされてしまうのだった。とくにクロール弁護士の熱意は相当なもので、「ラング氏も、自叙伝に強い意欲を持っていて、君の略歴なども既に伝えてあって、大変気に入ってくれている」といい、適任者は、他にはいないような口ぶりで、作家を煙に巻いた。

執筆のため渡米、元首相滞在の島へ

 とにかく、引き受けた上は、責任を果たそうと、言われるままにすぐ渡米することにし、準備のため家に引き返すと、家の前で、ひったくりに出会う。盗られたものは微細なものだったが、これから書くゴーストライターの仕事の、前途多難を占っているようで、縁起でもないと、作家は思う。そしてロンドンのヒースロー空港に着いてみると、空港の待合室にテレビ・ニュースが流れていて、ラング元首相が、首相時代に拘束した、イスラム過激派のテロ容疑者に対して、違法な拷問にかける取調べを行うよう指示していたとして、戦犯容疑で訴追されかも知れないと、伝えていた。事実とすれば、元首相として不名誉なことであり、これから自伝を書く者にとっても、見過ごせない問題であり、どう扱うのか、また弁護士らとも相談をせねばと、作家は思う。
 さて、こういう展開になっていくあたりが、まさに冒頭に書いた、ラング元首相は、ブレア元首相をモデルにしたものではないかという、憶測を生む理由なのである。戦犯としての訴追という問題も、全くの架空話ではなく、アメリカとともに、アフガン、イラクに軍隊を送ったことが英国民に不評で、そのことだけでも戦犯に値するというラジオ放送がなされたことがあり、原作者のロバート・ハリスは、それを聞いたのが、この原作を書く動機になったと、述懐している。

英労働党、アフガン・イラク侵攻で不評

 ともかくブレア氏は、18年ぶりの労働党政権を引っ張る党首として、国民、ことに労働者や低所得者層の期待を一身に集め、サッチャー以来の、行き詰まった保守党政治を打開する人として、1997年に登場し、2001年にも再選された。社会主義色を脱した「ニューレーバー」として、清澄な雰囲気を、前面に出し、元来労働党が苦手とした、皇室との付き合いも、就任一年目に起きた、離婚したダイアナ妃の、パリでの自動車事故死をめぐる処理で、国民と皇室の間に立ち、見事な葬儀を演出して見せ、エリザベス女王の信頼を勝ち取った(そのあたりは、06年のイギリス映画『クイーン』に詳しく、今回のブロスナン演じるボスのようなキャラクターではなく、まっすぐな正直な人間としてのブレア氏が描かれ、マイケル・シーンという俳優が、そのイメージを見事に結実させている)。
 ところが、二期目の二年目に、9.11事件が起こり、アメリカのブッシュ大統領が、オサマ・ビンラディンの逮捕を目的に、アフガンへの侵攻を始め、続いて、大量破壊兵器の捜索を目的にイラクに侵攻したが、ブレア氏は、このアメリカに簡単に同調し、軍事的にはタカ派であることを、明確に示した。最近私が見た、世界の核の現状を描いた記録映画『カウントダウンZERO』という映画の中でも、ブレア氏本人が、「イランが核兵器能力を獲得した場合、その影響はイスラム社会全体に及び、すべてのイスラム国が、核保有国となる。従って、イランの核保有は、世界が武力を行使してでも、事前につぶさなければならない」と、すこぶるタカ派的な発言をしている。ブレア氏は、「ニューレーバー」としての労働者の再生を図ろうとする顔と、軍事的にはタカ派といった、二つの顔を持っている人なのだ。そこからドラマでの、ラング元首相の、逮捕したイスラム過激派への拷問容疑という設定が、生まれてくるわけで、全くの荒唐無稽の、架空物語ではないのである。

ブレア政権後半の闇検証も目的の推理物

 ブレア労働党政権は、経済政策の失敗に加え、このようなアフガン・イラクへの軍隊派遣で、さらに国家財政を圧迫し、戦死者や、帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)問題を抱え込むようになり、二期目の途中から、急速に英国民の支持を失うようになった。そしてブラウン首相のショート・リリーフを経て、2010年、保守党のキャメロン党首が、選挙で労働党に大勝、第三党の自民党とともに、連立政権を打ちたて、イギリスは現在、事実上の保守党政権に回帰している。まさに労働党政権の後半は、英国民にとって、一種の悪夢のようなものだったのだろう。この『ゴーストライター』という映画は、そのような悪夢の実態を検証したいという気分で作られた、娯楽ミステリーとも言えるわけで、いよいよ作家が、ゴーストとして執筆に入る以後の展開は、さらに複雑な人間関係をはらんだ闇に、突入していくことになる。

作家、島の邸宅で前任者の草稿を知る

 島に到着した作家は、物々しい警備に守られながら、ラング元首相が滞在する邸宅に入った。ラングは講演旅行中でまだ留守で、出迎えたのは、女性秘書のアメリアだった。秘書は、ラング夫人のルースが、本来出迎えるべきだが、機嫌が悪く閉じこもっているので、代行をすると断り、守秘契約書にサインを求め、執筆中の原稿を、邸外に持ち出さないように求めた。それでは、ホテルに滞在し、執筆のたびに邸宅に通わなければならず、大変不便だったが、何やら厳重な管理の下で、執筆しなければならないことだけは、強く感じられ、作家は言われるままサインをした。
 別室に誘われた作家は、ラングの帰りを待つ時間が、6時間もあることから、残されていた前任者の草稿の一部や、調べたらしい資料に、じっくりと目を通してため息をついた。自伝は、かなりの部分が既に完成していて、自伝の大筋は、こう書くのだと分かるほどの参考になった。そうこうしていると、背後から女の声がして、機嫌が悪いはずのラング夫人のルースが立っていた。作家は、ルースから散歩を誘われ、海辺などを歩く。そして断片的な会話の中から、作家を後任者に推薦したのは、ラング本人や弁護士ではなく、むしろルース夫人であることを知る。

若き頃や夫人どの関係など、元首相述懐

 島の空港に、自家用機でラング氏が帰ってくると連絡が入り、秘書のアメリアが出迎えに行こうとすると、ルース夫人が「自分が行く」と押しとどめ、二人の間に、何やら微妙な対立あることを、作家は感じる。作家も夫人と一緒に出迎えに行き、自家用機から、講演旅行を終えて、意気揚々と降りてきたラング氏に「私がゴーストです」と、挨拶をする。 そして翌日から、早速、ラング氏からの聞き取り取材に入るのだが、若き頃のラング氏は、もともと政界などに興味はなく、他人の選挙活動の中で、夫人と知り合い、ラング氏の方が惚れて、彼女に近づいた。すると彼女は、既に共和党員(映画では、労働党でなく共和党となっている)だったため、自分も入党し、政界入りのきっかけになったという。以後ずっと、夫人には頭が上がらないのだというようなことを、ラング氏はしゃべった。

更迭された元外相が、元首相疑惑を提訴

 その聞き取り取材の最中に、ラング氏を揺るがすニュースが飛び込んでくる。ラング氏が加担したとされる、イスラム過激派のテロ容疑者への拷問事件に絡んで、元外相のリチャード・ライカード氏が、ハーグの国際刑事裁判所に対し、事件の調査を依頼したというニュースである。ライカード元外相は、ラング氏が首相時代に、更迭をした人物であり、それを根にもって、今頃、テロ容疑者への拷問などという、事実無根の事柄を、持ち出しているのだとするラング氏は、ライカート氏に一撃を食らわせる声明文を出すことになり、その文案までを、ゴーストの作家が、書かされることになった。報道ヘリが邸宅の周りを飛ぶ騒然とした空気の中で、作家はいわれるままに書き、さらにこのニュースのタイミングを逃がさず、自伝の出版を早めて、荒稼ぎをしようという出版社の意向までが持ち込まれ、一ヶ月の執筆期間を、二週間に縮めよという、出版社の無茶な電話までが入ってくる。
 映画はこのあたりから、リアルな迫真性を帯び、サスペンスが高まってくる。

元首相潔白声明、前任者元外相と交渉?

 翌朝、ホテルのテレビは、作家が書いた声明文を放送しており、取材で島に集まった大勢の報道陣が、ホテルに宿泊していた。秘書のアメリアからは、なるべく外界との接触を少なくするために、寝食の場所も、邸宅内に移して欲しいと言ってきて、死んだ前任者が使っていたのと同じ部屋に、寝食と執筆の場所を移すことになる。そこで作家は、前任者が残した資料などから、また新たな発見をする。
 まず驚かされたのは、前任者が、ライカート元外相とも接触していたらしい痕跡である。ライカート氏の写真と、その裏に書かれたライカート氏の電話番号を知るところとなり、前任者の死は、事故でも自殺でもなく、何かを知りすぎたことによる、事件だったのではないかと、作家は思い始めるのだった。

前任者の死の前後、目撃老人が証言

 作家は、前任者をもっと知ろうと思い、遺体が発見された浜辺に出向く。近くに住む老人に、聞き込みをしてみると、遺体が発見された前夜に、海中電灯を持った人影があったと証言し、そのことを警察に証言した女性が、一週間ほど前に、階段から転落して昏睡状態になっているという話を、してくれた。
 作家は邸宅にとって帰し、その老人の話を、早速ラング夫人のルースにしてみる。すると夫人は急に慌てだし、邸宅を飛び出して行ったが、やがて戻ってきて、「老人の話を、夫にも話そうと思ったが、秘書のアメリアとワシントンに出かけていて、伝えられなかった。前任者の死について、私の知るところを、全部あなたに話す」といい、前任者と夫は、死の前日、激しく口論をしていたことを明かす。夫人もまた、前任者の死は、事故や自殺ではない事件性を感じていて、ラング氏も何らかの関与をしているのではないかという、疑いから逃れられないという。ルースが,後任者選びに、積極的だったのも、前任者とは別の視点から、もう一度夫ラング氏を、見直して欲しいと思ったからたという。
 作家はこのときの、秘書とラング氏のワシントン行きと、ルース夫人の慌てぶりから、秘書とラング氏はなさぬ仲で、夫人は嫉妬しているとも、感じるのだった。

前任者のルート辿りエメット教授に会う

 次の日、作家はホテルに戻ろうとして、ゲスト用の車を借り出した。そして車を運転していると、前に乗った運転者が使ったカーナビが残っていて、カーナビの方から話しかけてきた。そのカーナビに、作家が興味本位に従ってみると、フェリーの乗船場にたどり着く。これは、前任者が最後にたどったルートだと気がついた作家は、そのままフェリーに乗船し、到着地で下船して、案内どおりに進んでみると、ボストン郊外の、一軒家にたどり着いた。そこは、ハーバード大のポール・エメット教授の家で、エメット教授は、ラングの大学時代の写真に、一緒に写っている人物で、前任者が書いた草稿の、最終章にも登場する人物であることに気付く。前任者もここを尋ねたと気付いた作家は、自分もエメット教授に会わなければと、門塀のインターホーンを押す。警戒する声が中から聞こえたが、ラング氏の自伝のゴーストライターであることを告げると、招き入れられ、エメット教授に会うことが出来た。しかしエメット教授は、ラングとの関係について、かって大学内で知りあったという以外に何もないと答え、前任者が死の前日に尋ねてこなかったかという質問に対しても、何も知らないとしか答えなかった。

元外相にも会い、前任者の詳細を知る

 落胆してエメット家をあとにした作家は、今度は、黒いセダン車の尾行を受ける。島へのフェリーに乗り込むと、セダン車も乗ってくる。作家は、車の外に出て、セダン車の乗員に見つからぬように行動し、フェリーの出航間際に、車を置いて、下船してしまう。このあたりも、ヒチコック映画に劣らないスリリングな描写が続く。
 フェリー・ターミナル前の、小さなモーテルに逃げ込んだ作家は、今度は、前任者が見つけたと思われるライカート元外相の写真の裏にあった、ライカート宅と思われる電話番号に、電話してみることにする。間違いなく、ライカート氏が電話口に出て、自分は、ラング氏の自伝を執筆中のゴーストライターであると伝えると、すぐに会いたいといい、ライカート氏のボディーガードが、モーテルまで迎えに来た。ライカート氏の家で、ライカート元外相は、前任者とは会ったことがあること、そして前任者は、ゴーストライターというより、ラング氏の忠実な部下であったこと、しかもイスラム過激派の輸送記録を調べて、ラング氏が戦犯として訴追されるかも知れない秘密を知り、そんな上司の下では、働きたくないと思い始めたこと、さらには、もっと大きなラング氏のスキャンダル−つまりアメリカCIAの一員であるエメット教授を通して、英首相であったラング氏自身が、CIAと繋がっていたらしいこと−などを、伝聞として明らかにした。そしてそれらを、前任者は、自伝の草稿の冒頭部分に書いたらしく、そのことが、ラング氏の怒りを買って殺されたとも考えられると、ライカート氏は付け加え、君は証拠を掴む努力をするといいと、作家をけしかけた。だが、作家にとって、ライカート発言は、腑に落ちないところもあった。前任者の草稿は、ほぼ全文が作家の手元にあるが、冒頭部分は、ラング氏の大学時代の記述に過ぎず、最後に出てくるエメット教授も、CIAの一員とは断定していなかったからだ。

元外相が知る元首相疑惑、元首相は否定

 作家の携帯電話に、突然ラング氏から電話が入った。フェリーに車だけを残して、いなくなっていたことを、妻ルースから聞いて、心配したラング氏がかけてきたのだ。ワシントンから、自家用機で帰るので、君のいるところに着陸し、島に連れて帰ってやってもいいという電話の主旨であった。作家がランカート氏と話し合ったことで、前任者が知ったラング氏の秘密と、ほぼ同様のものを知るに至ったことを、ラング氏自身が、感づいたのではないかという不安もあったが、ランカート氏に背中を押され、ラング氏の自家用機に乗り込む決心をする。そして機内でこっそりテープを回し、ランカート氏が推測していたものを、一つ一つ、直接ラング氏に聞いていく。ラング氏は、いささか声を荒げ、「自分は誰の指図も受けず、自分の信念だけで行動している」と述べ、エメット教授らとの関係を否定した。

島の空港で、元首相は銃撃受け死亡

 自家用機は、島の空港に着いた。ラング氏を戦犯訴追しろというデモ隊が、押しかけていて、空港は騒然としていた。その中を、意に介さない風で、タラップを降りようとしたラング氏に、何処からともなく飛んできた銃弾が命中する。崩れ落ちるラング氏。英元首相の暗殺事件が発生したのだ。ブレア元首相が暗殺されたという事件はないし、これは相当にやり過ぎともいえるフィクションなのだけれど、イギリスの軍事外交政策への批判を基調にした、娯楽サスペンスなので、映画をより面白くするために、許される程度の捏造かもしれない。

通り一遍の自伝出版、米の追及続く

 結局、作家が書いたラングの自叙伝は、暗殺事件の後だけに、大きな話題となって、その4ヶ月後に出版されるが、肝心な部分は証拠が取れず、通り一遍の内容となった。死者を美化し、死者に口なしといったその内容に、ラング夫人のルースには、してやったりの内容だったようで、夫を失ったとも思えない表情で、出版記念パーティに出席し、エメット教授と、なぜか親しげに談笑していた。
 ゴーストライターであるために、パーティ会場の隅で小さくなっている作家に、秘書のアメリアが近づき、なぜ草稿の保管が厳重だったのかについて、囁いてきた。それはアメリカ政府が、都合の悪い部分を闇に葬るために、その草稿を欲しがっていたからだという。そして前任者の草稿の冒頭には、ラングの秘密が書かれていたらしいという、ライカート氏と同じ推測をした。

草稿から、CIAまみれの英政界分かる

 いまや、前任者の草稿は、はば全文が作家の手元にあり、何の変哲もない冒頭であることを知っている作家にとって、秘密が冒頭にあるという、一致した推測が、不思議で仕方がなかった。しかしもう一度確かめてみようと、パーティ会場の隣にある小部屋に入って、再読をはじめ、やっと重大なことを、発見する。冒頭とは、最初の「章」のことではない。「各章の冒頭」ということであり、全章の冒頭部分をつなぎ合わせてみると・・・。ラング氏は英首相時代を含むずっと以前から、CIA関係者であり、ルース夫人もエメット教授も、ずっとCIA関係者であったとの記述が、そこにあった。出版には間に合わなかったが、ついに英政界の闇を探し当てたゴーストライター、アメリカ政府が、その闇が白日の下にさらされ英政界のスキャンダルになるのを恐れたのは、当然のことだったのだ。作家は、秘密をついに暴いたことをメモにし、パーティ会場に流す。次々と手渡され、ルース夫人とエメット教授のところまで、メモは流れていく。表情がさっと変わる二人。ゴーストライターは満足げに薄笑いを浮かべて、会場を後にする。しかし・・・。

ポランスキーの才能に舌を巻く面白さ

 映画はここからラストシーンに入るが、それがどんなシーンなのかは、こうしたミステリー映画の紹介の常として、ラストは伏せておくものだというセオリーに従って、あえて書かない。まさにヒチコック調のサスペンスの連続で、英政界の闇を暴いてきた映画にふさわしい、より恐怖が倍加する、粋な闇の結末になっていることだけは、明らかにしておいてもいい。ブレア首相時代の、英政界の現実の闇の部分をベースにしながら、ラング元首相をはじめとする架空の人物を、数多く生み出し、見事なサスペンス・ドラマにまとめ上げた、ポランスキー監督らの才能に、舌を巻く面白さである。映画通が、堪能できる映画である。
(上映時間2時間8分)
写真提供:(C)2010 SUMMIT ENTERTAINMENT、LLC ALL RIGHE RESRVED
東 京 ヒューマントラストシネマ有楽町 上映中
     ヒューマントラストシネマ渋谷 上映中
     シネ・リーブル池袋 上映中
昭 島(東京都) MOVIX昭島 上映中
横 浜 109シネマズMM横浜 上映中
川 崎 川崎チネチッタ 上映中
千 葉 京成ローザ 上映中
 柏 (千葉県) MOVIX柏の葉 上映中
新都心(さいたま大宮区) MOVIXさいたま 上映中
名古屋 栄 センチュリーシネマ 9月24日〜上映
大 阪 シネ・リーブル梅田 10月1日〜上映
     シネマート心斎橋 10月1日〜上映
 堺 (大阪府) MOVIX堺 10月1日〜上映
京 都 新京極 MOVIX京都 10月1日〜上映
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 10月1日〜上映
札 幌 シネマフロンティア 10月22日〜上映
福 岡 天神 ソラリアシネマ 10月中に上映
11月中上映劇場
  フォーラム仙台、MOVIX宇都宮、MOVIX伊勢崎、ユナイテッド・シネマ新潟   静岡シネ・ギャラリー ユナイテッド・シネマ金沢
12月中上映劇場
  北見シアターボイス、フォーラム八戸、フォーラム盛岡、秋田シアタープレイタウン、   フォーラム山形、フォーラム東根(山形県)
2012年1月以降上映劇場
  フォーラム福島、フォーラム那須塩原、シネマサンシャイン土浦、長野ロキシー、   伊勢進富座、シネマサンシャイン沼津、岡山シネマクレール、広島サロンシネマ   シネマサンシャイン大街道(愛媛県)、長崎セントラル劇場、熊本DENKIKAN、   大分シネマ5、鹿児島ミッテ10、那覇シネマバレット
◆配給社 日活 03−5689−1016
◆宣伝社 ムヴィオラ 03−5366−1545

《公式サイト》http://ghost-writer.jp/

 

 

 

 
   

難民社会にも先進社会にも巣食う復讐心

非暴力で報復と闘う人々の苦衷の感動劇

デンマーク映画『未来を生きる君たちへ』

(2011.9.1)

木寺清美

 
 


米アカデミー外国語映画賞受賞の注目作

 この映画は、今年2月の米アカデミー賞で、一昨年『おくりびと』が受賞したのと同じ、外国語映画賞を受賞した(ゴールデン・グローブ賞でも、外国語映画賞を受賞)、デンマークの女性監督スサンネ・ビアの最新作である。何やら学校の道徳の時間ででも上映可能な、教育映画のようなタイトルだが、原題は「復讐」で、復讐感情が渦巻く、とあるアフリカの難民キャンプで働く、デンマーク人医師の活動振りと、その医師の自宅があるデンマークの町の、子供をめぐる、人々の復讐感情を、相互に描きながら、いつになれば世界に争いがなくなるかを追求した、感動的なドラマが、展開される作品である。とくに、貧困の極地にある難民キャンプで、無垢な子供たちが、ぎらぎらと目を輝かせ、医療班の車を追ったりする図が、繰り返し描かれるが、そのあたりから「未来を生きる君たちへ」という邦題がつけられたものと想像されるが、映画はもっと、深刻な現実を切り取った作品である。

難民キャンプで貧困と暴力に接する医師

 主人公の中年男アントン(スウェーデンの俳優、ミカエル・パーシュブラント)は、デンマークに家を持つ、スウェーデン人医師である。しかし自宅には殆んどおらず、アフリカのとある国の、難民キャンプに、治療班の医師として赴任している。
 冒頭、アントンが四輪駆動車のような車に乗って、テントに毛の生えたような、みすぼらしい建物が累々と並ぶ、難民キャンプに到着してくると、貧困を忘れさせるような、無垢で元気な子供たちが、ワイワイといって車を追い、車を取り囲む。時には菓子や玩具なども、運搬しているからだ。いずれにしても、その生き生きとしたリアルな描写に、まず驚かされる。
 しかし、子供の世界と違って、治療班の仕事は熾烈だった。すぐに大怪我をした患者が運ばれてくる。妊婦が腹を割かれ、子供を取り出されたという、想像を絶する復讐行為の犠牲となった女性もいた。付き添ってきた人々は、キャンプ内ギャング団のような組織を、結成している、ビッグマンと呼ばれている、悪漢の親玉を、何とか逮捕監禁して欲しいと、口々に訴える。腹を割かれた女性も、そのビッグマンが絡む、男女関係のもつれの犠牲になったのだという。そういう犯罪対策は、治療班の仕事ではなかったが、キャンプの治安組織も、完全崩壊してしまっている中では、何でも治療班が、頼られるのであった。

医師の実家デンマークにも陰湿な暴力が

 一転して、アントンの自宅がある、デンマークが描かれる。そこは、難民キャンプとは比べものにならないほどの、豊かな文明社会だ。しかしそこにも、陰湿な暴力が渦巻いていた。
 アントンの息子のエリアスは、小学校の上級生で、下級生の弟モーテンとともに、母マリアン(デンマーク女優トリーネ・ディアホルム)の家から、同じ学校に通っている。しかしエリアスは、その母親にあまり心を開かず、月に一回ぐらい帰ってくる、大好きな父アントンの帰りを、待ちわびていた。かっての父の浮気で、父母の間には溝が出来ており、アントンが、デンマークから遠く離れて、アフリカに働きに行っているのも、一つには、その溝が原因でもあったのだ。だから、一ヶ月ぶりで帰ってきた父親に飛びつくエリアスが、母親の目には不愉快に映り、父とエリアスも、不穏な空気を察して、喜びを抑えるという、不自然な人間関係が描かれる。アフリカの地の、あからさまな人間関係とは違う、陰鬱な人間関係が、文明社会には漂い、やはり復讐心や暴力が潜んでいた。

医師の息子と友達、学校でいじめに会う

 そんなときエリアスには、学校で仲良しの友達が出来る。ロンドンで生活をしていたが、母親が病死したため、父親クラウス(デンマーク俳優ウルリッヒ・トムセン)とともに、祖母が住んでいる、デンマークの実家に帰ってきて、エリアスと同じ学校に転校してきたクリスチャンという少年である。おまけにエリアスは、歯の矯正をしていたので、“ネズミ顔”と、いじめっ子のソフスからバカにされていた。それを見かねて、クリスチャンは、陰ながら、エリアスの味方をしてくれる存在になって行った。
 放課後、エリアスは、いじめっ子ソフスに絡まれる。そしてたまたま近くにいたクリスチャンも、バスケットボールを、顔面に思い切り投げつけられる。何とかソフスに仕返しをと相談するエリアスとクリスチャンだったが、その日は名案が浮かばないまま過ぎてしまう。
 翌日エリアスは、再びソフスに、学校のトイレに連れ込まれ、前日のいじめを、誰にも口外するなと脅される。それを見たクリスチャンは、いきなり背後から、ソフスを殴り倒し、さらにナイフをちらつかせて、今後われわれに関わるなと、ソフスを脅した。このときソフスは軽い怪我をし、それが親や学校の知るところとなり、事件が明るみに出ることになった。

いじめっ子の親は、相手の厳罰だけ主張

 学校に、ソフスの父親と、クリスチャンの父クラウスが、呼び出されることになった。ソフスの父親は、ソフスだけが正しく、いじめっ子は、エリアスやクリスチャンだと主張し、学校によるクリスチャンらへの厳罰と、ソフスへの弁償を、一方的に主張して、引き上げるような親であった。ナイフのことは、ソフスもクリスチャンも隠したので、表に出なかったが、クリスチャンの父クラウスは、逆に、学校から一方的に責められた。それでも、ただ謝り、子供の躾を約束するだけのクラウスに、クリスチャンは、悔しい思いをする。帰りの車中で、クリスチャンは、なぜ抵抗しないのかと父親をなじり、クラウスは、「報復には、きりがないのだ」と答える。この話を聞いて、エリアスもただただ残念に思う。

子供の喧嘩で、父相手の親に殴られ報復へ

 しばらくたって、今度は、エリアスとモーテンの兄弟が、悔しい思いをさせられた。父親のアントンも一緒に、久しぶりに、父子水入らずで、公園に遊びに行ったときのことである。弟のモーテンが、ブランコをしようとして、たまたまいたよその子と、ブランコの取り合いになる。つかみあいの喧嘩になりそうだったので、父親のアントンが割って入り、喧嘩をやめさせたのだが、何を思ったのか、近くにいたその子の父親が、つかつかとやってきて、アントンを殴り倒した。アントンは、一瞬驚くが、何も言わずに、その暴力男を避けるように、息子二人を促して、その場を離れた。
 さらに少し時が過ぎて、倉庫の屋上で、エリアスとクリスチャンが遊んでいるときに、エリアスの父アントンを殴った男が、地上で、車の乗り降りをしているのを発見する。その男に仕返しをしようと思っている二人は、車の車種などから、その男の職場を見つけ出す。早速エリアスの父アントンに、そのことを告げ、男に報復をしようと持ちかける。ところがアントンは、すこぶる冷静で、「馬鹿を殴ったら、自分も馬鹿になる。世界中の戦争は、とめどもない復讐の連鎖で起きている。」といって、復讐とか報復とかの感情と行為は、自制されなければならないものであることを、エリアスらに向かって説いた。

父の談判にも、暴力と差別発言だけの男

 しかしエリアスらは、「お父さんは、格好いい理屈を言っているけれど、本当はあの男が怖いのだ」といって、なかなか納得しなかった。アントンは、とりあえず談判に行こうといって、子供たちを連れ、その男の職場を訪れる。「なぜ殴ったのか」と理由を問いただすアントンに対して、男は「生意気なスウェーデン人と、話しはしない。すぐスウェーデンに帰れ」と、事件と関係のない、人種差別的な言動を弄し、さらに殴りかかってきた。身をかわしたアントンは、そのまま引き上げ、「分かっただろう、あの男は、殴るしか脳のない男で、偏見に凝り固まり、話し合いなど出来ないのだ」と、帰り道、再び子供たちに、非暴力を諄々と説くのだった。

非暴力に不満の子供、報復の爆弾計画

 アントンがアフリカに戻ったあと、クリスチャンは、祖父が生前に使っていた作業場に、大量の火薬があるから、爆弾を作ってあの男に復讐をしようと、エリアスに持ちかけた。水辺で実験をし、爆発力を確かめた二人は、あの男の車の下に、その爆弾を備え付けようと計画する。
 折も折、クリスチャンのナイフを預かり、隠していたエリアスが、エリアスの母マリアンに、そのナイフを見つけられてしまう。マリアンはクリスチャンの父親クラウスに、ナイフのことを通報し、クリスチャンは父親から、叱責されることになる。しかしクリスチャンは、ずっと思い続けていた父親への不満を、このときとばかりに吐き出し、クラウスに抵抗した。それは母親のロンドンでの病死は、父親の介抱が不十分だったからだというもので、父親の過去の浮気で、父母の間に溝が出来ているエリアスの場合と同様、親の、子供を眼中に置かない、大人だけの判断が、思春期を迎えた少年たちの、親への反抗心を生み、そうした人間の未熟さが、理性的な、平和主義に基づいた説得を、無駄にしてしまう原因なのだと、この映画は描いていく。つまり、その辺りに、この映画の主眼があることが、このあたりに来て、ようやく分かってくるのだ。

キャンプの悪漢の、怪我の治療で緊迫

 一方、アントンが戻ったアフリカの難民キャンプも、暴力と復讐が渦巻き、緊迫した情勢になっていた。
 キャンプ内ギャング団の首領ビッグマンが、脚の怪我が悪化し、治療して欲しいと、部下たちに担がれて、アントンの治療テントにやってきたのである。「あんな悪漢の治療などするな」と、テントの外に多数の一般難民が押しかけてきているのを、知りながら、アントンは、「医師は、患者の過去で治療に差をつけない。命を落さんとする者は、すべて救うのが、医師の仕事だ」と述べ、ビッグマンの治療に当たることになる。ただ一つだけ条件をつけた。武器とギャング団のメンバーを、キャンプの外に出すことという条件だった。ビッグマンはこれを受け入れ、部下に、武器を持って、キャンプの外に立ち去るよう命じた。しかしたまたま、腹を割かれた妊婦が、治療の甲斐なく死亡するのと重なり、それを見たビッグマンが、「われらの復讐は達成された」とはしゃいだため、アントンの平和主義は、ついに堪忍袋の緒が切れ、ビッグマンの治療を中断し、キャンプから出て行けと、テントの外に追い出してしまう。まだ歩けないビッグマンが、一般難民の群れの中に放置され、ビッグマンは、蜜にたかる蟻のような群集に、嬲り殺されていく。

デンマークでは通行人巻き込む仕掛爆弾爆破へ

 さらにデンマークでも、大変なことが起きていた。エリアスとクリスチャンは、男の車の下に、爆弾を仕掛けたのである。点火して車を離れたとたん、ジョギング中の母娘の通行人が、車に近づいて行った。エリアスは、咄嗟に引き返し、車と母娘を引き離そうとする。果たして・・・。
 最後まで書くのは、映画紹介のセオリーに反するから、これ以上は書かないが、アフリカでもデンマークでも、平和主義と非暴力が敗北し、復讐と報復は、行き着くところまで行き着いてしまう。この悲惨な顛末は、映画の後半になればなるほど、アフリカとデンマークが、互いにカットバックされながら、描写が深まり、緊迫したドラマ展開となっていく。ただ最後には、冒頭で、アントンの車を取り囲んだ、難民キャンプの子供たちが、暴力の横行もどこ吹く風で、屈託ない笑顔を見せて、走り回っている姿が、もう一度描かれ、多少は希望に満ちたエンディングがなされていることだけは、書いておこうと思う。少しダサイ邦題ではあるが、『復讐』ではなく、『未来を生きる君たちへ』といった題名をつけたことの中には、非暴力が次々に敗北しても、失望するなというメッセージが、こめられていることを、意味していると思われ、すべてが陰惨な結末ではないことを、明確にしておきたいと、思うからである。

* * * * * * * * * * * * * * *

 スサンネ・ビア監督は、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で有名な、同じデンマークのラース・フォン・トリアー監督が提唱した、“ドグマ95”という映画運動(自然主義が基本)にも賛同し、交通事故の後遺症を扱った『しあわせな孤独』(02)も作っている女性監督だが、04年に作った『ある愛の風景』で、多国籍軍の一員として、デンマークから、アフガンに派遣された兵士のPTSD問題を扱い、さらに大きく彼女の存在が知られるようになった(この映画は、イギリス出身のジム・シェリダン監督によって、09年に、ハリウッドで『マイ・ブラザー』としてリメイクされた)。そのような実績の上に、本作で、今年の米アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、名実ともに世界の第一線監督に名を連ねたわけである(米公開題名は、『よりよい世界の中で』)。今後も、一作ごとに注目をしたい監督である。
(上映時間1時間58分)
写真提供:Zentropa・Entertainments16

東 京 日比谷 TOHOシネマズシャンテ 上映中
     新宿 新宿武蔵野館 上映中
     渋谷 シネマライズ 上映中
千 葉 千葉劇場 上映中
札 幌 大通 シアターキノ 上映中
名古屋 栄 センチュリーシネマ 上映中
大 阪 シネ・リーブル梅田 上映中
京 都 烏丸 京都シネマ 上映中
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 上映中
福 岡 天神 KBCシネマ 上映中
仙 台 フォーラム仙台 9月17日〜上映
広 島 サロンシネマ 9月17日〜上映
那 覇 桜坂劇場 9月17日〜上映
山 形 フォーラム山形 10月1日〜上映
静 岡 シネ・ギャラリー 10月1日〜上映
八 戸 フォーラム八戸 10月22日〜上映
岡 山 シネマ・クレール丸の内 10月22日〜上映
10月29日〜上映劇場
  高崎シネマテークたかさき、横浜シネマジャック&ベティ、フォーラム盛岡、   秋田フォーラス・シネマパレ、フォーラム福島、金沢シネモンド、浜松シネマイーラ   伊勢進富座、熊本Denkikan、大分シネマ5
11月以降上映劇場
  フォーラム那須塩原、川越スカラ座、帯広CINEとかちプリンス劇場   新潟シネ・ウィンド、富山フォルツア総曲輪、福井メトロ劇場、長野ロキシー、   塩尻東座、福山シネマモード、シネマ尾道、テアトル徳山、下関シアター・ゼロ   佐賀シアターシエマ、長崎セントラル劇場
◆配給社 ロングライド 03−3517−4017
《公式サイト》http:/www.mirai-ikiru.jp/

 

 

 
   

原発2作品、緊急上映始まる!

事故も予測!22年前の福島原発幻の映画

−『あしたが消える−どうして原発?−』

アカデミー短編記録映画賞受賞の未公開作

後遺症の実態『チェルノブイリ・ハート』

(2011.8.27)

木寺清美

 
 


原発の事故隠しなど描く『あしたが消える〜』

 22年前の1989年に、福島第一原発の事故隠しを暴き、さらに、日本中の原発の建設に携わった技術者が被曝して、癌に倒れたのを、家族が告発したもようなどを、真摯に記録した映画が、作られていた。しかし、当時はまともに公開されず、幻の映画として、埋もれてしまっていた。この映画『あしたが消える−どうして原発?−』(ピクチャーズネットワーク=平形則安製作、構成演出千葉茂樹ほか三人)は、長い間、制作会社の倉庫に眠っていたが、このほどデジタルリマスター版として生まれ変わり、緊急上映されることになった。(東京では、既に上映中)



16年後の後遺症『チェルノブイリ・ハート』

 もう一本、ウクライナの女性のドキュメンタリ−作家、マリアン・テレオ監督が、1986年のチェルノブイリ原発事故によって、その後発生した後遺症(俗にチェルノブイリ・ハートと呼ばれる心臓病など)の実態を追って、2002年に発表した、短編記録映画『チェルノブイリ・ハート』も、緊急公開(東京、川崎では既に上映中)される。この映画は、2003年の米アカデミー賞の短編記録映画賞を受賞したが、日本では未公開になっている作品で、今回は、少年時代、チェルノブイリからわずか3キロのプリピャチ(ウクライナ)で被曝し、その自宅を放棄した、監督の知人マキシム・スルコフさんが、20年ぶり(2006年)に、廃墟の自宅を訪ねたのに同行した映像『ホワイトホース』も、付け加えての公開となっている。こちらも、20年前のカレンダーが、そのまま壁に架かっているのが、痛々しい。

まず『あしたが消える−どうして原発?−』から

 

チェルノブイリ事故で当時東北も緊張

 1986年の4月、ロシア(現ウクライナ)でチェルノブイリ原発の事故が起こり、炉心のメルトダウンによる、放射性物質の飛散は、とどまるところを知らず、現在のウクライナから、ベラルーシを覆いつくし、北欧各国へと被害は広がって、2〜3年がたった1989年の時点でも、これらの地域で、被曝が原因と見られる、難病、奇病の発生、奇形児の出産が相次ぎ、福島原発や女川原発などを抱える東北地方でも、同じようなことが起これば大変という意識が高まっていた。また、この時点で既に日本には、38基の原発があり、さらに13基が、建設・計画中であったから、チェルノブイリの悲惨な状況は、東北ばかりでなく、日本の問題でもあった。

長期の原発建設技術者、骨癌で死

 そんなときに、この映画のプロデューサーである、平形則安氏の目に止まった、新聞の投書欄記事があった。それは、日本中の建設中の原発を、20年以上も、技術者として渡り歩いていた52歳の男性が、骨癌と診断されて入院し、一週間後には、骨格が一切動かない寝たきりとなり、3ヵ月後には亡くなったのだが、その男性の当時23歳の娘であった葛西真紀子(現姓、現在は仙台市の主婦)さんが、納得の行かないことが多いので、真の死の原因を明らかにして欲しいという投書を、新聞にした、その記事であったのである。
 平形安則氏は、記録映画監督やカメラマンを携え、葛西真紀子さんに密着取材することから、この映画の製作を始めた。亡くなった真紀子さんの父親は、「原発は安全、日本の将来と経済の発展のために、その建設に邁進するのが、私のライフワーク」と繰り返し、20年以上も生き生きととび回っていたが、52歳で死を迎えるとは、本人も思っていなかったのではないか。家族の私たちも、専門の技術者としての父の言葉を信じ、原発に疑問など持たなかった−と、真紀子さんは、カメラに向って語る。真紀子さんの父の死について、会社も医師も、骨癌と原発の関係は、分からないと繰り返すのみで、今も父の死は、闇に葬られたままだという。
 そんなことから、真紀子さんは、仙台市で時々行われていた、原発反対の集会や勉強会に、徐々に参加するようになり、初めて、放射能がいかに危険で、原発の安全対策にも、完全なものはなく、ほころびだらけであることを知るのだった。

福島第一原発の事故隠しの実態描く

 映画は、1988年に福島第一原発4号機で起きた、小さな事故隠しにも触れている。原子炉内での何らかのトラブルで、安全弁が働いて、運転が停止した、点検をして異常があれば、、修理をしてすぐ運転を再開できる程度のトラブルで、大して問題はないというのが、公式発表だった。このような発表で、見過ごされる事故は、これまでにもしばしば起きているが、そこには深刻な事故隠しもあるのだと言うのは、福島第一原発4号機の設計に携わり、今もサイエンスライターとして活躍している田中三彦氏である。
 この事故のときも、自分が関わった4号機での事故だけに、もっと詳細に調べる必要がある、何なら協力してもいいと申し出たが、許されなかった。どのような建築物でもいえることだが、多くの人が実際の作業に関わるだけに、設計図から微妙にずれた作業をしてしまうことが、意図的ではなく、ケアレスミステイクとして、たまにはあるという。しかしその都度申告はしにくい。わずかなことで、全体の作業の遅れを招くからで、やり直しはされないまま、見過ごされていく。その不具合は完成後も、表に現れることは、殆んどない程度のもので、ミスした本人も、そのことを知っているから、申告はせず、迷惑をかけないことを、優先する。しかし長期にわたって使用していると、何らかの疲労が、より早くそこから始まるということは、十分に考えられる。88年の事故も、私には、そういう面で気になるところがあったので、協力を申し出たが、門前払いだった−と、田中氏は言うのである。

原発現場の労働者の健康管理問題も描く

 この映画はほかに、派遣や臨時雇いの形で、動員されてくる、原発の下積み労働者のことにも、触れている。防護服を着ての作業が多くなるのだが、なぜ着るのかも分からず、着なければならない場所、脱いでも良い場所の区別も分からない人が、土木作業より高い賃金目当てで、数多く働いており、健康管理がどうなっているのか、実際の経験者のインタビューも交えて、疑問を呈している。
 今回の福島原発事故の後処理でも、同じようの労働者が、多数動員されていると、報じられており、同じ問題どころか、平常よりもっと厳しい健康管理問題が、浮き彫りになっているはずである。映画は最後に、福島でチェルノブイリと同じ事故が起きたらどうなるかという、シュミレーションまでやって見せて、「日本の明日が消える。それなのに、どうして原発なのか」という結論を出しているが、そのシュミレーションとたがわないことが、今回現実に起きたのである。
 この映画を見た、作家の広瀬隆氏は、「22年の星霜が流れる間に、日本人は何を忘れたのか。原発で働く被曝労働者と同じ条件の汚染地帯に、福島県内の学童が生きている今、この秘蔵されたドキュメントは、誰の胸にも突き刺さる問いを発してくる」と、感想を述べている。タイムリーな、フィルムを掘り出しての緊急公開、見るべき映画である。
(上映時間55分)
写真提供:(C)原発を考える映画人の会
東 京 渋谷 ユーロスペース 上映中
大 阪 シネ・リーブル梅田 8月27日〜上映
札 幌 大通 シアターキノ 9月3日〜上映
京 都 東寺 京都みなみ会館 9月10日〜上映
10月以降上映劇場
  フォーラム八戸、岡山シネマ・クレール丸の内、広島シネマサロン、那覇桜坂劇場   苫小牧シネマトーラス
全国順次公開
◆配給社 マジックアワー+シネマディスト03−5784−3120(マジックアワー)
《公式サイト》http://www.genpatsu22.com/

続いて『チェルノブイリ・ハート』について

後遺症、奇形児発生あまたの16年後

 この映画は、1986年4月26日の、チェルノブイリ原発事故から16年目の2002年に、ウクライナからベラルーシ(当時はすべてソ連)にわたる被災地を、女性のウクライナのドキュメンタリスト、マリアン・テレオ監督が、カメラとともに尋ね歩き、被曝による後遺症、とくに子供たちへの後遺症の実態や、その後の出産で生まれる奇形児の実態を、施設や病院で、記録した映画である。映画の進行は、単なるカメラによる記録だけでなく、こうした後遺症問題の改善に取り組んでいる、「チェルノブイリ子供のプロジェクト」を主宰する女性、エイディ・ロッシュ代表が道案内し、それらの施設や病院に、観客を誘うという形式になっている。

甲状腺癌の発生率、若者中心に一万倍

 先ず、ベラルーシのミンスクにある、甲状腺癌専門病院を訪れる。ミンスクは、爆心地から300キロ離れているが、ここに入院してくる甲状腺癌の患者は、幼少期に100キロ以内で被曝した人たちが多く、20代から10代の青少年が多い。手術を終えたばかりの、うつろな表情の青年、その一方で、ロッシュ代表に話しかけてくる、一見元気そうな16歳の少女は、甲状腺癌を告知されておらず、自分のおかれている状況を、正確にはわかっていないという。この少女が爆心地近くに住んでいたのは、生まれて23日目のことだったのだ。医師の話では、この地方の甲状腺癌の発生率は、通常の地域の一万倍もあり、事故後10年を過ぎてから、発生が目立つようになったという。

障害児の出生率25倍、精神病院が収容先

 ミンスク郊外にあるノヴィンスキー精神病院では、知的障害に加えて、幼少の頃の被曝によると見られる、脊髄損傷や脳性マヒなどの障害も持つ、17〜18歳の子供の収容率が、高くなっているという。何しろ、事故以来、障害児の出生率は、25倍に増えたといわれるのだ。ベラルーシ南部にあるヴェスノバ精神病院でも、心の病よりも、身体的な障害をもつ子供が、数多く収容されている。曲がった腕の子供や、腰から下を引きずって歩く少年がいる。この少年が、「医師になって、自分より障害のひどい子供を助けたい」と、けなげに言うのには、涙がこぼれる。また、両手ができものだらけの少年が、苦痛に顔をゆがめながら、特殊なクリームを塗る姿も、痛々しい。この病院の勤続19年の看護婦は、「事故以後徐々に、障害児の収容が増え、最近は特に多くなった。親から遺棄された子供も多いのですよ」という。

親が路上に遺棄する奇形児、悲惨な実態

 そんな遺棄障害児ばかりが収容されている乳児院が、チェルノブイリから80キロの、ベラルーシのゴメリ市にある。それは悲惨な施設であった。その「ナンバーワン・ホーム」と呼ばれる施設では、奇形で生まれ、親からも育児を放棄され、道端に捨てられていた子供たちが、数多く収容されている。奇形で一番多いのは水頭症で、ロッシュ代表が抱き上げた子供などは、脳が頭蓋骨の中に納まらず、ブヨブヨとした状態で、外にはみ出ている。そんな子供でも、あやしながら背中をさすると、うつろな目に、笑みを浮かべるから、とても切ない。こうした子供の治療は、現実問題として不可能で、苦痛を和らげる対症療法だけなのだが、それでも予算不足で、十分には出来ず、死を待つだけのケースも多いという。

健常児の出産20%、免疫不全で死亡5倍

 このゴメリ市は、チェルノブイリ事故の後遺症に悩む人が、一番多く住む町といわれている。テレオ監督が、ロッシュ代表とともに訪れた、ゴメリ市立産院では、二人の妊婦がお産の最中だったが、幸い二人とも、健康な赤ちゃんが生まれた。医師とともに喜ぶ二人の母親。奇形が生まれないかという出産の不安は、他地区より飛びぬけて強いので、健常児を生んだ喜びも、またひとしおだという。この産院の医師は言う。「健常児が生まれる確率が15〜20%なのです。外観は健常でも、免疫システムの弱い赤ちゃんが多く、乳児死亡率が高い。ゴメリに限らず、ベラルーシ全体で、ヨーロッパ諸国の3倍に達します」と。

心臓疾患、チェルノブイリ・ハート多発

 ゴメリ市立小児病院では、12歳の少女が、心臓手術の順番を待っていた。心室に穴があいている心臓欠陥、俗に「チェルノブイリ・ハート」と呼ばれる心臓病が多発していて、この少女のように手術を待つ患者が、ベラルーシだけでも7000人もいて、人手不足で、医療が追いつかないという。一方首都ミンスクの小児病院では、アメリカ人医師14人が応援に来ていて、他の病院では、手術不可能といわれた心臓病の娘の、手術をしてもらうために、やって来ていた夫婦がいた。映像は、この夫婦が、娘の手術の成功を、米人医師から知らされる瞬間を捉えており、暗い映像ばかりが続くこの映画の中では、一点喜びの光が差す瞬間になっている。

200キロ圏、自然の恵みにセシウム137

 チェルノブイリから30キロの強制退去地域は、その後も荒野となって、住む人もいないが、およそ200キロ圏の汚染地域では、日常生活を続けている人も多く、これらの地域では、放射性物質の定期的な検査が行われている。映画は、チェルノブイリから200キロにある高校で行われた検査の模様を撮影しており、高校生の体内から、通常よりは多い、セシウム137が検出されたことを、明らかにする。検査に立ち会った科学者は、数値の高い高校生に、食生活を尋ねているが、地域で採れる野いちごやキノコを食べることがあるという。科学者は、そうした高校生に対し、それらのほか、野生のシカや魚なども食べるのを控えた方がよいと指導し、また野いちごのジャムも、放射性物質の濃縮が考えられるので、やめた方が良いという。

死者1万3000人、廃村2000以上

 このように、事故から16年のこの映画の時点で、周辺地域での後遺症や、日常生活の不安は、深刻さを増している。この映画を見ていて感じることは、福島原発の事故も、放射性物質の飛散を止めれば終わるというものではなく、問題はこれから始まるということである。
 この映画は、始めの部分で、チェルノブイリ事故の総体を、大まかにまとめているが、それを確認の意味で、最後に記しておく。「190トンの放射性ウラニウムなど、多くの放射性物質が空気中に拡散、事故処理に当たった労働者は、延べ60万人が被曝、1万3000人以上が死亡した。避難民も40万人に達し、2000以上の集落が廃村になった」−というのが、事故の大まかなまとめである。
 さらに、この映画は、2003年の米アカデミー賞で、短編記録映画賞を受賞したにも関わらず、日本では未公開となっていた。やっと今回、日本版の公開にこぎつけたのであるが、テレオ監督は、日本版公開に際し、20世紀前半に活躍した、トルコの詩人ナシム・ヒクメットが書いた、「生きることについて」という詩の紹介を、冒頭にくっつけている。長いので全文はここに書けないが、要点部分を、最後に記しておきたい。「(自然を破壊し続けたら)われらの偉大なる星地球は、いつの日か冷たくなる。氷塊のようにではなく、胡桃の殻のように、ころころと、漆黒の宇宙空間へ転がるだろう。そのことを今、嘆かなくてはならない。あなたが「自分は生きた」というつもりなら、地球の未来を悲しもう、今の世界を愛そう」(一部意訳)

(上映時間、監督の知人の少年時代の家で、放棄させられた、曝心地から3キロの、廃墟になった住居を、20年ぶり(2006年)に訪問する映像「ホワイトホース」含め、61分)
写真提供:(C)2003ダウンタウンTVドキュメンタリーズ

札 幌 ディノスシネマ札幌劇場 上映中
東 京 ヒューマントラストシネマ渋谷 上映中
東 京 銀座テアトルシネマ 上映中
立 川 立川シネマシティ 上映中
川 崎 川崎チネチッタ 上映中
仙 台 フォーラム仙台 9月3日〜上映
福 島 フォーラム福島 9月3日〜上映
横 浜 横浜ニューテアトル 9月3日〜上映
長 崎 長崎セントラル劇場 9月3日〜上映
佐 久(長野県) 佐久アムシネマ 9月17日〜上映
沼 津 ジョイライトシネマ沼津 9月17日〜上映
大 阪 シネ・リーブル梅田 9月17日〜上映
松 山 シネマルナティック松山 9月17日〜上映
帯 広 CINEとかちプリンス 9月24日〜上映
八 戸 フォーラム八戸 9月24日〜上映
盛 岡 フォーラム盛岡 9月24日〜上映
山 形 フォーラム山形 9月24日〜上映
いわき ポレポレいわき 9月24日〜上映
神 戸 神戸アートビレッジセンター 9月24日〜上映
10月以降上映劇場
  苫小牧シネマトーラス、青森松竹アムゼ、シネマビレッジ8イオン柏(青森県)   鶴岡まちなかシネマ(山形県)、シネマテークたかさき(群馬県)伊勢崎ブレヒ劇場   十日町シネマパラダイス(新潟県)、長野ロキシー、静岡シネギャラリー、   藤枝シネプレーゴ、名古屋名演小劇場、福井メトロ劇場、京都シネマ、   岡山シネマクレール丸の内、広島サロンシネマ、アイシネマ今治、那覇桜坂劇場
◆配給社 ゴーシネマ 03−6861−5050

《公式サイト》http://www.gocinema.jp/c-heart/
 

 

 

 
   

新藤兼人監督、99歳の最後の反戦

戦時体験下敷きに、銃後の悲惨描く

葉書が結ぶ戦後の再生『一枚のハガキ』

(2011.8.20)

木寺清美

 
 


赤紙で召集された新藤監督の戦時体験

 この映画は、文化勲章受章者で、今年99歳の新藤兼人監督が、「これが最後だ」といって作った、48本目の作品である。
 新藤監督は、昭和19年3月、赤紙で、32歳で召集され、シナリオライターの仕事を中断し、広島県呉市の海兵団に、二等水兵として入隊した。しかしもうその頃、日本海軍の軍艦は、殆んどアメリカに沈められてなく、海軍とは名ばかりで、船に乗ることもなく、同じ運命で召集されて来た、中年社会人の二等水兵ばかり100人と一緒に、当時、予科練(=海軍飛行予科練習生)の練成宿舎として接収されていた、奈良県天理市の天理教宿舎に派遣され、来る日も来る日も、宿舎の掃除と、練習生のための炊事などに、従事させられた。予科練習生には、10代の少年もおり、いわば当時の海軍の「金の卵」だったから、その世話係は、重要だったのである。もちろん金の卵といいながら、実際は人間魚雷や戦艦大和に乗せられ、海の藻屑にしてしまったのであるが・・・。

100人中、籤引きで94人が戦地行き

 このあたりの、中年海軍二等兵の悲喜劇は、新藤監督自らも、証言者として出演した、弟子の山本保博監督に作らせた、ドキュドラマ『陸に上った軍艦』(07)に詳しいが、もちろん100人が終戦まで、掃除をしていたわけではない。練成が終わると、次の赴任地へと、派遣されたわけであるが、その赴任地は、戦局が逼迫するにつれ、内地ではなく戦地が増えていった。
 天理の練成が終わり、60人は籤引きで、フィリピン戦線への派遣となり、さらに30人は、籤引きで潜水艦に乗ることになり、さらに4人は、これまた籤引きで、海防艦の射撃銃手に派遣された。そして残ったたった6人だけが、海軍航空隊の宿舎に接収されていた、兵庫県宝塚市の、音楽学校大劇場に派遣され、また航空兵の世話係を命じられた。
 今回の『一枚のハガキ』は、『陸に上がった軍艦』に描かれた、新藤監督の実体験と、同じ素材に基づく、フィクションであり、新藤監督が、自分の体験に、別の角度から光を当てて、反戦の気持ちを、より強く押し出した作品なのである。

籤で内地に残った兵が、遺族へ配達

 『一枚のハガキ』の冒頭は、こういうわけで、予科練の宿舎にあてがわれた、天理教の宿舎のシーンで始まる。来る日も来る日も掃除という日々は過ぎ、フィリピン戦線への派遣や、潜水艦に乗る人の、籤引きのシーンが描かれる。幸いにも、新藤監督をモデルにしたと思われる人物松山啓太(豊川悦司)は、籤運に恵まれ、宝塚大劇場行きの、残留組に入った。しかしそれを、喜んではならない。籤にもれて残念、お国のために、戦地で尽くせないのは悲しいという、立場をとらなければならないことは、言うまでもなかった。  その夜、二段ベッドの上の階で寝る同僚の森川定造(六平直政)から、妻から届いたハガキを、君は残留組で、生き残れると思うから、「確かに受け取った。元気でフィリピン戦線へ向った」といって、戦争が終わったら、自宅に届けてくれないかといって、一枚のハガキを渡される。ハガキには、「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません」とだけ書かれていたが、慰めの言葉や、戦地に赴くので後を頼むというような、女々しいことを書くと、検閲に引っかかって、返事は届かないので、何も出さずに出発する。受け取った証拠に、君が届けて欲しいのだというのが、森川定造の気持ちだったのである。

戦友の家族は悲惨、家族死に妻一人に

 森川定造は、フィリピンに到着するまでに、乗っていた船がアメリカの魚雷で沈められ、海の藻屑となってしまった。もう軍艦がなく、一般の輸送船による戦地行きだから、当然といえば当然の帰結だった。森川の実家は、貧しい農家で、妻友子(大竹しのぶ)と老父母(柄本明と倍賞美津子)だけが、わずか2枚の田んぼを、守っていた。海底に沈んで戦死した者の常として、何も入っていない白木の箱だけが、遺族に届けられる。受け取った、一枚のハガキの差出人である戦死者の妻友子の前で、届けてきた軍人と、村の地区責任者(大杉漣)による、名誉の戦死者を悼む儀式が、村人たちも列席して行われ、庭先は、物々しい雰囲気になる。しかし死んだ者は帰ってこず、残されたものの生活は、苦しくなるだけだった。
 舅と姑は、町に出ている次男の三平を呼び戻して、農家を継がせるので、弟と再婚して欲しい友子に頼む。身寄りのない友子は、舅姑の提案を承知し、夫の弟と再婚するが、この三平もまた、赤紙で召集され、戦死してしまう。落胆した舅は、薪割をしていて、心臓マヒで急死し、姑もまた、自殺した。一人ぽっちとなって、終戦を迎えた友子は、電気も水道もないその貧しい農家で、ひっそりと戦後生活を始めた。

復員兵も戦死の誤報で、家族は崩壊

 一方、はがきを預かった松山啓太は、そのまま宝塚音楽学校で、終戦を迎えた。しかし彼もまた、実家のある漁村に届いた、「啓太は戦死」という誤報に、妻と父が、なさぬ仲になっていて、帰る場所がなくなっていた。敗残の戦後生活を、強いられる状況となり、家と漁船を売って、ブラジルにでも移住するかとの思いに捉えられたまま、ハガキをもって友子を訪ねることになる。そして友子の、絶望と貧困の戦後人生に出会うのである。  夫のフィリピン行きになるまでの状況を、根ほり歯ほり聞く友子。すべては籤引きによって決まったことを知って、脱力感はさらに増す。しかし啓太ほどには、破れかぶれな気分にならなかったのは、村の地区責任者が、生活の困窮を助けることを口実に、妻子もあるのに、実質的な「妾」になれと、言い寄ってきたことであった。その姑息さを排除するのに、啓太も、おのずから協力せざるを得なくなり、家と漁船を売った金を、友子のために使う羽目になっていく。啓太と地区責任者が取っ組み合いの喧嘩をするシーンは、笑うに笑えない、いささかやり過ぎのシーンではあるけれど、水道もない友子の家に、啓太と友子が、川まで水汲みに行き、二人して、モッコで水を担いで帰ってくるシーンなどは、水のない孤島を、ただもくもくと夫婦で耕す生活を描いた、新藤監督の若い頃の代表作『裸の島』(60、モスクワ映画祭グランプリ)を連想させる、美しい労働のシーンである。こうして二人は、急速に近づき、絶望の戦後人生を、立て直すきっかけを掴んでいく。

復員した新藤監督、戦死の94人忘れず

 新藤監督は語っている。「戦争はやってはいけない。人間を抹殺しますから。いかなる理由があってもやってはいけません。一人の兵士が戦死すると、その後方にある家庭も破壊されます。私は兵隊にとられましたから、そういう悲惨さを、私の体験を通じて、ドラマに書きました。100人のうち、94人が戦死し、6人だけが復員することが出来ましたが、私はその復員者の中に入り、今日まで、映画を作りつづけるという仕事を、することが出来ました。しかし、その仕事をやりながらも、ずっと94人の魂が、私につきまとって来ました。その思いを、この最後の映画にこめたつもりです」と。

新藤映画の集大成、反原発が心残り

 この映画のラストシーンは、一面に黄金色に実り、取入れを待つばかりとなっている、麦畑で、夫婦になった二人が、いそいそと農作業をするシーンである。二人の再生への努力と、戦後の日本の復興と、自然の実りを、すべて集約したシーンだということが出来る。  また、原爆の落ちた広島の市街地から、峠を一つだけ越えた、広島郊外が、新藤監督の生まれ故郷なのだが、それだけに原爆にも関心が深く、『原爆の子』(52)『第五福竜丸』(59)『さくら隊散る』(88、丸山定夫、園井恵子ら、日本の新劇の草分け的俳優らが、戦時中に巡回演劇団を作り、広島で公演中に被爆、非業の死を遂げていく経緯を描いたもの)と、いわゆる「原爆もの」の傑作映画も、数多く作っているが、今回の福島原発の事故にも関心は深く、「もう高齢で、原発関連映画を作れないのが残念。ドイツは、既に原発をなくす方向に動いている。早くそうすべきで、誰かがそうしたテーマの映画にも、取り組んで欲しい」と語っている。
 いずれにしても、『一枚のハガキ』は、99歳で作った、新藤映画の集大成として、記憶に残すべき作品である。

(上映時間1時間54分)
写真提供:(C)2011近代映画協会/渡辺商事/プランダス
上映中劇場
  札幌シアターキノ、フォーラム仙台、フォーラム山形、鶴岡まちなかキネマ   テアトル新宿、ヒューマントラストシネマ有楽町、109シネマズMM横浜、   千葉京成ローザ、小山シネマロブレ、静岡シネギャラリー、浜松CINEMAe-ra   名古屋名演小劇場、大阪テアトル梅田、京都シネマ、ソネリーブル神戸、   岡山シネマクレール、広島八丁座、福山シネマモード、福岡ソラリアシネマ、   大分シネマ5、熊本Denkikan、
近日上映劇場
  青森シネマディクト、フォーラム八戸、フォーラム盛岡、フォーラム福島、   宇都宮ヒカリ座、長野ロキシー、岐阜CINEX、福井メトロ劇場   テアトル徳山、那覇桜坂劇場
全国順次公開予定
◆配給社 東京テアトル

《公式サイト》http://www.ichimai-no-hagaki.jp/
 

 

 

 
   

ホームドラマでないホームドラマで描く

連綿と続く生命の営みと米社会の凋落

カンヌ最高賞『ツリー・オブ・ライフ』

(2011.8.14)

木寺清美

 
 


38年で5本のテレンス・マリック監督

 この『ツリー・オブ・ライフ』は、今年5月の第64回カンヌ国際映画祭で、最高賞のパルムドールを獲得したアメリカ映画である。監督のテレンス・マリックが、デビュー以来38年間で、5本の映画しか発表していない寡作家(現在68歳)で、伝説の名監督と言われている人であるという点も、一つの話題である。
 一般的な意味では、やや難解な映画である。1950年代半ばのテキサスの小さな町を舞台に、「社会的な成功とは富を得ることであり、それは、力を前面に押し出す生き方によってのみ、達成される。お前もそれが出来なければ、俺の息子ではない」と父親に言われ続けた、12歳の少年を中心に描かれる、父母と2人の弟の、5人家族の物語である。しかし、一般的な意味での、ホームドラマではない。

強権的な父親と、子供・妻の確執が苦く

 当然のことながら、強権的な父親(ブラッド・ピット)に対する、息子の反発がある。しかし、ほかに身近な尊敬できる人物がいないという環境から、反発し抑圧されながらも、父親についていく。無垢な子供時代としては、不幸な屈折した日常が延々と描かれる。しばらくして父親が、子供の頃の夢に敗れた、ありふれた下積みの人生を送っている男であることが、子供の目にも分かるようになってくると、その屈折は、さらに複雑になる。  一方母親(ジェシカ・チャステイン)は、夫には黙って従い、子供に対しては、あり余る愛を降り注ぐ優しい人であり、手に職のない、古風な専業主婦を代表するような人物だ。だが、父親の教育方針に、文句は言えないが、何か違和感は感じていて、一方的に夫に従うのではなく、どこかに女として自立できる隙間はないかと、腹の底では鬱々と思っている、そしてその分、子供に対しては、溺愛に近い愛情を発揮していく−そんな女性として描かれる。そしてそんな母親を、12歳の息子は、疎ましく頼りない存在と感じ、その分、父親の権威に、疑問を感じながらも、惹かれていくという関係になる。相当に屈折した、ホームドラマである。しかもそのドラマを、最初のうちは、母親の、なぜか客観を装ったナレーションで、進行させているのも、皮肉っぽい設定である。

生命の誕生、夢、妄想を散りばめる映像

 おまけに、テレンス・マリック監督は、このドラマを日常的なリアリズムでは、描かない。冒頭では、地球の生成や生命の誕生についての、デフォルメされた壮大な映像が挿入されてくるし、12歳の少年が、ニューヨークのビジネス街で成功したらしい男(ショーン・ペン)となって登場するとき、その男は、成功者だが、何かしら、仕事ばかりの人生で、喪失感を抱いている人物として描かれる。その男は、その原因を探るために、自分の12歳を振り返るというドラマ展開になっていくのだ。
 男は思う。今の自分があるのは、12歳の頃に強く意識した、強権主義の父親の薫陶がああったからだと。そういう結論と思われる部分(それは後で気づくことだが・・)を、先に見せておいて、ドラマはその12歳をスタート地点とする子供時代に、延々と引き戻されるホームドラになっていく。それは、先に述べたように、母親の溺愛との違和感や、夫唱婦随は表だけで、何かしら夫婦間に隙間風が吹いていた父母の仲を含めて、父親との確執に終始した、鬱屈した少年時代が、かなりしつこく描かれるのだ。それはデフォルメされた、夢や妄想などの場面を散りばめながらの展開で、中の弟(次男)の死亡によって、親の期待が、さらに重くのしかかる展開になる点なども、さらりと挿入されてくる。

進化を図示した樹に、個人と米社会を重ね

 そもそも題名の「ツリー・オブ・ライフ」は、ダーウィンの進化論を、一本の「生命に樹」になぞらえて、アミーバから高等動物に至るまでを、複雑な枝分かれで図示した、あの「樹」のことである。一家の、自宅近くの空き地には、複雑に枝分かれした一本の大木があり、兄弟三人が、父母の見ている前で、木登りをするシーンが、何度か出てくる。この木とともに、一家は、家族の絆を結び合わせながら、成長し、枝分かれしていったのだ(若しくは、していくのだ)と、テレンス・マリックは、描きたかったのだろうと思う。
 地球の生成、生命の誕生から、小さな市井の家族の絆までを見通し、それぞれの個人の人生の行く末を見る、壮大な構想のこの映画−それにしても、屈折した、あまり楽しくないホームドラマの部分が長すぎると思うのも、殆んどの観客の、偽らざる印象であろう。私もそう思って、はたと気がついた。この部分にこめられているのは、まさにアメリカの歴史であり、アメリカン・ドリームが実現しなくなった、今のアメリカ社会の凋落ぶりへの批判なのだと。

家族の叱咤と慈愛で到達した成功の地は?

 少年の父親は、既にアメリカン・ドリームの実現に失敗した男である。母親は、そういう恵まれない現実に直面しながらも、打開の方法を持たない従来型の、鈍感な良妻賢母である。少年は、気位だけは高いが恵まれないこの家族に鼓舞されながら、生き馬の目を抜く、現代のアメリカ社会でのし上がったが、そこはひと時の平安もない、荒野のような場所であったと、最後で、12歳の成長した姿であるショーン・ペンは示唆する。エピローグで、もう一度登場するこのショーン・ペンは、眉間に皺を寄せた、大変疲れた男になっている。忙しさにかまけて、父母に感謝の気持ちを伝えることはなかったが、今日の自分を育てた、父親の叱咤と母親の慈愛と、そして家族の絆の温もりには、感謝すべきだと思っていた。しかし成功でたどり着いた場所が、この程度のものであるとすれば、感謝の気持ちなどは、そもそも必要がないのではないか−という風に、エピローグのショーン・ペンは、苦悩している。

アメリカン・ドリーム喪失、米社会凋落

 2011年8月の今、アメリカの国債の格下げが、歴史上初めて、アメリカの格付け会社によって行われ、オバマ政権が反発しているとうニュースが飛び込んできている。それについて、経済の専門家たちは、世界の基軸通貨としての「ドル時代」の没落の序章だ、という風に論評している。この映画は、2011年5月の、カンヌ映画祭で最高賞を得た少し前の作品ながら、マリック監督は、アメリカン・ドリームが実現しないばかりでなく、今日の、アメリカ社会の凋落を示すそのニュースまでをも、見通したかのような映画の結末を、最後の方に持ってきている。
 複雑に枝分かれして進化してきた生命の樹は、その先端でぽっきりと折れる事態までを、アメリカ社会は招来し始めていると、マリック監督は、言いたかったようである。


テキサス育ち、出自と決別のマリック監督

 テレンス・マリック監督は、イリノイ州のオタワに生まれだが、石油成金の父親に連れられて、テキサスやオクラホマにやって来て、育った人である。まさにアメリカン・ドリームを地で行くような家庭の出身なのだ。この映画が、金持ちと出世を求めてテキサスに来た、一家の物語であることと、完全に符合する。しかし。マリック監督は、ハーヴァード大やオックスフォード大で学んだあと、金持ちも出世も求めず、寡作家の映画監督の道を歩んだ。そして、ベトナム戦争を批判する映画群の中の、秀作の一本に数えられている『シン・レッド・ライン』(98、ベルリン映画祭グランプリ受賞作)を作り、米大陸の開拓史(=米先住民侵略史)における、初期のイギリス移民と、先住民の確執を描いた、ポカホンタス物語の完全映画化である『ニュー・ワールド』(05)もものにし、20世紀初頭のテキサスの農場を舞台に、麦の収穫期に渡り歩く季節労働者を描いた『天国の日々』(78、米アカデミー撮影賞受賞作)も作った。これらの作品歴を見るとき、自らの出自である金持ち階級とは決別し、アメリカン・ドリームをちらつかせて、国民や移民を操ってきた、米社会そのものへの疑問を呈する映画を、作り続けてきた人であることが分かる。

『天国の日々』のテキサス批判が発展

 私は、この『ツリー・オブ・ライフ』の紹介文を書くに当たって、製作年度が古く、印象が薄れている『天国の日々』について、もう一度見直した。今回と同じテキサスを舞台にした映画で、テキサスの農場に流れてきた季節労働者の男女が、偽装兄妹として、大農場に雇われ、妹が、農場主に見初められて結婚,兄も定住労働者に昇格するが、天災と虫害で農場は倒産、偽装もばれる無残な結末になっていく。そんな話を、素晴しいカメラワークで、自然と労働を捉えた傑作だったことを確認したのだが、それは20世紀初頭の、個人と一企業(一農場)の、アメリカン・ドリームの喪失の話であったわけである。だが今回の『ツリー・オブ・ライフ』は、アメリカ資本主義が、爛熟期と凋落期を迎えた今日に、スポットを当て、地球生成から説き起こす、CGを駆使したバーチャルな映像も多分に使いながらの、少年と下積みの一家の、夢と努力と失速の物語であるというのは、自然な成り行きであろう。その座りの悪いホームドラマが、それでも続く生命の絆を、苦々しく引きずって行く。まさに苦いホームドラマとして捕らえた、米社会批判映画であり、マリック監督の視点は、広くかつ複眼的になっている。
 この映画を見終えたとき。近くの座席で鑑賞を終えた女性客が、「少年は、家族の中の誰が好きだったのか、最後までわからない。折り合いのつかないホームドラマは、見ていてつまらないね」と、連れの観客に言ったのを聞いた。この映画は、そういうレベルのことを描いた映画ではなく、形式だけがホームドラムの、ホームドラマではない映画なのである。そのことに気付いたとき、難解に見えたこの映画は、一挙に地平が開き、マリック監督が、自らの出自を題材にした、これまでの映画の総集編だということにも気付く。

良心的米映画人の思い入れ結集の作品

 今年のカンヌ映画祭の審査委員長は、米俳優ロバート・デ・ニーロであったという。アメリカ映画への思い入れが、自然に強くなった側面もあったろうが、『ツリー・オブ・ライフ』をパルムドールに選んだことは、アメリカ社会が今年、曲がり角を迎えているだけに、的確な判断であったと思う。
 マリック監督が、この映画の脚本の執筆をしていることを聞いたとき、ブラッド・ピットとショーン・ペンは、自ら進んで、出演を願い出たという。母親役のジェシカ・チャスティンは、スクリーンで印象が薄い人がいいとの、マリック監督の希望で、舞台中心に活躍してきた彼女が選ばれたのだという。子供役は、中心の長男役をはじめ、三人とも、オーディションで選んだ素人だという。このように『ツリー・オブ・ライフ』は、マリック監督のそういう思い入れと、いわば今のアメリカ映画で、良心的に動ける映画人が結集して生み出した、本格的な芸術作品なのである。
(上映時間2時間18分)
写真提供:(C)2010Cottonwood Pictures、LLC. All  Rights Reserved

全国主要都市 全国主要都市の主要劇場及び各地のシネコンで8月12日より一斉上映
◆配給社 ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン

《公式サイト》http://www.movies.co.jp/tree-life/

 

 

 

 
   

癒しと切なさが同居する訪問介護描きく

野良猫と戯れる平和も描く優れた記録

想田和弘監督の観察映画『Peace』

(2011.8.1)

木寺清美

 
 


ボランティアが支えの福祉自動車事業

 こんなに長閑で、癒しがあり、それでいて、切ない現実を、ぐっと突きつけてくる記録映画なんて、これまであったかと、驚いてしまう一編である。
 この記録映画の主人公、つまり中心になって撮られている人物は、軽四福祉自動車、つまり介護の必要な人や、その人の荷物を乗せて運ぶ、ライトバン型の軽四輪を運転する、岡山市の柏木寿夫さんである。寿夫さんは、養護学校で働いていたが、定年になって、年金生活者となり、それから殆んどボランティア同然で、この仕事をはじめたのだという。一応福祉関係の認可事業なのだが、補助金はなく、決められた低廉な料金を、利用者から貰えるというだけである。事業への参入を希望する人たちへの、説明会のようなシーンもあって、柏木寿夫さんが先輩として経験談を語るのだが、平均して得られる料金は、こまめに働いて月10万円。半分はガソリン代に消え、車の修理、車検、保険などの費用を引くと、この事業だけでの生活はできないという。年金などがある人の、使命感だけが支えの事業であることを、寿夫さんは明らかにする。

散歩、通院、買い物、多様な運搬内容

 映画は、比較的若い車椅子の障害者を、公園の散歩に連れて行くシーンで始まる。迎えにゆき、本人を乗せ、車椅子をたたんで乗せ、公園に行く。そこでも、乗り降りについての、同じような作業があり、寿夫さん自身が、車椅子を押して公園を回る。また車を運転して帰ってくると、次回の日を約束して、「元気でね」といって別れる。
 利用者は、障害者や老人など、介護の必要な人ばかりだが、仕事の内容は多様である。公園の散歩などのリクレーションもあれば、買い物や通院もある。植月さんという利用者からは、回転寿司を食べに連れて行って欲しいと言われて同行し、多少のアルコールも注文して、すっかり話しこんでしまう。そんなことも時々あるという。しかし一番力が入っているのは、奥さんの柏木廣子さんが経営する、NPO組織の訪問介護の会社の仕事である。

91歳の「在宅ホスピス」の男性を介護

 ヘルパー兼ケアマネジャーである廣子さんは、91歳で、身寄りなく、生活保護を受けていて、一人暮らしの、末期の肺がん患者である、橋本至郎さんを、毎日のように自宅に訪問をして、介護している。「在宅ホスピス」と呼ばれる、介護制度が始まってから可能となった、終末人生の一つの選択肢なのだが、橋本さんは、まだかくしゃくとしていて、背広にネクタイを締めて外出する。この選択肢は、橋本さんのやりたいような、自由な生活が許されているのだ。外出の多い橋本さんを乗せる、寿夫さんの仕事も、勢い多くなる。しかし、いつ何時,病状が急変するかも知れず、廣子さんも寿夫さんも、ハラハラしながら介護し、目的地に運んでいる。廣子さんの訪問が、橋本さんの一日の日課の始まりだが、毎朝、無事であって欲しいと祈りながらの訪問だという。寿夫さんも、外出のたびに、誠心誠意つき合っている。

長閑で癒される余命人生の生き方に感動

 橋本さんは、肺がんなのに、戦後すぐ、平和を願って発売された煙草「ピース」を、今も吸い続け、赤紙で応召されて兵隊になったときの記憶を、語り部のように、カメラに向って話す。そして最後には、「それでも私は、戦争で死なずに、今日まで生きてきて、いろんな人に迷惑をかけた。早く往生せにゃあ」と、ごく自然に笑って、謙虚に締めくくるのである。殆んど余命も使い果たした、自宅でのホスピス生活である人が、こんなに屈託なく笑い、ユーモアたっぷりに過去を話すとは、大変な驚きだが、この橋本さんの稀有なキャラクターに、柏木さん夫婦も、観客も、すっかり癒されるのである。勿論、橋本さんの死の瞬間までは、撮っていないが、エンド・タイトルの後に、橋本さんの冥福を祈るというタイトルが出ると、死は切ない現実であるにもかかわらず、その終末人生の長閑な幸福感がじわっと伝わり、「在宅ホスピス」とは、こうでなければと、柏木夫妻の、有形無形の努力に、自然と頭が下がる構成になっている。

庭に集まる野良猫の長閑さにも癒される

 ここに描かれている長閑さとは、訪問介護をする人たちと、介護を受ける人たちとの間に横たわる、本来の切羽詰った現実を感じさせない、長閑な人間関係そのものことだが、それだけではない、もうひとつの寿夫さんの行動の中にも、あっと驚かされる長閑さがあって、この映画の重要な魅力となっている。それは、柏木家に集まってくる野良猫と寿夫さんとの関係である。朝と夕方の食事時になると柏木家の庭には、何処からともなく、10数匹の野良猫が集まってくる。花壇のそば、植木の下、踏み石の横と、それぞれの猫の食べる場所が決まっており、食器までが決まっていて、寿夫さんは、それぞれの食器に餌を入れて、それぞれの場所に置いていく。たちどころに現れる、それぞれの猫、食べた後の行動にも、寝るものや、うろつくものなど、個性があって面白い。寿夫さんが、一番大事にしている、群れのリーダーのような白と茶色の猫は、横腹にハート型の鮮やかな茶色模様があって、これ見よがしに闊歩する。ここにも猫社会のハートフルな平和(=ピース)があると、言わんばかりだ。

丁寧に撮った猫の生態から、平和が覗く

 何ヶ月かに一度、新しい猫が、仲間に入れて欲しそうにやってくるという。少し離れたところで、じっと寝そべって待機し、食事が終わり、みんなが餌場を離れ始めると、早業で近づいて、残されたえさを、さっと持ち去り、離れたところで食べ始める。哀れに思って寿夫さんが、その猫の餌も用意し、離れたところにおくと、これまでいた猫が怒り、その餌に群がって先に食べてしまう。そういう苛めにも遭いながら、新入りの猫は、一ヶ月ぐらいすると、いつの間にか、仲間入りをさせて貰っているという。また逆に、いつの間にか、姿を見せなくなる猫もいるという。そんな猫社会の中で、足の悪い猫も、立派に餌を貰い、生き延びている。
 寿夫さんは、雌猫に、自費で避妊手術をしてやり、仲間の争いや、無秩序に繁殖するのを防いでいるという。そこまでのめりこんでいる野良猫の世話を、廣子さんは一切ノータッチである。逆に、寿夫さんが後片付けをすぐせず、残った餌にハエがたかったりする汚さに、文句を言い続けている。寿夫さんは、廣子さんの苦情を聞いても、押し黙って笑うだけ。一切喧嘩はしない。カメラに向かい、「こればかりは、共同作業じゃないんだ。夫婦の意見は合わないままなんだ」とつぶやく。なんとも長閑だが、少し切ない寿夫さんと猫との交流を、映画は丁寧に撮っている。

市議補選の観察映画だった『選挙』の監督

 この映画の監督想田和弘は、07年に『選挙』という記録映画を作って、注目された人で ある。『選挙』は、2005年10月に行われた、川崎市宮前区(宮前選挙区)の、市議補選のもようを、一人の候補者を追って、公示から投票日まで記録した映画であるが、その候補者が特異で、いわゆる「当て馬候補」といわれるものだった。宮前選挙区は、自民党の大地盤で、常勝のベテラン自民党議員が二人もいる。他党議員の欠員によるこの補欠選挙に、どちらかが辞職してまで臨む必要がない。しかし、自民党が候補者を立てなかったら、票田が荒れ、任期満了の次の選挙が、闘いにくくなる。それで誰でもいいから、当て馬自民党候補を立てよということになって、想田監督の友人でもある、東京の切手商の青年が、東大卒だという理由だけで、白羽の矢を立てられ、当て馬候補にされた。票田が荒れないよう、当選の努力をしなければならないが、当選しても、次の選挙では、自民党の応援は得られず、三人も当選する地盤はないから、邪魔者扱いにされることが、既に分かっている選挙戦なのだ。想田監督は、友人のよしみで、候補者から、私映画としての記録を頼まれ、カメラを回したのだが、できあがったフィルムは、選挙の馬鹿馬鹿しさを糾弾する、見事な記録となった。脚本とか構成台本とかを事前に作らず、目の前の被写体をとにかく撮って、編集段階で構成する手法をとり、これを「観察映画」と名づけた。想田監督の観察映画は、今回の『Peace』で、三本目になるのである。

岡山は夫人の故郷、柏木家も夫人の実家

 二本目は、今回と同じ岡山で開業する精神科医にカメラを向けた『精神』(08)である。精神科医のセラピーというと、都会の瀟洒な一室に、予約制で患者を呼び入れ、世間話も含めた、雑談のようなこともしながら、治療をしていくというようなイメージがある。しかしこの岡山の開業医は、古い作りの仕舞屋(しもうたや)の一室で、決して裕福でない患者ばかりを相手に、よろず相談所みたいなことをしている、風采の上がらない老医師の、治療という名の相談の日々や、数人の患者をカメラが追い、患者の治療は、セラピーだけではないことを、浮かび上がらせる。
 なぜ岡山の町医者に、カメラを向けたのか。岡山は、想田監督夫人の故郷であり、今回の岡山の柏木夫妻は、まさに想田夫人の実父、実母なのである。つまりは、訪問介護のNPOをしている、夫人の実家に、カメラを持ち込んだのである。観察映画としては、非常に観察し易い、被写体が、カメラを意識しない環境を求めて、撮影の場にしているのである。そのような条件での撮影が、今回も成功をもたらしたと思われるが、余計なナレーションも音楽も一切使わない、実音と実会話だけというのも、成功要因になっている。

実にいとおしい平和な記録映画の傑作

 治癒の見込みのない病、死を待つだけの人生、しかも身寄りなく生活保護、そんなのっぴきならない現実を描きながら、柏木夫妻がかもしだす人間関係の場は、長閑で癒しに満ち、一刻一刻が切迫していない。真の平和(ピース)とは、こういう人間関係の中の時間を言うのだろう。それは野良猫も含めた、生きとし生けるものすべてに、平等に与えられた場と時間であることが望ましい。そんなことを、大言壮語せず、日常を観察しただけの画面の積み重ねで、表現した記録映画『Peace』は、実にいとおしい傑作映画の一本といえる。
(上映時間1時間15分)
写真提供:(C)2010 LaboratoryX.Inc.
東 京 渋谷 シアター・イメージ・フォーラム 上映中
岡 山 丸の内 シネマクレール 上映中
大 阪 十三 第七藝術劇場 7月30日〜上映
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 8月13日〜上映
富 山 フォルツア総曲輪 8月13日〜上映
松 山 シネマルナティック 8月13日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 8月20日〜上映
今 治 アイシネマ 9月3日〜上映
仙 台 フォーラム仙台 9月10日〜上映
福 島 フォーラム福島 9月10日〜上映
9月中上映予定劇場
  フォーラム八戸、フォーラム盛岡、フォーラム山形、浜松Cinema e-ra、  広島横川シネマ、福山シネマモード
近日上映予定劇場
  札幌シアターキノ、苫小牧シネマトーラス、高碕シネマテークたかさき、   川崎市アートセンター、横浜シネマ・ジャック&ベティ、新潟シネウィンド  十日町シネマパラダイス、金沢シネモンド.静岡シネギャラリー、京都シネマ、 福岡KBCシネマ
◆配給社 東風 03−5155−4362

《公式サイト》
http://www.peace-movie.com/

 

 

 
   

広島と長崎の二重被曝を語り継がねば

若者に、世界に広げる90歳の反核運動

『二重被曝〜語り部山口彊の遺言』

(2011.7.27)

木寺清美

 
 


原爆被害の語り部に徹した感動的な晩年

 06年に公開された『二重被爆』という記録映画は、1945年に、広島と長崎の双方で被爆した人7人にインタビューした映画であり、そのよう不運を背負った人がいることを、初めて知って驚かされた。(確認されている人は9人いて、未確認の人は、ほかにも多数いるとされる。しかし原爆手帳に二重被爆が明記されている人はおらず、公式には「なし」とされ、この映画の主人公山口彊(つとむ)さんも、手帳の記録は、長く広島だけだったが、行政に最初にして最後の明記をさせた。)
 今回の『二重被爆 語り部山口彊(つとむ)の遺言』は、この前作のインタビューを受けた一人である山口さんが、90歳直前の05年から、93歳で自らも癌に斃れる2010年の1月4日まで、原爆被害の語り部を任じ、講演や著作、オバマ大統領への非核要請の手紙の執筆などに、命ある限り尽くした、感動的で精力的な晩年を、記録したものである。

広島出張中に被爆、長崎に戻り被曝

 山口彊さんは、戦前戦中は造船設計技師であり、三菱重工長崎造船所に勤め、自宅も長崎にあった。しかし1945年の5月、広島造船所へ3ヶ月間の出張を命じられ、広島に赴任した。あと一週間で出張期間も終わるという、8月6日の午前8時15分、爆心地から約3キロ離れた、出勤途中の芋畑で被爆、左半身に火傷を負った。このとき空に立ち上るきのこ雲を、はっきり見たという。広島の市街地は、丸焼けとなり、職場の造船所も失い、同僚も多数が死んだ。翌朝、己斐という市街地の西はずれの駅から、長崎への避難列車が出ると聞き、死体累々の市街地を、己斐まで歩いたという。川の橋は落ち、川の中を渡らねばならなかったが、流れてくるのは、黒焦げの数珠繋ぎの死体、それを掻き分け、踏みつけるようにして渡ったという山口さんは、後にそれらを「人間筏」と表現して、短歌に詠んでいる。
 そして山口さんは、8日の昼。長崎に戻った。火傷の手当てをし、体中包帯姿で、妻子に再会したという。翌9日、広島造船所壊滅の報告のため、長崎造船所に出勤した。そして上司と打ち合わせ中の11時9分、窓の外に二度目の閃光を見た。

原爆被害者への差別で、隠す人生を選択

 山口さんの長崎での被爆は、屋内だったためか、幸い新たな火傷などにはつながらず、広島で受けた火傷も、大事にならずにすんだ。しかし、白血球減少症などの原爆症の症状はずっと続き、胆嚢の摘出手術も受けた。だが山口さんは、家族のために働き続け、造船技師を退職し、90歳近くになるまで、反核の語り部などには、手を染めようとはしなかった。その理由を山口さんは、今回の映画の中で、明らかにしている。
 私は造船技師として、現役で働いていた頃から、世界から原爆をなくす、核兵器をなくす運動に、自らの被爆体験を語ることで、参加して行きたいと思っていたという。しかし、「表面上の健康被害が、殆んど見えない山口さんが、反核運動をしても、切実さに乏しく、ためにする運動だと誤解される。原爆被害者とその家族には、世間の同情は表面的で、有形無形の差別がある。外から分からないのに、わざわざ私は原爆被害者だと名乗る必要はない」というのが家族の意見で、あえて反核運動への参加の意思は押し殺し、家族を守るために、ひたすら働く人生を選んだという。

赤児で被曝の息子が、還暦で先に逝く

 そんな山口さんが、二重被爆の事実を世間に伝え、反核運動に参加して行こうと決心したのは、90歳直前の05年、早くに長男は病死しているため、唯一の山口家の跡継ぎだった次男の捷利(かつとし)さんが、間もなく還暦という年齢で、原爆症の末の全身癌で、自分より30年も若く他界してしまったことによると、語っている。捷利さんは、山口さんが二度目の被爆をしたとき、生後6ヶ月の赤ん坊として自宅にいて、爆風で壊れた自宅の中で、放射能を浴びたという。そしておよそ60年の人生を通じて、山口さん以上に原爆症に苦しみ、ついに力尽き矢が折れた感じで、世を去ったという。「俺より先に逝くな。がんばれ」と何度も励ましたが叶わず、この息子の死は、私にとって、相当なショックだったと述懐する。そしてこのとき思ったことは、「私も原爆症だが、比較的軽度ですみ、この年まで生かされているのは、残されて人生を、この世から「核」をなくする運動に挺身せよと、神が命じているからだ」ということだったという。また捷利さんも、語り部たろうとする山口さんを、家族として応援すべきであるという遺言を残したため、長女の年子さんが、この山口さんの決心を、サポートすることにもなった。

国連で反核演説、高校では涙の講演

 そして、次男が亡くなったのと同じ年、活動はすぐに始まった。この映画の前作『二重被爆』な撮影も始まっていて、インタビューを受けたこともきっかけになったという。そして翌年、出来上がった映画を、アメリカ・ニューヨークの、国連本部での上映することになり、その上映会に参加、並み居る軍縮関係者らがいる前で、二重被爆の体験を滔滔と語り、「世界から核兵器をなくさねばならない」という演説して、拍手を浴びたのだった。山口さんは、このとき初めて、パスポートというものを申請し、獲得したという。
 こうして、世界中で最も有名な、ヒロシマ、ナガサキの被爆者となった山口さんは、あらゆる機会を捉えて、「反核平和」を訴える語り部になって行った。それは、どんな組織にも属さない、個人としての運動だった。
 とくに、自分は老い先短く、長くは語り部をやれないから、若い人にバトンタッチしなければならない。そのためには、若い人が「反核」に関心を持ち、被害の実態を知らねばならないと、中学校や高校での講演依頼には、積極的に参加した。話しながら、つい感極まって、言葉につまり泣いてしまうこともしばしばの山口さんの話しぶりに、高校生も感動し、講演が終わると、山口さんと女高生たちが、あちこちで抱き合う姿が見られるというシーンも、なかなか感動的である。

米女高生に英語講演、オバマ氏へ英文手紙

 08年を迎え、アメリカから日本に、研修旅行に来ていたアメリカの女高生に対しては、英語で講演をした。造船技師の仕事から少し離れていた戦後すぐの頃、英語の代用教員をしていたこともある山口さんは、何日もかけて、その英語による講演の草稿作りに精を出した。そういう老人が不得意とする根気のいる仕事も、いやといわずにこなしたのだ。そして、講演当日、「B29による原爆投下は正しかった」とする、アメリカの歴史教育に、とっぷりと浸っていた女高生らが、山口さんの話す、悲惨な被爆の事実に覚醒していく様が、つぶさに捉えられているシーンも、感動的である。このとき山口さんが繰り返したのは、One for All,All for Oneという言葉だった。これは民主主義の基本を示す言葉でもあり、核廃絶の運動を成功させるのにも当てはまる。民主主義の国に住むアメリカ人には、この精神で理解してもらえると思って、繰り返したという。
 冒頭に少し書いた、オバマ大統領への核廃絶要請の手紙も、丁寧に英語で執筆した。核廃絶を目指すことを、政策に盛りこんだ大統領が出てきたことを、山口さんは心から喜び、国連演説で、多少とも知られるようになった自分を生かして、その政策の推進の力のひとつにして欲しいと、自ら進んで、たった一人で執筆したという。しかしこの頃、山口さんの体は、胃癌に蝕ばれていた。

キャメロン監督の映画化、病床で気にする

 08年の8月初め、山口さんは吐血し、入院する身となった。この年の長崎原爆記念日は、病床から手を合わせた。そんな病床の山口さんが、大変気になっていたことがあった。それは、山口さんの国連での演説を知り、「二重被爆」に関心を持って、「広島発最終列車」というノンフィクションを書くために、長崎まで、山口さんの取材にやって来た、チャールズ・ベレグリーノという米人作家がいたのだが、『タイタニック』や『アバター』のジェイムズ・キャメロン監督が、その著作に興味を持ち、映画化の検討を始めだと、山口さんは聞く。『タイタニック』を見ている山口さんは、キャメロン監督に、そういう映画を作ってもらえば、反核運動には、大きなプラスになると確信し、取材に来たベレグリーノ氏の橋渡しで、「ぜひ作って欲しい」という手紙を、キャメロン監督宛に、入院前に送っていたのだ。その手紙は届いたか、キャメロン監督はどう読んでくれたのか、製作決定はもう揺るぎのないものなのか、そういうことが、病床の山口さんには、大変気になっていたのである。

来日のキャメロン監督、山口さんを見舞う

 この映画は冒頭、09年の12月22日、長崎空港に降り立つ、ジェームズ・キャメロン監督の姿から、始まる。『アバター』の宣伝で来日し、一日だけ日程を繰り合わせて、長崎にやって来たのだ。「私は、日本にやってきて、どうしても会いたい人があって、長崎にやってきた」というようなことをいう。そして、訪ねて行ったのが、病床に伏している山口さんだった。映画は、「この、監督が会いたがっていた、山口さんという人物は・・・」ということで、そもそもの二重被爆の事実から解きほぐす展開へと、入っていくが、反核運動に専念する山口さんの、終末人生の物語を描ききり、癌に倒れて入院した段階まで描いてきて、この冒頭の、キャメロン監督の病床見舞いの話に、戻ってくる構成になっている。山口さんは、その年が明けてすぐの、2010年の1月4日に亡くなっているので、その日はまさに、死の二週間ほど前のことだったのである。

キャメロン監督、映画は必ず作ると約束

 キャメロン監督は、「念願だったお見舞いができて、光栄です。私は山口さんのことについては、調べつくしてきました。二重被爆のことも、原爆症に耐えながら、生きてこられたことも、反核の語り部に挺身し、核のない地球を目指して来られたことも、全部知っています。それを映画にします。必ず作ります。」と、病床の傍らで、山口さんに接しるように座って、約束をした。すっかりやせ細った山口さんだったが、キャメロン監督と握手をしながら、涙を浮かべ、「ありがとう」を繰り返した。本当に映画ができるのかと、気になっていた唯一の問題は、こうしてキャメロン監督本人の口からの直接の約束で、解決することになったのである。
 山口さんは、「核をなくさないと、地球も人類も滅びます」と語るキャメロン監督に、I hope so と英語で答え、I have done my dutyと、満足げに自ら歩んだ終末人生を、締めくくった。

編集終了時に、福島原発事故、再編集へ

 この映画の監督・プロデューサーの稲塚秀孝氏は、東京の映像プロダクション「タキシーズ」の実質社長である。05年に二重被爆の話を聞いて、取材・撮影をはじめ、06年公開の『二重被爆』を完成させる中で、山口さんと知り合った。山口さんの考え方や活動に共感した稲塚氏は、まるで山口さんとの二人三脚のような形で、『二重被爆』完成後も、5年間に亘る密着取材を続け、本作をものにしたものだ。だから山口さんは、殆んどカメラを意識せずに行動しており、その価値ある晩年が、生き生きとした映像でとらえられている。
 そしてその取材撮影は、2010年1月4日の山口さんの死の日まで続けられ、入念な編集も終えて、ようやく公開の運びになった今年3月、東日本大震災が起き、そして福島原発の事故が起きた。そこで稲塚監督は、はたと考えた。山口さんの反核の活動は、原爆や核兵器など、軍事目的の核への反対活動で、原子力の平和利用について、表立って言及しておらず、そこに照準を合わせた取材も撮影も、していなかったのに気付いたからだ。だが、原発事故が起きた以上は、そこに触れないわけには行かず、稲塚監督は、もう一度、はずしてしまった映像をくまなく見直し、平和利用について語っている山口さんの発言を、見つけ出したのである。

もう一つの遺言、原発など平和利用反対

 原子力の平和利用についても、山口さんは、はっきりと見解を語って、いた。稲塚監督は、その映像を、一旦映画を閉じたあとに、「山口さんのもうひとつの遺言」として、付け加えることにした。
 そのエピローグで、山口さんは、明確に言う。「平和利用といっても、安全が保証されない限り、使ってはならないのが「核」である。人間の技術には限界があり、100パーセント、安全が守れるなどという技術は存在しない。私が携わった「造船技術」にも、限界の壁があって、乗り越えられなかったことが、しばしばあった。平和利用といえども、「核」は、凶器。原発などには、私は反対。」と、はっきりと答えている、この「もうひとつの遺言」が、この映画の締めくくりを、タイムリーに引き締めており、まさに今、見るべき映画の一本となった。加藤登紀子さんが、全編にナレーションをつけている、その声がいい。
(上映時間1時間8分)
写真提供:(C)タキシーズ2011
東 京 渋谷アップリンク 上映中 吉祥寺バウスシアター 7月30日〜上映
広 島 八丁座 7月30日〜上映
大 阪 九条 シネ・ヌーヴォ 8月6日〜上映
長 崎 長崎セントラル劇場 8月6日〜上映
札 幌 大通 シアター・キノ 8月6日〜上映
苫小牧 シネマ・トーラス 8月6日〜上映
松 山 シネマ・ルナティク 8月6日〜上映
鹿児島 ガーデンシネマ 8月6日〜上映
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 8月13日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 8月13日〜上映
岡 山 シナマ・クレール丸の内 8月13日〜上映
前 橋 シネマまえばし 8月13日〜上映
佐 賀 シアターシエマ 8月20日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター」 8月27日〜上映
函 館 シネマ・アイリス 9月10日〜上映
◆製作・配給社 タキシーズ 03−3485−2481
◆宣伝社 ユナイテッドピープル 0470−62−6129

《公式サイト》http://www.hibaku2.com/film/detail

自主上映申し込みは、ユナイテッドピープルへ
 

 

 

 
   

自閉症の息子育て、癌とも闘う男性

ジェット・リーの好演光る父性愛もの

中国映画に活入れる秀作『海洋天堂』

(2011.7.20)

木寺清美

 
 


平凡で偉大な人の営為描くのがテーマ

 この中国映画の宣伝ビラやチラシに、一番大きな活字で大書されている惹句は、「平凡にして偉大なるすべての父と母へ」という、なんとも変哲のない一文である。強烈な感動とともに、ラストを迎えたこの映画の画面が、次第に溶暗したあと、黒い画面に浮かび上がるのも、「平凡にして偉大なるすべての父と母に捧げる」という一文である。

 いま目の前にある、しなければならないことを、ただひたすら一生懸命やる、親であれば、ただひたすらに子供を育てる−そんな行為を、これほどにまで偉大な人間の営為として、感動的に描いた映画は久しぶりで、今年の外国映画のベストワン・レースの一角に、日本での配給社の願いとともに、名乗り出た作品であることは、間違いない。

自閉症の息子を、男手で育て自らは癌

 主人公はごく平凡な中年男性、王心誠(ワン・シンチョン)である。シンチョンは、チンタオ〈青島)の水族館に勤める、ごく普通の技師である。大福(ターフー)と呼ばれている21歳になる息子は、幼児のときから自閉症と診断され、社会性を全く身につけていない、自己中心の生活パターンで生きており、7歳のときに妻が病死してからは、シンチョンが一人で育ててきた。そのシンチョンが癌の宣告を受けたのである。

 自分が死ねば、社会生活のできないターフーは生きて行けない。絶命するまでに、自活に最低必要な社会習慣は、身につけてやらねばならない。そして基本的には、息子を預かってくれる施設を、探さねばならない。そんなことで、自らの治療や療養を犠牲にしてでも、前向きに限られた時間を頑張っていくしかないシンチョン。そんな父親の焦りの傍らでは、あっけらかんとした、天下泰平の息子の笑顔がある。そんな父子の描写を、感傷的にならずに、観客に「泣かせ」を強いるような描写も排除して、坦々とした日常的リアリズムで、描いていくのがこの映画である。

泳ぎが得意の息子、入水心中も失敗

 ターフーは,泳ぎが得意だった。しかも自分を、魚や海亀と同じに考えていた。シンチョンとターフーは、いつも一緒に連れだって、水族館に出勤した。そしてターフーは、館長の特別の計らいで、入場者の少ないときは、父が技師の仕事をしている間、水槽の中に入って、魚や海亀と一緒に、泳ぐことを許可されていた。それこそがターフーの生甲斐であり、まさに海は、ターフーの天堂〈天国)だったのである。

 この映画は冒頭に、父子して、小舟を沖に漕ぎ出し、シンチョンが、入水無理心中をしようとするシーンが描かれている。しかし、舟遊びをしているような、あまりにも長閑かな描写のため、観客は心中シーンとは気付かない。明らかに二人は、事故で舟から落ちたように落ちるが、ターフーはすぐ、すいすいと泳いで父を助け、岸に泳ぎ着く。岸について初めてシンチョンは落胆する。ここでやっと、大方の観客は、心中だったのだと気がつく。ターフーの自閉症も、シンチョンの癌も、二人の日常が、のどかさとは裏腹に緊迫していることも、その後に描かれるから、なおさら気付かない描写になっている。

向いの女性も世話、父子で施設暮しへ

 だから、二人の向かいに住む女性チャイ(柴)が、心中に失敗して帰ってきた二人を、いつもの水族館帰りと思ったのも、当然のことであった。
 この向いの女性チャイは、陰になり日向になって、シンチョンを励ます、重要な副主人公として登場する。ひそかにシンチョンに心を寄せているチャイは、シンチョンの留守に訪ねてきた医師によって、シンチョンの深刻な病状を知り、「あの時は心中だったのだな」とも気付くのであるが、それからは、息子に社会性をつけさせようと、必死になるシンチョンを、側面から励まし、いろいろ手伝っていく。かってターフーが世話になったこともある養護施設の先生に、相談するようにアドバイスしてくれたのも彼女だった。
 その施設の先生の紹介で、ターフーは、新しい民間の養護施設に入ることになり、シンチョンもまた、死ぬまでこの施設で、息子と一緒に暮らす決心をする。

弱者への心配りが不足の社会も描く

 徐々に病魔がシンチョンを蝕み、ターフー一人で、施設から水族館に通う日も出てくる。シンチョンはバスの乗り方をターフーに教え、降りる停留所が近づいたら、車掌に合図をしなければならないことを教える。でないとバスは通過していく。何度もうなずき、「大丈夫」だというターフー。しかし、初めて一人で乗せ、降りる停留所で待っていると、ターフーが乗降口に立ったままで、バスは通過していく。シンチョンは慌てて追いかけてバスを止め、ターフーを降ろす。そのシンチョンの背中に、車掌が、「もっと早く告げてください」と罵声を浴びせ、ドアを乱暴に閉めて、バスは発車して行った。「バカヤロウ。この子は自閉症なんだ」と言い返すシンチョン。弱者への心配りが、まだ社会に不足していることを、つぶさに示すエピソードも、散りばめられているのだ。

 ここでちょっと、付け加えておきたいのは、ターフーは、80年代の中国で、特に厳しかった「一人っ子政策」の中で生まれた、息子だということである。シンチョンがそうだというのではないが、大事な息子を、つい過保護の育てる親が多いため、80年代生まれには、自閉症児が多く発生していて、中国の社会問題の一つになっているという。この映画は、その問題に特に言及はしないが、ドラマの背景には、そういうこともあると知ってみると、より深みを増すだろう。

床拭きなど自活の仕事、習慣学習へ

 相変わらず水族館に通っているターフーに、シンチョンは、モップで床を拭く練習をさせる。「そこも、その隅も」と、指示していくシンチョン。「分かった、分かった」と繰り返すターフー。「自活の足しになるよう、この仕事をターフーに命じてくれないか。この子は、覚えれば丁寧に、勤勉に仕事をやりぬく子だ」と、シンチョンは、館長に、床拭きの用員にターフーを雇ってくれるよう、依頼するのだった。
 ターフーが水族館に通ってくる楽しみが、もうひとつ増えていた。巡業で、水族館に来ていたサーカス団のピエロ、リンリン〈鈴鈴)に、出会ったことである。ピエロの演技をじっと見つめて真似る−そんなことが、楽しくて仕方がないといった風情だ。リンリンもまた、ターフーが自閉症であることを知って、親切にいろんなことを、教えてくれる。まず電話をかけたことも、受けたこともなかったターフー。受話器の向うから聞こえてくる声が、少し離れたところからかけているリンリンの声とは分からないターフーは、、「ほら、ここでかけている私の声なのよ」と、姿の見える距離までリンリンが近づいて、初めて分かるという寸法だ。呼出し音にさえまごついて、受話器を取れなかったターフーが、こうして受話器の向うの声を確認し、リンリンの手取り足取りの指導で、電話をかけられるようになって行く。これまた微笑ましいエピソードである。

海亀になって泳ぐ息子の望みを叶えて

 しかしそのリンリンも、巡業の期限が来ると、ターフーから離れて行く。屈託のない遊び心の中で、生活に必要な社会習慣を、このように、次々に教え込まれていくターフーだったが、迫り来る父シンチョンの死期については、一向に頓着なく、シンチョンもまた、ターフーには話すことはできなかった。そして最後に,映画が提示するエピソードは、ちょっと涙なしには見られない切ないものだ。
 シンチョンは、死ぬまでに、ターフーがやりたい人生最大の希望を、叶えてやりたいと思っていた。何がやりたいかと聞くと、海亀の背に乗って、大洋を泳ぐことだった。シンチョンは、浮袋や水着などに使う素材で、体をすっぽり覆う、亀の形をした浮遊性のある水着を二着作り、自分も着てターフーにも着せ、プールの中を一緒に泳ぐことを、計画して実行した。シンチョンがターフーを背負う形で、つまり親亀の背に、小亀が乗ったような形で、プールを、泳ぎ回ったのである。相当に体力を要するこの試みは、シンチョンの病身を、一挙に蝕む結果になった。精も根も尽き果てた格好で、プールサイドに泳ぎ着き、激しく咳きをするシンチョンの姿は、まさに平凡にして偉大なる父と母が行う、無償の行為の極限を、表現しているとも言えるものである。

無償出演のジェット・リーの神技に驚く

 この映画は、シンチョンの死までは描かない。そんな愁嘆場はあえて避けている。この父の情愛を示すプールのシーンで、父子の絆が最高に固まったことを示すことで、ターフーが自立への道を、わずかでも踏み出すきっかけになったらしいことは、観客には十分に納得できる。施設で生き生きと生活し、水族館の床拭きの仕事にも勤しんでるターフーが、最後の点描されることで、映画は感動のうちに終わる。
 そして、映画のエンドロールが進行していく中で、このシンチョンを演じたのが、香港のカンフー活劇のスター、ジェット・リー(李連杰)であることを、改めて確認し、ノーギャラで、望んで出演したといわれる彼の神技に、驚くとともに、その心意気に、大いに敬服するのである。ジェット・リーは、04年のスマトラ沖大地震に、ヴァカンスをしていて遭遇し、その体験から災害援助の基金の創設に努力してきたほか、08年の四川大地震の際には、ボランティアとして、被災地にも入っている。その思いが共通する、この映画の出演なのだ。また自閉症のターフーを演じた若手俳優、ウェン・ジャン〈文章〉の好演も、強く印象に残る。

監督の14年間の自閉症施設体験を生かす

 またこの映画の成功の要因には、脚本・監督の女性、シュエ・シャオルー(薛暁路)の力も大きいことを、付け加えなければならない。シャオルー監督は、チェン・カイコー(陳凱歌)監督の名作『北京ヴァイオリン』(02)の脚本を手がけた人で、監督としては、本作がデビューなのであるが、94年から98年まで、北京電影学院の学生だった頃に、中国で初めて、自閉症児の民間施設を開設した、自閉症児を持つ母ティエン・フィピン(田恵萍)と出会い、フィピンの施設で週二回ボランティアをしたほか、14年間に亘って、何らかの形で、自閉症児支援施設と関わって来た。その体験を、脚本化し映画化することを、デビュー作に選んだのである。まさに自閉症について、詳細に調査したのと同様の体験から生まれた本作は、感動を呼ばずして、何を呼ばんとする、とでもいえるだけの、下地と情熱に支えられた映画だったのである。
 いささか低迷気味の最近の中国映画に、活を入れる秀作である。なお、音楽担当に、日本の映画音楽の第一人者久石譲が、当たっていることを付記する。
(上映時間1時間38分)

写真提供:(C)2010 Nice Select Limited. All Rights Reserved
東 京 シネスイッチ銀座 上映中
大 阪 梅田ガーデンシネマ 上映中
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 7月23日〜上映
名古屋 栄 名演小劇場 7月30日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 7月30日〜上映
伊勢崎 プレビ劇場ISEZAKI 8月20日〜上映
長 崎 長崎セントラル劇場 8月20日〜上映
鹿児島 鹿児島ガーデンシネマ 8月20日〜上映
盛 岡 フォーラム盛岡 8月27日〜上映
山 形 フォーラム山形 8月27日〜上映
仙 台 フォーラム仙台 8月27日〜上映
9月以降上映劇場
  横浜シネマ・ジャック&ベティ、千葉劇場、札幌シアタ−キノ、八戸フォーラム   秋田シアター・プレイタウン 富山フォルツア総曲輪、浜松シネマe-ra
  静岡シネ・ギャラリー、伊勢進富座。京都シネマ、
  川崎市アートセンター、鶴岡まちなかキネマ、フォーラム福島、新潟シネ・ウィンド   金沢シネモンド、ジョイランドシネマ沼津、福山シネマモード、大分シネマ5   宮崎キネマ館、那覇桜坂劇場、
  長野ロキシー、シネマ尾道、岡山シネマクレール、松山シネマルナティック、   広島サロンシネマ。熊本Denkikan
◆配給社 クレストインターナショナル 03−3589−3176

《公式サイト》http://kaiyoutendo.com/

 

 

 

 
   

早くも東日本大震災の記録映画が公開

惨状映像と読経が自然死生観の再考迫る

監督のカメラ・アイが光る『無常素描』

(2011.7.2)

木寺清美

 
 


4月半ばから連休に医師に同行して撮影

 東日本大震災の長篇記録映画が、早くも、報道でなく、東京を皮切りに、劇場公開されている。去年『ただいま それぞれの居場所』という、介護現場の記録映画を発表して、文化庁の記録映画大賞を受賞した、大宮浩一監督が、4月半ばから、瓦礫の中にも、鯉のぼりがはためいていた連休にかけて、ボランティアで現地入りした、兵庫県尼崎の医師のグループに同行する形で、気仙沼市などの被災地に入り、撮影したもので、身のすくむような惨状映像を撮り、しかも一つの哲学を語るような、大宮監督のカメラ・アイの鋭さが素晴らしい。

被災者を回る医師の車の車窓に悲惨が

 多くの患者を掛け持ちして、車でとび回っている医師は、運転しながら、携帯電話で診察をする。「痛みが続くようなら、お渡しした薬を、お飲みください。また近々訪ねます」そう語る車中の医師を、背後から捉えた映像の半分には、車窓に流れる被災地の光景が映る。出発のさいの病院の玄関から、次第に建物がなくなり、瓦礫だけに変化していく、この導入部の車窓の光景が怖い。
 陸の奥深く打ち寄せられている大きな船、建物も野山も見えない瓦礫だけの荒野に、半ば壊れた神社の鳥居だけが、にょっきり立つ光景、浮き上がり曲がりくねった鉄道線路−既に報道された惨状写真と、重なる部分もあるが、それは無常としか言いようのない、自然の怒りの跡が、これでもかこれでもかと、見せられていく。

天災だからと、耐える人が多いのは何故

 大宮監督は、瓦礫に中で、どろどろになった、家族の思い出の写真を拾い集めている人や、避難所からの久しぶりの帰宅で、全壊した自宅を、呆然と見つめる人たちに、次々とインタビューをしていく。眉間に皺をよせて、悲しみをぐっとこらえて、インタビューに応じる人、ただただ茫然自失の体で、ポツポツと答える人、人それぞれであるが、いずれの人も、背負う苦しみの重さにじっと耐えている。激しく何者かに怒りをぶっつけるというような人は少なく、みんな静かである。「写真の中の家族の思い出を力に、やり直すしかない」とか「もう一度、家は建て直すしかない」とか、「都会の息子が、一緒に住もうといってくれているので、もうここを捨てます」とかと言った、辛い未来を、静かに語る人が多いのに驚く。東北で、暴動が起きないことを、世界中が絶賛しているという報道があるが、地震と津波の被害については、素直に天災ととる人が多く、自然の怒り、神の怒りだから仕方がないと、思っているかのようである。
 ボランティアで、被災地の診療に当たる医師にも、こんなことを言う人がいた。「私は気仙沼の出身で、実家も流されてしまった。だから、医師団に参加して帰ってきたが、今はとにかく頑張るけれど、ずっとこのままここで、復興に携わるかどうかは、よく分からない。もう少し落ち着いてから、人生を頑張るとは、どういうことかと、考えてみたいと思う。」と述べ、非常にさめた、落ち着いた考えであることを示した。

読経する玄侑宗久氏、自然観の転換を

 さらに、この記録映画の特徴として、こうした惨状の模様と、被災地の人々の声と、医師団の活躍を描くことのほかに、福島県三春町(郡山と福島の中間にある内陸の町)にある、臨済宗妙心寺派の寺、福聚寺の住職でもある、芥川賞作家の玄侑宗久氏の読経姿が、挿入されるのを挙げなければならない。映画のラスト近くで、次々と重ねられる惨状映像のカット・バックに、伴奏音楽のように、玄侑氏の読経の声がかぶさっていく当たりは、かなり荘厳で、観客もまた、無常感の中で祈りたい気持ちにさせられるのであるが、映画の中盤で、玄侑氏が訥々と語る言葉は、さらに重い
 「今回の震災は、私がラオスに修行に行っていた頃のことを、思い起こさせる。私が住んでいた村では、毎年洪水で橋が流された。しかし村人は動じず、そのたびに新しい橋を作り、自然に逆らわない作りにしてあると笑った。東北は遅れた地域だったが、近年、漁業施設などは巨大化させて、漁業基地としての発展の道を選んだ。それが間違っていたとは、にわかにはいえないが、今回の震災が、神の怒りにも相当する、自然の巨大な怒りであることは間違いがなく、経済効率だけを追求する人間の営為に、反省が求められている。復興に当たっては、人間の歴史の原点を振り返り、自然観、死生観の見直しがら始める必要があるだろう」と。

災厄への回答に元気もらったと言う人

 大宮監督が、3.11以来、報道される被害の状況で感じ続け、被災地に入ってより強く感じ、ファインダーから覗き続けてきたものは、まさにこの玄侑氏の発言に集約される無常感そのものなのだろうと、推察される。去年『ヘヴンズ ストーリー』という、ある種の「無常」の追求でもあった、5時間近い大作を発表した映画監督瀬々敬久氏は、本作を見て、「誰が悪いわけでもないのに、どうしてこんな災厄が起きてしまうのだろう。そして、災厄を目の当りにした人間は、これからどうして生きてゆけばいいんだろうと、思い悩むが、それに一番明確に答えてくれる映画が、この映画である。しかも撮るだけでなく、災厄が起きてから短期間の間に、公開までしてしまう情熱を含めて、報道ではなく、映画というものの力を、つくづく感じた。映画にはまだまだ未来があるのだと、同業者として、勇気と元気をもらった。」と、映画の宣材に感想を書いている。

人は自然に向かって身の程を弁えよ

 国の復興に当たっての基本的な方針を決める会議でも、これからの防災は、15メートルの津波が来れば、16メートルの防潮堤を作るなどといった、自然の脅威の完全シャットアウトを目指すのではなく、いかに被害を少なくして避難をするか、できれ死者・負傷者ゼロにする避難方法を考えることに、力を尽くすべきだという答申に、なるだろうと伝えられている。攻めるのではなく「逃げるが勝ち」の思想なのである。「人間は身の程を知れ」と、今回の災厄を通して、神は語っているのかもしれない。地震、津波ばかりでなく、原発を操るのも、身の程を知らない人間の、暴走と言えるかもしれない。そんなことを、生々しい惨状や、被災者の姿を通して感じさせてくれる、タイムリーな映画である。

(上映時間1時間15分)
写真提供:(C)大宮映像製作所
東 京 オーディトリウム渋谷 上映中
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 近日上映
大 阪 十三 シアター・セブン 7月2日〜上映
松 本 シネマセレクト 7月18日のみ上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 7月23日〜上映
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 7月30日〜上映
大 分 大分シネマ5 7月30日〜上映
鹿児島 ガーデンズシネマ 8月13日〜上映
広 島 横川シネマ 近日上映
金 沢 シネモンド 近日上映
全国順次
◆配給社 東風 03−5155−4362

《公式サイト》http://mujosobyo.jp/

自主上映申込みも、上記電話で受付中

 

 

 

 
   

時宜を得た記録映画2本の緊急上映

原発廃棄物処理に10万年もかける国−

フィンランド『100000年後の安全』

リーマン・ショックは金融腐敗で起きた−

『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』

(2011.6.15)

木寺清美

 
 


放射性物質を地中深く10万年封印とは?

 フィンランド、デンマークなどの合作記録映画『100000年後の安全』と、アメリカの記録映画『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』が、十分な宣伝や、マスコミ向けの試写会も、十分に行われないまま「緊急上映」と称して、上映されている。
 『100000年後の安全』は、フィンランドでは、原発から出る、放射性の廃棄物の処理を、地中深く、10万年後まで閉じ込めることを、政府決定し、ヘルシンキの西およそ240キロにある、つまりバルト海・ボスニア湾の入り口にある島オルキルトで、固い岩盤を深く掘り進む工事が、すでに始まっているのだが、それを記録した映画である。しかも、単なる工事の記録映画ではなく、「10万年後に放射性物資を閉じ込めるとは、何を意味するか」についても、思考していく画期的な映画なのだ。

 いま日本の福島原発では、閉じ込めるどころか、放射性物質の、際限ない飛散と垂れ流しが続いていて、いかにして閉じ込めるかに窮しているが、その現状を冷静に見極めるためにも、この映画の緊急公開が、意味を持つと、映画会社は判断し、今秋公開予定だったものを繰り上げたのである。

リーマン・ショックは詐欺同様の犯罪?

 一方、『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』の緊急公開の意味は、あまりはっきりしない。リーマン・ショックはなぜ起きたのか。これは、金融の腐敗が原因の、経済人による人災みたいなもので、政府、金融界、御用学者による詐欺みたいな事件であり、一種銀行自身による銀行強盗みたいなものだと主張する記録映画で、その根拠を明らかにするために、関係者や専門家42人に、次々とインタビューしていく。その分厚い経済論議は、『不都合な真実』(06)や『シッコ』(07)に続く、新たな社会派ドキュメンタリーの傑作だとして、今年2月の第83回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞した作品なのである。だから、じっくり宣伝をして、公開してもよかったのだが、なぜか緊急公開になった。

 
リーマン・ショック後の世界不況がまだ続き、とくに日本は震災で、落ち込みが大きくなる状況なので、いま公開した方が、よりホットであるという判断だったのかもしれない。

 というわけで、今回の「映画の鏡」は、『100000年後の安全』、『リーマン・ショック』の順で、それぞれを、もう少し詳しく紹介することとする。


その『100000年後の安全』

原発ゴミ、バルト海の島に投棄施設建設原発ゴミ、バルト海の島に投棄施設建設

 デンマークの記録映画監督マイケル・マドセンによるこの映画は、フィンランドがすでに建設を始めている、オンカロ・プロジェクト(オンカロは「隠れ場所」の意)と呼ばれる、フィンランドの原発から出る、使用済みウラン燃料の捨て場所の建設模様を、記録したものだ。
 バルト海にある、硬い岩盤の地質であるオルキルト島で、このプロジェクトは始まっており、岩盤をおよそ500メートル掘り下げて、およそ100年間の廃棄物を捨てる計画である。
 現在、フィンランドに廃棄物処理施設はなく、米、仏、日のような原発大国ではないため、25万トンから30万トン(廃棄物の常識では少量)という廃棄物を、各国の処理施設に預けているが、プロジェクトが完成すれば、それを引き取り、その後もここへ、捨てていく計画なのだ。日本の六ヶ所村のように、再処理は行わず、地球環境のため、あるいは武器への転用を防ぐため、すべて閉じ込めるという、グローバルな、人類存続の観点からの処理を、フィンランド政府は決定したのだ。
 とにかくそれは、当面100年間は続く、巨大な地下都市を建設するかのような、プロジェクトなのだが、地球環境を、よりクリーンにしよとする、国家エゴのない姿勢は、立派である。

 SF調映像美と対象的な、幼稚な議論

 映像は、すでに完成している事務棟や機械室のようなところや、地中深く掘り進んでいる、奥深いトンネルのような掘削現場を、捉えていくが、その映像は、SF映画でも見るような、圧倒的な、幾何学模様の映像美である。しかしこの映画は、そのような建設現場の映像美だけの映画ではない。事務棟のようなところで執務する、各国の科学者、政治家、ビジネスマンらの語らいを捉え、インタビューしていく。そしてそのインタビューの中で、国家エゴのない、地球環境を考えたプロジェクトと思えた真面目な議論が、人類の浅知恵による、笑えない喜劇的現象であることに、気付かされるのは恐ろしい。
 施設は、およそ100年で満杯になる計算なのだが、満杯になると、タイムカプセルを地中に埋めるかのように、さまざまな半減期を持つ、あらゆる放射性物質が、すべて安全になる10万年先まで、開けられないように閉じ込め、10万年先の人類に向けて、どのようなメッセージを、プレートに英語で書いて残すかということが、議論されている。10万年を待たずに開けると危険だと知らせるために、ムンクの名画「叫び」の贋作を、貼っておいてはどうかという、笑えない提案もあったりする。しかしこれは少々おかしい。マドセン監督自身が、皮肉っぽく、ナレーションで、そのおかしさを指摘し、補強していく。

10万年後も今の世界ある?監督は批判

 マドセン監督の指摘は、10万年先の未来のことを、議論するなんてナンセンスなのではないかということである。化石人間の比較的新しい人種ネアンデルタール人でさえ、地球上に現れたのは、およそ1万年前と推定されているが、その10倍もの長い時間を、未来軸の方向に伸ばした時点なんて、まともに想定できることなのか。今の人類が、そのまま存在するとは、到底思えないし、英語なんて言語が、通じている世界とも思えない。第一地球そのものが、存在していない可能性だってある。
 そこまでひどくなくても、地震その他で、タイムカプセル的放射性物質の貯蔵庫、つまり巨大なパンドラの箱は、10万年を待たずに破壊され、放射性物質はすべて飛散し、その時点で、人類が死滅してしまっているかもしれないのだ。
 地中深く岩盤の中に、原発廃棄物を閉じこめるのは、今は有効かも知れないが、いつまで有効で安全かは、推定すらできない。放射性廃棄物を、未来永劫に安全に閉じ込める方法そのものが、存在し得ないのではないかとさえ思える。
 日本のように、廃棄物を、再処理再利用することは、悪魔の火を永遠に点し続けることを意味し、際限なく地球は汚染されていくが、フィンランド方式でも、近い未来の汚染は少なくすることができるものの、それ以後のことは、全く予測できないのである。それでも原発を増やしますかと、マドセン監督は、暗に問いかけている。

閉込めるしかない廃棄物、福島はいつ?

 防護服を着て、いそいそと作業する、建設現場の人たちの映像を、マドセン監督のコメントの後に見ると、実に空しく喜劇的である。しかし、海洋投棄や、いい加減な地中投棄はするべきでなく、今考えられる最高の投棄方法は、小国フィンランドが、世界に先駆けて、実験的に建設をしようとしている、この映画の方式しかないとも言える。
 日本など殆んどの国は、エネルギーの転換が実現しない限り、「投棄して閉じ込め」でなく、「リサイクル」で、少しずつだが、廃棄物をとめどなく増やす隘路にはまりこみ、それ以上は思考停止状態だ。
 福島原発が、来年の一月に、発表されている作業工程どおりに、炉心の冷却安定がはかられたとしても、大量に出た放射性廃棄物をどうするのか。ガレキ、土壌、汚染水−いずれもどこに捨てるのか。核燃料の後始末などは、10年以上もかかりそうだという。
 少なくとも、20キロ圏、30キロ圏で、何らかの避難対象になっている地域は、もう帰宅どころか、当分人の住めない地域になるだろう。農業も牧畜も水産業もできない地域になるだろう。正確な情報がなかった発生後5日間のこの地域で、制限以上の放射能を浴びた子供たちは、多数に上るという。
 数年後に、遅くとも数十年後には、この子供たちの新たな問題が発生することも、必定である。そんなことを、映画を見ながら、強く感じさせる映画が、この『100000年後の安全』である。(上映時間1時間19分)

上映中劇場
  東京渋谷アップリンク、立川シネマ、キネカ大森、横浜シネマジャック&ベティ、
  札幌シアター・キノ、フォーラム盛岡、フォーラム仙台、フォーラム山形、   フォーラム那須塩原、大阪テアトル梅田、名古屋今池シネマテーク、宮崎キネマ館
東 根(山形県) フォーラム東根 6月11日〜上映
岡 山 シネマ・クレール丸の内 6月11日〜上映
佐 賀 シアター・シエマ 6月11日〜上映
苫小牧 シネマ・トーラス 6月18日〜上映
青 森 青森シネマコロナワールド 6月18日〜上映
福 島 フォーラム福島 6月18日〜上映
小田原 小田原コロナシネマワールド 6月18日〜上映
太 田(群馬県) 太田コロナシネマワールド 6月18日〜上映
太 田(群馬県) 太田コロナシネマワールド 6月18日〜上映
福 井 福井コロナシネマワールド 6月18日〜上映
大 垣 大垣コロナシネマワールド 6月18日〜上映
福 山 福山コロナシネマワールド 6月18日〜上映
北九州 小倉コロナシネマワールド 6月18日〜上映
新 潟 シネ・ウィンド 6月25日〜上映
十日町(新潟県) シネマパラダイス 6月25日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 6月25日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 6月25日〜上映
東 京 下高井戸シネマ 7月2日〜上映
川 越 川越スカラ座 7月2日〜上映
大 阪 高槻セレクトシネマ 7月2日〜上映
静 岡 シネ・ギャラリー 7月9日〜上映
那 覇 リウボウ・ホール 7月19日〜上映
帯 広 CJNEとかち 7月23日〜上映
金 沢 シネ・モンド 7月23日〜上映
富 山 フォルツァ総曲輪 7月30日〜上映
深 谷(埼玉県) 深谷シネマ 7月31日〜上映
8月以降近日上映劇場
  浜松シネマe−ra、シネマ三島(静岡県)、伊勢進富座、宝塚シネピピア、   広島サロンシネマ、シネマ尾道、山口情報芸術センター、大分シネマ5、熊本Denkikan
上映終了都市
  八戸、高崎、松本、笛吹(山梨県)、松山、高知、福岡
◆配給社 アップリンク 03−6821−6821
center>http://www.uplink.co.jp/100000 《公式サイト》


その2『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』


新自由主義は、国、銀行、学者の詐欺

 この映画の監督チャールズ・ファーガソンは、数学と政治科学の博士号を持ち、カリフォルニア州立大学の客員教授もしている、優秀な経済学者である。ひととき、ホワイトハウスのスタッフや、米国通商代表部のコンサルタントなども、勤めたことのある人物である。そんな人物が、2005年から記録映画のプロダクションを設立し、すでに05年に、アメリカのイラク占領に関する記録映画を作って、その年の米アカデミー賞の、長編記録映画部門にノミネートされ、今回が二本目で、早くも、今年の米アカデミー賞の、長編記録映画賞を獲得した。
 今回は、自分の専門の土俵内の問題を取上げただけあって、ファーガソン監督が、この映画に賭ける意気はすさまじい。今回の経済恐慌は、1980年代以来、金融界に起き続けてきた、革新的な規制緩和が、次第に犯罪性を帯びていく産業のあり方に、弾みをつけてしまった。そしてその産業の〈革新〉が、数多くの経済危機の連鎖を生み出し、経済恐慌につながったのだと断定し、いわば、アメリカ政府、金融界、御用学者が結託した、詐欺のような犯罪であるとしている。
 しかもその詐欺で、金融界が富と権力を、強力に増大させたのに、誰一人として、法的に罰せられ、牢獄につながれた人はいない。この映画は、その理不尽を証明するために作られたもので、見終わって、金融システムの公正と安定が、いかに重要であるかを、感じていただければ嬉しい−とファーガソン監督は言い、これは映画製作に当たっての声明だとしている。

アイスランドの苦境に、世界恐慌の縮図

 映画は、人口わずか30万余の、北部大西洋に浮かぶ、全島が殆んど火山の小国アイスランドの、最近の経済危機について、映画のタイトルまでのプロローグのような形で、おさらいをする。それはサブプライムローンの破綻から、リーマン・ショックに至る米経済の破綻の道筋に酷似した、小規模の身近な現象であるため、とても分かりやすいとして、映画の冒頭に設定したのである。
 アイスランドは永年、漁業立国として、小規模ながら経済は成り立っていた。そして、わずかに国民の需要を上回る、北大西洋の遠洋漁業で、外貨の獲得を図っていた。その漁業に目をつけたのが、多国籍企業で、設備の近代化などに投資させ、漁獲高、輸出量を増やさせることで、アイスランド経済を拡大させようとした。
 ある程度は成功し、裕福な漁民も何人か生まれた。みすぼらしい掘立小屋のようなところに住んでいた、本来銀行からの借金などは、夢のまた夢であった漁民たちは、銀行がつくった住宅ローンに踊らされ、次ぎ次ぎに借金をして、瀟洒な住宅を建てて移り住んだ。町の小さな金融機関だった銀行も、国際資本の支援を受けて、ローンを貸しまくり拡大して行った。
 しかし、漁業の産業基盤は脆弱であった。年によって、漁獲高は大きく変動し、乱獲によって、減少傾向にもなって行った。漁民の収入はダウンし、住宅ローンを払えない漁民が増えていった。多国籍企業も国際資本も、そうなったら簡単に見放し、困った銀行は、払えない漁民の住宅を、路頭に迷うのを承知で没収し、銀行が赤字になると、顧客の預金の一部を没収した。
 今もアイスランド政府は、家のない漁民と、銀行の取り付け騒ぎの後始末に、追われている。EUにも入れないヨーロッパの孤児ともいえるアイスランドの、悩みは深いのだという。

経済危機の源流は、規制緩和と自由放任

 本題に入って、この映画は、今回招いたアメリカ経済の危機について、金融・証券界の当事者、政府のブレイン、経済学者、そしてジャーナリストや評論家といった人たち42人に、次々にインタビューし、どうしてアメリカ経済が、危機を招いたかを検証していく。そのインタビュー画面を見ていて感じるのは、金融・証券界の当事者を含めて、何か他人事のような評論家的な発言が多いことである。
 2008年の、大手投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻の直接的原因は、住宅バブルがはじけ、とくに低所得者用の住宅ローン・サブプライられローンが、担保不足となり、払えない人が急増して行き詰まったことで、さまざまな金融商品に行き詰まりが派生したことにある。
 しかし遠因は、20年以上も前にさかのぼると、ジャーナリストや評論家は、口をそろえて指摘する。どんどん規制緩和を進めた、レーガン大統領時代の、自由放任主義経済政策、世界史的には「新自由主義」と呼ばれる経済運営に端を発していて、投資や、金融商品の売買や、証券取引についての規制も、どんどん緩められた。1933年の大恐慌を教訓に作られた、証券取引や、金融商品の乱脈な商品化を規制する、グラス・スティーガル法と呼ばれる、伝統的な厳しい法律が、いろんな角度から批判され、およそ70年ぶりに、次々に規制が緩められる動きになった。
 その緩和の法律が、大統領も賛成し、国会の中に推進委員会も作られ、次々と制定されて行った。御用学者たちは、そうした規制緩和こそが、経済を活性化すると提唱したのだが、その学者たちの罪も大きいと、事態を批判的に捉える評論家たちは、口々に振り返る。

『ウォール街』の悪徳男も驚く強欲

 この映画の資料として配られた印刷物の「感想欄」に、ハリウッド・レポーターと署名している人が、「ゴードン・ゲッコーがすくみあがりそうな強欲さ」という感想を書いているが、このゴードン・ゲッコーなる人物は、オリバー・ストーン監督の二つの映画『ウォール・ストリート』(正編87年、続編2010年)に出てくる主人公で、インサイダー取引もいとわない強欲さで、株価を操作するマネーころがしに、生きる喜びを感じている悪徳人物として、描かれている。
 実在の人物をモデルにしたものらしいが、80年代後半の規制緩和が始まった頃から、リーマン・ショックを招来するまでの、金融・証券界を動かしてきた中心人物は、殆んどがそのゴードン・ゲッコーを上まわる強欲さで、私服を肥やしてきた人物ばかりだと、そのレポーター氏は断定したいのであり、それは、チャールズ・ファーガソン監督のこの映画のテーマに、合致した感想である。

詐欺を法律で保護した経済危機の真

 実際、ヘッジファンドとか、デリバティブとかというスキルは、いずれ誰かがババを引く、カジノのようなものであるにもかかわらず、安全なもののように装い、政治家も一緒になって、法律で保護することまで決め、金融・証券界に集う一般の人々を騙したのである。
 事情に詳しいインサイド・ジョブのできる立場にいる者だけは、一攫千金を得た。明らかに詐欺行為なのに、銀行マンも、証券マンも、政府要人も、御用学者も、法で認められた正当な経済行為だとして、罰せられた者はいない。「ここ10年ほどの、金融界のお偉方の報酬を知っていますか。一般の企業経営者らの平均報酬の、10倍はありますよ」といった発言もある。
 おまけに、今回の経済危機で、銀行の維持に赤信号が灯ると、救済資金に国家予算が使われ、預金者の預金も一部が没収される――これはまさに、銀行が銀行強盗を働いているようなものだ――という感想もある。

専門用語多く、黒白不明の欠点はあるが……

 この映画は、延々としたインタビューの連続で、専門的な経済用語を駆使してしゃべる人も多く、経済用語に弱い観客は、見ながら、一人ひとりに黒白をつけにくという欠点もある。しかし、その欠点を乗り越えて、これだけの関係者を網羅し、罪の意識もなくカメラに向かってしゃべらせたことは、かなりスリリングであり、この映画の功績として、評価されるべきものでもあるのだろう。
 要するに、リーマン・ショックによって引き起こされた世界不況は、米金融界の腐敗によって起きた、経済人による人災みたいなもので、正当な経済システムが、避けがたくして陥った落とし穴ではないのである。ファーガソン監督は、そのことを、他人事のようにインタビューに答える当事者を見せることで、証明しようとしたのが、この映画である。
 「中身がホットの間に緊急公開を」との、興行者の思いも、正しかったといえるかもしれない。今年のアカデミー長編記録映画賞に選ばれた意味も、その辺りにあるのかもしれない。(上映時間1時間48分)

東 京 新宿ピカデリー 上映中
川 崎 川崎チネチッタ 上映中
札 幌 バスセンター前 ユナイテッド・シネマ札幌 上映中
名古屋 栄 センチュリー・シネマ 上映中
大 阪 梅田 大阪ステーションシティシネマ 上映中
福 岡 天神 KBCシネマ 6月25日〜上映
全国順次
配給社 ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

http://www.insidejob.jp/《公式サイト》

 

 

 

 
   

世界第二の経済大国に巣食う人権問題

「天安門」以後の中国人亡命者の苦衷

自由求める貴重な14人の証言『亡命』

(2011.6.7)

木寺清美

 
 


文革後の自由、「天安門」で完全喪失

 日本を抜いて、世界第二の経済大国となった中国、新興成金の人数も増え、一見太平の世を享受しているように見えるが、貧富の差も、言論弾圧も、置き去りにしたままである。
 1976年、毛沢東、周恩来ともに亡くなり、4人組が逮捕された中国は、文革の終焉を迎える。文革時代、追放されていたケ小平が、復帰する時代となって、思想や文化の自由が謳歌でき、経済面でも、お金持ちになれる者から、自由になっていこうという、経済の開放が図られ、70年代末から80年代にかけ、中国は、いわゆる“北京の春”を迎えるのだが、その期間は、ごくわずかであった。開放経済は、その後も野放図といってもいいスピードで進められたが、思想、文化、芸術の開放は、思うように進まず、自由を謳歌する人々の運動が、中国共産党の組織そのものにも目をむける、民主化運動であり始めると、ケ小平は一転弾圧に乗り出したのである。
 当時、ナンバー・ツーであった、党総書記の胡耀邦は、この民主化運動に、ある程度理解を示したために、87年に失脚し、89年には病で急死した。胡元総書記の葬儀は、国家的な共産党葬として、盛大に行われたが、その悼む方向は、民主化に理解を示した人物を悼もうとして集まった、学生、労働者、知識人たちの思いと異なり、従来どおりの、党に身を捧げた者を悼む、国家行事の葬儀に過ぎなかった。この民衆の思いと、実施された葬儀のズレが、天安門広場への、民衆の大デモに発展した。これに対し中国政府は、武装軍隊を送って、武力行使で弾圧し、多数の負傷者が出る、いわゆる「天安門事件」が起きたのである。1989年6月4日のことであった。

国際世論無視、ノーベル賞受賞に抗議

 押さえ込まれた民衆デモ、首謀者と当局に目された者は、根こそぎ逮捕された。逃亡して逮捕されなかった者も、国内には住めず、次々と海外に亡命した。比較的短期で出所した者も、海外に亡命した。この人権問題を、経済大国である前に、解決すべきだと、中国は国際世論から非難されている。しかしそれを政府は、内政干渉だとして、聞き入れようとはしない。それどころか、パリに住んで、中国批判の文学を書き続けている高行健(カオ・シンチェン)が、2000年にノーベル文学賞を受賞したときも、去年、亡命中国人の中国政府批判に呼応して、国内知識人303人の、民主化を求める「08憲章」を取りまとめた劉暁波(リュウ・シアオボー)(現在国家転覆罪で、11年の刑を受刑中)氏が、ノーベル平和賞を受賞したときも、中国政府は、ノーベル賞当局に、内政干渉だと抗議し、家族が授賞式に出席するのも禁じた。
 この映画は、このような中国の状況を踏まえて、海外亡命中の、天安門事件に何らかの形で関わったり、天安門事件を評価したりしている、芸術家、文化人、ジャーナリスト、科学者など、約20人に、亡命生活が約20年たった今日の時点で、インタビューし、そのうちの14人を、画面に登場させたものである。殆んど報道されていない、亡命者の現在の生活ぶりと活動・意見などを取りまとめた、貴重な記録映画なのである。

作家鄭義は、中間層の市民革命に期待

 アメリカ・ワシントンンDCに亡命中の、80年代の名作映画『古井戸』の原作・脚色者としても知られる作家鄭義(チョン・イー)63歳は、ジャーナリストの妻の稼ぎで、生活していて、毎日夕食の調理をして、妻の帰りを待つ身である。独立中国語ペンクラブの元会長だっただけに、中国語以外で、作品を書くことなどは全く考えていない。中国文学は、母国語で書いてこそ成り立つもので、私の周辺に読者が全くいなくとも、英語で売れるものを書こうなどとは、露ほども思わないという。今需要がなくても、私の死後に需要があればいいと考えて、作品を書き続けているという。今の祖国は、金銭的欲望を満たしさえすれば、人生が豊かになると考える人が増え、一般には、思想の自由などが、切実なテーマでなくなっている。悔しいけれど、中国共産党政権の、金だけに価値を与える、国民の総白痴化政策が功を奏しているという。しかし最近、貧困を脱出した中間層の数が増え、文化の担い手になり始めているから、市民レベルの自由への希求が、強まるに違いないと、期待を寄せているという。

ノーベル賞の高行健、83年から弾圧

 小説「霊山」でノーベル文学賞を受けた高行健71歳は、パリにいる。西欧モダニズムの研究者であり、中国への紹介者でもあった彼は、天安門事件が起きたとき、パリにいて、そのまま祖国には帰れなくなったのである。高行健は言う。1983年に、戯曲「バス・ストップ」を上梓し、上演したときから、文革後の自由は早くも消え、自由への弾圧が始まっていたと。この「バス・ストップ」は、裏町に住む庶民の、単なる生活喜劇なのだが、西欧モダニズムに近い不条理を、一つのテーマにしていた。政府の検閲官は、その不条理が悪いといい、皮肉とか不条理とかいった、不健全な概念を、作品化することは認められないともいい、文革のきっかけとなり、弾圧されて作者が自殺した「海髄罷官」と同じ毒草だといわれて、葬られた。文革の終焉で迎えた、自由の謳歌=「北京の春」は本当に短く、それが学生や知識人たちの「民主の壁」(壁新聞の形で、自由を求める主張が、街角に登場したもの)に発展し、とうとう天安門事件になった。「バス・ストップ」から睨まれ、民衆の壁や、天安門事件を支持してきた私が、祖国に戻れないのも、当然の成り行きだったと語る。
 また高行健は、鄭義のいう中間市民層の増大について、同じように言及し、伝統的な中国文化は、何世紀かのインターバルで、政権が地域・民族の交代で継続する中で確立してきたが、それらは、いわゆる王朝文化の領域にとどまっており、西欧のルネッサンスのような経緯で生まれた、成熟した市民文化がないと指摘する。だから、現在の行過ぎた金権主義の中からも、新たな市民ブルジョワジーが生まれてくれば、新たな市民革命としての自由と民主化が、実現するかもしれないと、期待する発言をしている。

海外で苦衷をなめて活動する芸術家ら

 牧師の張伯笠(チャン・ボーリ)52歳は、天安門事件の最中に、広場でデモを支持する新聞を配り、指名手配された。国境を越えて、ソ連に逃亡したが、まだロシアでなかったソ連のKGBに捕まり、中国に強制送還、それでも途中で逃亡して、2年間、中国内で地下に潜り、その後1991年に、香港経由でアメリカに亡命した。現在は、ワシントン郊外にある、在米中国人のキリスト教会「豊作教会」で、牧師を務めている。教会では、仲間の中国人とともに、祖国が早く民主化されるよう、日々新たに祈り続けているが、最近では、張牧師に賛同する近隣のアメリカ人たちも、「国際世論で、中国政府を動かそう」と、多数、日曜ミサに参加してくれるようになったという。
 歴史学者の王丹(ワン・ダン)42歳は、天安門事件の学生リーダーとして逮捕され、6年間の獄中生活を体験したあと、アメリカに亡命、ハーバード大学でさらに歴史研究を深め、博士号を取得する。在米の中国人らに囲まれて、お祝いパーティーをしてもらっている姿は、とても嬉しそうである。
 天安門事件が起こる前から、アメリカに留学していた政治評論家の楊建利(ヤン・ジャンリ)48歳は、ハーバード大学で政治学の博士号、カリフォルニア大学で数学の博士号をとるなど活躍していたが、事件を知って、労働者運動の実態調査をしようと、秘密裏に帰国して逮捕された。5年の刑に服し、再びアメリカに亡命、国外から市民運動を誘発しようと、「市民の力」という組織を作って、がんばっている。
 このほか、詩集の発禁に抗議して、6回も投獄され、今はアメリカにいて詩を書いている詩人の黄翔(ホワン・シャン)50歳、「芸術民主の壁」の呼びかけ人だったが、今はスイスを経てフランスに亡命している画家の馬徳昇(マ・デシェン)53歳,医者の立場から「民主の壁」に参加したが、今はスウェーデンにいる、陳凱歌監督の『子供の王様』の脚本家でもある陳邁平(チェン・マイピン)59歳ら、海外に拠点を移し、さまざまな苦衷をなめながら、活動している芸術家や知識人は多数いる。

海外発行の中国語誌に、情熱燃やす人

 このように、不本意な活躍をさせられている芸術家や知識人が、多数いる中で、もっと積極的に、情勢にコミットしようとしている亡命者もいる。政治評論家の胡平(フー・ピン)氏64歳である。胡平氏は、亡命者ばかりでない、海外在住の中国人も含めて束ねようと、ニューヨークで、中国語の雑誌「北京の春」を、発刊している。もう発刊し始めた93年から15年以上も続けており、亡命中国人や、海外在住の中国人に、自由な言論の場や、研究発表の場を、提供し続けている。胡平の考え方や活動に心酔し、亡命者でない在米中国人の青年が、帰国できなくなるのを覚悟の上で、編集次長格でこの胡平氏を手伝っており、二人して、「中国の自由と民主化を求める唯一のメディア」との自負を、カメラに向かって、堂々と語る。当然祖国では、発禁になっている雑誌だが、海賊版の需要の多さを誇っているという。

亡命者は国内も動かし「08憲章」へ

 映画は、このように、中国人亡命者は、その亡命の苦衷の中で、さまざまな形で生活しているが、ただ鬱々と雌伏するだけではなく、世界に飛翔しようと、がんばっている人も多く、胡平氏のように、メディアを発行し、人権の回復、表現の自由、政治の民主化を求める積極的な声を挙げ、少なからず、国際世論にも、国内の良心派と呼ばれる人たちにも、影響を与えている人もいる。
 その証拠に、08年12月10日には、中国の民主化を求める「08憲章」が、中国国内の良心派といわれる文化人や知識人303人の署名を得て、インターネット上に発表されるところとなった。憲章は、中国共産党の一党独裁を終わらせ、三権分立による民主的憲政を実施し、真の中華連邦共和国を樹立し、基本的人権や、表現の自由、報道の自由が保障される社会を作る−と主張している画期的なものである。しかし、その呼びかけと、とりまとめに当たった、大学講師で人権活動家の劉暁波氏は、国家転覆罪で逮捕され、11年の刑を受刑中であり、同氏に授けられた2010年のノーベル平和賞に対しても、国は不当な受賞だと抗議し、家族の授賞式への参加を禁じたことは、冒頭に書いたとおりである。映画はこのことを、最後にタイトルで示して終わるが、いずれにしても、天安門事件以後の、海外亡命中国人およそ20人(画面登場は14人)に、インタビューしたこの映画は、これからの中国の未来にコミットする、殆んど報道されていない事実を記録した、貴重な映像であるといえる。

本作は在日中国人監督による日本映画

 さてこの映画は、制作費を調達したプロダクションの国籍が、映画の国籍だとする現在の映画界の慣例からすると、日本映画である。監督は、87年から日本に留学し、そのまま日本で映像作家になっている翰光(ハン・クァン)で、監督自身が世界中をインタビューして歩いた。だが、製作プロダクションは、山上徹二郎氏が主宰する、プロダクション“シグロ”で製作され、そのシグロに所属する、米人映像作家ジャン・ユンカーマン(『映画・日本国憲法』など)が協力して、映画はできあがった。だから日本映画ということになる。こうした映画の製作も、中国の外からでないと作れないというところに、現在の中国の人権問題は存在しているということを、如実に物語る結果となったわけである。この映画の存在そのものが、現実の事態への皮肉となっているわけだ。
(上映時間1時間58分)

東 京 渋谷 シアター・イメージフォーラム 上映中
福 岡 天神 KBCシネマ 上映中
大 阪 十三 第七藝術劇場 上映中
高 崎 シネマテークたかさき 上映中
岡 山 シネマ・クレール丸の内 上映中
広 島 横川シネマ 上映中
大 分 シネマ5 上映中
那 覇 桜坂劇場 上映中
名古屋 名駅 名古屋シネマスコーレ 6月11日〜上映
新 潟 シネ・ウィンド 6月18日〜上映
佐 賀 シアター・シエマ 6月25日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 7月2日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 7月9日〜上映
札 幌 大通 シアター・キノ 7月上旬から上映予定
全国順次
◆製作・配給社 シグロ 03−5343−3101
           

http://www.exile2010.asia/jp/《公式サイト》

 

 

 
   

映画・航空界の奇人の贋伝記を売込む

三文作家通じ、米70年代の暗部描く

『ザ・ホークス H・ヒューズを売った男』

(2011.5.31)

木寺清美

 
 


ハワード・ヒューズは50年代迄の奇人

 1920年代から1950年代までのアメリカに、ハワード・ヒューズという、大富豪で奇人だとされた人物の活躍があった。テキサス生まれで、石油の新たな掘削機の発明で、資産を築いた人物を父とし、父の急死で、18歳で資産を相続、航空業界に進出して、操縦と新たな航空機の製造の双方を追及、スピード記録などを残して、注目される人物となった。ひところは、アメリカの有数の航空会社の一つであった、TWA(トランス・ワールド航空)の創始者でもあった。
 20年代の終わりの頃には、独立の映画プロデューサーとして、ハリウッドにも進出、1931年に当時のセックスシンボル、ジーン・ハーローを主役に『地獄の天使』を製作・監督してヒットさせた。その後ハリウッドに君臨し、43年には、これまた新たなセックスシンボルであるジェーン・ラッセル(マリリン・モンローらとも共演し、今年2月26日に89歳で死去した女優)を主役に、有名な『ならず者』を製作、これまたヒットさせた。そして48年には、ハリウッドのメジャーの一社だったRKOを買収、名実ともにハリウッドのタイクーン(大君)の一人となった。

贋作「ヒューズ伝」通じ、70年代描く

 ハワード・ヒューズは、こうした富豪で事業家という顔のほかに、激情型でワンマンな性格や、女性とのゴシップや、政界と絡んだゴシップも多く、それらが常に話題となり、当時の奇人と呼ばれたのであるが、この映画は、そのようなハワード・ヒューズが、隠遁生活に入り、過去の人物として世間から隔絶した70年代に、自伝を書く決心をしたという、嘘の情報を出版界に売り込み、自分を浮上させようとした売れない作家、クリフォード・アーヴィンブの立場から、アーヴィング自身を描きながら、ハワード・ヒューズの時代も、反芻してみせるといった映画が、この映画なのである。だから、ハワード・ヒューズはあくまで刺身のつまで、『アビエイター』(04、マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ主演)のように、ヒューズ自身を描く、正統な評伝映画でないのだが、クリフォード・アーヴィングという作家のフィルターを通して、ヒューズとその時代が浮かび上がるという、大変面白い映画に、仕上がっているのである。
 以上が本題に入るまでの前置きで、いささか長くなった。しかしそれには、ハワード・ヒューズなる人物を知る人が、今日では、もう殆んどいなくなっていて、ヒューズについて、ここまで詳しく書かないことには、アーヴィングという売れない作家が、起死回生のため、なぜ嘘までついてヒューズを取り上げたのかが、よく伝わらないという時代に入ってしまっているからだ。

凡庸作家アーヴィングが腐る米70年代

 というわけで、いよいよ本作『ザ・ホークス(HOAX=でっち上げ)』の話になる。 1971年のニューヨーク、リチャード・ギアが演じる売れない作家、クリフォード・アーヴィング(実在の人物)が、次々と次作の企画を出版社に持ち込むが、いずれも却下され、鬱々とした日々を送っているところから、映画は始まる。
 この1970年代の初めというのは、ベトナム戦争が行き詰まり、ニクソン大統領が終結を目指して動いていた時代(事実1973年にベトナム撤退)であり、「ゆけゆけGO,GO」の対ソ冷戦政策に見直しを迫られ、宇宙開発も、69年に月面へ人を送り込んで一段落し、60年代に激化した公民権運動も、幾多の犠牲の末に、黒人らの権利が認められて沈静化し、アングロ・サクソン系の白人はむしろ自信をなくし、60年代に活況を呈した自動車産業も頭打ちとなり、個人レベルのアメリカン・ドリームの実現もかげりが見えて、文化や性風俗の爛熟が始まった−といった時代であることを、映画を見る前提として、踏まえておいた方がいいであろう。だから「何かオモロイことないか」といった、企画漁りも、出版界に根強くあり、凡庸の作家アーヴィングでは、なかなか状況突破が、出来なかったのである。

同筆跡の許可書作り、贋作を本物化

 そのときアーヴィングが思いついたのが、隠遁生活に入り、「どうしているのか」と、世間から案じられていたハワード・ヒューズを、白日の下にさらしてみるという企画だった。先の企画が却下されたとき、アーヴィングは、「次回は、今世紀最大の作品を持って来る」と、マグロウヒル出版の女性編集者アンドレア・テイト(ホープ・デイヴィス)に、大風呂敷を広げてしまい、その意味でも、引っ込みがつかなくなっていた。ヒューズがどんな生活をしているのか、最近会った人もなく、情報もなかったことから、アーヴィングだけが独占インタビューに成功し、おまけに語った内容を、「ヒューズ自伝」としてまとめることの許可を、ヒューズから直接得てきたと、嘘の説明をしても、「それはスゴイ特ダネだ」と、膝を乗り出す人がいても、ばれることはないと判断したのである。ご丁寧にも、出版社の面々を、信用させるために、ヒューズの筆跡を真似た「許可書」を、一晩かけて作り、出版社に提出する。出版社には、アーヴィングの企画に、疑いを持つ者もいたが、筆跡鑑定の結果、ヒューズ本人の「許可書」であるという、鑑定結果が出てからは、マグロウヒル社の社長も、ライフ誌の編集長も、すっかり信用するところとなり、彼の執筆結果を期待するようになる。そして、ヒューズの取り分も合わせて、110万ドルの前金を、出版社から出させることにも成功し、アーヴィングは、スイス人の妻に、妻名義の口座をスイスに開設させて、ヒューズ分の報酬は、そこに隠すことにした。

ヒューズの側近宅に侵入して材料漁り

 いよいよ、執筆のための調査が始まることとなり、アーヴィングは、リサーチ作業に優れた腕を持つ友人ディック・サスキンド(アルフレッド・モリナ)を誘い込み、嘘の企画のリサ−チを、手伝わせることにした。サスキントは、無骨なまでに主人に忠実な男で、次々とヒューズ周辺の人物に接近して、ヒューズに関する情報を仕入れてくる。中でもそうした情報に基づいて、ヒューズの一番の側近といわれる人物の家に、アーヴィング自らが侵入し、ヒューズについて書いた情報を、ごっそりと盗んできたのは、大きかった。実際は、この盗みは行われず、サスキントが調べてきた知人を通して、取り寄せたというのが真実で、話を面白おかしくするための創作なのだそうだが、そもそも大嘘つきの物語を構築するための嘘だから、ある程度の事実を離れた創作は、許されるというものだろう。ただそのようにして作られたうその中身は、殆んどヒューズについての真実であるという皮肉になっていくところが、この映画の面白さである。

ニクソンへの賄賂情報のたれこみも

 さらに愉快なことに、アーヴィングがヒューズの伝記を執筆しているという情報を、どこからか聞き込んだらしい人物から、ヒューズが当時の大統領のニクソン陣営に、賄賂を送っているという、タレコミに近い情報が、段ボール箱につめられて、アーヴィングの家に送られてくる。アーヴィングは、このことについても、包み隠さず記述しようと決心するのだが、それが後ほどの「ウォーターゲート事件」に発展するとは、アーヴィング自身も、この時点では、承知しないことだった。

ヒューズ側近に情報漏れ、嘘がばれる

 しかし、嘘はいつまでもつけるものではない。アーヴィングなる人物が、ヒューズの自伝と称する伝記を書いているという情報は、それとなくヒューズの耳にも届いてしまう。そして、いよいよ出版という段階になったところで、ヒューズの顧問弁護士から抗議が寄せられる。「アーヴィングが、ヒューズの同意を得て、ヒューズの独占インタビューに成功し、その回想録を出版する権利を、当社は獲得した」と発表していたマグロウヒル社も、初めてアーヴィングに、疑いの目を向け、ヒューズ自身に、事の成り行きを尋ねたいと弁護士に申し入れる。その結果、ヒューズから、マグロウヒル社に、直接電話がかかってくることになったのだが、その電話が、ヒューズ本人からのものかどうかを、聞き分けられる人物は、マグロウヒル社にはいなかった。このため、ヒューズに実際に会ったことのあるジャーナリスト、マカロック氏に依頼し、本人からの電話かどうかを、確かめてもらうほどの騒ぎになる。結果は本人からのもので、「アーヴィングの著書に,同意は出しておらず、出版は重大な詐欺行為になる」と伝えてきていた。ここに来て、マグロウヒル社は、アーヴィングの嘘に気付き、契約を解除するのだが、仲立ちをさせられたジャーナリストのマカロック氏も、怒り心頭に達し、アーヴィングを激しく責める。

ヘリ訪問パフォーマンス、最後のあがき

 そんな窮地に立たされても、アーヴィングは怯まず、ヒューズの替え玉らしき人物を用意してまでも、ヒューズが隠遁をしているカリブ海のバハマから、高層ビルの上層階にあるマグロウヒル社まで、ヘリコプターに替え玉を乗せて訪問させるという、大げさなパフォーマンスをして見せる。調査係の腹心サスキントも、さすがにこのアーヴィングのやり口にはあきれ果て、離脱を望むが、アーヴィングは、サスキントを酒に酔わせて、娼婦との醜聞まで作るという手の込んだやり口で、彼の離脱を阻む。
 さらに、アーヴィングの窮地を見抜いた、ヒューズの元側近という人物に、アーヴィングは誘拐され、真偽の怪しい情報を提供されて、「これも載せろ」と迫られる。載せるなら、ヒューズの出版についてのお墨付きを出すといわれて、起死回生の逆転を図ろうと、アーヴィングはマクロウヒル社と再交渉するが、もう、けんもほろろに断られるほど、アーヴィングは信用を失っていた。

アーヴィングら詐欺で逮捕、刑に服する

 このように、嘘がばれてからのアーヴィングは、全くの破綻者のようになって行き、アーヴィング自身の愛人問題などで、妻との仲も怪しくなり、スイスの隠し口座もばれてしまうなど、万事休すに陥っていく。
 だが、映画が終盤近くで描くこの経緯は、かなり脚本上で、潤色されたものもあるらしく、ヘリコプターの一件などは、実際にはなかったという。実際は、ヒューズ側の、バハマからの声のみによる、アーヴィング告発の公式声明があっただけだそうだ。しかし、これだけでも、世間一般が、ヒューズの声を、マスコミから聞くのは10年ぶりで、当時大きな話題になったという。そして、この一件によって、すべてはアーヴィングの犯罪だと断定され、官権が動いて、アーヴィングとサスキントとスイス人の妻は、詐欺罪で逮捕され、いずれも2年以上の刑に服することになるというのが、真相である。そして「タイム誌」が、その年の“パーソン・オブ・ジ・イヤー”に、アーヴィングを「今年最大の詐欺師」として選んだという、笑えない話もある。

出所後書いた「ザ・ホークス」が原作

 アーヴィングは、出所してから、この映画の原作である「ザ・ホークス」を出版した。そこには、自ら起こした詐欺事件のすべてが、正直に告白されているという真実の書であった。そしてその頃、「アーヴィングの詐欺事件」の中で、ヒューズからの賄賂が、オープンになりつつあることを知った、ニクソン大統領は、選挙戦の宿敵民主党に、そのことが知られるのを恐れて、盗聴器の設置を命じて、いわゆる「ウォーターゲート事件」が起きてしまう。いつの間にか、時代を手玉に取ろうとした「詐欺事件」が、時代のよこしまな事実を告発する、正義に味方に近付いているという、大いなる皮肉が、とても面白い。
 そしてこの映画は、この「ザ・ホークス」を読んだ映画プロデューサー、ジョシュア・D・マウラーが企画し、インディペンデントな脚本家として知られるウイリアム・ウィーラーに脚本を頼み、名匠として知られる、スウェーデン出身のラッセ・ハルストレムが監督して、実現したのである  。

ややせわしないハルストレム映画だが・・

 ラッセ・ハルストレムは、スウェーデン時代に、犬のように、心ない社会や大人の間を転々とさせられる、不幸な子供を、情感豊かに描き、高らかに児童福祉の欠如を唱えた名作『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』(85)を作って、有名になった人である。アメリカで映画作りをするようになってからも、『ギルバート・グレープ』(93)『サイダーハウス・ルール』(99)『ショコラ』(00)『シッピング・ニュース』(01)などを作り、いずれもアカデミー賞の作品賞や監督賞にノミネートされる、優秀な監督のひとりとなった。その作風は、社会の片隅にある、恵まれない人や制度の欠陥を描きながら、常に人間の喜怒哀楽を大切にし、豊かな情感を盛ることを忘れないというもので、告発の姿勢が強い社会派映画とは、一味違う社会派映画を、ものにしてきた。最近は『HACHI 約束の犬』(08)(「忠犬ハチ公物語」のアメリカ版)などを作り、やや通俗性に傾いてきていて、元の路線に戻ることが期待されている。そのハルストレムが、06年に作った本作は、社会派映画的な告発の姿勢が、かなり強く出ていて、奇人といってもいい、アーヴィングという男のいい加減さを、リチャード・ギアの熱演で、よく引き出してはいるが、従来のハルストレム作品の情感が、やや消えて、少しせわしない映画になっている。だが、斜に構えた社会派監督ならでばの視点もあって、1970年代の初頭のアメリカを描いた映画としては、記憶すべき一本になったと言える。
(上映時間1時間56分)
写真提供:(C)2006 Hoax Distribution LLC All Rights Reserved

東 京 シアターN渋谷 上映中
横 浜 関内 横浜ニューテアトル 上映中
盛 岡 盛岡ピカデリー 上映中
山 形 MOVIE ON やまがた 上映中
名古屋 名駅 名古屋シネマスコーレ 上映中
大 阪 シネマート心斎橋 上映中
京 都 東寺 京都みなみ会館 上映中
藤 枝(静岡県) 藤枝シネフレーコ 6月4日〜上映
札 幌 駅北 ディノスシネマズ札幌劇場 6月18日〜上映
松 山 シネマルナティック 6月18日〜上映
小田原 小田原コロナシネマワールド 6月25日〜上映
太 田(群馬県) 太田コロナワールド 6月25日〜上映
小 牧(愛知県) 小牧コロナワールド 6月25日〜上映
安 城(愛知県) 安城コロナワールド 6月25日〜上映
大 垣(岐阜県) 大垣コロナワールド 6月25日〜上映
福 山(広島県) 福山コロナワールド 6月25日〜上映
福 井 メトロ劇場 7月2日〜上映
高 崎 シネマテークたかさき 7月9日〜上映
全国順次
◆配給社 ファインフィルムズ

《公式サイト》http://www.finefilms.co.jp/hoax/
 

 

 

 
   

精子バンクの世話で出産した二人の女

各々の子と精子提供男も含む家庭とは?

現代の絆描く『キッズ・オールライト』

(2011.5.20)

木寺清美

 
 


アカデミー賞候補、去年三番目の佳作

 今年の米アカデミー賞は、吃音を克服して、イギリスの第二次世界大戦への参戦を、国民的合意に導く、名演説をした、英国王ジョージ6世を描いた、非常に端正な気品の高いドラマ『英国王のスピーチ』が受賞したが、2010年、11年という「今」を考えると、私は、チュニジア、エジプト、リビアの独裁政治を終焉に導く革命の推進に、大きく貢献したといわれる、ネットサイトの「フェイスブック」を創設した、マーク・サッカーバーグなる人物を描いた『ソーシャル・ネットワーク』こそが、今年のアカデミー賞にふさわしかったと、今も思っている(アカデミー賞の前哨戦と言われるG・グローブ賞では、『ソ−シャル・ネットワーク』が、ドラマ部門の作品賞に選ばれた)。
 アカデミー賞の作品賞部門は、昨年から、従来の候補作5本が、10本に倍増され、「水増しアカデミー賞」の印象を、強めているのだが、今年も『英国王〜』と『ソーシャル〜』以外の候補作のレベルは、ガタンと落ちて、その印象を否めない。しかしその中でも、今回取り上げる『キッズ・オールライト』は、特異な家族物語の中に、“現代”を感じさせ、家族の絆の現代的問題点をえぐった映画として、なかなかのできばえで、今年のアカデミー賞レースの、三番手といってもいい作品であった。その現代性を評価して、『英国王〜』の上にランクされても、決しておかしくない作品なのである(事実、G・グローブ賞では、本作が、コメディ・ミュージカル部門の作品賞であった)。

婦婦結婚と精子提供出産の二児の家庭

 中年の女性二人、ニック(アネット・ベニング)とジュールス(ジュリアン・ムーア)と、18歳の娘ジョニ(ミア・ワシコウスカ)と15歳の息子レイザー(ジョス・ハッチャーソン)の、4人家族の物語である。ニックとジュールスはレズ関係にあって、どちらも女性だが、同姓の結婚が認められるようになったアメリカでは、正式に結婚をしていて、普通の家庭では、夫婦と呼ばれるべきものが、婦婦になっている。
 おまけにこの婦婦は、精子バンクに登録をしている一人の男性から、それぞれに遺伝子(精子)の提供を受け、ニックは娘ジョニを出産し、ジュールスは息子レイザーを出産した。そして婦婦は、一つ屋根の下で、娘・息子として、ジョニ・レイザーを育ててきたのである。「そんな無茶な!頭の中だけで考えた、非現実的な家族関係だ」などと思ったら、この映画は付き合えない。娘も息子も、18歳、15歳まで立派に育っており、娘ジョニは大学進学を目指す優等生である。一方婦婦も、立派に人生を歩み、中流の家庭を築いており、ニックは医療関係で、立派に看護師として働き、普通の家庭の夫のように家計を支え、一方、建築の勉強をしていて、その方面の仕事に就こうとして失敗したジュールスは、家事全般を引き受けて、普通の家庭の妻のような存在を、全うしてきたのである。

二児は婦婦に隠れ、精子提供父に会う

 映画は、郊外にある、こうした家庭の瀟洒な一軒家の、夏を迎えようとしてる日々から、描写されていく。姉ジョニは、9月から大学生となり、家を離れるため、この家での最後の夏を迎えることになる。弟レイザーはまだ15歳で、スケボーと戯れるのに忙しい。しかし二人とも、母親が二人いて、父親がいない家庭への長年の疑問を、そろそろ解きたいと思っていた。精子バンクから提供された精子で、それぞれが生まれたことは、すでに知らされていたが、その提供をした男性とは、つまり父親とは、どんな人なのか、やはり知りたかった。アメリカの法律では、18歳になれば、出生の秘密を知る権利が生まれることになっていて、弟レイザーは、姉にその権利を行使しろと迫る。ジョニは、子供たちだけでそんなことをすると、ママたちは、いい気がしないのではないかと、たしなめるが、それでも、自分にも、知りたい欲望はあって、母親らに隠れて弟を連れ、父親に会いに行く。
 父親は、ポール(マーク・ラファロ)という名の、人気レストランのオーナーをしている、中年の独身男性だった。とても気さくに、姉弟に接してくれ、ジョニは、予想以上にいい人のように思えて安堵するが、レイザーは「まあまあだね」と、父親としては不満げだ。「どうしても会いたいといっていたのはレイザーよ」と、ジョニは弟の反応に文句を言う。

精子提供の二児の父を家に招く婦婦

 だがこういういきさつを経て、姉弟にも、世間並みに普通の父親がいるということが分かって、特異な家族は、特異でなくなっていく。
 子供たちが、自分たちにこっそり、精子バンクの父親に会っていることを知った二人の母親は、家庭内での子供の反抗が生じる前に、ポールを家庭に招きいれ、改めて家族の絆を強めようと判断する。二人の母親が企画した、家族食事会にポールが招かれ、和気あいあいの5人の談笑が続く。しかしここから、新たな危機が、この特異な家庭に生じ始める。
 さまざまな修羅場をくぐっている、職業婦人でもあるニックは、気安くポールが家庭に入り込み、子供たちもすっかり打ち解けていることに、喜びと不安がない交ぜになった、複雑な心境にさせられていた。一方世間知らずのジュールスは、すっかりポールを信頼し、主婦の合間に学び始めた空間デザインの勉強を生かした、造園業を営み始め、頼まれるままに、ポールの自宅の庭の改造にとりかかる。こうして、日々ポールの家に通い始めたジュールスは、ポールとの過ちを犯してしまうのだ。長年築いてきたレズ関係、婦婦としての夫婦関係は、もろくも崩れ去ってしまったのだ。

事業成功の独身男性が家庭に波風起す

 これから後のドラマ展開は、普通の家庭でよく起こる、夫婦間の猜疑、夫婦間の溝、そして対立。喧嘩、和解といったものと、よく似た展開になる。またここで現れてくるのが、事業成功者の中年独身男性によくある、男のエゴである。温和で明るい常識人のように見えるポールが、頼ってくるジュールスはちゃんといただき、そのほころびを繕うために、ニックにも近付き、ジョニが大学に行くために、家を離れる日が近付くと、自ら歓送パーティを企画して、家族全員を招待する。ジュールスとポールの何となくの親密さに、疑いの目を向けていたニックも、このポールの親切には、うっかり乗ってしまい、ニックとポールのいい関係も出来始めるのだが、ポールの家のバスルームやベッドに、ジュールスの髪の毛を発見して、悲惨な思いに突き落とされていく。家族のためにと、一心に仕事人間になっていた普通の家庭の夫が、妻の浮気を発見する悲惨さに、とても酷似する展開は、レズだの婦婦だのという新しい関係でもまた、同じようなことが起こるのだと、この映画は主張していて、人間存在の根底は、風俗上の形の違いを超えて、同じだと証明してみせる。

波風去り、絆強める特異家族の現代

 夏が終わり、大学の寮に引っ越すジョニを乗せた車が走る。もうそこには、ニックとジョニの母子、ジュールスとレイザーの母子しか乗っておらず、精子バンクの父親ポールはいない。また水入らずの4人家族だけの生活が復活し、車を降りて、いよいよ大学の門をくぐるジョニを、二人の母親は取り囲むようにして抱き、すぐそばにレイザーが立つ。精子バンクの闖入で、波風が立ったこの家族に、許しと絆の復活が訪れたことを暗示して、映画は終わるのだが、この映画の作者たちが言いたかったのは、父母がいて、正常?な性生活で生まれた子供とともに暮らす普通の家庭よりも、この特異な家族の絆は強いということであろう。レズ同士の結婚、精子バンクの世話になって生まれる子供−そんなものが認められるのが、まさに現代であり、ひと昔前の人々からは、眉をしかめて眺められる存在であろうが、その旧態の家族に、家族のエゴが突出して、崩壊現象が目立つのも現代である。しかしこの映画の家族は、それぞれが自己実現をしながら、支えあう絆の糸は、容易に切れそうもないほど強い。まさに新しい家族を描いた映画として、記憶しておきたい作品なのだ。

精子提供で出産した女性監督の作品
  脚本家も精子提供経験ある男性


 演出は、なかなか上手く、暖かく繊細で、かつ、それぞれの登場人物の粘りの表現に成功している。本作が4本目の女性監督リサ・チョロデンコの功績であるが、監督自身と、男性脚本家のスチュワート・ブルムバーグの二人で作られた、オリジナル脚本がまた、相当に血肉の通ったものであったというところにも、映画の成功の原因がある。脚本は、構想からおよそ4年を経て完成しているのだそうだが、その間にチョロデンコ監督は、女性パートナーと住みながら、精子バンクから遺伝子の提供を受けて、自身の子供を出産している。また、協力脚本家のブルムバーグもまた、精子バンクへの精子の提供の経験がある男性なのだそうである。まさに。監督・脚本家の体験そのものに裏打ちされた、畢生の脚本の下に作られた、特異でも、嘘偽りのないドラマであるということである。アカデミー賞の、脚本部門にノミネートされたが、惜しくもこれも、『英国王〜』に持っていかれた。
 なお、演技部門では、ニック役のアネット・ベニングが主演女優賞に、ポール役のマーク・ラファロが、助演男優賞にノミネートされたが、いずれも受賞しなかった。G・グローブ賞では、アネット・ベニングが、主演女優賞を得た。
(上映時間1時間47分)
写真提供:(C)2010 TKA Alright、LLC/UGC Ph All Right Reserved
上映中劇場
  渋谷シネクイント、日比谷TOHOシネマズ・シャンテ、シネ・リーブル池袋
  川崎チネチッタ、舞浜シネマイクスピアリ、さいたま新都心MOVIXさいたま
  名古屋栄センチュリーシネマ、大阪シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸、
  京都シネマ
 柏 (千葉県) MOVIX柏の葉 6月4日〜上映
札 幌 駅北 ディノスシネマズ札幌劇場 6月11日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 6月18日〜上映
仙 台 フォーラム仙台 6月25日〜上映
太 田(群馬県) イオンシネマ太田 6月25日〜上映
那 覇 おもろまち シネマQ 6月25日〜上映
山 形 フォーラム山形 7月16日〜上映
東 根(山形県) フォーラム東根 7月23日〜上映
盛 岡 フォーラム盛岡 7月30日〜上映
浜 松 CINEMAe−ra 7月30日〜上映
8月以降近日上映劇場
  ディノスシネマズ旭川、苫小牧シネマ・トーラス、フォーラム八戸、
  秋田フォーラス・シネマパレ、フォーラム福島、フォーラム那須塩原、
  東京飯田橋ギンレイホール、長野県山形村アイシティシネマ、静岡シネ・ギャラリー
  伊勢進富座、福井メトロ劇場、福山シネマモード、広島シネツイン、
  岡山シネマクレール、下関シアター・ゼロ、長崎セントラル、大分シネマ5、
  熊本Denkikan、宮崎キネマ館
◆配給社 ショウゲート 03−6441−9695  

<公式サイト》http://allright-movie.com/

 

 

 
   

辛亥革命前夜、同志たちが香港秘密会議

清朝暗殺団から孫文守る支援者達の一日

リアルな感動の娯楽活劇『孫文の義士団』

(2011.5.11)

木寺清美

 
 


孫文の秘密活動を、カンフー映画風に

 本作は、すこぶる痛快な娯楽映画である。
 三民主義をかかげて清朝を倒し、民主中国の基礎を築いた孫文の、そこに至る軌跡は、相当な紆余曲折をたどる。19世紀末の蜂起に失敗し、世界各地の亡命生活を強いられた孫文は、1905年に、亡命中の日本で、革命を目指す中国の各団体を束ねる、中国同盟会を結成し、後に辛亥革命(1911年)と呼ばれる革命を成功させるための、本格的活動に入った。しかしそれ以後も、1906年に、湖南省の萍郷(へいきょう)、瀏陽(りゅうよう)、醴陵(れいりょう)一帯で起こした蜂起を皮切りに、9回に及ぶ蜂起失敗を繰り返した。この映画は、その最初の蜂起に失敗した直後の1906年10月、孫文は、中国各地の同志を香港に集め、結束の強化と、革命への今後を協議し、香港の華僑の有力者らに会って、さらなる資金援助を願い出た。そうした目的で、孫文が亡命先から香港入りしたその一日を、清朝の暗殺団から孫文を守る、香港の支援者(義士団)の立場から、スリルいっぱいの、カンフー映画仕立てで、娯楽的に描いたのが、この映画である。

歴史的事実はずさず、リアリティ横溢

 孫文の香港入りの情報を得た、西太后を事実上のトップとする清朝の暗殺団は、孫文を亡き者にしようと、500人もの刺客を送り込んでくるのだが、香港の同志たちは、その清朝の動きを知って、逆に会議を成功させるため、密かに港で孫文を迎え、密かに会場に送り込み、密かに退出させて香港を出国させる−そんな行動を成功させるために、主要メンバーわずか8人で秘術を尽くす。その権謀術数の一日が、スリリングに描かれることになる。
 果たして孫文を守りきり、香港での目的を、達成することができるのか。その緊迫の一日を、この映画は、スリラー映画のように、そして香港活劇の専売特許でもあるカンフー映画のように描いていく。歴史の一ページの娯楽映画化には、さまざまな問題もあろうが、事実のよりどころをはずしていないところに、この映画のリアリティがあって、私はこのような娯楽映画化を、痛快なものとして、認めたいと思う。

同志の使命感に、その後の革命も象徴

 暗殺団から孫文を守りきる、8人の名もなき同志のキャラクターには、多少の誇張はあろうし、一人ひとりのキャラクターや出自についての創作も、加わっているものと思われるが、少人数の義士団で、孫文を守りぬいたのは事実らしく、命を落とした者については、一人ひとりの氏名と出自と生年期間が、タイトルで示されるなど、実在した人物に敬意を示した、誠実な処理がなされている。つまりは、娯楽映画化と歴史の誠実な再現の双方を追及することで、当時、中国の各地に、ふつふつと沸きあがっていた、革命の機運、新生中国への情熱を、香港を一つの例として、生き生きと描くことに成功していると言える。孫文自身は、義士団に守られている、“お人形”のような存在で、チラリとしか、画面にもドラマにも登場しないのであるが、当時の中国を動かした偉大な人物が、御輿の上で動き、革命というものがどのような情熱と経緯によって、達成されるのかが、よく分かる娯楽映画になっている点がスゴイ。

義士団の長の自信ない発言にも意味が

 映画は、香港の渋いベテラン俳優レオン・カーフェイが演じる、当時の香港の政治団体(映画では義士団)の長チェン・シャオバイが、孫文がやって来ると述べ、孫文を守ることの大切さを、教師でもある立場から、教え子に伝えるところから始まる。この冒頭シーンで注目すべきは、「中国はいつ民主国家になるか」という教え子の質問に対して、「私も分からない。私の生きている間に、実現するかどうか」と、言葉を濁す。香港は、19世紀末に、興中会と呼ばれる孫文の初期の政治団体が作られたところの一つで、イギリスの統治下であるため、警察も、警官の殆どは中国人であるのに、清朝に反旗を翻すことを、大目に見る風潮があり、孫文にとって、活動のし易い、住み易いところだったのである。そういう場所にしてなお、中国同盟会が発足し、本格的な革命運動が始動した翌年でも、映画が描くように、活動家が自信のない発言をしている事実、そこに混沌とした革命前夜の状況が、娯楽的要素の強い本作でも、象徴的に描かれているということであろう。だからこそ、この映画は、反面、革命への情熱を、収斂させていくドラマとなり、スリルもあるのだとも言えるのである。

香港商人にも、実際の華僑の援助を象徴

 香港の有力な商人、華僑であるリー・ユータン(チェン・カイコーやチャン・イーモウの作品にも出演しているベテラン俳優ワン・シュエチーが演じる)は、孫文の香港入りで、清が暗殺団を送り込んでくるなど、香港が騒がしくなることに反対し、孫文を守る義士団を結成することにも、疑問を呈するが、息子のリー・チョングアン(若手俳優ワン・ホーチェが演じる)は、この父の考えに反対し、中国を清政府に任せておけば、列強の属国になると、中国の未来を憂い、孫文には協力すべきだと、逆に父を説得する。ここに来てリー・ユータンは、あっさりと義士団の考えに賛同し、今回は、いくらの資金を援助すればいいのかと、義士団の長チェン・シャオバイと話し合いに入る。しかし、「金は出すが、口は出さない、義士団とも関係がないことにしておいて欲しい」と、商人としての立場の苦しさを訴える。実際、リー・ユータンが、孫文の資金援助者になったのは、今回が初めてではなく、陰で当初からかかわって来たことが暴露されるのだが、そもそも辛亥革命の推進者は、世界中に散らばっている華僑であったと、後に歴史が総括したように、香港でも例外ではなかったことが、このユータンの行動で示されるのである。ユータンは、息子のチョンクワンとともに、孫文の影武者をたてて、清の暗殺団に目くらましをする、最後一時間の活劇部分になると、表に出ることもいとわない、大活躍をすることになる。

義士団面々は、市井の情熱家たち

 映画の構成は、「孫文がやってくる」「孫文を清政府から守って、秘密会議を成功させよう」に始まって、身を持ち崩した知識人の物乞い(香港の活劇スター、レオン・ライが演じる)や、影武者を運んで目くらましの最先端に立つ車夫(活劇映画への出演が多いシンガーソング・ライターのアスーが演じる)や、元少林寺出身のカンフー技術を生かして大活躍をする、市井の豆腐売り(身長2メートルを超える怪異な俳優メンケ・バータルが演じる)や、暗殺団のメンバーへの個人的恨みを、義士団への参加で、晴らそうとする歌姫(演じるはクリス・リー)や、清政府から追われている元将軍の寝返り参加(サイモン・ヤム)など、8人を中心とする義士団の活躍が描かれ、それらが、後半の一時間に、凝縮されるカンフー活劇となっていく。
 商人ユータンの息子が影武者となり、その影武者を乗せた人力車が、暗殺団の目をごまかしながら、香港の町を駆け抜ける。騙された暗殺団が、その人力車を追い、あちこちの街角で、立ちはだかる別の義士団との、スリルいっぱいの戦いが、延々と展開され、その間に、会談も孫文の出国も無事に終わる。

香港の一日に、革命までの情熱を凝縮

 この映画は、会談の中身も、孫文の発言も行動も、殆んど描かない。前半に、義士団の構成メンバーの簡単な紹介が重ねられたあとは、暗殺団から孫文を守る、義士団の一気の行動だけが、一直線に描かれる。そして約半数のメンバーは、暗殺団の凶弾に倒れる。その都度、名前と出自と年齢と生年期間が、タイトルで出る。影武者の商人の息子も、最後に孫文本人と間違われて、人力車もろとも襲われる。哀れである。しかし映画は、そういう名もなき義士の、市井にうずもれてしまった犠牲の上に、革命の成就はあったのだと言いたげだ。堂々と出る犠牲者のタイトルの効果も、そういうことを、高らかに観客に示すものになっている。最後に「無事に義士たちに守られ、会議を成功させた孫文は、その後もさまざまな紆余曲折があって、1911年に辛亥革命を成功させた」という意味のタイトルが出て、映画は閉じられるのだが、そこにも、実際は1907年から10年までにある、中国各地での8度にわたる蜂起失敗を、全く感じさせない革命の情熱が、タイトルの響きにこめられている。つまり、革命への階段を上っているさいの、情熱のあり方みたいなものを、香港のたった一日の一時間で、表現してしまったといえる映画なのだ。冒頭で、「大変痛快な娯楽映画ではあるが、歴史の一ページというリアリティを踏まえた、このような娯楽映画化は、大いに認めたい」という意味のことを、私が書いたのも、同じ意味においてである。監督は、香港アクションのベテランの一人、テディ・チャン(陳徳森)である。お奨めの一本。
(上映時間2時間18分)
写真提供:(C)2009 Cinema Popular Ltd. All Right Reserved
東 京 新宿シネマスクエアとうきゅう、ヒューマントラストシネマ有楽町 上映中
横 浜 新高島 109シネマズMM横浜 上映中
川 崎 幸区堀川 109シネマズ川崎 上映中
大 阪 なんばパークスシネマ 上映中
神 戸 岩屋 109シネマズHAT神戸 上映中
京 都 新京極 MOVIX京都 5月14日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 5月28日〜上映
北九州 小倉コロナシネマワールド 5月28日〜上映
札 幌 駅北 ディノスシネマ札幌 6月4日〜上映
岡 崎 109シネマズ名古屋 6月18日〜上映
 呉  109シネマズ広島 6月18日〜上映
仙 台 フォーラム仙台 7月2日〜上映
金 沢 金沢コロナシネマワールド 7月2日〜上映
熊 本 Denkikan 7月2日〜上映
八 戸 フォーラム八戸 7月23日〜上映
つがる(青森県) シネマ・ディクト 7月30日〜上映
大 垣 大垣コロナシネマワールド 7月30日〜上映
大 洲(愛媛県) シネマサンシャイン大街道 7月30日〜上映
8月以降上映劇場
  フォーラム盛岡、フォーラム山形、フォーラム福島、フォーラム那須塩原
  伊勢進富座、福井コロナワールド、岡山シネマ・クレール、テアトル徳山
◆配給社、GAGA(ギャガ・コミュニケーションズ)050−5810−1357

《公式サイト》http://sonbun.gaga.ne.jp/
 

 

 

 
   

スターリンの粛清に抗し、脱走する父

粛清信じず、父の生存求める娘の戦場

ミハルコフの傑作『戦火のナージャ』

(2011.5.6)

木寺清美

 
 


ソ連時代は文芸映画、今は抵抗映画

 ニキータ・ミハルコフ監督といえば、映画演出の神様といってもいいほどの、演出の上手い監督で、いまや、押しも押されもせぬ、ロシア映画界の巨匠に数えられている。常に優しく叙情的に人間の情愛をとらえ、その裏に怖いほどの運命の皮肉や、シニシズムを忍ばせて行く。それは、自由のない、労働貴族の強権主義が、社会主義の名の下に、国家を覆っていたソ連時代から、活躍を始めているこの監督の、ぎりぎりの芸術上の知恵ともいえるもので、そのような、一見政治や社会問題を避けた方法で、官憲の弾圧をすり抜けてきたのである。ソ連時代も認められていた、チェーホフの短編などを素材にして、『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』(76)や『黒い瞳』(87)などをモノにし、一般には、そうした文芸映画の監督だと認識されてきたのも、計算上の映画作家活動だったのかもしれない。

粛清描く『太陽に灼かれて』の続編

 それが、ゴルバチョフのペレストロイカの頃から、ミハルコフ監督の本性が、もぞもぞと動き出し、ついに94年に、本作の前編となる『太陽に灼かれて』をつくり、米アカデミー賞の、外国語映画賞を獲得した。スターリンが、ロシア革命の英雄なのに、自分に煙たい人物を次々と粛清して、独裁体制を敷き、第二次世界大戦を遂行していた頃を描いた映画で、反スターリン派の陸軍大佐一家の避暑地に、スターリンが腹心を送り込み、一緒に避暑をするような振りをして、大佐に難癖をつけ、処刑場に送り込んでしまう−その経緯を、大佐とあどけない愛娘ナージャとの、父娘の情愛の中に描いた感動物語が、前編である。殺伐な戦争や、処刑などといった悲惨な暗黒問題を背景にしながら、いかにも演出の神様らしい叙情を漂わせて、人間の尊厳と権利が描かれて行く『太陽に灼かれて』は、ソ連崩壊後の自由社会に、初めて自由な気持ちで羽ばたく、ミハルコフ監督の渾身の傑作だった。

『太陽に灼かれて2EXODUS』が原題

 その『太陽に灼かれて』から16年、去年、続編の本作は作られた。スターリン批判は、いくらやってもやり過ぎるということはない、スターリニズムは、ロシアの歴史の大きな汚点であるといった気持ちが、60歳代の半ばを迎えたこの監督の心を捉え、作らせたに違いないのが、この続編。題名の『戦火のナージャ』は邦題で、原題は、はっきり『太陽に灼かれて2、エクソダス(EXODUS)=出発』となっている。旧約聖書の「出エジプト記」や、1948年のイスラエルの建国をも意味する「EXODUS」を、副題のように使っている原題に、一方ならないこの監督の、決意が読み取れる。

前作の粛清の手先に命じられる再調査

 今回の『2』は、前作に描かれた1936年の夏から7年たった、1943年の5月の、モスクワのスターリン私邸から始まる。前作で、ロシア革命の英雄でもある陸軍のコトフ大佐に、スターリンに命じられて難癖をつけ、刑場に送った、KGBの幹部ドミートリ(演じるは、前作同様オレグ・メンシコフ)が、今回も、スターリン(そっくりさん俳優が演じる)に私邸に呼び出され、「コトフが処刑されずに、生きているという情報がある。調査せよ」と命じられるところから始まる。ドミートリは、「そんなことはありません、私が訴追をしたその翌日に、銃殺刑になったという記録があります」と抗弁をするが、「もう一度、その記録を、洗いなおせ」とスターリンにさらに命じられ、ドミートリは黙って引き下がってしまう。
 この冒頭のシークェンスでは、ドミートリが、ピアノの達人でもあることも知っているスターリンが、なかなか本題に入らず、ドミートリに、部屋の隅にあるピアノを弾いて「俺に聞かせよ」と、執拗にせがむ場面が描かれ、何が命じられるのかと、びくびくしているドミートリを、さらに焦らせて楽しむという、スターリンという人物の、陰湿さが示されている。

粛清された大佐の秘密を知る密告者

 ドミートリは、命じられるままに引き下がるが、実を言うと、スターリンには話していない、処刑されたはずの、コトフ大佐についての秘密を、すでに知っていた。
 というのは、前作で、コトフ大佐を刑場に送ってから、ドミートリは、自らの保身のために、スターリンの言いなりになり、親友でもあったコトフ大佐を騙した罪の意識から、大佐の妻マルーシャと娘のナージャを、スターリンには内緒で、匿ってきたのである。そもそも、コトフ大佐とドミートリは、革命後のソヴィエト連邦建設時に、親しい同僚として働いた仲で、その頃は、ドミートリとマルーシャが、恋人同士であった。やがてスターリンの下にKGBが結成され、ヨーロッパに派遣されることになったそのスパイ活動の用員に、コトフ大佐は選ばれるのを断ったが、その代わりとして、ドミートリは志願した。当然のことながら、マルーシャとは別れることになったのだが、後日マルーシャとコトフ大佐が結婚することになり、その経緯から、恋人を奪うためにコトフが仕組んで、ドミートリをKGBに追い出したと、ドミートリが誤解するようになったのだった。
 だから、コトフを、結果的に刑場に送り出した、1936年の避暑地での出来事は、ドミートリのコトフに対する、誤解に基づく報復でもあったのである。そんなわけで、マルーシャを匿うことは、元恋人を奪い返して匿うことであり、コトフの娘ナージャを匿うことは、マルーシャの連れ子を、匿うことでもあった。

処刑されず収容所入り、独軍爆撃で脱出

 こうして映画は、ドミートリが知っている、コトフ生存の情報を、ドミートリが告白する形で、ストーリーが展開して行く。
 処刑されたとされる1936年から5年たった1941年、コトフは、逮捕の翌日すぐ銃殺されたのではなく、劣悪な環境の強制労働収容所で、重労働を強いられていた。これはドミートリが友人に対するせめてもの温情として手を回し、銃殺したことにして、収容所送りにしていたのである。しかし収容所での待遇は厳しく、とてもロシア革命の英雄とは思えない、凶悪な殺人犯のような扱いを、受けていたのだ。
 折しも、その年の6月22日、ナチス・ドイツが宣戦布告もせず、ソ連に侵攻し、コトフが収容されている収容所を、戦闘機が激しく爆撃した。収容所が火の海と化し、収容者の殆んどが焼け死ぬ中で、コトフは九死に一生を得て、収容所を脱出、近くの河に身を投げて潜り、何とか逃げ延びる。
 この映画は、これから後、コトフと娘ナージャが、別々に戦火の中を放浪するドラマとなるが、その一つひとつの局面で、戦争の惨禍を確認して行く展開となる。この河を潜って逃亡する場面でも、分けも分からず逃げ惑う農民の姿が、リアルにとらえられ、コトフに大きなショックを与えることになる。

匿われた娘ナージャは、従軍看護婦に

 一方、娘のナージャは、幼い小学生から、十代の少女に成長し、これもドミートリの計らいで、ソヴィエト共産党の、少年少女団に所属していた。前作の5年前の避暑地では、ドミートリは、父の親友の優しい訪問者としてナージャに接し、裏で牙をむき、刑場送りにした瞬間を、ナージャに見せていないため、ナージは党の決定として父の運命を受け入れ、ドミートリを疑ってはいなかった。しかしあんな優しい父が、罪人であるなどとは到底思えず、思慕の情を、隠そうとはしなかった。そのことを、機会あるごとに諌めるドミミートリに対し、ナージャは反発し、ドミートリが時折見せる困惑の表情から、「父は生きているのね」と、父の生存を確信するようになる。そして機会あれば、父を探す旅に出てみたいとも、思うようになる。そんなときナージャは、折しも始まったドイツとの戦いの中で、従軍看護婦となって、赤十字の船に、乗り込むことになった。

赤十字船も沈没、ナージャ九死に一生

 1941年の8月、赤十字の船は、戦場から避難する子供や、後方送りとなる傷病兵を乗せて、黒海の海上へと繰り出していた。赤十字の船は攻撃されないという国際協定もあり、初めのうちは、傷病兵の治療や、子供の世話で、ナージャは忙しい船上生活を送っていた。ところが間もなく、大挙してやってきたドイツ軍の戦闘機部隊に囲まれ、何度も低空飛行で威圧されるようになる。さすがに赤十字の船とあって、攻撃を仕掛けてくることはなかったのだが、甲板に出ていた傷病兵の一人が、面白半分に銃を低空の戦闘機に向けて、一発発射したことから、ドイツ軍の態度が一変し、赤十字の船は、木っ端微塵に爆撃を受けることになる。沈んで行く赤十字の船とともに、一般の子供たちも、傷病兵も、医療関係者も、海の藻屑と化して行く。そんな中でナージャは、一緒に浮かび上がった司祭に励まされ、必死に泳いで、流れてきた機雷にしがみつき、九死に一生を得る。泳ぎながら、司祭から簡単な“洗礼”を受けるくだりは、なかなか感動的だが、岸に泳ぎ着いたとき、司祭の姿は、波にさらわれすでになかった。
 前述の、コトフ元大佐が、戦闘機爆撃の中を、河に潜って脱出するシ−ンもそうだが、この赤十字の船の沈没シーンも、ミハルコフ監督は、相当に金をかけ、スポーツ視化しないリアルな戦闘場面で、すさまじい惨状を描いており、戦争の馬鹿らしさを伝えることに、心血を注いでいる。

塹壕堀りの懲罰部隊も襲われコトフも脱出

 父親のコトフ元大佐と、娘のナージャが、辛酸をなめる戦場シーンは、それぞれ別々に、更に続いて行く。
 戦闘のドサクサをかいくぐり、収容所からの脱出に成功したコトフは、軍紀違反を起こした兵卒ばかりで、構成されている懲罰部隊に、もぐりこんだ。そして懲罰部隊は、雪と霧に閉じ込められた平原で、ドイツ軍の侵攻を食い止めるための、塹壕堀りを命じられる。その塹壕堀りは、来る日も来る日も、熾烈な屈辱的な労働であったが、刑場や収容所の脱出を果たしたコトフにとっては、むしろ清々しい思いに満ちていた。ただ問題は、その後の顛末であった。突如として、ドイツ軍が、大挙して現れたのである。それも塹壕を掘っている方角とは逆の方向から、つまり背後から、懲罰部隊は、ドイツの大部隊に襲われたのである。ソ連軍の情報網も作戦も、全く支離滅裂で、なすすべもなく懲罰部隊は、ドイツ軍に掃討され、次々と命を落としていく、この修羅場の描写も、経費を惜しまない入念な描写で、すさまじいものだ。コトフはここでも九死に一生を得て、わずかな仲間だけで、生き延びる。

村人を藁小屋に集め、焼討ちする独軍

 赤十字船の沈没から生き延びたナージャは、故郷も遠く、戦闘の行われている各地を、放浪する身分となる。そして、とある平和な農村で、すさまじいドイツ軍の蛮行を目撃する。やってきたドイツ軍に、村の占領を告げられ、村長以下全員が、広場に集められる。 ナージャは、一緒に放浪している先輩の従軍看護婦とともに、物陰に身を潜め、このドイツ軍隊長と村長とのやり取りを、じっと見つめる。何やら話し合いがまとまったと見え、数百人の村民らは、村では一番大きな、家畜小屋のような藁小屋に、順次入って行く。その小屋の中で、ドイツ軍の指示が出されるかのような、日常の延長の平和な雰囲気で、その行為は粛々と行われた。しかし全員が小屋に入ると、あっという間に火炎放射機を持ったドイツ兵が、小屋を取り囲み、小屋に火を放った。瞬く間に燃え上がる巨大な藁小屋、阿鼻叫喚の中で、誰一人脱出できる村人はいないまま、藁小屋は焼け落ちる。あまりの惨状に絶叫しそうになったナージャの口を、同僚の看護師が、あわててふさいで、事なきを得る。絶叫が聞こえれば、ナージャらも、火炎放射を浴びても、おかしくなかったのだ。

父娘の再会は?ミハルコフ第三部に着手

 映画はこのように、コトフとナージャが体験する、戦場の惨状を、次々と見せながら、二人が果たして出会えるのかというスリリングな期待と、まだ十代の後半であるナージャの人間的成長といったものを追っていく。ナージャは、ドイツ軍の蛮行に接したあと、モスクワにたどり着き、ドイツが、1941年6月のソ連侵攻から、わずか3ヶ月でたどり着いたとされる、モスクワ攻防戦を目撃する。市民総出の反撃で、この攻防戦は、何とかソ連が持ちこたえるのだが、その中で出会った若い兵士と、ナージャは、瓦礫と化したモスクワの市街で、処女を積極的に失うといった生き方を選択する。惨めな戦争の中では、青春もまた無残といったことを強調して映画は終わる。
 ミハルコフ監督は、すでに「太陽に灼かれて3」に当たる映画を、準備中だと聞く。おそらく父娘の出会いは、それまで待たなければならないのであろう。しかし、粛清・裏切りといった、人間の醜さについては、全く無頓着だった、いたいけな前作のナージャが、戦場という、最も醜い人間世界を体験することになってしまう、青春前期のナージャへと、無残にも変質してしまう時代を、ミハルコフ監督がもっとも憎むスターリニズムの進行と重ね合わせて描いた本作、これもまた、前作に続く、入魂の傑作映画が誕生したといっていい。
 なお、コトフ元大佐を演じるのは、前作に続いて、元俳優でもあったミハルコフ監督自身、ナージャ役も、前作に続いて、16歳も齢を重ねた監督の愛娘ナージャ・ミハルコフが、あえて青春前期を演じる。この配役に踏み切った意気込みこそが、ミハルコフ監督の思いのすべてである。
(上映時間2時間30分)
写真提供:(C)2010 GOLDEN EAGLE
東 京 シネスイッチ銀座、新宿武蔵野館 上映中
川 崎 109シネマズ川崎(幸区堀川町) 上映中
名古屋 栄 名演小劇場 5月14日〜上映
大 阪 茶屋町 テアトル梅田 5月21日〜上映
神 戸 元町映画館 5月28日〜上映
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 6月11日〜上映
札 幌 大通 シアター・キノ 6月25日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 7月2日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 7月2日〜上映
近日上映劇場
  仙台桜井薬局セントラルホール、高崎シネマテークたかさき、
  岡山丸の内シネマクレール、佐賀シアター・シエマ、熊本Denkikan
◆配給社 コムストック・グループ+ツイン
      03−3586−0105(コムストック・グループ)
      06−6361−5172(ツイン)  

<公式サイト》http://www.senka-nadja.com/
 

 

 

 
   

南米ペルーの枷、80年代の暴力テロ

犠牲者の解放を習俗描写で寓意的に

ベルリン金熊賞の『悲しみのミルク』

(2011.4.26)

木寺清美

 
 


ノーベル賞作家バルガス=リョサと酷似

 09年のベルリン映画祭で、グランプリ(金熊賞)に輝いた、この南米ペルー映画は、去年、ノーベル文学賞受賞者に選ばれたばかりの、マリオ・バルガス=リョサの姪である、クラウディア・リョサ監督によって、作られた作品である。叔父・姪の関係だからといって、そこに共通項を求めるような芸術論は、あまりにも短略であることは承知しているし、映画の方が、ノーベル賞よりも先の受賞であるという点を割り引いても、何かしら、受賞理由が似通っているということに、私は注目したいのだ。
 つまりは、ノーベル賞作家となった、バルガス=リョサは、「暴力に抵抗することを終生の主題とし、特に権力構造の「地図」を作って、個人の抵抗や、組織的な反抗や、それらの挫折について、鋭く描き出した」と言うのが、およそのノーベル賞の受賞理由である。そして一方の、姪のリョサ監督のこの映画『悲しみのミルク』は、暴力と陵辱によって、痛めつけられ、命を失った両親の下で育った娘が、すぐに鼻血が出る体質が象徴するように、そのトラウマに悩み続けるのだが、そこからいかにして脱出して解放されるかを描いていて、そこがベルリンでも評価されたのであった。要するに、暴力への抵抗、暴力からの解放といったテーマに、作家バルカス=リョサも、映画のリョサ監督も、偶然かもしれないが、かかわっているのだ。

インディオの町とケチュア語文化・音楽

 さらには、この映画を生んだ土壌、南米ペルーという国が、どういう国であるかを、整理しておく必要がある。ペルーは、いわずと知れた、16世紀にスペインに滅ぼされた、インカ帝国の首都クスコが今もある国で、遺跡の周辺は、観光都市クスコとして発展している。そして、インディオたちの文化や、民族音楽なども今に残り、この映画でも、主人公の娘の歌う歌が、重要なモメントになっている。近代化の進む、太平洋岸の首都リマと、約500キロ離れたアンデス山中のクスコとを、直線で結ぶと、丁度その中間に位置するアンデスの山麓に、アヤクーチョという都市が存在するが、ここがまさに、インディオたちが群れ棲む街であり、インディオたちの言語ケチュア語が話され、主人公の娘らが歌うケチュア語の民族音楽が流行する。主人公の娘の両親が、暴力の犠牲となった街、そして娘が生まれた街が、このアヤクーチョかその近郊と思われ、その意味でもこの映画は、濃密にペルーの民族色が、搾り出されている映画なのだ。

80年代に遅れた毛沢東主義者のテロ

 三番目に、この国の政治や最近の歴史についても、概要を知っておいた方がいい。ペルー全体では、白人とインディオの混血が進み、後から入ってきた他民族もからんだ、多民族国家となり、貧富の差や、文化の衝突など、さまざまの社会問題を、抱える国となっているのだが、同時に急進的な社会主義を標榜する、暴力革命も辞さない勢力が、60年代に生まれてぺルー社会に巣食い、70年代までの軍事政権(ベラスコ政権など)も、80年代に入って民政(ガルシア政権など)に移管してからも、完全な押さえ込みには失敗をしていた。
 80年代に、特に活発に反政府運動を繰り広げた勢力は、センデロ・ルミノソ(輝く道)と呼ばれ、中国がすでに、毛沢東主義を清算して、開放経済時代を志向し始めていたにもかかわらず、中国を日和見と批判し、世界唯一の純粋な毛沢東主義を標榜するのが我々だと主張して、テロを含む、武力闘争を展開した。この幹部たちは、中国の文革時代に訪中して、過激なコミュニズムを学んだ人が多く、混血民族の貧困層出身が多かったという。また、センデロ・ルミノソには、インディオや混血民族の貧困層の支持も多く、解決がむずかしかった理由も、そこにあるとされている。ただし、大地主を減らして、中間の自作農を増やす政策は、軍時代も民政移管後も、政府が熱心に行い、中間自作農が増えていたため、センデロのいう自給自作の原始共同生活のようなものには、反発する農民も多く、そうした農民が、テロの対象となった。そして、ケチュア語やケチュア音楽のメッカであるアヤクーチョが、このセンデロ・ルミノソの拠点都市にもなっていたのだ。
 余談ではあるが、この武力闘争の沈静化に成功したのは、90年に大統領になった、日系人大統領のフジモリ氏であり、この90年選挙には、マリオ・バルガス=リョサ氏も立候補して、フジモリ氏に敗れている。因みに、ペルーの日本人移民は、南米では、ブラジルについで多く、アルゼンチンより多いことも、知っておきたい。

父母を失った娘に、暴力の犠牲を寓意

 前置きが大変長くなったが、ペルーに関する映画の背景事情を知って上で、この映画を鑑賞すると、最初からその深みのある映像に引き込まれて、理解が深まると感じたので、あえて書いた。そして、映画の登場人物たちは、アヤクーチョ周辺に生活基盤を持ち、ケチュア文化や、ケチュア音楽の担い手であると同時に、貧しい者も少し裕福な者も、こうした組織暴力の犠牲者として、登場するのである。
 映画は、ベッドに横たわる一人の老婆が、苦しみの中から搾り出すような声で、ケチュア語の歌を歌っているシーンから始まる。それはとりもなおさず、強烈なペルーの民族臭を放つシーンであるとともに、この映画のドラマが、どのようなシチュエーションで始まるのか、私が長々と書いた背景事情の、要領のいい解説のようにもなっている。つまり老婆は、「娘を身ごもっているときに、目前で、テロリストたちに夫を惨殺され、いまや自分も、病を得て、死の床に伏している。いっそのこと、私を殺して欲しい。そして夫と一緒に埋めて欲しい」といった意味の歌を歌うのだ。父を殺され、母の手だけで、美しく育てられた娘ファウスタも、傍らで母の看病をしながら、傷ついた鳩の歌で、母に語りかける。鳩は地元では、精霊の象徴とされているが、その鳩が命を落とそうと、魂がさ迷っているのはどういうことかと歌う嘆きの歌で、歌えば歌うほど、母はただただ衰弱して行くのみで、ついに命を落とす。つまりこのプロローグは、80年代暴力の犠牲と、民族の習俗的描写を、寓意的に重ね合わせたものだ。

“恐乳病”という閉じ篭り、膣に馬鈴薯

 こういうプロローグを経て、映画は、母の死後、結婚式の請負業を営む、叔父の一家とともに暮らすファウスタの描写に入って行くのだが、この叔父の一家がまた、大変なケチュア民族臭に満ちている。
 母親の死後、ファウスタは、引きこもりがちになり、一人での外出も嫌った。そして、時折鼻血を出して、寝込むことも多かった。それを叔父一家は、インディオたちの風土病と信じられている“恐乳病”であると信じ、医師が「そんな病気はない。母の死によるショック症状で、精神上の治療が必要」と奨めても取り合わず、いろんな祈祷に頼る。“恐乳病”というのは、夫を殺されるなど、ファウスタが授乳中の頃から、母が受けた辛苦が、そのまま母乳を通して子供に移ると信じられている病気で、祈祷以外に直す手段はないと思われていた。実際は、彼女の成長期を通じて受けてきた、80年代の、センデロ・ルミノソの、個人や民族へのテロリズムの暴力が、彼女をトラウマ状態にしていたのである。だからファウスタは、一人の下劣な軍人に襲われて傷ついたとき、男から身を守る手段として、下半身にジャガイモを埋め込む決心をする。そのジャガイモが体温で芽を出し、足の間から葉がのぞくと、ハサミでチョキチョキと切って行く。ジャガイモは、ペルーではとても大切な食物だそうで、ジャガイモを上手にむいで調理できるかどうかが、主婦としての資格の尺度にもなるほどのものだそうである。また祝いの席でも、ジャガイモ料理を大切にし、出席者が等分にとりわけて、大事に食する習慣があるのだそうだ。だからそれを、男の暴力から性器を守る「盾」にするのは、厳粛なことでもあるらしいが、映画の描写そのものは、とても生々しい。

母の埋葬費のためピアニスト宅でメイド

 それでもファウスタは、少しずつ外出もできるように回復していた。母親の遺体を、生活をしてきたアヤクーチョ周辺の地ではなく、故郷の地に埋葬したいと考えたファウスタは、そこまで行く交通費を稼ぐために、裕福な女性ピアニストの家の、メイドに雇われることになった。しかし安い給料で、交通費や埋葬費を貯めることは、容易なことではなかった。一方で、叔父の一人娘の結婚式が近付いており、結婚式請負業の叔父としては、家の中に遺体を置いたままの結婚式は許されず、早く処理するようにとせかす。結局はおじの手で、この地に埋葬されてしまうことになり、ファウスタは、遺体を持ち出せなかったことを謝るが、叔父は、故郷などに目を奪われず、この地に御輿を据えて生きるようにと、ファウスタを諭す。ここからファウスタの、引きこもりを卒業した、本当の人生が、始まることになる。

真珠を報酬に民族歌を提供、娘は元気に

 ファウスタにとって励みになったのは、メイドに雇ってくれたピアニストが、ファウスタが口ずさむケチュアの歌に興味を持ち、演奏会の演目に採用しようと目論み、もっと歌って聞かせてと、所望してくれたことである。しかも、一曲ごとに、ネックレスの真珠一粒を分け与えると、ピアニストは約束し、演奏会までに一本のネックレスを完成させるよう、がんばろうという。生きがいを得たファウスタは、周囲の人間も驚くほどの生気を持った、美しい女性に変身して行った。たちどころに、ピアニストの親戚の若者や、ピアニストの屋敷を修理に来た若者たちに、囲まれるようになった。そんな有頂天の中で、ファウスタは、屋敷の庭師であるノエと親しくなって行く。ノエは、ファウスタとは父親ほどにも年齢の離れている男性で、父を殺され、父性愛に飢えている彼女にとっては、安心感を与えてくれる男性存在だったのである。

娘は騙されるが報酬は奪取、自ら解放へ

 いよいよピアニストの演奏会がやってきた。ファウスタが歌って聞かせ、提供した、ケチュア音楽がアレンジされ、好評のうちに演じられた。演奏会が好評だったことをファウスタは、ピアニストとともに、心から喜んだ。このとき、ネックレスの真珠は、後一つで、円環が完成するところまでに到達していて、そのことがまた、演奏会の成功以上に、彼女の喜びを倍加させた。
 ところが、ピアニストの運転する車で帰途についたファウスタは、途中の街中で、ピアニストに置き去りにされてしまう。約束の完成した真珠のネックレスも、ピアニストからは、渡されないままとなった。彼女は騙されたのだった。
 しかし、もう彼女は、引きこもりの彼女ではなかった。しばらくして、ピアニストのいとこの結婚式が行われたとき、おじの結婚式請負の仕事を手伝い、式の終了のどさくさにまぎれて、ピアニストの屋敷にしのびこんだ。そこには、彼女をかって襲った軍人の壁写真が、架かっているというのも、シンボリックな描写だが、とにかく正当な取り分の真珠を拾い集めると、それを握りしめ、一目散に屋敷の庭を走り、力尽きて倒れこんでしまう。それを見ていて、やさしく抱き起こしたのは、庭師のノエだった。その後には、やさしいノエの心遣いの下での、ジャガイモの「盾」を必要としない行為が、さわやかに描かれるが、それは、父を殺され、母の埋葬も思うに任せなかったファウスタが、本当に父親らしい愛情を獲得した瞬間でもあったのである。

今日的なペルー映画の独自世界を創出

 珍しく花が咲いているジャガイモの鉢植え、それに頬を寄せるファウスタ。そんなシーンが挟み込まれて、映画は終わるが、クラウディア・リョサ監督は言っている。「この映画は,暴力的で、個人的で、集合的な記憶についての物語であり、押し付けられた重荷や、潜在的な抑圧についての物語でもあります。少女に埋め込まれたジャガイモは、花を咲かせるとき、癒しのときを待っています」と。リョサ監督の叔父に当たるノーベル賞作家バルガス=リョサの文学については、私は読んでおらず、冒頭に書いたような、聞きかじり的評価しかできないが、その「組織的暴力への抵抗」という主題を、姪が作ったこの映画もまた、暴力に抑圧された、不幸な少女の閉じこもりからの開放という物語を通じて、寓意的に表現したとも言えるものなのだ。そしてまたそこに、ペルー民族の生々しい習俗描写を付け加え、独特の個性的で今日的な、ペルーの映画の世界を生み出したとも言えるのである。
 この映画に、グランプリを与えた、一昨年のベルリン映画祭の、審査員たちの慧眼も、大いに称えたいと思う。<
(上映時間1時間37分)

東 京 渋谷 ユーロスペース 上映中(4月29日までの予定)
 川 崎 川崎市アートセンター 上映中
 横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 5月14日〜上映
 大 阪 十三 第七藝術劇場 5月14日〜上映
 名古屋 名駅 シネマスコーレ 5月21日〜上映
 京 都 東寺 京都みなみ会館 6月11日〜上映
 松 本 シネマセレクト 6月24日のみ上映
 神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 6月25日〜上映
 福 岡 天神 KBCシネマ 7月16日〜上映
 近日上映劇場
  高崎シネマテークたかさき、新潟シネ・ウィンド、浜松シネマe−ra、
  金沢シネモンド、大阪高槻シネマセレクト、熊本Denkikan、大分シネマ5
 ◆配給社 東風 03−5155−4362

《公式サイト》http://www.kanashimino-milk.jp/
 

 

 

 
   

愛しい姪の成長を海を越えて追う叔母

平壌と大阪に裂かれた在日家族の40年

ヤン・ヨンヒ監督の傑作『愛しきソナ』

(2011.4.13)

木寺清美

 
 


息子捧げた在日の悔恨描いた映画の続編

 この映画は、北朝鮮こそは、朝鮮民族の地上の楽園になると信じ、在日朝鮮人の帰国推進事業が隆盛を極めた60〜70年代に、18歳から14歳の三人の息子を、北朝鮮の建設のためにと、捧げて(帰国させて)しまった朝鮮総連の幹部を父親に持つ、その頃まだ6歳だった末娘が、いまや40歳代半ばの映画監督となり、その後の情勢の変化で、世界のお荷物のようになってしまった北朝鮮を、実質人質に取られたようになっている兄3人の家族を追う形で、冷静に客観的に映画にした、非常に貴重な、北朝鮮のドキュメンタリーである。
 監督は、日本最大のコリアンタウンがある大阪生野区生まれの、ヤン・ヨンヒ(梁英姫)さん、兄を見送ったあと日本で民族教育を受けて育ったが、映像ジャーナリストを志して、京や世界各地で活躍、1997年からはアメリカに6年間留学し、本格的に映画とメディアを勉強し、ついに06年には前作『ディア・ピョンヤン』(本欄「映画の鏡」で、当時紹介済み)を作った人だ。
 父親が元朝鮮総連の幹部であることから、比較的自由に兄三人を訪ねることができる立場を利用して北朝鮮入りし、大阪とピョンヤンに引き裂かれ、一向に地上の楽園が実現しない家族の苦しみを、息子をとられて慙愧に耐えない父親の反省を中心に描いたのが、前作『ディア・ピョンヤン』だった。そして今度はその続編として、大阪の叔母さん(監督自身)や祖父母に思いを馳せながら、ピョンヤンで英文科の女子大生にまで成長した、次兄の娘(監督の姪、祖父母にとっては孫)ソナの、幼少の頃から今日にまでに焦点を合わせている。

平壌生まれの姪に会い成長を追う監督

 監督の姪ソナは、映画では最初まだ3歳くらいの、片言をしゃべり始めたばかりの可愛い幼児として登場する。前作『ディア・ピョンヤン』に使用するため、大阪の父親とピョンヤンの息子三人との交流の映像を撮りに、監督が父親に同行してしばしばピョンヤン入りをしていた1990年代初めに、ついでに撮った映像で、それが姪と叔母の交流の始まりであるというふうに、ヤン・ヨンヒ監督はナレーションをかぶせる(因みにこの映画は、監督自身のモノローグのような、ナレーションで進行する)。
 この姪のソナは、監督の次兄ヤン・コナの末娘で、ピョンヤンで結婚した次兄の二度目の妻の娘だった。当時次兄は、先妻との間に生まれた男の子二人(監督の甥二人)とともに生活していて、そこへ闖入者のように監督が訪ねてきたのだ。叔母さんだと紹介されても、ソナにとっては、カメラを回し英語もしゃべる変な女の人で、うす気味悪い存在。「撮らないで」と、持っていたスプーンで、カメラのレンズをつついて抗議する。それは、幼な子の本脳的人見知りの行為に過ぎないものではあるけれど、往来が自由でない国に別々に住み、より閉鎖的な国側にいる者の防衛本脳のようなものと、それを切り開こうとする側にいる者の無遠慮とに、一つであるべき家族が切り裂かれていることの象徴のような、見事なショットになっている。
 この家族に常に漂うこの違和感が、この記録映画の基調となって、さまざまな場面を通じて、語られて行くことになる。

地上の楽園の夢消え兄妹交流にも憂鬱

 監督が姪ソナに、その次に会ったのは1995年で、ソナは屈託なくおしゃべりをする5歳の幼女になっていた。監督とソナは、もう小学校の上級生くらいなった二人の甥とともに、ボーリングに興じる。そして、次兄の家族とともに食事をする光景や、そのときは同行していなかった大阪の祖父母に見せるために撮る、写真の撮影風景などが、久しぶりの水入らずの兄妹(兄たちの家族と監督)の交流風景として、微笑ましく描かれている。
 しかし時代は、金日成が心臓病で急死し、実質金正日の時代となったばかりの頃で、大阪の父親が抱いていた地上の楽園の夢の実現は、軍事政権を清算して発展していく韓国の陰で、もうないだろうといわれ始めていた。ピョンヤンの兄三人も物資不足に悩み、大阪の母親がせっせと送る日本からの金品、医薬品、衣類などの仕送りで、生活の穴埋めしているような、あり触れた北朝鮮の庶民にとどまり、大志は実現し得ていなかった。そんな何となくの憂鬱が、兄妹水入らずの遊興の上にも、影を落としていくのである。

姪は将軍様の詩を暗誦、教育に歯軋り

 そんな中で、1997年、次兄の二度目の妻は、子宮外妊娠で命を落とした。1998年、その一周忌が、祖母と監督が出席して、三兄弟の家族とともに、ピョンヤンで開かれる。7歳で母を亡くしたソナは、そのとき8歳の利発な小学生に育っていた。
 悲しみを確かめ合う大人たちの間で、一人屈託のないソナの姿が、生き生きと捉えられている。しかし墓参りでは、母を追悼する詩を朗読すると称して、将軍様をたたえるお決まりの詩を暗誦して見せる。叔母の監督は、幼子の成長に驚くとともに、印で押したような北朝鮮の教育に、ソナもまたとっぷりと浸かっていることに違和感を覚えるのである。
 そのときのピョンヤンの街は、建国50周年の祝賀行事に彩られていた。
 殆んどのマスコミに、北朝鮮政府があてがいぶちで取材させる、国立大劇場の華やかな民族衣装を強調した歌と踊りやマス・ゲームを、ヤン・ヨンヒ監督も撮らされている。だが国威発揚のその催事を、もちろん称えたりはしない。
 ソナが墓参りで朗読した将軍様の詩と重ね合わせ、こうした催事に、ソナも動員される年齢になって行くことに、自分と比較しながら、杞憂を呈している。つまり、監督は日本で同じような民族教育を受けたのだが、幼くて、兄たちのように帰国推進事業には乗らなかったため、選択の自由があるその後の生活を送ることができた。しかしソナにはそれがなく、しかも、監督がしゃべる英語に興味をもち、最初に出会った赤児のときのような、警戒心が薄れてきているだけに、余計に自由を与えてやりたいと歯軋りをするのだった。

外貨店に高価な見るだけの日本製菓子

 1999年になって、次兄のコナは、三度目の結婚をすることになった。結婚披露宴の費用などを、すべて大阪の祖父母が出すことになり、祖父母も北朝鮮入りして、披露宴が盛大にピョンヤンで行われることになった。
 この披露宴の描写も、なかなかきめ細かく捉えられているが、兄三人の、北朝鮮での交友仲間も出席しての、フォーマルな披露宴のため、面白みは少ない。むしろその2年後に、再び梁一族が次兄の家に集まることになり、たまたまその滞在期間中に行われることになった、監督自身の35歳の誕生日を祝う会の模様が、とても面白い。兄三人の妻側の姉妹などもやってきて、総動員で手作りの料理が振舞われる。そのワイワイガヤガヤの厨房の様子が、とても心温かく、その御礼に監督が全員を外貨レストランに招待するシーンも微笑ましい。とくにソナと二人の甥が、日本製のソフトクリームをふるまってもらい、嬉々として賞味するシーンにも、今の北朝鮮と日本の関係が、双方の国民にどう投影しているかを、端的に象徴されていて興味深い。
 傍らのショーケースには、びっくりするほど高価な、日本製のショートケーキなどが並んでいて、さすがに監督も、ソナとともに眺めるだけで終わるのだが、外貨レストランにそういうものがあるということは、将軍様に近い人々の需要はあるのだろうと想像され、この国の仕組みが分かってしまう、優れたショットになっている。

嫁の民族歌に父が涙、息子と無言の散歩

 このときの夜の団欒で、次兄コナの新しい妻、つまりソナの新しい母が、父母(大阪から来たソナの祖父母)のためにと言って、母を慕う古来からの民族歌を、ギターの弾き語りで歌うシーンがあるのだが、このとき父は「三度目とはいえ、家族思いのいい嫁が来てくれ、三男のコナもやっと幸せになれる」といって、さめざめと泣く。
 監督は、この父の泣き顔に、深い感慨を持ったと述べる。
 つまり、北朝鮮が発展し、その中で息子たちが要職につき、幸せな家族に包まれて、このような一家団欒の時間が持てることを夢見てきた父、それが実現できない現実の中でも、同じ価値を持つ小さな幸せが、ひととき訪れたことに、感傷的になったのであろうと、監督は想像しているのである。
 この団欒の翌日、父は、長兄のコノと、ピョンヤンの街を散歩する。
 政府系の建物ばかりが立派に聳え立つ中心街からは、少し離れた住宅街だが、通りは広いものの、車は殆んど通らず、なにやらうら寂しい。歩道の敷石も、何十年も前に敷いたまま、補修をしていないと見え、でこぼこ道になっている。そいうところを、二人は殆んど無言で歩きながら、万感の思いを通わせあう。送りだした者と、送り出された者の、すれ違う思いが、胸にわだかまっているはずなのに、長兄は父の健康を聞き、父は心配するなと答え、当たり障りのない会話が、続くだけであった。
 この長兄は、音楽家を夢みて果たせず、ピアニストの卵に育った息子に、夢を託す日々であることが、前作『ディア・ピョンヤン』にも、少し描かれていたが、ちょうどこの頃から長兄は、鬱病を患い始めていた。父と長兄の出会いは、結局、これが最後になるのだった。

お決まりの歌と踊り、監督気が滅入る

 監督は、このあと再び、大劇場で子供たちの歌と踊りを見ることになり、ソナの小学校への通学シーンも、撮られている。将軍様と北朝鮮の歩みを称える、歌と踊りを見た監督は、「ピョンヤンに来るたびに観劇する少年少女の歌と踊りが、20年間変わらない内容であることに、いつも気分が滅入る」といったモノローグをかぶせる。同行した母や他の人々が「上手だったね」とか「あの子は、今回も出ていたよ」とかといって、現状を肯定し、何回も選ばれることを、羨ましがる反応とは、ずいぶん違ってさめている。家族とともに、何度も北朝鮮を訪れながら、常に自由な視点を失わないこの監督の姿勢が、このシーンでも、この映画を見応えのあるものにしている。

通学の姪も別世界の影、服装に違和感

 ソナが小学校に通う様子を撮った映像も、微妙な問題を数多く物語る。次兄(ソナの父)と手をつないで歩くソナは、印で押したような赤いスカーフの制服を着る一方で、ミッキーマウスのキャラクターの入った靴下をはいている。祖父らが贈ったものだが、友達にミッキーマウスを知っている者はいないから、はいていてもとがめられることはないとソナがいって、出掛けにはいたものだ。
 こうしたソナの姿に監督は、日本の民族学校に制服を着て、祖父(監督の父)に連れられて通った自分を重ね合わせてみる。状況だけは全く同じだったが、ソナの場合は、靴下ひとつで、すでに場違いという違和感が漂うことを案じる。校内の撮影が許してもらえず、校門のところでソナとは別れることになり、「叔母さんさよなら、また来てね」と、手を振り、何度も振り返りながら、奥の校舎に消えて行ったソナの姿を見送ったとき、自分とソナは、すでに越えがたい別世界に住んでいることを、監督は痛感するのである。
 同じ血を引く家族の中にできた溝、その慙愧の思いは、校門付近にたむろしていたカメラを物珍しがった小学生に、そのあと取り囲まれたときさらに強いものとなり、住む国が違うというだけで、忍従しなければならない越えがたい溝があることに、監督は怒りの感情すら覚え始めるのだった。

世界に飛翔したい中学生の姪、果たして

 このあたりまでで、映画は8割が終わる。
 使われ語られている映像は、殆んど前作『ディア・ピョンヤン』と、平行して撮られた映像である。
 これから後は、『ディア・ピョンヤン』が構成・編集の段階に入ってから撮られたもので、映像の数も多くはない。しかし、一家には劇的な変化が起こり、続編としての機能を強く果たす映像になっている。
 2004年、大阪の父が脳梗塞で倒れ、半身不随のまま闘病生活に入ることになる。
 同じ頃、ピョンヤンの長兄の鬱病も容態が進み、北朝鮮ではよい薬が見つからないとあって、日本で調達して送ることになる。母は、身近の夫の看病と、海を隔てた息子の薬の調達と送付に、毎日追われるという生活になって行く。
 監督は、父の病状を、兄たちに知らせ、ついでに長兄をも見舞うことを目的にして、2005年にピョンヤンにわたる。そのときソナは中学生なり、すっかり大人びた姿で監督の前に現れる。すでに監督の仕事がどういうものであるかを理解していて、私も英語に堪能になり、英語を使って国際的に活躍できるような人になりたいと、はっきりいう。監督はそれを聞いて、さらに気が滅入る。このまま北朝鮮で教育を受け続けて、その夢が実現するだろうかと危ぶむからである。陰になり日向になり、自分が、愛しきソナをサポートしなければと、強く思う。しかし現実には、それと逆のことが起きてしまう。
 その翌年、監督は『ディア・ピョンヤン』を発表したのだが、反北朝鮮的映画であるとして、北朝鮮には二度と入国できない、ブラックリストに載ってしまったからである。結局、ソナの将来の夢を語り合った2005年の出会いが、最後になったのだ。

父・長兄が他界、姪は大学英文科合格

 2008年の夏、長兄の訃報が届く。
 音楽家の夢を実現しないまま逝った長兄。息子に夢を託し、幼時からピアノ塾に通わせ、子供のコンクールに入選した様が、『ディア・ピョンヤン』の中で、少し描かれているが、監督が長兄を最後に見舞った際、大きくなったその甥がピアノを演奏して、監督に聞かせるといったシーンが、この映画でも少し撮られていた。
 しかし、監督と長兄の交流は、その2005年で終わったわけであり、父と長兄は、、2001年のピョンヤンの街の散歩が最後となり、父も長兄の後を追うように、その年の秋、大阪で他界した。
 地上の楽園で、成功した息子三人と祝宴を挙げる父の夢も、朝鮮総連の幹部としての夢も、実現しないままの他界だった。ただソナからは、父(ソナにとっては祖父)の他界の少し前に、おじいちゃんの容態を案ずる手紙が届き、ピョンヤンの大学の英文科に合格したことが添え書きされていたのが、せめてもの救いであった。
 現在の一家は、平壌と大阪の交流を閉ざされたまま、冬の時代を迎えている。ソナがまだ幼い頃、監督の訪問中に停電があり、「日本に帰っても、北朝鮮の停電を忘れないように」とソナが言う、北朝鮮の状況を示す典型的なシーンが繰り返され、映画はシンボリックに終わる。
 この映画は、殆んど監督の一族にだけに焦点を合わせ、監督のモノローグで進行する、ホームムービーのような映画である。にもかかわらず、北朝鮮と日本の戦後の関係史を追い、現在に至る凍りついた二国関係を糾弾し、姪と叔母の、海を越えたもどかしくも愛しい関係を浮き彫りにするといった、二兎どころか三兎も四兎も追った、見事な記録映画の傑作になっている。
(上映時間1時間22分)
東 京 東中野 ポレポレ東中野 上映中
東 京 新宿 K’s cinema 4月23日〜上映
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 4月23日〜上映
名古屋 名駅 名古屋シネマスコーレ 4月23日〜上映
大 阪 十三 第七藝術劇場 4月30日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 5月中に上映
那 覇 桜坂劇場 5月中に上映
札 幌 大通 シアターキノ 6月中に上映
京 都 烏丸 京都シネマ 6月中に上映
全国順次
◆配給社 スターサンズ 03−6304−0807

《公式サイト》http://www.sona-movie.com/

 

 

 
   

2台の車泥棒で死刑という厳罰に抵抗

中国人権問題に一石投じた判事を描く

『再生の朝に−ある裁判官の選択−』

(2011.4.6)

木寺清美

 
 


死刑多く厳罰主義という印象は真実か

 中国は、世界で一番死刑の多い国といわれている。政府が実態を公表していないので、正確な数字は示されないが、映画や小説に接していると、死刑ばかりでなく、その下の懲役刑などを見るだけでも、厳罰主義なんだなあと思わせられることが多い。
 文化大革命時代のさまざまな事件や、最近では天安門事件の後処理などを見ても、証拠調べや弁護などに、あまり時間をかけず、即決主義で刑が決まっていく印象を持つ。20世紀はじめの中国の軍閥時代から、1970年代までを描いた大河小説『ワイルド・スワン』(ユン・チアン著、91年初版刊)の中にも、著者の父が、中国共産党の幹部として活動した、1948年以後の新生中華人民共和国の時代の中で、父や同僚らの幹部が、さまざまな厳罰主義にぶつかり、失脚していく様が描かれていた。
 その厳罰主義を嫌って、娘の著者は、英文学者としてイギリスに移住する道を選んでしまう。だから中国共産党批判の要素がある大河小説『ワイルド・スワン』は、今もまともに、中国で出版されず、映画化も実現していない。刑罰についての具体的な政府発表がないため、これらはすべて印象による記述に過ぎないのだが、やはり事実があるから、印象もあるのだろうと思う。

引き逃げで娘亡くし妻うつ病の裁判官

 この映画は、97年に河北省涿州(たくしゅう)で起きた、2台の車の窃盗で、死刑判決を受けた青年の事件を基に、ドラマ作りをしたものである。主人公は、家庭的な不幸を背負った、一人の中堅裁判官で、その裁判官の立場から、事件が描かれる。
 この裁判官は、この事件を担当する前に、一人娘を、盗難車によるひき逃げ事故で亡くすという不幸を背負っていた。しかも引き逃げ犯は、長期にわたって捕まっていないという状況だった。さらにこの不幸で妻がうつ病になり、何とか家事はこなしてくれているが、全く会話のない暗い家庭生活が続いていた。その妻が、最近犬を飼いはじめ、犬に癒されて、少し明るさを取り戻してきたことが、わずかばかりの救いだった。そんな状況下で、車の窃盗事件を担当することになる。

3万元の高額窃盗は死刑、物価は変動?

 当時(96〜97年)、中国では、3万元以上の高額の窃盗は死刑という刑法の決まりが、問題になっていた。映画配給会社から配られたこの映画の資料に、中国の刑法に詳しい田中信行東大教授が一文を寄せているのだが、それによると、この額も、地方によって物価や生活水準が違うため、それぞれ別々の規定があるのだそうである。とにかく映画の中では、そういう刑法の規定を使って判決を出すという展開になる。
 これに対しては、いろんな異論が出る。経済発展で、刑法が制定されたころより、インフレになり、とくに都市部では、貨幣価値が下がって、3万元では自動車2台は買えなくなっている。今ではとくに高額な窃盗ではないという意見である。とくに犯人の青年の恋人は、青年を助けたい一念で、刑法の杓子定規な適用はしないでほしいと訴えてくる。そしてここに、もうひとつの大きな問題があった。

97年の旧刑法改正で、厳罰主義を清算

 それは、この96年から97年にかけ、旧刑法が厳しすぎるという意見に基づいて、法の改正が試みられていたという事実である。
 前述の田中教授の一文によると、96年に刑事訴訟法が改正され、97年に刑法が改正されたのだそうである。さらに田中教授の一文によると、文革終了までの毛沢東体制の中では、刑法も刑事訴訟法も存在せず、単なる司法官のその都度の合議だけで、刑罰が決められていたのだそうである。
 中国に法整備が行われ、真の法治国家として、体裁を整えることができるようになったのは、文革が終了してからなのだそうである。やたらと重罪が多いという印象は、まさに正しかったのであるが、さらに田中教授は、法が整備された後も、開放経済が進む中で、犯罪が増加し、それを防止するために、具体的な刑の種類が「合議」だけで決まったころと同じような、厳罰主義に基づいた「法」に整備され、依然として厳罰主義は続いたという意味のことを述べておられる。
 まさに、本当の意味での厳罰主義を排する法改正は、97年の時点で初めて、完成し多と解釈しても、当たり外れはないらしい。事件はそういう法的背景の下に起こり、裁かれようとしていたのだ−ということを、知識として知った上で映画を見ると、この映画のいいたいことが、さらによく分かるということになっている。

新旧規定の谷間の事件、委員会合議判決

 さてそんななわけで、この青年の窃盗事件は、刑法の旧規定で裁くべきなのか、新規定で裁くべきなのかといった問題が、クローズアップされてくることになる。事件そのものは、旧規定が有効な期間に起きており、旧規定の適用が当然ということになるのだが、主人公の裁判官は、旧規定を緩めることが望ましいという考えから、新規定がすでにできていて、施行日だけが後だという状況では、新規定を適用すべきである−との考えを持っていた。
 しかし中国の裁判は、判事・裁判官が、判決を出すのではなかった。正確にいうと、判決を言い渡すのは、判事(裁判長)だが、判決そのものは、裁判所内の、所長や、数名の裁判所幹部で構成する裁判委員会の合議で決められ、裁判長は審議の結果と自分の意見を、この裁判委員会に報告するだけなのである。
 映画でも、被告や被告の恋人からの抗議に、「自分は裁判長だが、判決は私が出したわけではないから」と弁明するシーンがあるが、それも裁判委員会の存在を物語るもので、そういうものの存在に疑問をはさむといったことも、この映画のテーマのひとつになっている。だから、旧規定の施行中の犯罪は、新規定の発効日を越えての判決でも、旧規定が適応されるという杓子定規な判決が合議の中で決まるのに、そんなに時間は要しなかったのである。

死刑執行が急がれ、臓器移植の汚職も?

 そんなわけで、自動車2台を盗んだ被告に、あっけなく死刑の判決が出る。そしてその判決には、役人の杓子定規な判断が、大きく作用したというだけでなく、もっとよこしまな背景があることが、ドラマの進行とともに明らかになっていく。それは臓器移植の問題で、死刑囚の遺体の臓器が売買されていて、役人もそれにかかわっているらしいという事実が、ほのめかされている。
 町の有力者である一人の社長は、重い腎臓病にかかっており、腎臓移植を望んでいて、適合する検体を探していた。一般に死刑囚の遺体は、そうした移植の需要に備えて、いの一番の検体候補で、死刑が執行される前から、DNAなどの検査が、中国では定例的に行われていたらしい。死刑囚の人権などは、かなり軽視されているお国柄なのだ。
 この自動車窃盗事件の死刑囚も、検査を受けさされ、社長とのDNAが適合しているのがわかると、社長は速やかに死刑を執行しろと、裁判所に圧力を加えてくる。裁判委員会のメンバーである裁判所の幹部などは、こうした圧力には弱いと見えて、はやく死刑をするよう裁判長に求めてくる。ここでさらに付記しておきたいのは、日本では裁判所と刑務所は別組織で、判決を出した裁判長が、死刑執行人であることはないが、中国では、裁判長が、死刑執行までの責任を持つものであるらしい。

上告に経費かかり、被告は運命受入れ

 また中国の裁判制度は、二審制である。一審と最高裁しかない。しかも上告するには、手続きとか、弁護士依頼とかで、かなりの経費がかかるらしく、この死刑判決には、被告本人も恋人も大いに不満で、刑務所内でハンストのようなことをして、平穏に処刑日を迎えることに抵抗をしていたのだが、さればとて、貧しい被告は、そういう経費の問題が障害になって、簡単に上告はできないでいた。
 そこへ聞こえてきたのが、自分の腎臓が望まれているということであり、それを承諾すれば、遺族に多額の金銭が入るということであった。やがて死刑囚は、静かに処刑を受け入れ、腎臓を提供するのが、自分の運命だと思い始める。こうして、2台の自動車を盗んで死刑判決を受けた事件は、判決が覆らないまま、処刑の日が近付いていた。

裁判長が死刑執行人、理不尽判決に悩む

 しかし、死刑執行人でもある裁判長は、ずっと悩んでいた。重すぎる刑だという認識が、すでに法曹界で認められていて、この程度の罪では死刑にならない新法がすでに施行されている。ただその施行日より前の事件であるという理由だけで、旧法が適用された事件なのである。その杓子定規を、役人が裁判委員会で急いだのは、腎臓移植の一件を早くから役人も知っていて、賄賂が動いた可能性があるとこの映画はほのめかす。
 こういうよこしまな状況に、善人である裁判長は、苦悩が大きかった。おまけに、ひき逃げで娘を殺され、いまだに犯人が捕まらない慙愧を背負っているだけに、妻のうつ病を見ても、家族を失った悲しみは痛いほどよく分かった。死刑囚の家族も、この程度のことで青年を失うのは、慙愧に耐えないだろうと想像できた。
 そうこうするうちに、裁判長の上に、もうひとつの、仕組まれたような、馬鹿馬鹿しい事件が起きる。

飼犬登録忘れた処分で脅し、死刑執行へ

 うつ病を癒すため、裁判長」の妻が飼っている犬が、無登録であるとして、突然警官が自宅に踏み込み、有無をいわせず、犬が連れ去られるという事件が起きた。裁判長は、上司に呼び出されて苦言を呈せられる。「法の番人である立場で、犬の登録を忘れるなど、基本的な法違反をするとは何事か。そんな法認識だから、死刑執行もなかなかできないのだ」「死刑執行を、既定方針通りきちんとやれば、懲罰はしないし、犬も返してやる」などといわれ、裁判長は窮地に追い込まれる。
 おまけに妻は、夫の悩みなどどこ吹く風で、犬を返してもらえるなら、何にでも協力して欲しいと夫にせがむほど、最大の関心事は犬だった。裁判長は仕方なく、死刑執行を実行に移す準備にとりかかる。

刑場も荒野、裁判長が中止叫び反逆

 死刑執行の場面も、日本で想像するものとは、ずいぶん違う。前述の田中教授の一文でも明らかにされているが、文革後に法が整備されたあとも、増加する犯罪を防止するためだとして、犯罪者をトラックの荷台に乗せて街中を引き回したり、広場に多くの市民を集めて、これこそ公開だという裁判をしたり、サッカー場に何万人もの見物客を集めて、銃殺刑を執行したりしたのだそうである。
 そんなにひどいものではないが、この映画の処刑も、処刑室の中での、電気イスとか絞首刑とかといったものではなく、一般観客はさすがにいないが、荒野の真ん中に目隠しした死刑囚を座らせ、関係者が見守る中、周りから銃殺するといった、かなり凄惨なものとして描かれている。サッカー場の公開銃殺刑の名残があるのだ。
 処刑の実施を命じる裁判長は、銃殺隊に囲まれた死刑囚の位置から、十数メートル離れた位置に立ち、手を上げて実施を命じるという段取になっていた。裁判長はその位置に立ち、いよいよ手を上げる段階になって、「処刑は中止!」と突然大声で叫んでしまう。驚く関係者を尻目に、死刑囚は、目隠しを取られて、元の刑務所に引きたてられて行き、銃殺係も銃をしまって、刑場から出て行く。
 どっと関係者に取り囲まれたのは、中止を宣言した裁判長で、「反逆者」呼ばわりの怒号の中で、逆に犯罪者として逮捕され、てしまう。

中国法曹界に人権擁護の立場から一石

 結局この裁判長は、すべての公職を解かれ、ただの失業者にならなければならなかった。それでも、妻のもとに犬は帰ってきて、妻も少し明るさを取り戻した。そして妻は、新しい命を、孕んだらしいことも暗示される。それが、これから再生を求める元裁判長一家の朝だったというのが、最後の締めくくりであるが、実際に元裁判長がどうなるのかは、示されていない。
 新しい命というからには、ひき逃げで失った娘の事件も、迷宮入りを容認したものであるようだ。リウ・ジェ(劉杰)監督は、実際にあった、2台の車の窃盗で死刑という裁判事件を中心に、実際の事件三つを重ねあわせて脚本にし、監督したと述べているが、臓器移植や汚職の話は、いささか強引で、リアリティ不足のドラマ構成になっている点は、否めないと思う。しかし、杓子定規に厳罰主義を引きずる中国法曹界に、人権擁護の立場から反逆するというテーマは、今の中国で、よくぞここまでの映画を作ったと、称えてよいものである。天安門事件に加担した映画人の中には、今も中国で映画が作れないという状況になっているからだ。

もう一人の第6世代劉杰(リウ・ジェ)監督

『再生の朝に−ある裁判官の選択−』という題名は、日本でつけた邦題であり、原題は『透析』、英語題名は『Judge』(審判)だけである。ここに描かれた裁判長の選択を、旧態依然たる法令や制度や人々の常識を、「人権を守る」という透かしを使って透いて見せる行為と、リウ・ジエ監督は言いたくて、含蓄のある原題を付けたのであろうと、私は解釈している。
 いま中国が、国際社会から解決を迫られているさまざまな人権問題、天安門事件関係者の人権の回復や、チベット問題などにおいても、こうした法曹界の厳罰主義の見直しが、実効をもってこそ、はじめて曙光が見えてくると主張している映画のように、私には思えた。
 リウ・ジェ監督は2010年で42歳、2009年の本作が、2本目の監督作品であるが、第6世代の代表的監督、ワン・シャオンシュアイ(王小師)(『ルアンの歌』『北京の自転車』など)の監督作品の、撮影監督やプロデューサーを務めてきた人で、第6世代にもう一人、忘れてはならない才能がいるという風に、リウ・ジェ監督のことを記憶しておきたいと思う。

(上映時間1時間38分)
写真提供:(C)2009 3C FILMS CO.LTD  All  Rights Reserved

東 京 銀座シネパトス 上映中(4月8日迄の予定)
東 京 渋谷 シアター・イメージフォーラム 上映中(4月8日迄の予定)
名古屋 栄 名演小劇場 4月9日〜上映
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 4月16日〜上映
大 阪 十三 第七藝術劇場 5月7日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 近日上映
神 戸 元町映画館 5月14日〜上映
全国順次
◆配給社 アルシネテラン 03−3567−3730         

《公式サイト》http://www.alcine-terran.com/asa/

 

 

 

 
   

アルジェリア山村、カトリック修道院

テロに斃れ殉教者となった修道士描く

生々しく静謐な秀作『神々と男たち』

(2011.3.31)

木寺清美

 
 


去年のカンヌ映画祭グランプリ受賞作

 このフランス映画は、1996年にアルジェリアで起きた、GIA(武装イスラム集団)によるテロ事件で誘拐虐殺された、カトリック系修道院(チビリヌ修道院)の7人のフランス人修道士の、虐殺に至る過程を描いたものである。首都アルジェから約90キロ南西に行った、サハラアトラス山中にある修道院、異教徒である村人たちからも尊敬され、医師資格のある修道士は、病を得た村人の診療もし、敬虔な信者も村の中に生まれつつあるという存在であったが、キリスト教徒と外国人を排斥するGIAのメンバーは、村人たちをも脅して、修道士たちから引き離し、物陰に隠れて、難を逃れた2人を除く7人の修道士を誘拐、フランス政府に捕まっているテロ仲間の釈放を要求し、かなわぬと知ると7人を虐殺してしまったのである。映画は、厳格なカトリックの教義に帰依して、禁欲的な日常を送る修道士たちの毎日を、静謐な描写で追うことで始まり、テロリストのアジトで処刑を待つ瞬間まで、強い信仰心と正義感を持ち続ける様を、張り詰めた映像で描いている。去年のカンヌ映画祭でグランプリ(カンヌの最高賞はパルムドールなので、第二位賞・銀賞にあたる)を得たのも、納得できる感動作になっている。

祈り、奉仕、農耕、禁欲生活坦々と

 1996年、アルジェリア・サハラアトラス山中の人里離れた村にある、カトリック系シトー会のチビリヌ修道院、就任してすでに12年がたっているクリスチャン・ド・シェルジェ院長(59歳)(演じるはランベール・ウィルソン)を責任者に、45歳から82歳までの、9人の修道士が、共同生活を行っていた。チビリヌ修道院は、フランスの植民地だったアルジェリアを、フランス政府が完全に自分の国に統合してしまった1930年代に、この地に建てられた。
 フランス側から言えば由緒ある修道院で、1962年のアルジェリア革命で、アルジェリアがイスラム教徒の国として独立してからも、布教活動は細々と続けられていた。1996年の時点でも、それは控えめな布教活動で、そもそものシトー会の厳格な戒律に基づいて、決められた時間に祈りを捧げ、聖歌を朗誦し黙想をする。ほとんどがイスラム教徒である村人とも、共同してさまざまな奉仕的労働に参加し、自給自足に近い生活をするための農耕にも、日々力をさいていた。
 そして最長老のリュック・ドーシェ修道士(演じるはマイケル・ロンズデール)は、持っている医師免許を活動に役立て、村の中の病人の診療にも力を注ぎ、村人たちの、宗派を超えた多大の信頼を得るようになっていた。
 映画は、これらの修道士たちの日常を、静かに坦々と描き、静謐で、ちょっぴりおごそかな雰囲気を、終始かもし出していく。カラー画面も、いわゆる「銀落し」を多用し、ほとんどモノクロ映像に近い画調に統一されている。音楽も、後述する部分を除いて、歌われる「聖歌」以外は使わず、足音や食器の音などを、研ぎ澄まされた厳粛な音として、観客の耳に届くよう、工夫している。

出稼ぎのクロアチア人労働者をテロ襲う

 そんな日常に、ショッキングな事件が起きる。外国人労働者として、村の近くに来ていたクロアチア人の労働者に、外国人排斥を主張しているGIAのテロリストたちがやってきて、村人と引き離し、身元調査を始めたのである。
 クロアチア人労働者は、そのときまで自分たちの宗教を、あまり気にしておらず、イスラム教徒もおれば、キリスト教徒もいた。テロリストたちは、労動者の中から、キリスト教徒を選別し、自らのアジトへと連行し始めた。修道士たちが駆けつけ、阻止しようとするが、「邪魔をすれば、今度は修道士たちを連行する」といい、強引に連れ去ってしまう。
 暫くして修道士たちは、キリスト教徒のクロアチア人労働者たちが、全員処刑されたと聞かされる。修道士たちは、ただ悲しみに耐えて、祈るしかなかった。

民族解放戦線の支配に反発、テロ激化

 アルジェリアの90年代の状況は、62年のアルジェリア革命以後、FLN民族解放戦線の一党独裁で、30年近く続けられてきた社会主義的政策が行き詰まり、80年代末に多党化が認められ、その多党化によって生まれた、イスラム教原理主義を基盤にした、FISイスラム救済戦線が、91年の選挙に勝利する。
 つまりアルジェリアは、イランのような政教一致の国家に、生まれ変わろうとしていた。しかし、その変化があまりにも急であるとして、FLN民族解放戦線が再び軍事クーデターを起こし、一党支配の政権を継続し、FISも再び非合法化してしまう。これに反発した、イスラム原理主義勢力は、はじめさまざまに分派して、散発的なテロ活動を始めていたが、90年代の半ばになって、GIA武装イスラム集団に統一され、テロ活動が激化し始めたのである。その一端が、クロアチアのキリスト教徒労働者へのテロとなって、現れたのだ。

修道院、正規軍の保護断り、敵へも博愛

 はっきりとキリスト教徒に照準を合わせた、GIAのテロが、クロアチア人労働者の上を襲ったことで、FLNの正規軍も、チビリヌ修道院の保護に乗り出し、FLNの傘下に入るよう、クリスチャン院長に申し入れてくる。院長以下9人の修道士たちは、鳩首をつき合わせて申し入れを相談するが、あくまでも軍や政府権力からは独立して、宗教活動は続けられるべきものだという結論に達し、村人とも、イスラム教徒とも、テロリストたちとも、すべては神の子であるとして、区別なく付き合っていく方針を、崩さなかった。
 ここから、チビリヌ修道院は、激化するテロ情勢の中で、より深い苦悩の道を、歩むことになって行くのだった。

仲間の治療求めテロ集団乱入、断る

 そしてクリスマス・イブの夜、GIAの過激派分子が、チビリヌ修道院に乱入してくる。何でもテロ仲間に負傷者が出たので、治療をしてほしい。これは依頼ではなく命令だとテロ集団の隊長は述べ、医師免許を持つリュック修道士を、拉致しようとした。
 クリスチャン院長は、脅す隊長の前へ進み出て、「あくまで診療は村人のためのもので、修道院内でやるのが原則。医師が外へ出て、村の診療に支障が出るのは許されない。ここへつれてくれば誰でも診る」といって、決然と隊長を追い返す。
 「修道院の博愛主義は嘘だ。そういう考えは、イスラムのためにならない」と、テロ集団は、捨てゼリフを残して、引き上げていくが、このことで、修道院の危機が、また深まったことだけは、確かだった。

仏政府の帰国命令、会議重ねる苦悩

 修道院で全体会議が開かれる。テロが激化する中で、本来の布教活動がこれからもできるのかどうか、もうアルジェリアから去るべきなのではないかなどなど、さまざまな意見が交換される。去ることは、村を捨てることであり、暴力に屈することであると、強い意見も出される。結論は出ず、暫く冷却期間をおいて、銘々がよく考えて、改めて、会議をしようということになる。
 クリスチャン院長が、その冷却期間、野山を一人で歩き回り、沈思黙考するといった描写も出てくる。そして院長は、これまでの経過や自分の考えを、手紙の形で文章にする。のちのちに、事件の実態が明らかになる、きっかけとなった文章である。そうこうするうちに、在アルジェリアのフランス大使館から、院長が呼び出しを受け、フランス政府からの帰国命令が出ていることが伝えられる。
 ここにきて、再度開かれた全体会議は、更なる紛糾と苦悩を抱え込むことになる。本来の修道士の使命は何なのか。修道士という人生を選んだ自分は、その使命に照らして覚悟を決めるべきではないのかなど、議論は百出し、院長は、自分だけは残るから、他の者は、帰国してほしいとまで言い出す。

村人の残留依頼で、テロと戦う決意へ

 そんな苦悩の中で、修道士たちは、村人たちからも「村を捨てないでとどまってほしい」という申し入れを受けることになる。応対をしたセレスタン修道士が、「私たちは枝に止まった鳥に過ぎない」と、修道院の過大評価を戒めると、村人は、「鳥は私たちで、修道院が枝なのです。枝がなくなれば、私たちはどこに止まれいいのですか」と言い返し、院長も他の修道士たちも、二の句が告げなくなる。
 イスラム教徒の反キリスト教への動きが深まる中で、表向きイスラム教徒ばかりの村の中に、シトー会がいつの間にか根を張っているという事実を知らされ、修道士たちは感激する。たちどころに、いかなるテロに巻き込まれようと、サハラアトラス山中の布教活動からの撤退はありえないという、9人の団結が決められていく。それは真の殉教精神を貫く、ということでもあったわけである。

仲間の釈放要求の人質になり、斬首さる

 GIAのテロ集団の、およそ20名が、再び修道院に乱入し、修道士たちを拉致していくまで、それほど時間はかからなかった。1996年3月26日の深夜のことであった。
 床の下やベッドの下に隠れた二人を除く7人が誘拐され、彼らのアジトに幽閉された。彼らはフランス政府に捕まっているテロ仲間の釈放を、約2ヶ月にわたって要求し続け、その間7人は人質となった。交渉は、アルジェリア政府も間に入り、フランス政府との間で行われたが、不調に終わり、5月21日、7人は、斬首処刑されたという。

聖歌のみの映画に「白鳥の湖」が効果的

 映画はそうした処刑までは描いていない。処刑の前夜、最後の晩餐となった、7人の話し合いの光景を描いている。迫りくる死を感じて、ポツポツと語り合う、ほとんど無口といってもいい会話を、一人ひとりの表情を入念に捉える形で描いている。
 修道士としての覚悟と、幾ばくかの悔恨がない交ぜになった表情が、大写しと長まわしで捉えられ、チャイコフスキーの「白鳥に湖」が、バックに朗々と流れる。聖歌を歌う場面以外に音楽を使わない手法で、静かに神々しく描かれてきたこのドラマに、初めて流れる大音量の交響曲演奏。この発想は、観客の胸を締めつけるのに、なかなか効果的で、美しい殉教の映画を見たという、満足感に浸れる。
 刑場へと引き立てられていく修道士らの後姿に、難を逃れた二人の一人は、21世紀に入って病死し、もう一人は今も健在であることを伝えるタイトルが出て、映画は静かに終わる。宗教者といえども、テロの前には無力であることを伝える悲しい映画だが、生々しい事件を伝えながら、宗教映画の抑制を保った秀作である。監督のグザヴィエ・ボーヴォワは、40代半ばの、本作が5本目の監督で、俳優や脚本家としても、活躍している人だが、これまで日本には、なじみが薄かった。
(上映時間2時間3分)
写真提供:(C)2010 ARMADA FILMS-WHY NOT PRODUCTIONS-FRANCE 3 CINEMA

東 京 シネスィッチ銀座 上映中
名古屋 名駅 ゴールド・シルバー劇場 4月1日〜上映
福 岡 天神 KBCシネマ 4月1日〜上映
大 阪 梅田ガーデンシネマ 4月9日〜上映
神 戸 三宮シネフェニックス 4月9日〜上映
札 幌 大通 シアターキノ 4月30日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 5月中に上映
静 岡 静岡シネギャラリー 5月15日〜上映
千 葉 千葉劇場 5月28日〜上映
岡 山 丸の内 シネマクレール 5月28日〜上映
長 崎 長崎セントラル劇場 5月28日〜上映
近日上映劇場
  大分シネマ5、佐賀シアターシエマ、那覇桜坂劇場、広島シネフクシネマモード、   浜松シネマe-ra、秋田シアタープレイタウン、尾道シネマ尾道
◆配給社 マジックアワー+IMJエンタテインメント共同配給03−6415−4395(マジックアワー)
 

<公式サイト》http://www.ofgods-and-men.jp/

 

 

 

 
   

英国王のナチへの宣戦演説の裏に何が

吃音者ジョージ6世を率直に描く秀作

アカデミー作品賞『英国王のスピーチ』

(2011.3.22)

木寺清美

 
 


アカデミー4部門受賞、品性高い映画

 この映画は、さる2月末の米アカデミー賞で、ノミネートされた12部門のうち、作品、監督、脚本、主演男優の4部門で受賞した、2010年のイギリス映画である(米アカデミー賞は、英語圏国家が対象)。今年のアカデミー賞は、作品部門の候補作10本を含め、なべて超大作がなく、比較的小粒な作品がそろった年なのであるが、その中で、最もインテリジェンスに満ちたドラマと、歴史的視点を持った映画であり、とりわけ、スキャンダルの多いイギリス王室の内部を、包み隠さず描き、結果的に真っ直ぐな人間とその思想が、歴史上で勝利していく様を、称えている点が印象に残る。最近では珍しい、品性の高い映画であった。

王室の信頼回福と民意統一を果たす演説

 この映画は、現在の英国女王エリザベス2世の父君にあたる、ジョージ6世(コリン・ファース=アカデミー主演男優賞受賞)の物語である。1936年から、亡くなる1952年までの、ジョージ6世の在位期間中には、第二次世界大戦があり、ヒットラーの率いるナチス・ドイツが、オーストリアとチェコの併合につづいて、ポーランドに侵攻するに及んで、イギリスは、止むなくドイツに対し、宣戦布告をした。1939年9月1日のことである。ひいては、イギリス国民に対し、沈着冷静な対応と、勝利するまでの覚悟を求め、王室もまた、国民とともにあることを表明した演説を、ラジオを通じて行い、国民に安心感を与える仕事が、ジョージ6世の上に、運命づけられた。この演説は、今も語り草になるほどの名演説で、ジョージ6世は、この仕事を立派にこなし、「シンプソン事件」で地に落ちた、英王室の信頼を回復し、国民の民意を、統一することに成功したのであるが、実は名演説の陰には、長年にわたる苦労話があった−ということを、映画にしたのが、この映画なのである。

兄との比較、父王との確執が吃音に影響

 ジョージ6世は、吃音者であった。この映画では、始めの方でそれが描かれる。ジョージ6世は、幼い頃から引っ込み思案な性格で、父王のジョージ5世から、「しっかりせよ」と、しばしば叱陀を受けていた。ハンサムで、成績優秀で、「王室の広告塔」とまで言われた、兄エドワード(のちに一年間だけエドワード8世)と、何かにつけ比較され、余計に自信を失って行く少年時代が描かれる。ヴィクトリア女王時代を、20世紀初めに、兄エドワード7世についで引き継ぎ、第一次世界大戦を乗り越えて来た、名君の誉れが高い父王にとっても、次男の頼りなさには、イライラさせられ、余計に辛く当たり、本人は委縮して行くという逆効果が、幼い時代からの父子関係として続いて行く。そんな中で、ヨーク公(即位する前のジョージ6世)の吃音は、さらにひどくなって行ったのだが、人前に出る場数を増やして、吃音を直そうとした父王から、様々な催しの開会宣言や短い挨拶を担当させられる。大英帝国博覧会閉会式で、閉会宣言のためにマイクの前に立ったヨーク公が、短いスピーチなのに口ごもり、聴衆が驚いて、会場全体が一瞬シラけるというような事態が、描かれている。この頃、国民に隠されていた吃音が、明らかになったのである。

兄は一般女性との恋で、王位を投出す

 それでもヨーク公は、自分が父王の後を継いで、国王になるとは思っていなかった。国王になるのは、当然兄のエドワードで、自分は王室の裏方として生涯を終える立場だから、積極的に吃音を直さなくとも、何とかなると思っていた。しかし事態は皮肉にも、そうはならなかった。世に言う「シンプソン事件」が起きたのである。
 王室の広告塔であったはずの兄のエドワードは、皇太子の公務を怠らない一方で、離婚歴があり、二度目の夫もいる年上のアメリカ人女性シンプソン夫人と、恋愛関係に落ち入っていた。エドワードが、様々な女性と浮名を流すまではよかったが、「離婚歴」「不倫」「年上」「アメリカ人」といったシンプソン夫人を取り巻く事情は、英国民の象徴ともなる皇后の人物像としては、どうしてもふさわしくなかった。それでも父王ジョージ5世の死に際して、一旦エドワードは、エドワード8世として、即位してしまう。しかし、世間や王室周辺から吹く、批判の風には耐えきれず、エドワード8世は、戴冠式もしないまま、一年足らずで退位、王室を離れて野に下り、シンプソン夫人との結婚の道を選ぶ。青天の霹靂だったのがヨーク公で、兄に代わって国王を継がなければならない運命が、巡って来たのである。1936年の、ドイツへの宣戦布告で、第二次世界大戦に突入するまで、あと3年といった時点の話である。

吃音矯正に豪の特異なセラピストが登場

 ヨーク公は、即位の14年前、1923年に、スコットランドの旧家の娘であるエリザベスと結婚をしていた。温厚で利発な上に、こまめに夫の世話もいとわない性格の人で、皇后になってからも、その評判は、変わらなかった。映画でも、この皇后エリザベスを、イギリスのベテラン女優ヘレナ・ボナム=カーターが好演(アカデミー賞の助演女優賞候補に)し、結婚当初から、吃音の夫を矯正しようと、様々な助言や努力をする様が、描かれる。  ジョージ6世は、即位の前から、妻エリザベスとともに、何人もの言語聴覚士について、矯正を試みたが、一向に改善されないでいた。そんなとき、普通の方法とは違う、特異な治療法で、幾人もの吃音者を矯正したとの噂のある、オーストラリア人の専門セラピスト、ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ=彼の演技もまた、渋く味わい深いもので、アカデミー助演男優賞候補になった)という人物のことを、妻エリザベスが聞き込んで来る。

王室の率直な描写に好感、二人は友人に

 ライオネルの治療は、吃音の原因が心理的なものにあるとして、ヨーク公を愛称のバーティで呼ぶなど、皇室に対する遠慮のない態度で接し、ヨーク公のプライベートに関する質問を、どんどんぶっつけ、そんなことを聞かれるとは思っていないヨーク公に、心理的ショックを与えるというものだった。おまけに、大音量の音楽を聞かせながら、シェイクスピアを朗読させるという、特異なこともヨーク公に強いた。ヨーク公はすっかり怒って、「こんな治療は僕に合わない」といって、帰ってしまう。これに対しても、妻のエリザベスは、「王室の一員としての、おごりのような感情を捨てるべきだ」と叱責し、謙虚にライオネルに従えと、教導する。その年のクリスマスを祝う、国民向けの放送も上手くいかず、口ごもる放送をしてしまったため、ヨーク公は再びライオネルを尋ね、彼の治療を受け入れると申し入れる。そしてそこで聞かされた、失敗したと思っていたクリスマスの放送の録音盤で、実にスムーズに喋っている自分を発見し、すっかり安堵するのである。放送のバックグラウンドに流れていた音楽が、失敗と錯覚させたもので、ライオネルへのヨーク公の信頼は、高まっていく。二人はやがて。昔からの友人だったかのように、プライベートなことも話し合う関係になって行き、ヨーク公は、厳しかった父王のことなども話し、ライオネルの前で、心の重みを、開放していくのだった。
 映画はこのあたりのことを、忌憚なく描いていて、王室の裏話の暴露でありながら、二人の真っ直ぐな人間性をも、きちんと描写していて、イギリスの民主主義とはどんなものかを、おのずと示す結果になっているのが、とてもいい。

遂に国王となり、徐々に弁舌も可能に

 兄のエドワード8世が、「シンプソン事件」で、一年足らずで退位し、国王のお鉢がヨーク公に回って来たのは、まさにこうした吃音治療が、ライオネルの下で、始まっていた直後のことであった。すんなりと王位を受け入れる気持ちのないヨーク公は、「受けなければならないのだろうか」と、まるで人生相談のように、ライオネルに尋ねてしまう。しかし、兄王がさっさと退位してしまった現実の中では、国王にならなければならないというのが、ヨーク公にとっての現実であり、そのことを諄々と解くライオネルの前で、再び激怒して帰ってしまう。この前後の、ヨーク公の不安定な心理描写も、国王たるべき人物の、頼りない俗人ぶりを暴露していて、なかなか面白い。そして無理矢理に引っ張りだされた王位継承評議会でも、たどたどしいスピーチをしてしまい、出席者の不信を買う。そしてその夜ヨーク公は、妻エリザベスの胸の中で、「私はもはや、王の資格はない。それなのに王にならねばならない」と泣き崩れる。ここまで来ると、頼りない王にあきれるというより、その人間くささに感動してしまう。王室内の夫婦といえども、普通の夫婦と変わらない事実が、見事に描写されている。結局ヨーク公と妻エリザベスは、三度び、ライオネルに頭を下げて、吃音矯正の教導を乞う。こうして、正式にジョージ6世となる戴冠式では、無難にスピーチを終えることが、できたのであった。
 このライオネルという人物、明確に実在し、ジョージ6世の師ともなった人物なのだが、イギリスでも一般には知られていないのだそうだ。それを掘り出したのが、この映画の功績でもある。

上首尾なナチへの宣戦演説、三人は安

 映画はここから一気に、クライマックスの名演説へと進んでいく。イギリスがドイツに宣戦した1939年9月、ラジオのマイクを通して、その名演説は、イギリス国民に響いた。 国民に団結と覚悟を求め、王室もまた、国民とともにあることを伝えたこの演説は、「シンプソン事件」で揺れた、王室と国民のほころびを修正し、ナチと戦うイギリス国民の原動力にもなったと言われていて、吃音などの片鱗は、全くなくなっていた。
 スピーチを終えて、ジョージ6世は、別室で待つライオネルと目を交し合う。「よかったけど、Wの発音が、まだ少しおかしかったね」というライオネル。これに対して、「ジョージ6世の演説だという証拠を、残しておかないとね・・」と、冗談で受けるジョージ6世。その余裕とユーモアに、思わず観客もにんまりとさせられる。皇后となった妻エリザベスも加わった、三人のねぎらいと賞賛の交情は、なかなか感動的である。

監督の名演出、俳優三人のアンサンブル

 この映画の成功は、トム・フーバー監督の端正な演出と、主要三人の俳優の、見事な演技のアンサンブルにある。フーバー監督は、1972年生まれで、オックスフォード出身の俊才だが、これまでは、テレビドラマ中心の活躍をしていて、劇場用の本格映画は、本作が2本目の人だ。今回の米アカデミー賞の、作品、監督賞受賞は、フーバー監督を一気にブレイクさせたことを意味し、今後が期待できる。
 アカデミー主演男優賞を掻っさらってしまった、コリン・ファースは、舞台、テレビ、映画にと活躍する、もう30年選手の、イギリスの演技派だが、吃音を克服して、徐々に王らしくなっていく難しい役柄を見事にこなし、存在感を高めた。妻役のヘレナ・ボナム=カーターは、ジェイムズ・アイヴォリー監督の文芸映画などで、もう25年以上も活躍している、イギリスのベテラン女優で、今回の助演女優賞候補のように、いろんな賞に、何度もノミネートされている人である。そして最後に、吃音セラピスト役で出演したジェフリー・ラッシュは、精神病を患ったピアニストを描いた『シャイン』(96)で、そのピアニストを演じ、米アカデミー主演男優賞に輝いた人で、その栄誉を、昨日のことのように記憶しているが、今回も彼の個性で、ジョージ6世とその皇后のドラマが、輝きを増したとも言える。
 いずれにしても、監督と出演者の充実した仕事から生まれた、気品の高い秀作で、王室の裏話もののような顔をしながら、ナチへの勝利の端緒を開いた人物の物語として、捉えている点も鋭い。

(上映時間1時間58分)
全国主要都市東宝系劇場および各地のシネコンで一斉上映中
■配給社 GAGA(ギャガ・コミュニケーションズ)050−5810−1357 

《公式サイト》http://kingsspeech.gaga.ne.jp

 

 

 

 
   

一組の男女の出会いと別れを通じて描く

ボスニア紛争後の後遺症と民族主体性

希望満ちる?『サラエボ、希望の街角』

(2011.3.9)

木寺清美

 
 


民族・宗教の相違強調、不寛容な虐殺へ

 旧ユーゴの崩壊過程で、ユーゴを構成していた六つの国が、それぞれ独立を勝ち取るたびに発生した五つの紛争のうち、最も熾烈で長期にわたったのが、92年から97年までのボスニア紛争である。同じ地域に、セルビア人、モスレム(ムスリムともいう)人、クロアチア人が、モザイク状に混ざり合って住んでいたことが、問題を複雑にした第一の理由であるが、それぞれが奉じる主要な宗教が、セルビア正教、イスラム教原理主義、カソリックと違い、その違いを強調し合わない知恵が、一挙になくなり、不寛容に違いを強調する事態となり、昨日まで隣人だった者同士が虐殺を繰り返すという、最悪の状態となったのである。

紛争後13年,後遺症消え主体性回復?

 このボスニア映画は、停戦協定などで、紛争が解決して約13年が経った今日、再び隣人の違いを問わない日常生活が表面上は戻って来たことになっている首都サラエボで、実際の庶民生活はどんなもので、違いを強調し合った紛争時のトラウマが本当に消えたのか、といったことを、主として一組の同棲中の男女の生き方を通じて描いたものである。とくに、この映画の監督ヤスミラ・ジュバニッチは、ベルリン映画祭で金熊賞をとった前作『サラエボの花』(06)で、紛争中に敵兵に凌辱されて産んだ、父親の分らない娘に対する母性の苦しみ描いた女性監督であることを念頭に置くと、今回のテーマもより明確になって来るはずである。

外観は復興、一組の男女の市民生活は?

 ところどころ、痛々しい弾痕が、まだビルの壁などに残ってはいるが、すっかり昔の美しさと活気を取り戻している古都サラエボ。映画は、にぎわう市場やカフェに集う人々や、若者たちで賑わう同好の倶楽部などを点描しながら、一見平和なこの庶民の生活は、実質をともなった復興なのだろうかと、疑問を呈しながら、同棲中の二人の男女の生活に焦点を合わせて行く。女性ルナは、航空会社に勤務する客室乗務員、昔風にいえばスチュワーデスだ。男性アマルは、空港に勤務する航空管制官だ。二人の青春は紛争の中に消え、中年への坂を上りはじめた30代、やっと巡り合えて、互いに協力し合う生活を始めたのだった。ルナは、紛争の中で両親を亡くすという不幸を背負っていたが、ようやくその悲しみも癒され、いずれは正式に結婚をして、早く子供を産みたいという願いに包まれていた。

トラウマ脱出でイスラム原理主義に傾倒

 しかし一方のアマルは、セルビア人によるモスレム人の虐殺の現場を紛争の中で見て、そのトラウマからなかなか立ち直れないでいた。トラウマを忘れるための深酒の習慣から、なかなか抜け出せず、ついに勤務中に酒を飲み、停職処分を受ける。もともとモスレム人であるアマルは、その停職中の精神生活を、酒から脱出することに主眼を置いて、イスラム教の厳格な戒律をも、出来れば守る生活を取り戻したいと考え始めていた。たまたま戦友に出会ったアマルは、今やその戦友が、イスラム教団の熱心な信者になっていることを知って、誘われるまま、その教団のキャンプに参加する決心をし、同棲のルナに行き先を告げず、遠く離れた湖畔のキャンプに旅立ってしまう。

同棲の相手が、遠く隔たって行く現実

 アマルとの連絡が途絶えて、慌てるルナだったが、教団の説明でアマルの滞在地を知り、彼との連絡をとるが、厳格な修養の場だから、訪ねて貰っては困るというのがアマルの立場だった。愛し合ってきた同棲生活が一体何だったのかと、冷水を浴びせられたような心境にルナはさせられる。それでもルナは、アマルの苦しみを分かち合って引き受けようとの思いで、キャンプを尋ねて行く。そしてルナが見たものは、男女が隔離された中で、酒も煙草も性欲も、個人的な欲望も絶って、厳しいイスラム原理主義の戒律を守って、修養生活をしているアマルの姿だった。もともとイスラム教徒ではないルナは、その異様な修養生活に驚くとともに、愛しあい同棲をしてきた相手が変質し、遠く隔たった場所に飛んで行ってしまったような感覚を覚え、這う這うの体で自宅に帰って来てしまう。

肌を見せる服装非難、信仰強制の演説

 やがて、修養生活に一区切りがついて、家に帰って来たアマルは、すっかり酒を絶っていたのは結構なことだったが、ルナに朝夕の礼拝を強制し、ルナが肌が透けた服を着ようとすると、イスラムの教えに反すると極端に嫌な顔をしてみせた。そこまで厳しく言わなくてもとルナがいうと、アマルは、ただ、正しい普通の人間に戻りたいだけだと言う。アマルと一緒に生活をするということは、アマルにとっては修養の場であり、教義を家族にも広げる重要な生きがいの場なのかも知れないが、ルナにとっては、家庭の中でまで自由が奪われて行くという感覚がたまって行くだけの場でしかなく、同棲生活の安寧はどこかへ吹っ飛んだ。
 そんなとき、イスラム教の大切な修養の一カ月、断食月ラマダンがやってきた。日の出から日没までは、一切の飲食を絶ち、夜に簡単な栄養補給をするだけの生活、勿論酒も性生活も禁止だ。それをアマルは忠実に守り、そのストイックを一気に清算するかのように、イスラム教徒全員が祝うラマダン明けのお祝いパーティで、アマルは「ボスニア紛争という凄惨な殺戮が起きたのは、皆がイスラム教の厳格な教義を忘れたからだ」と、滔々とお説教じみた演説をした。それを聞いてルナは、いよいよもって二人の間には、耐えがたき溝が出来たと確信する。

アイデンティティの押付け嫌い自立へ

 そんな耐えがたい溝を感じているとき、逆にルナは、長く望んでいた妊娠が自らの体に起きていることを知る。アマルはその妊娠を喜び、正式に結婚をして、子供も作ってと言う思いを平然と語る。しかしルナは、そのアマルの気持ちを受け入れることはできなかった。表面美しさを取り戻していても、紛争のトラウマが漂い続けるサラエボの街で、職業を持つキャリア女性として、一人屹立して生きて行く決心をする終盤のルナの美しい表情。おそらく子供も中絶することになるのだろうが、そのルナの表情の中に、僅かな希望を見出すというのが、邦題「希望の街角」の解釈なのだろうが、原題も英語題名も「街角で」だけであり、むしろ希望の少ない、前途多難を匂わせている。ルナは、同棲生活で癒されていたはずの不幸、つまり紛争で両親を亡くした不幸を再び思い出し、生家を訪ねて涙するというシーンが、この終盤に挟まれる。このシーンの意味も、トラウマからの脱出は容易ではないということを示している。そのときに対比される、紛争を知らない世代の少女の明るい瞳も、トラウマ世代の、より困難を暗示しているのではないだろうか。

民族的宗教的相違の強調を排する知恵を

 ボスニアの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチは、紛争時は十代の少女だったそうだが、前作『サラエボの花』では、敵兵の強姦によって、父親の分らない娘を生まされた母が、「父親は民族のために闘って殉死した殉教者だった」と、娘に嘘をついて育て、それが次第にばれて来る悲劇を描き、もう紛争のトラウマどころではない深刻な被害を描いた人だった。
 この映画は、この『サラエボの花』で描いた個別的被害を、サラエボ一般市民のトラウマという一般的なものに敷衍したあと、もう一度その代表として個別に戻り、同棲中の男女の接近と離別を描いたのだと、理解できる。そこに、一旦問わないことで平和を保つことにしたはずの民族的宗教的相違が、再び頭をもたげ始めていて、そのことで、解消どころか、トラウマがさらに深まっていくというサラエボの現状こそが問題だと、この映画は言いたいのだと、私は解釈した。ボスニアの現状に詳しい識者の発言にも、イスラム原理主義の伸長が、いまのボスニアに目立ち始めているという報告があった。紛争中に最も目立ったセルビアの暴力が駆逐されて、虐待されたモスレムのアイデンティティが回復し始めたということとも、密接に関連している現象なのだ。
 だから映画は、一人で生きて行く決心をするルナの姿で、突然投げ出すように終る。そのラストは、「行きすぎたアイデンティティの他者への押し付けは、控えなければならない。それこそが多民族国家に住む者の知恵である」と、ジュバニッチ監督が言っているかのように思えて仕方がない。いずれにしても、ボスニアの現状を知ることが出来る、よい映画である。
(上映時間1時間44分)
写真提供:(C)2009 Deblokada/Coop99/Poia Paud0ra/Produkcija Ziva/ZDF- Das kleive Femsehspiel/ARTE

東 京 神保町 岩波ホール 上映中
名古屋 栄 名演小劇場 上映中
大 阪 茶屋町 テアトル梅田 3月26日〜上映
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 4月9日〜上映
近日公開予定
 札幌シアターキノ、静岡シネ・ギャラリー、浜松CINEMAEe-ra,、京都シネマ、  広島サロンシネマ、福岡ソラリアシネマ、那覇桜坂劇場
◆配給社 ツイン 03−3589−3176

《公式サイト》http://www.saraebo-kibou.com/


 

 

 

 
   

「マネーは眠らず」の副題通りに描く

リーマン・ショック後の金融界の実態

ストーン監督『ウォール・ストリート』

(2011.2.25)

木寺清美

 
 


23年ぶりにウォール街に帰って来た

 『プラトーン』(86)や『7月4日に生まれて』(89)など、ベトナム戦争に関わるもの、『JFK』(ケネディ暗殺事件を扱ったもの)(91)や『ニクソン』(ウォーターゲート事件を含む評伝)(95)『ブッシュ』(ブッシュの皮肉たっぷりな評伝)(08)など、政治や戦争を扱った映画を作り続けてきた、アメリカ社会派監督の最右翼オリバー・ストーンが、87年の『ウォール・ストリート』(日本公開題名「ウォール街」)に続いて23年ぶりに、同じ題名の映画『ウォール・ストリート』を再び作った。今回は「マネー・ネバー・スリープス」という副題がついているが、日本では副題を敢えて表に出さずに、公開をしている。
 前作は、一獲千金を狙う若い証券マンと、マネーころがしで儲けた新興成金の、付かず離れずの戦いを描いたもので、それに実直に生きてきた、労働組合の責任者である、証券マンの父親を絡ませ、人生観と、善悪の価値を巡る父子対立や、ものを創造生産することを巡る、実業と虚業の対立を、浮かび上がらせ、資本主義経済における、証券金融界のインモラルな問題点を、真正面からとりあげた。

銀行の破綻に、父娘の対立や恋加え

 そして今回は、前作で、若き証券マンの前に一敗地にまみれ、証券取引法違反で、刑罰を受けた、マネーころがしの新興成金ゴードン・ゲッコー(前作も今回もマイケル・ダグラス。前作ではアカデミー主演男優賞獲得)が、出所して来るところから始まり、殆ど無一文になったゲッコーが、今回は、出所から7年たった現代に、証券評論家のような立場で、講演して歩いている男として登場する。ゲッコーは、リーマン・ブラザーズのような投資銀行で働く、若いエリートサラリーマンが、2008年のリーマン・ショックと同じ様な運命になり、投資銀行を苦境に陥れた黒幕と対決して、銀行を再生させようとしているのに協力して行く。そしてそのドラマの背景に、今回は、ゲッコーの娘と、そのエリートサラリーマンとの恋を配し、ゲッコーとは180度違う人生観や価値観を持ち、ジャーナリストとして活躍しているその娘と、父ゲッコーとの対立と和解の物語が、脇筋の重要なテーマとして進行する。まさにリーマン・ショックが起きた2008年を背景にした、ウォール街のドラマで、今日的な意欲作となっている。

違法取引の刑終えた父と、断絶する娘

 ウォール街の投資銀行ケラー・ゼイベルに勤めるジェイコブ・ムーアは、優秀なエリートサラリーマンで、社長のルイス・ゼイベルの薫陶も受けて、若くて重要ポストを任され、順風満帆の人生を送っていた。そして非営利のニュースサイトの運営に携わる、聡明な女性ジャーナリストであるウィニー(『17歳の肖像』(09)で自立する17歳の女性を好演し、アカデミー主演女優賞の候補になったキャリー・マリガン)と、結婚を前提につきあっていた。ウィニーの父親は、前作で描かれた、マネーころがしの悪名高いゲッコーなのだが、自然や人間を大切にする経済思想を持つウィニーと、欲望のまま生きるゲッコーとでは、180度考え方が違い、父と娘は、すっかり断絶状態になってしまっていた。ジェイコブがウィニーと結婚するということは、この父娘の断絶を、いつかは解消してあげなければならない、家族再生の接着剤にならなければならない−ということを意味していると、ジェイコブは自覚していた。

元受刑者の予言通りに、投資銀行破綻

 前作で描かれた、マネーころがしの成金ゲッコーは、証券界が、その動静を恐れるほどのカリスマ性を持っていたが、受刑出所後のゲッコーは、そのカリスマ性を、ほとんど失った人物として描かれる。証券評論家としての講演も、止むを得ない身過ぎとしてやっているのだと、世間から思われていた。ところが、最近の銀行自体の強欲ぶりを批判し、こんなことを続けていると、1929年の大恐慌以来の金融危機がやってくると、自らの強欲ぶりを棚に上げたような、予言の書を出版したことで、ゲッコーは、急に証券業界に存在を再アピールすることになった。その出版は、すでに、サブプライムローン(低所得者向け住宅ロ−ン)の破綻が、経済への深刻なダメージを、与えつつあったときだけに、注目されたのである。そしてその予言通りの金融危機がやって来たのである。
 ジェイコブの勤める投資銀行ケラー・ゼイベル社で、急激な業績悪化による株価の暴落が始まり、ジェイコブの師でもあった、経営者のルイス・ゼイベルが、自殺するという事件が起きる。まさに、ケラー・ゼイベル社は、この映画の中では、実際のリーマン・ブラザーズ社のような存在として、描かれて行く。

破綻の裏に黒幕、エリート社員復讐へ

 ケラー・ゼイベル社の破産と、経営者の死で、順風満帆だったジェイコブの生活は突然暗転し、資産もほとんど失うことになった。しかも、サブプライムローンの破綻の影響を受け、苦境を迎えていたゼイベル社を、一気に破綻に導いたのは、ライバルの投資銀行に入り込んだ、金融界の黒幕と言われる男ブレトン・ジェー-ムズ(ジョシュ・ブローリン=『ブッシュ』のブッシュ役や、『ミルク』の悪徳地方議員役等で知られる)の策謀によるものだと分って来て、ジェイコブは復讐を誓う。つまりセイベル社の業績悪化を必要以上に流し、株価を暴落させたのがこの男で、株価が下がったところで、この男が裏で買い占めを謀っていたことが、分って来たのだ。このまま黙って、ゼイベル社の再生を、この男の思いのままにされる事はないと思ったジェイコブは、恋人ウィニーの父親で、著書で、金融恐慌を予測している男ゲッコーの、講演を聞いてみようと思い始める。ある大学で開かれた、ゲッコーの講演会には、ジェイコブは、恋人ウィニーには内緒で出かけた。父を、金のガリガリ亡者だとして退けているウィニーから、同じ穴のむじなと思われると、二人の仲に無用の亀裂が入ると判断したためだ。

黒幕の懐への潜航と、父娘の再会成功

 講演終了後、ゲッコーに直接会ったジェイコブは、「僕はあなたの娘さんと結婚します」と自己紹介する。一瞬驚くゲッコーだったが、ジェイコブが破産したゼイベル社の、エリート社員だったと知ると、興味を示す。そして、ゼイベル社の現状を聞き、ブレトン・ジェームズへの復讐の思いを聞くと、ゲッコーは様々な協力を約束する。その引き換えとして、断絶状態になっている娘との間を取り持ち、再会できる機会を作ってほしいと、マネーへの欲望だけで生きてきたゲッコーにしては、弱気な素ぶりも見せた。
 こうして、ジェイコブとゲッコーが望む二つのプランが進行する。一つは、ジェイコブとブレトンに面識がないのをいいことに、ゲッコーがもたらしたブレトンに関する情報をもとに、クリーンエネルギー部門の投資アドバイザーとして、ジェイコブが、ブレトンの懐に潜り込むことに成功したことだった。クリーンエンルギー部門というのは、恋人ウィニーのジャーナリストとしての専門分野であり、マネー・ゲームに反対なウィニーも、この分野への投資には積極的で、ジェイコブに実現を迫ってもいた。アドバイザーのアドバイザーは、恋人の女性という関係なのだ。そしてもう一つは、ジェイコブの尽力で、ゲッコーとウィニーの、久々の父娘の再会が、実現したことだった。「父親として許してほしい」と懇願するゲットーに対し、ウィニーの許しは、簡単には出なかったが、父娘の関係が氷解していくきっかけにはなった。

ラストは銀行の乗っ取り合戦、復讐成功

 こうして映画は、終盤を迎える。前作『ウォール街』の終盤は、インサイダー取引のやり合いのようなインモラルな動きとなり、株式市場の乱高下を招き、僅かなタイミングの差で、ゲットーが一敗地にまみれることになるのだが、今回の終盤は、株式市場での戦いではなく、金融界全体を舞台にした、株買い占めによる、投資銀行の乗っ取り合戦のようになって行く。ゼイベル社の破産は、実はライバル銀行に巣食う、ブレトンの乗っ取りだったことが分って来て、復讐を誓うジェイコブが、ゲットーの協力を得て、ブレトンの傍らに潜り込む。そして優良なクリーンエネルギー会社の乗っ取りを、奨めるような顔をして、今度は、ブレトンを一敗地にまみれさせ、結果、ゼイベル社とゲットーをも復活させ、ゲットーとウィニーの父娘の再生と、ジェイコブとウィニーの、恋の成就までをも予感させる、ハッピーエンドとなって行く。これは、「欲こそ善」と豪語するゲットーを、株の乱高下に巻き込んで失敗させる、前作の辛口のラストに比べると、いささか甘い展開であることは否めない。父娘の再生や恋の成就といった、非情な金融界とは真逆の人情話を、脇筋に設定したのも、多少影響してそうだ。

リーマン・ショック後もマネーは眠らず

 しかしそれは、オリバー監督自身の述懐、「真正面から、証券界のインモラルを批判した前作とは違って、この映画は、リーマン・ショック以後の今の金融界を描いている。そして、“マネー・ネバー・スリープス”という副題のように、悪貨が良貨を駆逐しようがしまいと、金は動き続けているという現実を、指摘したかった。それをコントロールしているのも人間だが、結果、近未来はどうなるか、つまり、リーマン・ショック後の金融界が、どう改善されて行くのかと、予測することは難しく、私にはできないし、すれば間違うであろう」という述懐、まさにそこへ収斂していくラストなのでもある。

新鋭、ベテランの俳優の競演も魅力

 マイケル・ダグラス、シャイア・ラブーフ、キャリー・マリガン、ジョシュ・ブローリンといった出演者は、ベテラン、これからの人を含めて、総じて好演で、顔ぶれの演技を楽しむだけでも、楽しい面のある映画である。それにしても、終盤に、ちょっとだけ顔をだす、金融界の元大ボス役に、もう95歳にもなる名脇役のイーライ・ウォラックが出演して、貫禄の演技で老醜をさらしているのには驚いた。監督オリバー・ストーンも、小さな役で顔を出している。

(上映時間2時間13分)
写真提供:(C)2010 Twentieth Century Fox

全国主要都市の劇場、各地のシネコンで一斉上映中(系列を越えて上映)
◆配給社 20世紀フォックス映画 03−3224−6378

《公式サイト》http://movies.foxjapan.com/wallstreet/



 

 

 

 
   

ファースト・インスタントフードを斬る

巨大食品会社に支配された農・牧畜業

アカデミー賞候補作『フード・インク』

[末尾付録]墺映画『ありあまるごちそう』)

(2011.2.17)

木寺清美

 
 


大自然の恵み遠のく生産地の工業化

 この映画は、私たちがスーパーマーケットで買い、ファーストフードで食べる殆どの食品が、「大自然の恵み」などという消費者の感覚からは程遠い、農業や牧畜業自体が、世界を股にかけた、数少ない巨大多国籍企業に組み込まれてしまった、効率優先の工業組織の中で生みだされ、安全や健康は二の次になっている事実を、それら「食品株式会社」の中に入り込み、隠し撮りも辞さない手法で描いた、アメリカの記録映画である。
 4年前、『いのちの食べかた』という、同じようなドイツ=オーストリア製の記録映画が公開され、ヒットしたが、あの映画は、自然な成り立ちを壊す食糧の危機を、ナレーションを排した映像だけで表現し、観客の感覚に訴えようとする映画であったが、今回は、ナレーションもあるオーソドックスな記録映画で、映画的面白味が少ないとする評者もあろうが、きちんと観客の理性に訴えようとする力は相当なもので、アメリカでは大ヒット、去年のアカデミー賞では、長編記録映画部門の候補作となった。残念ながら、受賞したのは『ザ・コーヴ』だったが、太地町のイルカだけをやり玉にあげる、狭い視野のものとは違い、人類の食糧そのものの未来を憂えていて、インパクトの大きな映画なのである。

マクドナルドは食肉会社の寡占呼ぶ

 製作プロデューサーは、「ファーストフードが世界を食いつくす」の著者エリック・シュローサーで、監督は、ベトナム戦争や、絶滅危惧生物の記録映画が過去にある、ロバート・ケナーで、取材拒否の連続と立ち向かうあちこちの取材に、約6年をかけ、やっと本作を完成させたものである。
 “工業フードシステム”の最たるものとして、まずやり玉に挙げられるのは、マクドナルドである。マクドナルドは、手作業だったレストランの調理場に、工業システムを導入し、熟練の料理人を必要としない調理システムで、安くて速い均一の食事を、大量に作り、そのような食事を消費するレストランを、全米大陸の全てのドライブ・インに設置するという発想で、始まったという。この消費の巨大化、合理化、効率化は、生産の巨大化、合理化、効率化をもたらすという、当然の因果関係で、牛肉生産会社の大手は、5社でシェア25%だったものが、いまは豚肉や鶏肉の生産も吸収した食肉生産会社4社となって、4社だけで、シェアは80%になっているという。

牧草なく、餌のコーンと糞の上に牛

 そういう寡占状態にある食肉生産会社は、より効率よく安い食肉を作るため、生産現場を変化させることに、一番力を注いだという。牛の生産現場は、かってのような牧場でも牛舎でもない、もう牛工場とでも呼ぶしかないものに変化してしまっている。映画では、コロラド州のそのような牛工場が紹介されているが、何万頭もの牛が、狭い柵の中に押し込められていて、しかもそこは、かってのような牧草の上ではない、足元に餌になる大量のコーンが、敷き詰められた場所なのだ。おまけに、糞もそこでやりっぱなしという不衛生状態で、先年流行したO−157の食中毒も、飼料と肉が、この不衛生で汚染されたのが、最初の原因とみられていると言う。廉価な肉の生産のために、人間の健康も犠牲にされるらしい。また餌のコーンには、でんぷんを添加したものを使い、不衛生な中でも、牛は牧草の倍の速さで育っていくという。このような大手食肉生産会社の、牧畜業の牛工場化があって、マクドナルドのようなファーストフード会社も、成り立つのだという。そしてかっての牧畜業者の多くは、牛工場の給与ベースの低い作業員に、なってしまったという。
 鶏肉作りの養鶏場にも、同じような変化があって、何万羽と押し込められ、足元の餌を、押し合いながら、ついばむ姿がうつされる。食べ過ぎと、仲間の鶏の下敷きになるなどして、歩けなくなった鶏の姿もうつされる。しかし、養鶏場の経営者は、気にしている風もなく、取り除いたりはしない。全体としては、この飼料の大量投与で、鶏は二倍の速さで育ち、障害の鶏でも、食するのに変わりはなく、歩けずに太るのは歓迎という立場なのだ。

屠殺場も機械化、一日数百頭も処理

 変化は、屠殺場にも訪れている。以前の屠殺場は小規模で、全米に何千個所もあったのだが、一日に何百頭もの牛の処理が必要となって、今では、全米で13か所しかないという。集約化された屠殺場の模様は、4年前の『いのちの食べかた』でも、見ることが出来たが、 1~2分の間隔で、ギロチンのような機械で、牛の首が切り落とされて行く映像は、かなりショッキングなものだった。こういう機械化された流れ作業の中で、屠殺作業が行われるので、急所めがけて、必殺の剣を打ちおろす、熟練の屠殺職人は必要なくなり、機械を動かし、流れ作業のなかで、肉の部位を作っていく単純労働の作業員だけになった。このため、会社の人件費は、随分縮小されているという。こうして、今日の屠殺場では、多数の低所得者層が生み出され、低所得ゆえに、ファーストフードのようなものしか食べられず、これによってファーストフードがさらに儲かり、食の退廃の悪循環が、亢進して行くという。

屠殺の作業員には、メキシコ農民多い

 さらには、この単純労働に従事するのが、多くの場合、メキシコからの不法移民であるという。そしてその不法移民の多くが、メキシコでコーンの栽培に従事していた農民で、このあとに詳しく書くが、アメリカのコーン農場の影響で、メキシコのコーン農場が成り立たなくなり、不法移民となったもので、アメリカは、メキシコを農業・牧畜業の両面で収奪しているわけだ。
 映画では、この屠殺場については、隠しカメラで撮った流れ作業が紹介される。相当なスピードで流れるベルト・コンベアーの上を、流れて来る肉塊を、作業員は、ロースや内臓などの部位ごとに切り分けて行く。そして洗浄される。それらが、元メキシコ農民の手によって、なされるのである。

コーン畑が大農化、遺伝子組換え種普及

 均質で、大量に生産された、レトルト食品やインスタント食品が、スーパーマーケットで大量に売られ、世界規模で展開されるファーストフードで、料理人のいらない均質な調理品として、大量に消費されるようになったことが、牧場や養鶏場を変化させ、屠殺場を機械工場のように変化させてしまったが、さらに農場をも大きく変えて行っているということを、この映画は、指摘する。
 地平線まで広がる大地を、農耕機で耕し、機械で種をまき、飛行機で肥料と農薬を散布するという大農法は、大豆でも小麦でも、アメリカではもう以前からの常識であるけれども、近年これを特に大規模にやり、作付面積も急激に増えているのがコーンである。コーンは、ファーストフードやインスタント食品の最大の原材料であり、約90%の商品に使われている。このため、商品のコストを下げるには、コーンの仕入れ値を下げることが、最も効果があり、穀物メジャー会社は、自ら農地の獲得に乗り出し、あるいは農家を束ねて組織化し、コーンを栽培させて、安く買い叩くということを、常態的に押し進め始めた。おまけにアメリカ政府も助成金を出し、コーン栽培を奨励した。こうして今では、農地の30%は、コーン畑になっているという。さらにその多くは、遺伝子組み換え品種のコーン畑であり、病虫害に強く、大量に収穫できるところから、この品種の栽培は、もう常識になっている。人間の健康に多少問題があるとされる遺伝子組み換え品種だが、もうとどまる所がないほど普及しているが、出来上がり商品のラベルには、原材料としてそのことを表示する義務はないという(日本もない)。しかも、組み換え品種の種を、生産販売しているのも、穀物メジャー会社だと言うから、コーンは種から収穫まで、完全にメジャー会社に支配されているわけである。
 ブッシュ大統領時代に、石油の代替物であるバイオ・エタノールが、コーンからも採れるということになって、それがまたコーン畑の拡大に輪をかけたが、より多くのバイオ・エタノールが採れるコーンにするためには、石油肥料を大量に与えねばならないことが分り、石油の節約にはならず、エタノールのための、コーン栽培はなくなったという。しかし、この大量の安価なコーンを、アメリカで生産する政策が、隣国メキシコのコーン農民を圧迫しているということは、先に述べた。

有機食品支持の動き注目、大企業の影も

 ファーストフードなどの巨大多国籍企業が消費側に存在し、土地、農民、種苗、肥料までを支配する大手食品会社が生産側に存在して、政府もその両者を応援、両者が提携をして、国民の食生活を牛耳るという構図になっているのであるが、作り出された食べ物は、均質で、調理されたとは言えない食べ物である。にも拘らず、そういう劣悪食品のイメージでは、消費者を支配できないため、様々な嗜好に合わせた添加物が開発されて行った。それらの添加で、見かけだけは、種々多様な商品に化け、総じて高カロリーの食べ物に化けて行く。そしてそれは、現代人の肥満や糖尿に繋がっていくと、この映画は言っている。
 こうした動きに疑問を呈する人たちも、当然ことながら、少数ではあるが存在する。映画は最後の方で、食べ物や飼料の栽培を、有機農法でやり、農場に隣接する牛舎では、牧草とそれらの飼料で牛を飼っている農夫J・サラティン氏を紹介している。氏は手作業で肉をさばきながら、私ら家族と、特定の契約消費者のニーズを賄う程度の効率は、十分にあり、自然の恵みをたたえた食品を、提供しながら、生計は成り立っているという。最近こうした、善意の生産者と消費者の結びつきによる、オーガニック・フードが、あちこちに散見されるようになり、ちょっとした流行になりつつあるのはいいことだと、この映画は続ける。そして有機農業をやる農家が協力して出荷し、スーパーマーケットに、オーガニック・コーナーを設けたり、オーガニック専門のマーケットの出現を助けたりする動きも、出てきたという。
 しかし同時に警戒しなければならない動きも、すでに出ているとこの映画は警告する。こうしたコーナーの人気に目を付けた大手食品会社が、有機農家を束ねることをやり始め、大手スーパーと提携して、不特定の消費者を求め始めているという。オーガニック・フードの堕落が、また始まるかもしれないのだ。消費者は、一人ひとりの責任で、食品の安心と安全を守るしかないと、この映画は訴える。

現代の食経済を正姿勢で批判する映画

 この映画は、いささかオーソドックス過ぎるほど、坐りのよい記録映画ではある。稼がんかなの大手企業に牛耳られた、現代の食経済の現状を、活写する冒頭から、自然への回帰を訴え、消費者の自覚を促す結末まで、ナレーションを多用した、分り易い講演を聞かされたような映画で、「よ〜く分りました」と納得してしまうのは、へそ曲がりには、物足らないかもしれないが、この映画の美点である。そして、食品会社から、農業、牧畜業の食品生産現場まで、隠しカメラが侵入し、企業の知られたくない部分まで写してきた労苦は、大変なもので、それらの映像は、すべて貴重なものである。現代の食経済は、人類と地球の存続のためにも、正姿勢で批判しなければならない所まで、来ていることを、この映画とともに自覚したい。"(上映時間1時間34分)

[付録]『ありあまるごちそう』について


 なお、同じ時期に、オーストリア映画『ありあまるごちそう』が、公開される。こちらは、いま世界中で捨てられている調理済みの食品を、全て消費出来れば、地球人口の倍に当たる120億人を賄うことが出来るのに、実際は、毎日10万人が餓死し、10億人が栄養失調に落ち入っているというのが現実。そこから掘り起こし、オーストリア、スペイン、フランス、スイス、ルーマニア、ブラジルで、農業や牧畜業や漁業が、主としてアメリカの大企業が生産した、見た目だけで栄養価の低い廉価な食品に押されて、ピンチになって、売れず余り、生産者は窮乏している実態を描いた映画で、『フード・インク』と重なる部分も多い。ただ大企業側に入り込んでの取材映像が少ないため、少々インパクトも弱くなっている。ただし、冒頭に描かれる、オーストリアで一日に捨てられる、パンの量の映像だけは、相当にショッキングである。数台のトラックで運ばれて、ゴミ捨て場がいっぱいになるほどの量であった。
 と言うわけで、この映画も合わせてみれば、日本は、世界最大の食糧廃棄国だといわれるだけに、我々にとっても、反省させられる材料は多いと思う。(上映時間1時間36分)


『フード・インク』の上映館(下線はほぼ同時期に『ありあまるごちそう』も上映)
東 京 渋谷 シアター・イメージフォーラム 上映中
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 2月26日〜上映
大 阪 十三 第七藝術劇場 2月26日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 3月5日〜上映
        京都の『ありあまるごちそう』上映館は、東寺 京都みなみ会館
名古屋 今池 名古屋シネマテーク 3月12日〜上映
川越(埼玉県) 川越スカラ座 3月26日〜上映
札 幌 大通 シアター・キノ 3月26日〜上映
神 戸 新開地 神戸アートビレッジセンター 4月9日〜上映
近日上映劇場
福岡KBCシネマ、苫小牧シネマトーラス、フォーラム八戸、フォーラム盛岡、フォーラム仙台、フォーラム山形、フォーラム福島、フォーラム那須塩原、 プレビ劇場ISESAKI(群馬県)、広島サロンシネマ、シネマ尾道、那覇桜坂劇場
配給社 アンブラグド
《公式サイト》『フード・インク』http://www.cinemacafe.net/official/foodinc/

《公式サイト》『ありあまるごちそう』http://www.cinemacafe.net/official/gochisou/

 
 

 

 
   

思い煩うな、感謝して祈れ、ならば拓く

盲目の牧師に手紙を代読する元受刑者

珠玉のフィンランド映画『ヤコブへの手紙』

(2011.2.9)

木寺清美

 
 


アキ・カウリスマキだけでない芬蘭映画

 この映画は、芬蘭(フィンランド)映画である。フィンランドと言えば、『マッチ工場の少女』(90)で、世界的に注目されるようになり、以後『浮き雲』(96)や『過去のない男』(02)などの名作で知られる、名匠アキ・カウリスマキ監督がいるが、それ以外のフィンランド映画や映画人は、あまり知られていない。何しろ人口が約530万人の北欧の小国で、映画も年間30本程度(数年前の不正確な数字、最近の実情を調べたかったが、時間がなかった)しか作られてはいなかったはずである(因みに日本は約500本)。
 そんな具合だから、クラウス・ハロなどという監督がいて、こんな素晴らしい作品を作っているとは、想像だにしなかった。しかも、米アカデミー賞の、外国語映画部門の候補審査に、フィンランド代表として、正式に提出された作品だと聞くと、候補に選ばなかった審査員の目が、節穴かとさえ思ってしまう。珠玉の一編という形容が、とてもぴったりな映画なのである。

大柄な中年の女性受刑者の出所で始まる

 映画は刑務所のシーンから始まる。大柄で太めの、はっきり言って醜く、ふてぶてしい中年前期の女性、つまり30代半ばから、40歳そこそこに見えるレイラ(カーリナ・ハザード=女優キャリアは少ないが、ジャーナリスト、作家、メディア研究者等、知識人として知られる)と呼ばれる醜い女性が、恩赦によって釈放され、12年暮らした刑務所を後にするところから始まるのだ。
 レイラは、恩赦されたというのに、何故か憮然としていて、娑婆に出ることを嫌っているかのよう。彼女がどんな犯罪を犯して刑務所に来たのか、正確な刑期はいくらだったのか、そういうこともこの映画は明らかにせず、ただ刑務官の事務的な伝達が、伝えられる。「あなたは、釈放されても、身寄りなく、住むところもないだろうから、刑務所で、住み込みの仕事を用意した」といわれ、出所すれば、直ぐに尋ねるべき場所を、レイラは指示されるのだった。

盲目の牧師宅に手紙代読者として派遣

 しぶしぶ仕方がないからとの理由で、彼女は、刑務所の措置を受け入れ、いわれるままに、その場所にやって来る。そこは郊外の閑静な、森のような庭に囲まれた、古い牧師宅だった。少し離れたところに礼拝堂もあるが、賑々しく礼拝が行われている気配はなく、教区の信者らも、いないかのように寂れていた。そしてレイラを迎えたのは、そこに唯一人で住んでいる、老いた盲目の牧師だった。名をヤコブと言った。
 ヤコブ牧師(ヘイッキ・ノウシアイネン=舞台も務めるフィンランドの名優)は「よく来てくれましたね。刑務所のことだから、ふさわしい人は、なかなか見つからないと思っていました」という。気に入った仕事ならやってもいいけれど、盲人の世話など御免だと思ったレイラは、直感的に「家政婦はしませんよ」と釘をさす。それでは雇った意味はないとの反応を、牧師が示すかと思いきや、「そんなものはやってくれなくていいのです」といい、食器のある場所など、盲目でもすっかり覚えていると見えて、手探りでコーヒーを煎れて見せ、レイラにも奨める。
 そして、さらにいう。「ここには、たくさんの手紙が届きます。それを代読して欲しいのです。そしてまた返事を書きますから、私が口頭で言うのを、代書してほしいのです」と言う。レイラは、その代読代書も、気乗りはしなかったが、とりあえず引き受けることにする。

読まずに捨てたりもし、やがて手紙は不着

 ヤコブ牧師への手紙は、決まった郵便配達人(ユッカ・ケイノネン)が、毎日のように大量にとどけた。手紙の中身は、子供の教育の悩みであったり、夫の暴力の相談であったりと、ヤコブ牧師を信頼する古くからの信者たちの、日常茶飯の相談ごとで、一回の返事で納得する者もあれば、何度も相談してくる者もいた。夫の暴力から逃げるようにと、ヤコブ牧師が旅費まで与えた相談者もいて、その旅費を、礼状とともに返してくる人もあった。
 牧師は、そのすべてを代読してもらって読み、そのすべに丁寧に返事を書くのだった。それこそが、老牧師としての人生の、最後の義務であるとさえ、思っているかのようであった。
 逆に、他人の善意をまともに受けようとしないレイラにとっては、乞われるままに、手紙を代読し、返事を代書して行くが、それとても、大して面白い仕事ではなかった。だから、そのうちに、牧師が盲目であることをいいことに、2〜3通読んだだけで、「今日は、これだけしか届いていません」と嘘を言って、後は捨ててしまうというような、不誠実なことをやりだした。当然それらは、返事も出されないままになったから、代書の仕事も減り、楽になって行く。そしてあるとき、郵便配達人も来なくなり、手紙もぽっつり届けられなくなったのである。

ヤコブ牧師は意気消沈、レイラは憂鬱に

 意気消沈するヤコブ牧師、日に日にやつれる牧師を、さすがのレイラも見かねて、たまたま出会った郵便配達人に、嘘の手紙でもいいからたくさん届けてほしいと頼むが、配達人は、届かないものは届けられないと素っ気ない。そもそも郵便配達人は、ヤコブ牧師のファンだったが、素性の知れないレイラが来てから、牧師の身を案じるようになり、牧師宅に侵入してレイラに見つかるという一件などもあって、レイラと郵便配達人との関係は、ギクシャクし始めていたのだ。そしてこのとき、郵便配達人の自転車が新しくなっているのに気付いたレイラは、さらに胡散臭い目で、配達人を見ることになる。実際この映画は、配達人も、謎の多い人物として、描いて行く。
 一方、レイラの代読などの仕事がなくなっても、牧師は「ずっといてくれたらいい」と、善意を崩さないのだが、そのことがまた、レイラの重荷になって行く。レイラは、もともと行く所も、待っている人もおらず、自分は無能で、他人に必要とされない人間だと思っている孤独な人物だが、誠実に与えられた仕事をきちんとすることも苦手というねじれた性格で、そのねじれに憂鬱が重なると、死を考えるほどふさぎこんで行く。牧師とレイラは、こうした対立した考えを持ったまま、ともに憂鬱な日々に落ち込んで行った。

妄想で倒れる牧師、レイラも自殺未遂

 日々体が弱って行く牧師は、神からも人からも、もう必要とされなくなったとの妄想に囚われ始める。ある日突然「今日は、結婚したばかりの夫婦の、聖餐式をしなければならない」といって、礼拝堂の方へ出向いた牧師は、礼拝堂に来て、誰もいないのを知り、これもまた妄想だったと気付くと、急に発作に襲われてその場に倒れ込む。
 一方のレイラは、牧師を礼拝堂へいざなった後、すぐ牧師宅に戻り、自殺を図る。しかし、折から降って来た雨による雨漏りで、レイラは目覚め、自殺は未遂に終わる。目覚めてみれば、急に心配になったのは牧師のこと。急いで礼拝堂にとって返し、倒れている牧師を発見すると、牧師を叩き起こし、事なきを得るのだ。二人はともに死の淵を漂ったが、結果的には無事に帰還するわけである。

牧師とレイラの死の淵の挿話が結節点に

 私は、自然の森の様な静かな庭園と、そこに置かれた、代読や代書が行われるベンチと、その傍らにある、古びたあばら家のような牧師宅だけで、静かに進行して来たドラマに、 無理矢理に、起承転結の「転」を作ったような、二人の死の淵のシークエンスが、なぜ挿入されるのか、いささか疑問を持って見たのであるが、関係者に配られた資料の中に、青山学院の山北宣久院長が書いた解説が載せられていて、その的確な解説が、すっかり私の疑問を氷解した。
 つまりそれは、「雨漏り」という「天来の水のしずく」に目覚めさせられたレイラが、駆けつけて牧師の命も救ったわけで、これは牧師の寛容な態度にも心を閉ざし、なすべき仕事もサボタージュしていたレイラが、神の声で良心の目覚めを果たしたということになるという解説だ。つまりドラマ上の結節点、「転」の部分が、二人の死の淵の挿話なのだというわけである。この映画は、宗教映画ではないが、宗教的要素が、多少なりとも賦与されているとすれば、この「転」のシークエンスに、宗教色が、最も色濃く表れていると言えそうである。
 そもそも、牧師宅がぼろぼろで、立派な礼拝堂と執務室があるのに、ボロ家に常駐する牧師の老後の生き方そのものが、この「転」を呼ぶ「起」と「承」であったとも解説していて、成程と思わせられたのである。

心開き一気に謎が解ける感動のラスト

 こうして終盤は、心を開いたレイラを中心に、ドラマは展開し、今度は、届かない手紙が届いたという、積極的嘘に発展し、レイラがどんな犯罪を犯して、どんな刑に服していたのかという、冒頭からの疑問が、全てレイラの告白の形で、氷解して行くラストとなる。嘘の手紙を媒介にしたこの終盤の展開に、ヤコブ牧師は、大意「思い煩うな、感謝して祈れ、ならば拓く」という新約聖書の言葉を紹介するが、このあたりが幸せへの一条の光が差す、この映画の感動部分である。そしてレイラは、牧師の永遠の静かな眠りを、見送ることになる。
 同じく、なぜ郵便配達人が、牧師宅に忍び込んだりしたのか、また郵便配達人の自転車が新しくなったのはなぜか、そうした謎に加えて、そもそも手紙が届かなくなったのはなぜかという謎も、ラストで一気に解決するように描かれて行く。其のどんでん返しの爽快さも、この映画の魅力の一つである。だがその驚きと感動の魅力を、詳細に書くことは、映画紹介のセオリーに反するので、ここでは書かないことにする。その巧みな脚本(監督自身のオリジナル)構成には、舌を巻くばかりである。
 いずれにしても、冒頭とラストの脇の人物を除いて、実質三人だけの登場人物で描かれる、この75分のフィンランド映画は、これからも長く記憶したい、珠玉の一編である。
(上映時間1時間15分)

東 京 銀座テアトルシネマ 上映中
名古屋 栄 名演小劇場 上映中
大 阪 茶屋町 テアトル梅田 上映中
仙 台 フォーラム仙台 2月26日〜上映
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 3月5日〜上映
静 岡 静岡シネギャラリー 3月5日〜上映
秋 田 シアタープレイタウン 3月11日〜上映
那 覇 桜坂劇場 4月23日~上映
伊 勢 進富座 4月23日〜上映
苫小牧 シネマトーラス 4月23日〜上映
近日上映劇場
  長崎セントラル劇場、京都シネマ、宮崎キネマ館、高槻セレクトシネマ(大阪府)   長野泉座、新潟シネウィンド、熊本Denkikan,広島サロンシネマ、札幌シアターキノ   フォーラム八戸、フォーラム盛岡、フォーラム福島、シネマ尾道、福岡KBCシネマ
配給社 アルシネテラン 03−3567−3730

《公式サイト》http://www.alcine-terran.com/tegami/


 

 

 

 
   

私生児は養家にと、世間体重視の理性

吾子に37年会えぬ宿命に母性が疼く

本能と理性の相克描く秀作『愛する人』

(2011.2.1)

木寺清美

 
 


ガルシア=マルケスの息子の監督作品

 南米コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの息子、ロドリゴ・ガルシアは、『彼女を見ればわかること』(99)などの映画で、そこそこ実績を上げてきた、アメリカで活躍する映画監督であるが、まだ強く作家性を押し出すには至っていないと、評価されてきた。そのガルシア監督の新作『愛する人』(日本で付けた邦題、原題は『母と子』)は、世間的にはありがちな母と子の関係を描きながら、社会的動物としての人間は、不条理で非常識で薄情な、大変厄介な存在であることをあぶりだし、悲しみ苦闘する理性と本能の相克の中に、人間存在そのものの批判と、在るべき姿を描いた秀作で、映画作家としての個性を初めて発揮したものとして、高く評価したい。そして、この種の映画としては長い、2時間をこえる上映時間を、短くさえ感じさせる入念な演出で、久しぶりに深い感動が与えられるドラマとなっている。

14歳の母と私生児の娘、それぞれの今は?

 冒頭映画は、十代の男女が接吻して抱き合うシーンや、十代としか思えない少女が、出産するシーン等を、短くフラッシュ・バックさせて描く。そして場面が変わると、カレン(アネット・ベニング)が、ベッドに横たわる老母を、介護しているシーンになり、「私は51歳、今日まで、療法士として診療所で働き、独身生活を通してきたが、今は老母を介護する身である。私は14歳のときに同級の男の子と恋をし、女児を生んだが、出産と同時に養家にやられ、以後娘とは37年間会っていない。どこにいるのかも分からない。」というナレーションがかぶる。
 画面が変わると、弁護士事務所で働くエリザベス(ナオミ・ワッツ)のシーンとなり、「私は歓迎されない子として生まれてきたらしいが、今では養家を去り、女性弁護士としてのキャリアを積み、37歳まで一人で生きてきた。エリザベスという名も、成人してから自分で選び、裁判所に変更を認めてもらった名だ。人間として成長するため、数々の恋はしたが、結婚、妊娠、出産は拒否し、卵管を狭窄した。実母がどこにいて、何をしているかも分からないが、別に会いたいとも思わない。」というナレーションが被さる。

「母と子」の本筋に割込む、黒人夫婦の話

 映画は、この「母と子」の物語を、初めのうちは互いに交わることもなく、代わる代わるに平行して語られ、これに脇筋の第三の話がからむ。その第三の話は、妻が不妊症で、ついに養子を貰おうと決心した、30代の黒人夫妻(妻役ケリー・ワシントン)の話で、修道院系の養子斡旋所に、養子を紹介してほしいと、申し込みに来る所が描かれる。冒頭からの展開では、14歳の母が生んだ私生児を巡る「母と子」の物語らしいのに、なぜ養子を探している黒人夫妻の話が平行して出て来るのか、37年前の養子縁組と、現代の養子縁組を比較しようというのか−と思って見ていると、後半になって、この第三の話が本筋にズバリと絡み、予想もしない展開にあっと驚かされることになる。この映画は、こうした脚本構成の巧みさ(脚本は監督自身のオリジナル)にも、すっかり感心させられる映画なのである。

私生児は養家にとの老母に、反発の37年

 カレンが介護する老母は、日に日に容態が悪くなって行く。子連れで通ってきている家政婦を巡って、老母とカレンでは意見が合わず、子供がこっそり戸棚の菓子を盗んだりすることから、解雇しようとするカレンに対し、老母は「親切だから続けさせて」という。 実の母娘の、介護被介護の関係なのに、何かギクシャクしている。それは、娘が14歳で産んだ女児を巡って、世間的常識とも言える理性にしたがった母と、無理に引き離され、母性本能を傷つけられた娘との、37年に亘るわだかまりが、横たわっているからでもあった。 新しく職場に来た、男性療法士(ジミー・スミッツ)の親切にも素直になれず、一方で、妻と死別し、男手で育てた子供も自立している、この男性療法士の好条件に、親切を受け入れようかとの色気も少しあって、この男性との関係も、ギクシャクし続ける。

老母他界、娘に会ってみたいと思いだす

 そんな中で、完全なコミュニケーションがないまま、老母は他界する。そした葬儀も終り、家政婦から、死ぬ前にお母さんは、「孫娘を取りあげたことで、娘を不幸にしてしまった」と、泣いておられたと聞かされる。カレンは、「何故そのことを、自分に直接言ってくれなかったのか」、と、慟哭する。親切な男性療法士の助言もあって、母が亡くなった限りは、遠慮することもない。娘を探して会ってみようかという気になり始め、娘が養子に出されたときに世話になったという、修道院系の養子斡旋所を訪ねる。それは黒人夫妻が、養子を申し込んだ斡旋所と同じ所であった。
 斡旋所は言う。「斡旋所が主体になって、娘さんを探したり、相手の意志に関係なく、再会をお膳立てしたりすることは一切ありません。ただ娘さんあての手紙を、持ってきておいてください、斡旋所でファイリングしておきます。斡旋所を中継点として、ファイルとファイルをつき合わせ、相手方も再会を望んでおれば、引き合すことはいたします。」と。早速カレンは手紙を提出し、蜘蛛の糸のような一縷の望みをもって、連絡を待った。

娘、男遍歴の末妊娠、出産決意し母捜索へ

 一方エリザベスは、相変わらず、事案や訴訟の処理に追われながら、多彩な男性遍歴を繰り返していた。死別した妻が永遠の恋人で、再婚などしないと言い続ける新しい事務所のボスである黒人弁護士(サミュエル・L・ジャクソン)とも、深い関係になってしまう。そしてあるとき体調の不良を感じ、診察を受けると、妊娠しているという。卵管狭窄は、100パーセント避妊にはつながらず、こういうこともあるのだと言う。しかし、エリザベスにとってショックだったのは、妊娠そのものではなく、診察した女医が、エリザベスのキャリアウーマンとしての生き方から、「直ぐにも中絶」という判断をするものと決め込み、その段取りについての話をし始めたことであった。エリザベスは「勝手に決めつけないで」というセリフを残し、その場を去る。
 エリザベスは、中年への階段に取りつき始めていたこともあり、結婚、妊娠、出産の全てを拒否するという心境が,少し変化をしはじめていた。産むとなれば、とことん自然分娩を追及し、子供が出て来る瞬間まで、自分の目で見届けたいと思い始めていた。中絶するものと決めつけた女医への反発もあって、エリザベスは出産を決意する。そうすると、自分を生んでくれた実母にも、探しあてて、体験を聞いてみたいと思いが、急に高まり始めた。

庇護しようとのボスの誠意も断わる

 しかしエリザベスには、一つ問題があった。お腹の子供の父親かもしれない事務所のボスに、全てを打ち明けて、仕事を休む了解をとり、出産態勢に入って行くことができなかったのである。何故かと言えば、同じ頃、毎日挨拶を交わす、自宅マンションの隣室の白人男性とも、関係を持っていたからだ。生まれて来た子供が、白人だったら、誠実な恋愛だと信じ切って交際して来た黒人弁護士のボスを傷つけることになるし、何よりもこれ以上深みにはまってはダメだと、自ら身を引く決意をしているボスに、妊娠の事実を知らせること自体を、エリザベスとしてはしたくなかった。
 そこでエリザベスは、地方議員に転進する希望も持っていて、その地盤作りのために、産まれた地に帰って、その地で弁護士をすると嘘を言い、ボスの事務所を辞職してしまう。ボスは、「優秀な人材を失いたくない。個人的に迷惑をかけている点は、きちんと清算をするから」と慰留するが、エリザベスの決意は、固かった。生まれた地に戻ると言うのは、地方議員への転進は嘘だとしても、分らない実母を探すために戻るというのは、まんざら嘘ではなかった。こうして、故郷に戻ったエリザベスは、養子斡旋所のある修道院に、母に向けての、会いたいという手紙を書いて、預けるのだった。
 別ルートから、エリザベスの妊娠を聞いたボスは、移転地にエリザベスを訪ね、産まれてくる子の将来も含めて、全ての責任をとると、誠実な申し出をするが、エリザベスは、自立の道を選び、やんわりとボスを追い返す。それがボスとエリザベスの、永久の別れへと繋がっていくとは、この時は考えず。

母娘の相克と、理性と母性本能の相克

 ここまで書いて来て、この評文を読んでいただいている読者の方も、お分かりと思うが、私生児を作った母と、私生児として生まれた娘を、代わる代わる描きながら、私生児は養家へという世間的理性と、それへの疑問を払拭できない母性本能との相克、そして、私生児という運命を受け入れ、女であることと闘い、誰も信じず、自立へと邁進したエリザベスの理性と、それでもなお子供を産んでみたい母性本能との相克、この二つの相克がそれぞれにあって、実母と娘の全体的相克が、さらにそれの上を覆うというドラマ構造になっていることに気づくはずだ。そして、37年間のブランクを経て、その上層の実母と娘の相克が、これから後半のドラマとして、互いに探して会ってみたいと思い始めるドラマとして、映画の前面に浮上してくることとなる。そしてこの、母と娘のドラマと一見関係がなさそうな、養子を探している黒人夫妻のドラマが、宗教施設の自主的機関ではあっても、養子斡旋所という公的施設を舞台に展開され、37年前にその施設に関わった母と娘の問題にも関わって行くという、皮肉な展開になる終盤がさらに面白い。理性と本能の相克を、人間が作った施設や制度、つまり社会的足枷というフィルターを通して、さらにみるという、深いドラマ構造になって行くのだ。

養子望む黒人夫妻と、養子の実母の面談が

 そういう先の展開に触れたところで、不妊から養子縁組を望み、里親になりたいという申し出をしていた黒人夫妻のドラマが、どうなったかについて、触れねばならない。
 夫妻は、養子斡旋所から連絡を受けて、出産が近く、産まれればすぐ、吾子を里子に出すことを希望している、一人の黒人女性と会うことになる。その黒人女性は、里子に出す最終決断をするために、事前に里親に会い、どういう子育てをするのか、その方針を聞きたい、納得できればOKだが、納得できない時は、別の里親を探すと、斡旋所に申し出をしていて、黒人夫妻と、その女性の会見が仕組まれたのだ。
 その黒人女性は、大切なわが子の親権を放棄するのだから、里親の品定めをする権利ぐらいは、当然あるといい、厳しい質問を投げかけて来る。とくに「神を信じるか信じないか」という質問は厳しかったが、黒人夫妻は、嘘を言って、その場限りの発言をすることは許されないと、無神論者であることを、正直に打ち明ける。神を信じるその女性とは意見が分かれ、女性が席をけって、一旦部屋を出てしまい、破談を思わせるシーンもあるが、ぎりぎりのところで話はまとまり、黒人夫妻は、出産の日に、産室を訪ね、赤ん坊を受けとればいいところまで漕ぎつける。こうして映画は、終盤を迎える。

母、娘、黒人夫妻のドラマ、斡旋所に収斂

 カレンとエリザベスの、もし所在が分かれば,互いに会いたいという書類は、養子斡旋所によって、それぞれ別々に、受け取った担当者も違って、受理された。斡旋所のミスがなければ、近い将来、二人の初めての巡り合いは、実現する算段になっていた。そんな状況下で、カレンは、同僚の男性療法士と事実上の結婚をし、療法士の自活している娘とも、親しい関係を結び、平穏な生活の中で、半ば憎んでいた老母の死も、癒されて行った。療法士が勧める、娘を探しあてて謝罪するという仕事だけが、これからの大仕事となっていた。
 一方、エリザベスは、初めて出産に向けての妊婦生活が、すべてだった。元ボスの支援も断り、吾子の出産の瞬間を、自分の目で確かめるための、自然分娩を希望し続けていた。ただ、卵管狭窄にも拘らず、妊娠してしまった事実が、唯一つの不安だった。そしてエリザベスが出産を迎える頃、黒人夫妻の養子になる予定の赤ん坊も、生まれる日が近づいていた。

母娘の相克、理性・本能の相克に社会の足枷

 ここから先の、終盤の展開については、ミステリー映画の種明かしに似て、映画紹介のルール違反になるので、書くことはやめる。ただ殆どの観客が予想しえない結末を迎えて、身震いする程の感動が襲ってくるのは何故だろう。理性と本能の相克の物語に、ずっと付き合ってきて、人間自らが作った施設や制度から、相克そのものが逃れられないという、宿命を人間が背負っていることに、気づかされるからだ。社会的動物である人間の宿命ともいえるものだが、それならば、住みやすい社会を作るように努めるという段階になって、これまた理性を優先すべきか、本能を優先すべきかという、トラウマに囚われる。この映画は、このどうしようもないことを、真摯に描いた映画である。『母と子』という素っ気ない原題が、重々しく感じられ、『愛する人』という邦題が、軽く感じられる。

(上映時間2時間6分)
写真提供:(C)2009 Mother and Child Production LLC

札 幌 大通 シアターキノ 上映中
青 森 シネマディクト青森 上映中
仙 台 MOVIX仙台 2月26日〜上映
利 府(宮城県) MOVIX利府 2月26日〜上映
つくば MOVIXつくば 3月5日〜上映
伊勢崎 MOVIX伊勢崎 3月5日〜上映
宇都宮 MOVIX宇都宮 3月5日〜上映
東 京 渋谷 ル・シネマ 上映中
     日比谷 TOHOシネマズ・シャンテ 上映中
立 川 立川シネマ・シティ 上映中
多 摩(東京都) ワーナー・マイカル・シネマズ多摩センター 2月19日〜上映
横 浜 109シネマズMM横浜 上映中
川 崎 109シネマズ川崎 上映中
新百合ヶ丘(神奈川県) ワーナー・マイカル・シネマズ新百合ヶ丘 上映中
舞 浜 シネマ・イクスピアリ 上映中
さいたま 新都心 MOVIXさいたま 上映中
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 3月19日〜上映
名古屋 伏見ミリオン座 上映中
大 阪 茶屋町 テアトル梅田 上映中
     なんばパークスシネマ 上映中
京 都 新京極 MOVIX京都 上映中
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 上映中
倉 敷 MOVIX倉敷 3月5日〜上映
福 岡 天神 ソラリアシネマ 上映中
他地区順次上映
■配給社 ファントム・フィルム 03−5771−2045
 

《公式サイト》http://aisuru-hito.com/



 

 

 

 
   

タイム誌の表紙飾った若き億万長者

世界最大の出会系サイト経営者描く

危さ鋭く『ソーシャル・ネットワーク』

(2011.1.23)

木寺清美

 
 


マーク・ザッカーバーグ?どんな人?

 87年の歴史を持つ、アメリカの著名なニュース週刊誌“タイム”は、2010年の“パーソン・オブ・ジ・イアー”に、マーク・ザッカーバーグなる人物を選び、2010年の最終号の表紙を飾った。彼は、求めた恋人や、事業協力者などが、履歴や人物像から、大抵は見つかることで、多大の信頼を得ている、いわゆる会員制の出会い系サイト、「フェイスブック」のCEO(最高経営役員)であり、弱冠26歳で、世界中に5億人の会員を擁する、世界最大のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に、すでに育て、自身もすでに億万長者であると言われている。まさにネット社会の寵児ともいえる成功者であり、ハーバード大学在学中から始めた、パソコン・オタク的行動が、成功につながって行ったことから、ザッカーバーグは、現代の若者の憧れの的であり、まさに、ネット社会の英雄とまで、祭り上げられている。
 この映画は、ザッカーバーグがどんな人物で、どのようにして成功して行ったのか、その人物像と成功過程を、スリリングに描き、ネット社会の危うさと空しさにも触れた、デヴィッド・フィンチャー監督の渾身の力作であり、いま最も現代的な映画として、間もなく始まる米アカデミー賞レースでは、最大の話題になりそうな映画である。すでにその前哨戦と言われるゴールデングローブ賞のドラマ部門で、作品賞など4部門の賞を受賞したというニュースが、舞い込んでいる。

早口で博識披露、話纏らず、女性怒らす

 映画は、ハーバード大学のオフィシヤル・レストランのような所で、一組の男女学生が、世間的なよもやま話をしているところから始まる。男子学生が喋り役、女子学生が聞き役だが、男子学生は速射砲のように早口で喋り、一つの話題がまとまりきらぬうちに、尻取りのように次の話題へと話が展開し、結局何について喋っているのか、言いたいことは何なのか、よく分らず、男子学生の博識と、さまざまなことを次々と連想する才能だけは、異常なくらいに目立つ会話である、ということが分かる。女子学生も、初めのうちは、男子学生の博識ぶりに驚き、尊敬の念を持って、聞き耳を立てるが、話がまとまらないことに苛立ちはじめ、「結局あなたは、パソコン・オタクで、オタク語を充実させるための努力は、惜しまないが、何かを纏めよう、何かを作りあげようとする思想がない」と言い捨て、「あなたのお喋りにつき合っている暇はないわ」と、席を蹴って立って行ってしまう。どうやら男子学生は、この女子学生と付き合いたくてデートに誘い、レストランでの歓談と、しゃれ込んだものであるらしい。だがこのナンパは失敗、置き去りにされた男子学生は、そこそこ立てこんでいるレストランの中で、誰からも相手にされない孤独を味わうようになり、すごすごと、自分の属するカークランド寮へ帰って行く。そして意外と整頓されていない自室で、ただ一人パソコンと向き合う。しかも向き合ってすることは、大変チープである。ただただ、自分のブログに、彼女の悪口を書きたてるこだけだった。
 この男子学生が、この映画が描くマーク・ザッカーバーグで、まだハーバード大学の、コンピューター・サイエンス科に入って2年目の、19歳の時のことであった。時まさに、今から7年くらい前の、2003年10月のことである。

冒頭の夥しい台詞場面がスリリング

 この冒頭のシークエンスは相当に長く、夥しい量のザッカーバーグのセリフがあり、デヴィッド・フィンチャー監督は、ザッカーバーグを演じる俳優ジェシー・アイゼンバーグ(この映画でのフィンチャー監督は、殆どデビュー間もないインディペンデントな俳優を起用している)に対し、「セリフは一言も割愛せず、台本通り、全部を正確に喋るように」との演出にこだわったという。お陰で、この夥しいセリフで構成された、殆どザッカーバーグの一人喋りである、男女学生の対話シーンは、非常にスリリングであり、観客もまた、ザッカーバーグとはどんな人物なのだろうかとの関心に、一気に引き込まれる。そして知識を散りばめただけの、まとまりのない喋りに、女子学生と同様に、苛立ちを覚えて行く。  そしてさらに驚くのは、女子学生に振られた腹いせからか、女子学生を愚弄するようなサイトを、作り出すことを思いつくことだ。ザッカーバーグが、最初にソーシャル・ネットワークに関わったのは、こんなよこしまなことからだったのかという感想が、ドラマの初めの方で、提示されるのは、この映画のテーマを考える上で、とても大きい。

女性への腹いせ、女性愚弄のサイト発信

 女性への悪口を書きたてたブログに続いて、ザッカーバーグが思いついたのは、ハーバード中の寮の名簿をハッキングし、女子学生たちの写真を並べて、ランク付けをするサイトだった。当然そのランク付けは、ザッカーバーグの好みによって行われ、女子学生への誹謗中傷のような説明文も付け加えられ、サイト名を“フェイスマッシュ”として発信された。ところが、そういうことに興味を示す男子学生は、ハーバード大といえども、大勢いるものと見えて、“フェイスマッシュ”は、2時間で2万2000のアクセス数に達する人気サイトとなった。ザッカーバーグの名は、たちどころにハーバード中に知れ渡り、超有名な学生、つまり天才ハッカーとなったのである。

処分に怯まず、サイトを会員制の社交場に

 当然ことながら、ザッカーバーグの行為は、ハーバード大学のセキュリティー・システムを愚弄する行為であり、全女子学生を、敵にまわす行為であった。だから大学の学則違反ということで、半年間の保護観察処分を受けて、まともには、コンピューター・サイエンス科には通えない状態になる。しかし、ザッカーバーグはひるまず、これがチャンスとばかり、学生なのか、社会人なのか、事業家なのか分らないような生活をはじめ、女子学生の対象を、他大学にも広げるとともに、“フェイスマッシュ”のサイトそのものを会員制にして、排他性と権威性を強めて、会員になれた者は、著名大学ハーバードに認められたメンバーであるという、セレブ感覚をくすぐるものに、変えて行った。そしてサイトを会員学生相互の社交場と位置付け、友だちのことが、知ることが出来るとともに、自分のことも知らすことも出来るという、機能を加えて行ったのである。条件にも、家柄や資産の多寡を問わないことを明記して、サイトの名前を、“フェイスブック”とし、急激に会員数を増やした。これが今日、全世界に5億人の利用者がいるまでに発展した、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)“フェイスブック”の始まりだったのである。

ザッカーバーグ一人ドラマが複数ドラマに

 ここまで映画は、パソコンと格闘する、たった一人の男のドラマとして、描いて行く。だが、最初の“フェイスブック”が、たった一日で、ハーバードの学生650人が登録したという事実が、明るみになった頃から、マーク・ザッカーバーグ一人のドラマではなくなっていく。
 その第一は、「フェイスブックが、自分たちが立ちあげた、ハーバード・コネクションという出会い系サイトのアイデアを、パクッたものだ」として、キャメロン・ウィンクルボスとタイラー・ウィンクルボスという双子の兄弟から、知的財産権の侵害だとする、訴訟を起こされることである。このウィンクルボス兄弟というのは、ハーバード大のボート部の選手で、オリンピック選手の候補にもなっている、著名アスリートである。家は資産家で、ハーバードの中の、さらに伝統的なセレブだけが参加できる、ポーセリアンというファイナルクラブに、親の七光りで参加できているという人物で、中産階級出身のザッカーバーグの、あこがれの的であると同時に、敵対意識をかきたてられる存在でもあった。因みに、ファイナルクラブというのは、著名な各大学に存在する学閥クラブみたいなもので、アメリカ社会の上層部に人脈を形成しているクラブのことだが、ハーバードには、八つものファイナルクラブがあるとされ、ポーセリアンは、その中でも最上位のクラブとされていた。“フェイスブック”の立ち上げは、ザッカーバーグにとって、このファイナルクラブの大衆化みたいなもので、その関連で、ウィンクルボス兄弟とも付き合ってきていたのである。

双子のセレブが発想はパクリだと訴え

 付き合いは、ザッカーバーグが、各寮の女子学生を勝手に評価する“フェイスマッシュ”を発信して、学則違反に問われ、ハーバード内に天才ハッカーとして知られたときに、兄弟が計画していた、ハーバード・コネクションに協力を依頼され、承諾したことに始まる。しかしザッカーバーグは、直ぐには具体的なアイデアを出さず、結論を先延ばしにしていた。その一方で、“フェイスブック”の立ち上げとなったため、兄弟は、父親の会社の弁護士を使って、“フェイスブック”の活動停止の、法的処置をとるという警告を、先ず発してきた。だがザッカーバーグは、これに怯まず、最初の依頼を受けた後、ハーバード・コネクションのプログラミングが、予想とちがい、ハードウェアも足りないという返事を一回している。にも拘らず兄弟側は、二度目のアクションをしておらず、全く放置したわけではないから、こちらはこちらのスケジュールで作業をする−と返事をして、“フェイスブック”の加入大学を、どんどん増やして行った。兄弟は、ハーバード大の学長にも、ザッカーバーグの行いは、大学の倫理規定違反だと訴えたが、大学側も、学生間の問題だとして、不介入の立場をとったため、兄弟は四面楚歌となり、知的財産権の侵害だとする、正式訴訟を起こすことになったのである。

一人ドラマ脱出の第二は、親友との対立

 ザッカーバーグはこれを受けて立つが、そう簡単に裁判の結果は出るものではない。裁判は裁判、事業は事業と進めて行く中で、ザッカーバーグ一人のドラマでない、第二の問題にも、巻き込まれて行く。こちらは、ザッカーバーグの、最も親しい友人との対立といった問題を秘めていて、ウィンクルボス兄弟との訴訟よりも、深刻な問題だったかも知れない。
 友だちの少ないザッカーバーグだったが、女子学生のサイト“フェイスマッシュ”を立ちあげた頃、親しく付き合っていた友人がいた。まさにザッカーバーグの共同発案者とも共同創業者ともいえる、同じコンピューター科の友人エドゥアルド・サベリンである。サベリンは、裕福な家庭の息子で、サイトのアイデアを思いつくのは、すべてザッカーバーグであったが、経費の捻出は全てサベリンがやっていて、“フェイスマッシュ”から“フェイスブック”へと発展して行くときに、最初にサーバーを借りる資金1000ドルを、用意したのもサベリンだった。だから、“フェイスブック”がどんどん発展して行くのを、サベリンもまた、自分のことのように喜んだのである。世間もまた、“フェイスブック”は、ザッカーバーグとサベリンが経営しているサイトであると、認識している人も多かったという。いわば、“フェイスブック”のCEO(最高経営責任者)がザッカーバーグで、CFO(最高財務責任者)がサベリンだとも言えるのである。その二人が対立したのだから、ある種“フェイスブック”の危機でもあった。

広告はダサイ、危険人物の投資はOK

 2人の対立は、広告を巡ってのものだった。“フェイスブック”が他大学にも浸透し、ハーバード・オリジナルを抜け出し始めたころ、規模を大きくすることと、サイトの質を高めることばかりを、追及するのではなく、稼ぐこと、内部資本を増やすことにも、もうそろそろ目を向けてはどうかと、サベリンが、ザッカーバーグに提案したことが、対立の始まりだった。サイトで稼ぐとは、会費や利用料で稼ぐ以外には、広告を取ることを意味していた。だがザッカーバーグは、いまでは常識になっている、画面の一部に広告が出るのはダサイとして反対し、ニューヨークなどで、必死にスポンサー探しをするサベリンに、全く協力しなかった。それだけではなく、コネのあるIT企業や、投資会社を、派手に操縦して荒稼ぎをする、危険人物と目されているショーン・パーカーに出会ったザッカーバーグは、“フェイスブック”を、ロスなど西海岸にも進出させ、一気に会員を増やして、10億ドルの資産価値のあるサイトに発展させれば、多くの投資会社も投資するというパーカーの提案に同意し、西海岸のスタンフォードに家を定めて、さっさとカリフォルニアに行ってしまったのである。そればかりか、パーカーの息がかった投資家とのミーティングが次々と設定され、ザッカーバーグだけが出席して、CFOであるサベリンの知らないところで、フェイスブック”の資産の話が決められて行った。これにはサベリンも我慢がならないと感じ、会社の口座を凍結するともに、“フェイスブック”の資産や運営については。自分にも対等の権利があるとして、ザッカーバーグを告訴したのであった。

無難に訴訟は収まり、世界へと飛翔

 二つの裁判の結果は、“フェイスブック”の当時の現状とその後の発展に、ほとんど影響を与えずに終わる。兄弟が主張する「パクリ」は認められず、サベリンとの対立は、普通の企業の同種の裁判と同様、無難な和解で収まることになる。裁判のシーンや弁護士の会議等も、かなり出て来るが、突飛な主張や対立がない、平板な展開だ。一つには、ネット社会でのネット企業における、権利義務関係が、前例がないために明確になっておらず、そのことが、ザッカーバーグには幸いしたのだ。殆んど無傷で、障壁を乗り切ったザッカーバーグは、順風満帆、“フェイスブック”を世界に向かって飛び立たせ、今日5億人の会員利用者を擁する、世界最大のSNSとなり、自身も億万長者となったというナレーションが入り、映画は終る。実在で、しかも旬の人物を描いた、評伝的映画としては、チープな奇人だと切って捨てるような、辛辣な場面が多い前半に引き換え、後半は、普通の企業ものの、ドキュメンタリー映画のようになる。その点が物足りないと言えば物足りないが、これだけの成功者と企業実態が存在する結末でありながら、“フェイスブック”が、人々に好まれ、利用された結果、何が実現されたのかは、はっきりせず、ナンセンスで、くたびれ儲けのような空漠感が漂う。これこそがネットの危うさであり、ネットの本質だと、この映画は言いたげである。そこがまた、新しい時代を描いた、新しい時代の新しい映画であるともいえるのである。

ザッカーバーグは悪人?厳しい目で描く

 この映画は、原作者に名を連ねているベン・メズリックの14ページの出版企画書から始まったという。これに興味を示したデヴィッド・フィンチャー監督(『セブン』(95)『ソディアック』(07)など)と、『ア・フュー・グッド・メン』の、舞台と映画の脚本を書いたことで知られるアーロン・ソーキンが、原作が出来る前に、オリジナル脚本を完成させ、撮影の準備に入ったという。だからフィンチャー監督と、アーロン・ソーキンのザッカーバーグについての考え方は、重く捉えるべきである。
 アーロン・ソーキンは「ザッカーバ−グという人物は、悪人ではないのに、一生懸命悪人になろうとしている人物だと私は思う。だから、ラストの方で、弁護士役に、そういう意味の台詞を言わせた」と言っているが、ウィンクルボス兄弟への抜け目のない対応や、誠実なパートナー、サベリンへの裏切りを見ると、やはり本当に悪人で、「法的社会的に追及されない、ギリギリのところまで、悪はやるべし」と考えている人ではないかと、私は思う。形の上では、ソーキンの考えと同じだが、実質は、もっと悪に傾いている。  また、デヴィッド・フィンチャー監督は、「監督というものは、登場人物を好きでいたいし、彼らに共感したいのだ」と断りながらも、「映画を良いものにするために、彼らを傷つけなければならないのなら、そうする」といい、「ザッカーバーグが、サベリンを親友だと発言した資料は、見当たらないし、むしろ親友にしたかったのは、IT界の危険人物ショーン・パーカーだったのではないか」と発言している。ソーキンよりフィンチャー監督は、ザッカーバーグを厳しい目で見ている。だからこそ、チープな変人として描き切った前半の評伝が生まれたのだし、後半のソーシャル・ネットワーク事業そのものの、空漠感を描き出せたのだと思う。
 私などは、インサイダー取引で摘発されたさい、「お金儲けをしたら悪いのですか」と発言をした、村上ファンドの村上世彰代表の像が、ザッカーバーグとダブる。

プライバシーを粗末にする社会が果して・・

 ここまで書いて来て、チュニジアの「ツイッター革命」(米マスコミなどのネーミング)のニュースに接した。この国は、人口1000万人中、200万人もの“フェイスブック”の登録者がおり、言論弾圧に反対し、大統領を追い出すデモの組織化に、この“フェイスブック”が大きな役割を果たしたという。実態の報道が少ないので、これからも“フェイスブック”が、そんな役割を果たすことがあるのかなあ−程度の感想しかないが、まだまだ登録者の少ない日本を、“フェイスブック”は、次の市場として狙っているという。とことん自分をさらけ出して、相手からも、丸裸になった情報を貰うというサイトだから、プライバシーを大切にしたい私などは、サイトがどんなに必要で便利であっても、“フェイスブック”への登録などは、御免蒙りたいと思う方の人間である。そういう自己防衛本能みたいなものが先行したのでは、これからのネット社会は生きていけないのかもしれない。“フェイスブック”の活況が、何よりもその証明かもしれないが、そんな厚かましく強靭な人ばかりが有利になる社会が果たして・・・と、ネット社会の危うさに、鋭く疑問のさしはさんだのが、この映画であると言えそうである。現実社会の閉塞状況に、常に楔を打ち込み、ビジュアル的に、デフォルメされた映画を、作り続けてきたデヴィッド・フィンチャーだが、今回は、リアリズムに徹した、非常に分り易い映画になった。そしてその中に、実在の旬の人物を堂々と茶化したり、批判したりし、ネット社会の危さを浮かび上がらせた点は、これまでの作品歴に、さらに花を添えたものと言える。
(上映時間 2時間00分)
写真提供:(C)2010 Copyright PCG Plus&Now Films、GLORIA Films、All Rights Reserved

全国主要都市の主要劇場、及び各地のシネコンで一斉上映中(全国縦断的な系列館の縛りなし)
◆配給社 ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

《公式サイト》http://www.socialnetwork-movie.jp



 

 

 

 
   

恋とサッカー選手目指すクルド少年

ドーバー海峡を泳ぐ英への密航いかに

難民描く仏映画『君を想って海をゆく』

(2011.1.7)

木寺清美

 
 


海峡に臨む仏側カレに、難民が集結

 カレといえば、フランス最北端の、英仏海峡、いわゆるドーバー海峡に臨む、フランス側の港湾都市であり、イギリスへの、フランス側の出口になっている。対岸のイギリスの都市ドーバーまで、最峡部で約35キロ離れているだけで、フェリーが就航し、海底トンネルも、鉄道用と自動車道とがある。カレとドーバーには、出入国を管理する、仏、英それぞれのイミグレーションがあって、イミグレーションを通過しないと、フェリー、鉄道、自動車のいずれの手段でも、海峡の踏破はできず、逆にパスポートやビザを持たない不法移民は、ここでチェックされることにもなっている。
 アジアやアフリカ、つまり西方や南方から、陸伝いにフランスに不法入国し、カレまでやって来て、イギリスに渡ろうとする不法難民が、イラク戦争の激化とともに増え、一時は、支援組織などが作ったカレ市内のキャンプに、1000人を超えて滞在していたという。その《ジャングル》と俗称されたカレの難民キャンプを、2009年9月に、仏サルコジ大統領と、ベッソン移民担当大臣は、強権を発動して撤去してしまったが、難民対策のないままの撤去で、難民はさらに難民化されて、フランス国内に散っただけで、いずれまたカレに集まって来るだろうと言われている。

カレの難民と、無関心な人々を描く

 このフランス映画は、そのようなカレの難民の中の、イギリスに渡りたい、一人の少年を描いたものである。監督のフィリップ・リオレ(『パリ空港の人々』『灯台守の恋』など)は、カレの難民キャンプに入り込んで、二人の脚本協力者とともに、カレの難民の実情を、徹底的に取材し、いくつかの実例を踏まえた、創作脚本をモノにした。その脚本で、この映画を作り上げたもので、ドキュメンタリー調の演出と合わせて、実に迫力のある難民の悲劇が完成した。そして映画は、難民問題の根本にある非人間性と、おざなりの政治・行政、そして社会の無関心を、鋭く告発する傑作となった。
 合わせてこの映画は、難民少年の苦闘を描くだけでなく、この少年と関わった、周辺の人物をも、真摯に描くことによって、難民への社会の関わりを浮かび上がらせ、難民問題の本質にも迫る映画にしている。

イラク難民少年、徒歩で4000キロ

 この映画の主人公の17歳の少年ビラル(フィラ・エヴェルディ=オーディションで選ばれた新人)は、イラク国籍のクルド人である。イラクのアラブ人から差別され、イラク戦争で、二重に貧困を背負わされたクルド人、その困難な生活環境の中でも、少年はサッカー選手になりたいという夢を持っていて、中部イギリスのマンチェスターにあるサッカー・チームに、入りたいと思っていた。先に一家をあげて渡英をし、ロンドンでレストラン経営をして成功している従兄のところに身を寄せて、働いている恋人ミナを尋ねて、先ず生活基盤を作り、そのあとにマンチェスター入りをするという計画だった。しかし十分な貯えもなく、定職もないビラルには、密出国と密入国を繰り返し、陸路ヨーロッパの4000キロを、殆ど徒歩で横断して、イギリスに近づくしかなかった。そして3カ月をかけ、2008年2月に、ビラルはやっと、カレにたどり着いたのだった。

車の荷台に潜むも、咳で見つかり失敗

 パスポートもビザも持たないビラルにとって、ここから先、正式にイミグレーションを通っての海峡越えはできなかった。同じ運命で、何らかの海峡越えの手段を求めている難民仲間は多数いた。そういう難民たちから、なけなしの金をふんだくって、違法手段を斡旋する悪徳業者も跋扈していた。ビラルは、偶然同郷の難民に出会い、その難民から悪徳業者を紹介される。その業者は、500ユーロを払えば、フェリーに乗船するトラックの荷台にこっそり忍び込ませてやるという。ビラルは、運を天に任せて、業者のいいなりになることになり、なけなしの500ユーロを払って、仲間二人とともにトラックの荷台に忍び込み、ビニール袋をかぶって頭を隠し、荷物を装った。
 しかし、そんな単純なことだけで、検問を通過できるわけがなかった。検問は10メートルほどの間隔をおいて、二度行われた。最初は荷台下の車軸付近の点検。荷台より見つけにくい、そういう場所に潜んで通過する者が増え、当局もそれに気づいて、点検項目に加えたのだ。従って、その点検のときは、上の荷台にいても、見つかる率は少ない。だがそれが終わると、トラックが10メートルほど進む僅か数秒間に、荷台の下に降りなければならない。今度は荷台上の点検だから、下方へ身を隠すのである。まるで軽業のようなその動作、慣れないビラル少年はビニール袋も被っていることから、移動中にむせてしまい、思わず袋をとって咳払いをしてしまう。目視検査は通過できたのに、咳で人間が潜んでいることがばれてしまい、三人は全員逮捕、仲間からも「どんくさい奴だ」と、責任をなじられる。勿論500ユーロは、「咳をしたのが悪い」と、一銭も返ってこない。

泳いで渡ろうと、市民プールで練習

 ビラル少年は、初犯だという理由とイラク本国が荒廃しているという理由も加わり、釈放されて、しばらくフランスにiいられることになった。だが「二度目は、イラクへの強制送還だよ」と告げられる。釈放のとき所持金が少なく、仕事もない少年を心配した女性係官が、難民の公的収容施設を紹介しましょうかと、上司である簡易裁判の責任者に相談するが、「必要なし。どうせ出て行くよ。難民は自由を好む」といって取り合わず、「終了! ハイ次の裁判!」と言って、叩木で机をたたく。全く血の通わない行政の対応を、短いエピソードで鋭く描写している。
 拘置所からカレの中心部へ戻る途中、ビラルは長い砂浜を歩き、彼方のイギリスまで広がる海の音を聞いた。35キロを泳いで渡るしかないと強く決心した少年は、無料の市民プールに通い、遠泳の練習をし始める。そこで出会ったのが、老人や子供に水泳の指導をしている、フランス人インストラクターのシモン(ヴァンサン・ランドン)であった。少年はなけなしの指導料を払い、シモンからクロールで遠泳をする方法について指導を受け始める。市民プールに熱心に通う若者の姿は珍しく、シモンは指導するうち、ビラルが不法滞在の難民で、ドーバー海峡を泳いでイギリスに渡ろうとしている、そのための練習なのだということに気付く。シモンは、ドーバーに着くには、およそ10時間の遠泳が必要で、2月というこの真冬にそれを実行するのは、不可能と言ってもよく、シモンはそのことをビラルに伝え断念を迫る。しかしビラルは、練習を止めようとはしなかった。

家庭不和の水泳指導員が難民に関心

 ここで映画は、ビラルを追って来た展開が、シモンという一人のごくありふれた、フランス人市民でもある、水泳のインストラクターが登場したところで、シモンについての物語が付け加えられる構成になる。そしてそのことが、難民当人の苦闘を描くばかりではない、難民問題を多角的普遍的に描くモメントになって行く。
 シモンはかっては有名な水泳選手で、オリンピックにも出たことがあり、いろいろな大会でメダルを得たのだが、今はしがない市民プールのインストラクターに身を落として生活をしている、やや人生に疲れた人物として登場する。
 英語教師をしている妻のマリオン(オドレイ・ダナ)との仲も上手く行っておらず、別居中で、妻の起こした離婚調停に応訴中だった。実際は、妻の心を取り戻したいシモン、英語教師の傍ら難民支援のボランティア活動もしている妻の心を取り戻すためには、今まで無関心だった難民支援に理解を示すことも一つの手段だと思い始める。シモンは、たまたま町で出会った、ビラルともう一人の難民を、自宅での夕食に招待する。その日は別居している妻が、本をとりに戻って来る日で、ビラルら難民を紹介して、自分も同じ土俵に立っていることを妻に示そうとしたのだ。

難民を家に泊め、隠匿罪に問われる

 しかし妻は、シモンの行為を褒めなかった。何らかの行政の裁断を受けた難民たちの食事の世話などを公的な施設でするのとちがって、難民を自宅に匿ったりすること自体が違法であり、隣家に知られて通報でもされたら、シモン自身が犯罪者として捕まる。とにかく夕食だけにとどめて、宿泊させたりはしないようにと、妻のマリオンはいい残し、再び家を出て行く。
 妻の忠告を守らず、ビラルらを泊めたシモンは、案の定隣家に通報され、警察に捕まる。初犯だと言うことで、「難民を匿うのは犯罪だ」と警告されただけで、直ぐ釈放されるが、シモンは直ぐに通報する世間一般のつめたい風潮、また、匿っただけで犯罪だという法と行政のアンチ・ヒューマンな考え方に反発を感じ、妻との仲を回復するために、関わりはじめたに過ぎなかった難民問題に、初めて理不尽だと心から思うようになっていた。そして、ビラルから、美しい恋人ミナの写真を見せられ、サッカー選手になる夢を語られると、ドーバー海峡を泳いで渡ろうとする不法行為を止めるのではなく、積極的に応援しようと思い始め、遠泳の練習にもさらに力が入って行くのである。

ロンドンの恋人に、別の結婚話が・・

 とくに書かなかったが、映画は最初のところで、「カレに着いた」と、ビラルが、ロンドンのミナのところに電話をかけ、電話に出た従兄が、ミナの男との付き合いを禁じている父親が、たまたま側にいたのを気遣い、ミナに取り次がなかったという挿話が、描かれているのだが、ビラルが遠泳の練習を積んでいると聞き、連絡してあったシモンの携帯に、ミナ側から電話がかかって来る。その電話の中身は、父親が、レストラン経営で生活が安定している従兄との結婚を決めてしまい、ビラルとは結婚できなくなったという連絡だった。ビラルは大きなショックを受けるが、これを見たシモンは、自分のマリオンとの婚約指輪をビラルに渡し、「婚約指輪を買ってきたと、これをミナの父親に見せれば、君との結婚を許してくれるかもしれない」と、ビラルを励ますのだった。それにしても、一日も早くロンドンに渡ることが必要だと、シモンとビラルは意見が一致する。
 ちょうどその頃、シモンとマリオンとの離婚調停も成立し、「ビラルは4000キロを3ヶ月もかけて歩き、海峡を泳いで渡って、恋を成就させようとしているのに、目の前の愛さえも、自分はこうして取り逃がす」と、慨嘆をするのだった。

ドーバーへの遠泳、漁船に保護され失敗

 いよいよ、ドーバーに向けてのビラルの遠泳が、決行される日となった。すでに警察に目をつけられているビラルは、これまた隣家の通報で、出発したばかりの身で、警察に追われる身となった。泳いで渡ることを、暗黙のうちに認めていたはずのシモンも、心配になり、ビラルを探して海岸に出る。そしてそこには、ビラルの靴だけが残されているのを見つける。やはり泳いで渡るのはやめさせなければと思ったシモンは、自らも密出国幇助で捕まるのを覚悟して、沿岸警備隊にビラルの保護を申し出る。ビラルとの関係を聞かれて、「父親だ」と答えてしまうシモンだった。
 こうして、ビラルの渡英は今回もまた失敗に終る。海峡の真ん中でビラルは、ほぼ強制的に漁船に保護され、またカレに帰って来たのである。ビラルは身柄を拘束され、二度目の失敗とあって、公的な収容所に入れられ、イラクへの強制送還などの決定を待つ身となった。シモンもまた、逮捕されたあと仮釈放となるが、ニュースでビラルの行為を知ったロンドンのミナは「もう来ないでと、伝えてほしい」と、シモンに連絡してくる。 再び密航者に近づけば仮釈放も取り消される身だと知りながらも、シモンはそのミナの連絡を収容所まで伝えに行く。神妙に聞いていたビラルに、それ以上の言葉をかけることも出来ず、シモンは面会室をあとにするが、それから数日してまたビラルが脱走したことを知らされる。

二度目の遠泳、凄まじい執念の描写

 脱走したビラルは、三度目の正直で、今度こそは成功させようと、ドーバー海峡のほぼ中央を泳ぎ渡っていた。一回目の海峡踏破はカレ側からの描写だけで、踏破シ−ンそのものは省略されているが、二度目の踏破シーンはビラルの思いを凝縮した、凄まじい泳ぎのドキュメントになっている。荒波を越え、島影一つ見えない黒い海を突っ切って、必死に泳ぐビラル。角度を変え、場所を変えて、泳ぎのシーンを執拗に重ねることによって、ミナに会って、従兄との結婚を思いとどまらせるために、サッカー選手への夢を実現するために、自分のこれからの人生を切り開くために、紛争と貧困の祖国イラクを見返すためにといった、ビラルの思いが、見事に凝縮されているのである。それだけに、ドーバーまであと数キロになって力尽きる展開は、とても悲しい。イギリス側の巡視船に、「人が泳いでいる」という信じられない光景を目視させ、救助に向かう巡視船から逃げるビラル。ビラルは、巡視船の動きを何度も混乱させて潜水する−そんな動きの中で、ビラルは自然に波間に消えて行く。

ビラルの犠牲に皆無関心、シモンは茫然

 ビラルの遺体は、イギリス側で埋葬された。最後の状況を、報道以上に詳しく知るために、シモンはイギリス側に渡った。靴とともに砂浜に残されていた婚約指輪、シモンがミナの説得用にと自分のものをビラルに提供した、その指輪を持ってミナにも面会する。ビラルはこんなものまで用意していたんだとミナに渡そうとするが、ミナは受け取りを拒否した。従兄との結婚が、10日後に迫っているというのが理由だった。そしてミナは踵を返し、シモンの前からも姿を消す。そこへ、その指輪の元持ち主、シモンの元妻から、電話がかかって来る。「イギリスまで出かけて、何をしているの。仮釈放をとり消されるわよ。早く帰って来なさい。もうこれで、すべてを終りにしましょうよ」と。難民支援のボランティアにして、この対応。難民問題はまだ何も終ってはいないのにとシモンは茫然とする。難民支援とは、強制送還待ちの難民の食事の世話をすることだけなのか。

港に溢れるWelcomeの標識、皮肉なラスト

 映画のこのラストは、大いなる皮肉に終る。皮肉と言えば、『君を想って海をゆく』というタイトルは、日本で付けたもので、あまりにも含蓄のない、そのものズバリの凡庸タイトルだが、原題は『WELCOME』という。観光客いらっしゃい、移民いらっしゃい、歓迎しますというタイトルなのだ。シモンが難民を泊めたことで、警察に通報した隣家の玄関にも、WELCOMEと書いたマットが敷いてあり、シモンが最後に訪れたドーバーの船着場にも『WELCOME』の横断幕はあった。移民問題一つ改善できないで何が「歓迎」なのか。このフランス映画は、英仏海峡と、カレを舞台に、難民問題を描きながら、現代社会の隘路を衝いた、フィリップ・リオレ監督の傑作である。
 同じような映画に、03年のベルリン映画祭で金熊賞をとった、『イン・ディス・ワールド』という、イギリスのマイケル・ウィンターボトム監督の作品があった。アフガンの少年が、中東の戦火の下をくぐり、ヨーロッパを横断して、ドーバー海峡は、海底トンネルの自動車道を行くトラックの車軸のところに身動きせず潜み、突破するという物語だった。あれから7年たっても、実情は変わっていないということを、リオレ監督の本作は、物語っていると言える。

リオレ監督の大臣に申し入れ逆効果に

 なお、リオレ監督は、2009年3月、映画の製作に情熱を燃やしたばかりでなく、エリック・ベッソン移民担当大臣に対して、難民問題の改善をはかるよう、そして基本的な人間価値を取り戻すよう、との主旨の、申し入れ書を提出している。これに対して、サルコジ大統領は、2009年の9月、カレにあったボランティア系の難民キャンプを、全て厳命で撤去したということを、冒頭で書いた。臭いものに蓋をしただけのこの対応は、難民問題を地下に潜らせただけで、より混乱は増している。リオレ監督の善意の申し入れは、政治行政レべルでは、逆効果にしかならないという、悲しい現実が、さらに起きているのである。

(上映時間1時間50分)
写真提供:(C)2009Nord-OuestFilms-Studio37-France 3 Cinena−MarsFilms-Fin Aout Productions

東 京 銀座 ヒューマントラストシネマ有楽町 上映中
名古屋 栄 名演小劇場 1月29日〜上映
大 阪 新梅田シティ 梅田ガーデンシネマ 2月上映(日時未定)
京 都 烏丸 京都シネマ 2月19日〜上映
神 戸 元町映画館 2月26日〜上映
千 葉 千葉劇場 3月12日〜上映
札 幌 大通 シアターキノ 3月以降上映
近日〈4月以降)上映劇場
  仙台チネ・ラヴィータ、フォーラム八戸、フォーラム盛岡、フォーラム山形
  フォーラム福島、フォーラム那須高原、静岡シネ・ギャラリー
他地区順次公開
■配給社 ロングライド 03−3547−4017

《公式サイト》http://www.welcome-movie.jp/




 

 

 

 
   

敬虔な村の権力・教会の強権非寛容

第一次大戦前の北ドイツの椿事描く

M・ハネケのカンヌ最高作『白いリボン』

(2010.12.27)

木寺清美

 
 


ハネケはカンヌ荒しの、破滅的作風

 この映画は、今年5月のカンヌ国際映画祭で、パルムドール(最高賞)に輝いたばかりの、ドイツ(正確な資本構成は、独、墺、仏、伊の合作)映画である。監督のミヒャエル・ハネケは、もう68歳の老匠だが、劇場用映画の最初は89年の『セブンス・コンチネント』で、47歳の時の作品という遅咲きの人だ。それ以前のテレビ映画も含めて、本作までに、20本の映画を作っているが、01年の『ピアニスト』が、カンヌ映画祭のグランプリ(第二位賞)、05年の『隠された記憶』が、同じカンヌの監督賞と、カンヌ映画祭荒しとして、有名な人なのである。そして本作で、ついにカンヌの頂点に立ったのだが、その作風はやや破滅的で難解だ。
 私はカンヌで受賞の『ピアニスト』と『隠された記憶』しか見ていないのだが、『ピアニスト』は、老母に抑圧されている私生活を持つ女性ピアノ教師の話で、破滅的な人生や人間関係が展開されて行く。『隠された記憶』も、首を切られた鶏の絵などが執拗に送られてくる犯罪をサスペンス・タッチで描き、なかなか犯人が分からないのに、突然身近な人が首を掻き切って自殺するという、ショッキングなラストを迎える。これらのことから、今日の閉塞状況とその破滅への道程を描くことに関心のある監督なのかと思い、多少深読みをしようと努力するのだが、よくは分らないというのが、私のハネケ監督のこれまでの印象だった。

監督の主張と作風を村の群像劇に結集

 今回は、そうした作風を踏襲しながら、1913年から14年という。第一次世界大戦前夜の、北ドイツの美しく静寂な架空の村を舞台に、男爵、家令、牧師、医者、小作人という様々な階層の人物と家族を登場させ、さらに親子関係を通じて、大人と子供の世界を対峙させて、村を襲う様々な椿事がそれらの人物群を混乱させていく様を描く。それはまさに世界戦争への予感であり、ナチ台頭への予感であり、無関心・非寛容の世界の到来への予感であるといったことを感じさせ、ハネケ監督としては、今まで描いて来たことを総結集させた世界を、映像の上に刻もうとしているらしいことが、うかがえるのである。

回想形式、白黒映像で歴史の考察

 映画は、舞台となる北ドイツの架空の村(村の名前は、ラストで明かされる)で、村の権力者である男爵家の家庭教師をしていて、男爵夫人のピアノの連弾の相手もしたことのある男の、回想という設定で始まる。「これから話すことがすべて真実か、あまり自信はない」と、喋り始める教師、映画の途中でも、元からの村の住人ではない教師の一人称的ナレーションが、狂言回しのように挟まってドラマが進行する。このためすべては過去の話というわけで、映像そのものは全編モノクロになっている。現在は既に、良質のモノクロ・フィルムがないため、カラーで撮影したものをわざわざモノクロにデジタル変換したそうで、久しぶりに美しいモノクロ映像の映画を見たという成果は出ているが、何故そんなことをしたのか、ハネケ監督は言っている。「映画の背景時代である1913〜14年当時の残っている記録フィルムは全て白黒だ。白黒で歴史が考えられた時代とも言える。それと冒頭の教師のナレーションにもある通り、真実かどうかわからない話を語って、最終判断は観客に委ねているので、スクリーンと観客の間に距離感を置きたかった。この映画は、真実の客観的考察ではなく、歴史の主観的考察です。つまり現実と違う色彩が、真実を暗示すると思うのです」と。

落馬事故など、警察が動くも犯人不明

 そんなこんなで、1913年から14年の一年が描かれるこの映画は、まず、村のドクターが落馬事故で重傷を負うという事件で始まる。何者かが、針金の罠を仕掛けて落馬させたのだ。ドクターには、母親が既に死亡している14歳と5歳の姉弟アンナとルディがいて、ドクターが入院治療中、隣に住む助産婦が子供の面倒を見に来るが、この助産婦とドクターは、姉弟の母親の死後、関係しあっていることがやがて分かって来る。そしてこの助産婦には、溺愛する男児カーリがいて、映画の後半、何者かに誘拐され、森の中で失明するほどの大怪我を負って発見される。罠によるドクターの落馬事故も、このカーリの事件も、警察が動くが、犯人は分からないままになって行く。

牧師、帰宅遅れの子供に白いリボンの罰

 おまけにこの落馬事件の日、アンナとルディのところの遊びに来ていた村の教会の牧師の娘と息子、姉のクララと弟のマルティンが、帰りが遅かったと、牧師に鞭打ちや食事抜きのでお仕置きをされ、腕に罰を意味する白いリボンを巻かれてしまう。この牧師の強権的な態度には驚かされるが、ハネケ監督は、北ドイツは、ルターの宗教革命が発詳した地域なのだが、支配するプロテスタント系の教会の牧師は、ローマのバチカンから自由になれないカソリックの神父とちがって、宗教改革で自由になった分だけ、個人主義的であり、地域の名士や権力者と手を結んで、強権的になる牧師も多いという意味の解説をしている。そして、北ドイツのそうした宗教的風潮を批判するのも、この映画の一つのテーマなのだと語っている。ハネケ監督自身もプロテスタントだが、カソリックの多いオーストリアの出身で、カソリック系の初等教育を受け、教義に縛られないプロテスタントの生徒はよく授業をさぼったと言っているが、そういう体験の中からプロテスタント、カソリック両者の、教会の在り方の一長一短を、めざとく映画の中に、とりいれたものであるらしい。
 なお、この映画には、「白いリボン」のタイトルのほかに、ドイツ人でも、今日では殆ど読めない「亀の子文字」と言われる文字のサブ・タイトルが付いている。監督の意向で、その翻訳はしないことになっているらしいが、「あるドイツの子供たちの物語」という意味らしく、大人の牧師が、子供に対して、強権を行使するエピソードは、映画の展開とともに、重要な主題として浮かび上がって来ることになる。第一、罰せられていることを意味する「白いリボン」、許されるまで長期に着用するというのも、子供の人権無視ではないのか。

男爵家めぐり様々な事件、長男逆吊り

 そして次に起こる事件が、牧師と通じ合っているこの村の権力者、男爵の家を巡って起きる様々な事件である。
 先ず、男爵家の納屋で寝ていた小作人の妻が、納屋の床が突然落ちて転落し、命を落とす。小作人の家には8人もの子供がいるが、もう一家の働き手になっている長兄のマックスは、「こわれた床を、男爵は修理もせずに放置していた。小作人を人間とも思っていない」と、恨みつらみを叩きつけ、収穫祭の日にキャベツ畑をめちゃくちゃに荒してしまう。おまけに、同じ収穫祭の日、村一番のお坊っちゃまである男爵の長男シギが、何者かに連れ去られ、杖でぶたれ、森の木に逆さづりにされた。男爵は、怒り心頭に達し、乳母のエヴァの責任を問うてクビにしてしまう。路頭に迷った乳母エヴァは、心を許していた家庭教師に相談し、村を去って実家に帰って行く。男爵夫人も、傷ついたシギと幼い双子を連れ、実家のイタリアに一時避難する。
 この男爵の夫人がイタリア人だということにも、意味があるのだと、この映画の資料に書かれていて、私はなるほどと思った。寒冷な北ドイツには、温暖な南欧へのあこがれがある上、ローマからの自由を得たプロテスタントの教会と権力者が、都合のよい価値観で、強権的な閉鎖社会を作って行く過程で、イタリア人を妻にするということは、一種の権力構造の勝利宣言みたいなものだと言う。ハネケ監督は、登場人物やドラマ構造に、そういう配慮までして脚本作りをしているわけで、この映画がただものではないことを示す。

男爵と牧師の権力構造下で、小作人自殺

 こうして、「犯人は村の中にいる」という、男爵の狂気の発言で、疑心暗鬼が村に広がって行くが、収穫祭が終り11月に入っても、事件は一向に解決しなかった。逆に、男爵の執事として、小作人の取りまとめをしている家令の家で、生まれたばかりの赤ん坊の部屋が何者かに開けっ放しにされ、赤ん坊が風邪をひいて死にそうになるという事件が、さらに起きる。そしてクリスマスを機に教師は、元乳母のエヴァを実家に尋ね、結婚を申し込むのだが、同時に村では、男爵の荘園のあちこちで火災が発生、小作人の子供たちが大騒ぎをする中で、妻の死のあとも子だくさんの家庭を支え、身を粉にして働いていた当の小作人が首つり自殺しているのが発見される。
 また情交関係にあったドクターと助産婦にも、なにやら亀裂が入ったようだ。
 こうして、あらゆる事件は解決しないまま、男爵を頂点に、牧師をブレーンとして成り立っていたこの村社会(収穫祭の司会進行の描写などでも、この関係がよく分る)に、タテヨコともに亀裂が入り、バラバラに崩壊し始める。

村の崩壊は、子供の世代にも及ぶ予感

 やがて1914年への年が明け、春に行われる賢信礼(洗礼に続いて敬虔な神の子であることを確認し合う儀式、やや子供が大きくなった頃に行う)の準備が、学校などで始まるが、その時になってやっと、牧師は、娘と息子の腕に付けた、白い罰のリボンを取り外すのである。
 そして、この執拗な牧師の強権を非難するかのように、牧師が飼っていた小鳥が串刺しにされて殺されるという事件も起きる。この事件は、映画ははっきりとは語らないが、このあたりから、子供の大人に対する復讐を狙った事件が始まったのだと、想定される事件で、村の崩壊は子供の世代までをも巻き込み、「亀の子文字」の副題「あるドイツの子供たちの物語」が、ドラマの中で現実のものとなって行く。串刺しに、子供が関与した証拠はなくても、まだ幼い純真無垢な牧師の末の次女が、父の落胆を癒すため自分の飼っている小鳥を差し出すというエピソードが描かれており、串刺しの犯人も子供であるということの、逆説的描写ではないのかと想定される。こうして賢信礼の日に、先に書いた助産婦の溺愛の息子が、森の中で失明するという事件も起きるのである。

第一次大戦の情報で映画は終るが・・

 こうして映画は、いずれの事件も未解決のまま、男爵家も教会も村そのものも、崩壊の道をたどり始める。そして突然、家令がもたらした情報で、映画は終盤を迎える。  家令がもたらした情報とは、オーストリアとセルビアが、対立併合問題で紛糾する中で、セルビアのサラエボを訪問していたオーストリア皇太子が暗殺され、オーストリアがセルビアに宣戦布告、一気に英独、仏独などの対立にも飛び火し、第一次世界大戦に発展するという情報であった。北ドイツのその村も、やがて戦闘に巻き込まれるという噂が急速に広まって行った。
 そんな中で、元々村の人間でない男爵家の元家庭教師は、すでに村を出ている元乳母を追って村を出ることになり、一旦イタリアから帰っていた男爵夫人も、いよいよ男爵家を出て行く決心をし、息子を失明させた犯人が捕まったらしいという情報で、少し明るさを取り戻した助産婦も、あたふたと出立の準備をはじめ、病院に休業の張り紙をしたドクターとともに村を出ることになったのかもしれないと暗示させ、村の崩壊劇は一筋の光明を取り戻して、ドラマの幕を閉じる。
 しかし旧態依然たる教会は、その世情の動きにも鈍感で、牧師が子供たちに強制し、マルティン・ルターの讃美歌「神は我がやぐら」を歌わせている。戦争が勃発しても、権力に順応して、「神」さえ信じていればというのが、教会の姿勢であることを示す、これは、ルターも泣く、教会の愚かしい堕落を批判する鮮烈なラストなのである。

この村社会がナチズムの温床だった?

 第一次世界大戦は、ドイツの敗北に終った。戦勝国への多額の賠償などで、ドイツ経済はさらに疲弊し、国民の不満はドイツ中に充満した。これにつけ入るようにして、勢力を伸ばしたのがナチズムであり、ナチの総帥ヒットラーはこの映画のおよそ20年後に、第二次世界大戦を引き起こした。その頃の、ナチズム一色のドイツ社会を支えたのは、働き盛りになった、この映画に描かれた子供たちである。ナチズムの芽は、北ドイツの、権力とプロテスタントが合一した、この映画が描いたような村社会と、大人たちの中から萌芽し、その芽は、その大人たちを、反面教師とした成長した子供たちの世代の中にあると、ミヒャエル・ハネケ監督は言いたげである。そのような、自作の総集編的な力作として、この『白いリボン』はあると、断じてもよかろう。歴史の主観的考察であって、結論や解釈は、観客に委ねると言っているハネケ発言の、私なりの解釈と結論は、こういうことなのだ。最後に示される架空の村の名は、アイヒヴァルトといい、アイヒマンと、この地方のユダヤ人収容所の名前、ブーヘンヴァルトを、組み合わせたものだという。こうしたネーミングからも、ナチ時代の到来を予感したラストであることは、明らかである。
 2010年春の、米アカデミー賞の外国語映画賞は、アルゼンチンの『瞳の奥の秘密』に与えられ、本作は候補にとどまった。しかしカンヌは、よくぞ本作をパルムドールに選んだと言える。やはり20世紀前半の、二つの大戦をはさんだ歴史の空気は、アメリカ人より、大戦の主要舞台となったヨーロッパ人にとって、より切実な実感があるのであろうと思われる。
(上映時間2時間24分)
東 京 銀座テアトルシネマ、新宿武蔵野館 上映中
大 阪 茶屋町 テアトル梅田 上映中
名古屋 栄 名演小劇場 1月15日〜上映
横 浜 黄金町 シネマ・ジャック&ベティ 1月22日〜上映
神 戸 居留地 シネ・リーブル神戸 2月5日〜上映
京 都 烏丸 京都シネマ 2月5日〜上映
静 岡 静岡シネ・ギャラリー 2月19日〜上映
近日上映劇場
 札幌シアターキノ、仙台桜井薬局セントラルホール、フォーラム八戸   フォーラム盛岡、フォーラム山形、フォーラム福島、松本CINEMAセレクト   金沢シネモンド、福井メトロ劇場、伊勢進富座、岡山シネマ・クレール   広島サロンシネマ、広島シネフク、テアトル徳山、松山シネマルナティック   福岡KBCシネマ、熊本Denkikan,大分シネマ5、那覇桜坂劇場

■配給社 ツイン 03−3589−3176 

《公式サイト》http://www.shiroi-ribon.com/

 

 

 

 
   

そろばん侍の家庭経済描く異色時代劇

発見された加賀藩猪山家家計簿が原作

森田芳光監督意欲作『武士の家計簿』

(2010.12.10)

木寺清美

 
 


家族に尽くす下級武士を描くのが新鮮

 今年は、この欄で紹介をした『十三人の刺客』をはじめとして、『必死剣鳥刺し』『桜田門外ノ変』『最後の忠臣蔵』など、水準以上の時代劇が多く作られた。それらの作品の共通項を、小異を排して敢えて言えば、後期封建社会(江戸時代)を支えた武士階級と、その心の支柱である武士道精神を、藩主の我儘や、上級武士の恣意や汚職や、時代の趨勢や、権力の都合で、汚したり、ないがしろにするのを許さないという、大義のために、下剋上的闘争が展開されるというものだった。それはあくまでも、武家社会の秩序の遵守が中心にあり、武士道精神、封建制そのものに疑問を投げかけ、未来に向けて、革新的行動を起こすというものではなかった。今回紹介する『武士の家計簿』も、未来に向けて、武家社会を再考するなどとは、夢にも思わない主人公の話ではあるが、時代に流されるのは仕方がないとし、家族を守ることをすべての価値の上におき、100%武家社会の秩序の犠性にはならない人物を描いている点、今年の時代劇の中では異色であり、今までの時代劇では、とりあげられたこともない下級武士に、光を当てている点も、特筆に値する。ドラマとしては、いささか盛り上がらない、不完全燃焼部分もあるのだが、その意味で、本欄でも、とりあげておくべき、新鮮さに満ちた映画だと、判断した次第である。

磯田道史氏の新潮新書を下敷きに

 原作は、茨城大准教授の磯田道史氏が著した新潮新書『武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新』という本で、小説などとは違う、学術的価値も高い歴史教養書である。そもそもこの新潮新書は、古書店から偶然に発見された「金沢藩士猪山家文書」の詳細な分析研究の結果、著されたものだ。「猪山家文書」は、代々、御算用者〈経理係)として加賀藩前田家に仕えた猪山家の文書で、多くは、日々の買い物、親戚つき合いの費用、子供の養育費、武士として恰好をつけねばならない冠婚葬祭費などを、こと細かく和紙に毛筆で書いたもので、いわば猪山家の家計簿とも言えるものであった。これほど詳細に、当時の下級武士の生活が明らかになる文書が、発見されたことはなく、いわば歴史上の大発見とも言えるものだったである。
 この発見を体系化して著した磯田道史氏の新潮新書を、オール読物推理小説新人賞にもなった「二万三千日の幽霊」や、戯曲、シナリオなどを書いている柏田道夫氏が、二本目のシナリオとして脚色し、『家族ゲーム』『それから』(夏目漱石原作)『(ハル)』『失楽園』『模倣犯』『39刑法第三十九条』『阿修羅のごとく』『間宮兄弟』などで知られる、第一線の監督である森田芳光が監督した。森田監督は言う。「これまで全く描かれなかったことを描く時代劇だという点に、すごく意義を感じている。そして時代の激変を、家族が力を合わせて乗り越える姿に、現代にも通じる人間味を見出したい」と。

150人の侍が一斉に算盤、不正進言も

 こうして出来上がった映画は、加賀藩の御算用場と呼ばれる、城内の広い一室に、およそ150人もの御算用者(そろばん侍)が集められ、一斉に算盤をはじいている壮観なシーンで始まる。個々に役割があって、分業する仕事もあるが、重要案件については、一斉に算盤を入れ、帳尻合わせに間違いがないか、確かめることも多いという。
 そんな中で、算盤の早さも精度も抜群で、勘定役から一目置かれている猪山直之〈堺雅人)は、感じたことを積極的に、勘定役に進言するようになっていた。その積極的な行動で、御蔵米の勘定役に任じられた直之は、飢饉で苦しむ農民たちへの「お救い米」の量と、定められた供出米の量とが、合わないのを不審に思い、さらに進言を繰り返す。その進言で、城の上級武士が、「お救い米」用の供出米を、ピンハネして横流ししていることが分かり、一旦上級武士の反撃で、左遷が命じられるも、やがて取り消され、さらに上級の御算用役へと出世することになる。

武士の付き合いで借金、倹約こそ美徳

 猪山家は、代々御算用者として、加賀藩前田家に仕えてきた家柄で、直之で八代目、父信之も、謹厳実直なところを認められ、江戸屋敷詰の御算用役を、長年務めた。しかし江戸の生活は総じて派手で、武士の矜持を守ろうとすると、勢いつき合いに金がかかり、多大の借金を作って戻ってきていて、それが猪山家の家計の負担になっていた。だから、直之の様々な進言が認められ、上級の御算用者に出世して、俸禄(給与・米俵や金銀で計算)額が増えるのは、結構だったが、痛し痒しの面もあった。それは身分が高まるにつれ、武家社会特有の交際が増え、慶弔額も、はり込む必要が生じて来るからであった。
 直之は、「自分は一介のそろばん侍で、地味な一生を送るだけ、それが承知なら」と言って、商家の娘お駒(仲間由紀恵)を嫁にもらっていた。思わぬ出世で、当惑しているときに、二人の間に生まれた長男が、4歳の“着(き)袴(はかま)の祝い”を迎える。武士として、現在の立場を考えて、その祝事をしないわけにはいかなかったから、二人は相談し、高価な祝鯛の塩焼きをふるまうのをやめ、“絵鯛”を膳に飾ることで間に合わす。この異色の嫡男のお披露目に、集まった親戚や縁者は、目をパチクリさせるが、直之とお駒は、一向に意に介さず、絵鯛を持って、「鯛じゃ鯛じゃ」と縁側を練り歩く。笑いと涙がないまぜの、なかなかの名シーンである。

家財売却、弁当箱竹皮、一尾の魚五品に

 こうして直之は、父信之が作った、年収の二倍近い借金を返し、藩財政も俸禄も安定しない幕末の不安社会を乗り越えるための猪山家の節約を、詳細な家計簿の作成とともに、実施して行く。贅沢な作りの家財や調度品は、日常的に使っている食器の様なものも含めて、全て売り捌く。弁当箱は竹皮に、碁石は貝殻にと言ったった具合である。この猪山家の倹約令に、「使い慣れたものまで手放すな」と、母(松坂慶子)一人の抵抗にあうが、直之の家長としての権限が、それを跳ね飛ばすのに、多くの時間はかからなかった。お駒もまた、見事な夫唱婦随ぶり見せて直之に協力し、家族の中の反対を一掃、「貧乏暮しよりも、猪山家を潰す方が恥」との考えの下に、加賀友禅の衣装、加賀蒔絵の漆器など88品目を売りまくり、家族を一致団結させるのに成功する。直之はまた、、家計と同じ倹約策を、城内の仕事の場にも持ちこみ、一尾の鱈で、白子の酢醤油、昆布じめ、三杯汁など、5種類の料理を作って見せ、当時の藩主前田斉泰を喜ばせた。「貧乏と思えば暗くなりますが、工夫だと思えば、楽しくなります」と、直之はつぶやく。

代々御算用者が幕末をどう生きたか

 天保の飢饉以後、幕末へと社会不安が続く中で、加賀藩政の逼迫、外国勢力の来日、尊王攘夷思想のうねり、幕藩体制の危機、開国と国家改革への動きなど、猪山家の外では、大きく社会が動いていた。猪山直之は、そういうものを横目で見ながら、抵抗できないものには従い、家計の立て直しで、「家」を守ることに執心して行く。絵に画いた鯛で、4歳の“着袴の祝い”をした長男は、「算盤こそが身を助ける」という考えのもとに、祝いの直後から算盤を教え込まれ、11歳で早くも、御算用場に見習いで入ることになった。そして長男は、元服をして成之という成人名になるのだが、その頃から、単なる御算用役に飽き足らなくなった成之は、当然のことながら、幕末の激動に関心が向き、家庭が安泰ならそれでいいという、父直之の考えと衝突した。成之は、父と平行線のまま、京都御所に攻め込んだ長州藩と戦う、幕府側の援軍(いわゆる蛤御門の変の援軍)の一員として、前田家嫡男の慶寧とともに京都入りする。そして、朝廷を頂いた薩長等の官軍が、江戸に攻め上がる戊辰戦争が始まると、長州出身の大村益次郎に、算盤の腕を見染められ、新政府軍の会計職に取り立てられる。これを、直之やお駒が出世と喜んだのもつかの間、大村益次郎の暗殺とともに、成之も殺されたらしいと伝えられてくる。「京まで真実を見届けに行こうか」と、お駒は、母親としてじっとしておれなくなって来るが、間もなく明治政府の要職(海軍に勤務)にとりたてられて無事と言う情報が入り、猪山家は、胸をなでおろすというのが終盤だ。結局算盤が役に立ち、倹約策で借金を返し、家計を正常に戻した後も、成之の出世で、明治以後の猪山家も、安泰だったというわけである。

ドラマとしては、やや不完全燃焼

 だがこの終盤は、説明的で、やや駆け足だ。総じてこの映画は、幕末の時代背景、加賀藩の逼迫ぶりなど、猪山家にまつわらない部分は、説明的で詳しく描いていない。農民の「お救い米」にまつわる不正を、直之が進言した時も、上級武士がどう反撃したのか、一旦決まった左遷がなぜ撤回され、どういう経緯で、出世につながったのか、これらをドラマの中に繰り入れて、詳しく追及するという展開にはならない。ドラマ的山場は、猪山家立て直しの倹約策で、家財などを売るのを母親が反対し、直之の説得で、何とかこれを乗り切り、家族の団結が固まる部分で、激しいドラマを期待した者には、これだけでは物足りなく、やや不完全燃焼に終る。

時代背景、藩の動きなども、もう少し

 終盤の駆け足も、幕末の状況描写が、映画の中の「話」になっているだけなので、必然的に駆け足になったという感じである。蛤御門の変と明治維新の間は、3年半があり、その間に、朝廷、幕府、薩長、土佐、その他の藩等の動きが、目まぐるしく変わるのであって、蛤御門の変では、長州と戦う朝廷=幕府連合の攘夷勢力を援助するために、出兵した加賀藩の嫡男前田慶寧が、戦わずして京から兵を引き上げ、公武合体の最右翼として活動してきたはずの加賀藩が、朝廷からも幕府からもうらまれ、立場を悪くしたというのが、歴史の事実である。従って、慶寧について行った成之が、長州側の大村益次郎の配下に入るということは、相当の苦悩と動機の変化のドラマがあるはずだが、そいうものを描くのは、この映画の狙いではないと避けている。同じ算盤でも、社会の流れの外で活用しようと努めた直之と、社会の流れの本流の中で活用した成之の違いを描くのは、また別のドラマになるということかも知れないが、家計もまた、社会の影響を受けざるを得ないということを、実証してしまったドラマであるから、もう少し時代背景も詳しく描き込んでくれれば、ドラマが不完全燃焼に終らずに済んだように思うのである。
 今まで描いたこともない新鮮な素材、「御歩(おかち)並(なみ)」(武士の最下級「足軽」より一つだけ上の位)という下級武士=御算用者を描く作品であり、「時代の激変を家族の団結で乗り越えたドラマ」だと、森田監督も言っているので、このような「ないものねだり」も、させていただいた。
(上映時間2時間9分)
写真提供:(C)2010「武士の家計簿」製作委員会)

全国主要都市、松竹系劇場・各地のシネコンで一斉上映中
■配給社 アスミック・エース=松竹株式会社共同配給 03−5550−1589(松竹)

《公式サイト》http://www.bushikake.jp/


 

 

 

 
   

廃れる炭坑町とその人々を見事に再現

やっと作られた60〜70年代の炭坑史

『信さん 炭坑町のセレナーデ』

(2010.12.3)

木寺清美

 
 


『愛を乞うひと』の平山秀幸の力作

 日本の炭坑は、1960年の九州・大牟田を中心とする三井三池炭鉱で起きた、人員整理に反対する三池闘争を、最大の山場として、エネルギー革命といわれた、石炭から石油へのエネルギーの転換、そして高度経済成長のスピードアップなどとともに、斜陽産業として次々に閉山され、1970年代末ごろまでに、大手炭坑は、ほぼ消滅した。その後の火力発電の一部復活等で、良質炭を産出する炭坑のみ、細々採掘を続けたが、それも安い外国炭に押され、世紀末にほぼ消滅、現在は北海道釧路炭坑で、若干の採掘が行われているのみである。
 この映画は、60〜70年代の、九州の、島全体が炭坑町であったとある島を舞台に、廃れてしまった、ボタ山や、炭住や、坑道を、セットやCGや、旧坑道の改修などで再現し、廃れて行く炭坑町と、そこに生きた人々の暮らしを、「運命のドラマ」として正確にとらえ、ひいては「炭坑消滅史」として、フィルムの上に刻印することを目指した力作映画で、半世紀を経て、やっと歴史的映像の欠如部分を、埋めたともいえる、記憶すべき映画なのである。
 監督したのは、『愛を乞うひと』(98)『OUT』(02)『笑う蛙』(02)『しゃべれども しゃべれども』(07)などの力作を発表、今年も“藤沢周平もの”の時代劇『必死剣鳥刺し』を発表した、今の日本映画を背負うベテラン監督の一人、平山秀幸である。様々なジャンルの娯楽映画も作ってきている平山監督だが、その基調は正統リアリズムで、今回の『信さん〜』が、福岡出身という、監督の地元に戻っての、渾身の一作だと言ってもいいものなのである。

飯塚出身の原作者、下積み描く脚本家

 さらには、この映画の真実性を示すものとして、かっての筑豊炭田の中心都市、飯塚市の出身の作家、辻内智貴氏の、少年から青年時代にかけての自伝的小説『信さん』を、原作としていること、またそれを脚色したのが、岸田國士賞を受賞した劇作家であると同時に、シナリオライターとしても、崔洋一監督の『月はどっちに出ている』や『血と骨』を担当し、平山監督とも、『愛を乞うひと』など3本の映画でコンビを組んで、抑圧された人たちや、下積みの人々を描く脚本を得意としている鄭義信氏であること−などを挙げることができる。
 原作者の辻内智貴氏は、「信さんの特定のモデルがいるわけではなく、子供時代に誰もが出会うガキ大将、つまりは友達のリーダーのような存在を、私の心象風景として描いた。飯塚市を埋めつくしていた炭住住宅を、配達する新聞を小脇に抱えた信さんが、駆け抜けて行く風景、そんなものを、21歳で東京に出て、20年くらい経ったころ突然思い出し、あの風景はもうないと思ったとたん、どうしても書き遺したいと思い、一気に書いた小説が、この原作です」と語る。

炭坑の原風景を見学、原住人も出演

 また、脚色者の鄭義信氏は、「大牟田市の職員の人の案内で、三池炭田の最後に残るボタ山と坑道の入口を見て歩いたのは、もう4年も前のことです。あの時の職員の方の話し通りだと、今はそれらの風景も、壊されてなくなっているはずです。でもあの時、「昭和30年代は、ここから有明海の海底に向けて、蟻の巣のように、坑道が張り巡らされていたのだ」と考えて、じっと見つめ、感慨にふけりました。そのとき眼の奥に焼きつけた印象を、ふり絞るようにして、シナリオを書きました」と語る。
 そして平山監督も、「自分も福岡の出身なので、昭和の一つの時代として、こういう映画を残しておきたいと、ずっと思っていました。2006年から、シナリオの鄭さんとともに動きだし、2008年から実際の作業に入りましたが、最初にやったのは、子役やエキストラに近い炭住の住人役のオーディションでした。当時の炭坑労働者訛りが身についた人たちに、たくさん応募して頂き、自分の生い立ちの中へ引き戻された感じで、これはリアルな映画が出来ると、嬉しくなりました」と語る。
 まさにこれらは、昭和30〜40年代に消えて行った、炭坑町の原風景を、再現して残そうとする情熱が、情熱通りに転がり始めた、とてもいい話である。

炭住街の温もりの中で、洋服の仕立業

 映画は、炭坑とともに繁栄し衰退した、九州のとある島(という設定)を舞台に、三池闘争の敗北も決まった1963年、都会生活に敗れた島出身の母(小雪)と小学生の息子・守が、フェリーで帰って来るところから始まる。庇が、まるで額を寄せ合うようにして立ち並んでいる炭住街、そこに住む労働者たちは、なべて貧しかったが、一つ一つの家庭からは、温もりと光がもれ、人情に厚い人たちばかりが住んでいた。小さな商店街の中心にある、駄菓子を中心にした「よろず屋」のような店に、人々が集まって、いわゆる井戸端会議を繰り返す描写などは、生活の匂いがプンプンするいいシーンだ。特にきっぷのよい店主を演じる中尾ミエは、彼女の華やかな歌手時代を知る者にとっては、本人とも思えない変身ぶりで、見事に生活臭を出している。そんな中で守の母は、別れた夫や、敗れた都会生活の多くは語らず、都会で覚えた洋服の仕立てを、細々と続けて、生計を立てた。

守を助けた信一は、貧しく恵まれず

 そんな中で、小学校に通う守は、「都会がえりを鼻にかけ」と、どこにでもある悪ガキたちのいじめを受ける。その悪ガキに囲まれた守を、救ってくれたのが、体も一回り大きい信一だった。「守を助けてくれてありがとう」と、守の母が礼を言ったことから、信一は、守の家にも遊びに来るようになり、信一と守は、兄弟のような関係になって行く。信一は、体が大きいばかりでなく、腕っぷしも強かったことから、子供の間では、一目置かれていたが、家庭的には恵まれなかった。早くから両親を亡くし、光石研と大竹しのぶが演じる、養父母の家で育てられていて、そこには養父母の実の子である義妹もいた。信一が、守の家にしばしば遊びに来るようになったのも、守の母の優しさに触れ、そうした家庭的な寂しさを、まぎらわそうとしていたからでもあったのである。それにまた、養父母の家は、坑夫である養父の僅かな稼ぎに支えられていて貧しく、おまけに養父は、炭塵による肺の病気にも冒されていた。やがて養父は亡くなり、ますます家庭は貧窮に瀕し、信一は、学校を休みがちになり、新聞配達をする信一の姿が、しばしば見かけられるようになる。その頃から、信一と守の関係も、しだいに疎遠になって行った。

進学諦め坑夫に、だが炭坑も争議の嵐

 七年が経ち、信一(石田卓也)は、一人前の坑夫になっていた。義務教育を終えると進学を諦め、義妹の教育費を稼ぐために、坑夫を続けるのだと、家族の、それも血の繋がっていない家族のために、犠牲になる道を選んでいた。守(池松壮亮)のところへ、ときどき遊びに来るようになっていた義妹の美代は、そのような兄にすまないという気持ちを持っていて、自分も中学を出たら働くと守に言う。守は、「兄さんの純粋な気持ちを、受けてもいいのではないか」というが、本当のところは、どうアドバイスしたらいいのかは、分らなかった。そして高校にも行ける身分だった守は、同じ炭住に住む在日韓国人の、イ・ヨンナム(柄本時生)とも、親交を深めていた。そんなとき、炭坑の島に事件が起きた。  三池闘争以後、炭坑を取り巻く経済状況は、好転することなく、島の炭坑も、合理化や人員整理を、余儀なくされていた。遂に人員整理を巡って、組合側のストライキと、会社側が対抗したスト破り事件が起きる。このあたりの映画の描写もなかなかリアルで、ニュース映画を見ているような迫力である。そしてこの事件の中で描かれるのは、イ・ヨンナムの父である李重明の組合脱退と、会社が招集したスト破り要員への参加である。炭住の日本人の中に溶け込み、すっかり信用されていた李の裏切り。しかし、炭住に住めなくなるのを覚悟して、そこに至る李の苦悩と判断も複雑だった。炭坑の強制労働要員として、戦時中に日本政府に連れてこられた韓国人、戦後も残留の道を選び、日本に同化した韓国人、しかしストが長引き、明日食べる米にも窮した時、助けてくれるのは自分しかなかった。脱退とスト破りへの参加は、韓国人家庭を守る家長としての、苦渋の決断だったのだ。この複雑な人物を、短いシーンの中で、岸部一徳が、見事に演じる。こうして、折角親交を深めた、守とイ・ヨンナムの仲も引き裂かれて行った。

遂に炭鉱閉鎖、新天地への直前に悲劇

 炭坑の経営は好転しなかった。次々と閉鎖され、その都度人員整理が行われた。炭坑に生活の基盤を置く人は、しだいに少なくなり、島外へ、一人去り、二人去りして、炭住は寂れて行った。最後まで頑張ると意気込むのは、よろず屋の女主人中尾ミエくらいのものになって行った。
 幸いにも、守の就職先も、信一の転職先も、東京で決まり、二人は新天地を目指して上京することになる。残る家族や炭住の友人たちとの歓送会も終わり、ヤマで働いた思い出のために、信一は、最後の入山をすることになる。わざわざ清潔な坑夫服を身をまとい、頭にカンテラを照らして、まるで新人坑夫のようにトロッコに乗りこみ、坑道の中へと消えて行った。しかしそれを見送った守にとって、見ることのできた信一の笑顔は、それが最後となったのである。

炭坑滅亡史を凝縮、大竹しのぶの名演

 信一を坑道の中に残したまま、炭塵爆発事故は起きた。事故を知らせるけたたましいサイレンの音を、古びた炭住のキッチンで聞いた、信一の養母役の大竹しのぶは、それから遺体搬出へと続く長い悲しみのシーンの中で、鬼気迫るような名演を披露する。炭坑の職業病で夫を亡くし、今また、血は繋がってはいないとはいえ、一家の大黒柱に成長してくれている息子を亡くすこの悲劇。60年代から70年代にかけての、炭坑の悲劇的な滅亡の歴史を、大竹しのぶの演技の中に凝縮したかのような演出と演技は、観客をも戦慄させる。喜劇的な役柄も、悲劇的な役柄も、何でもこなす、この演技派大女優の、底しれない実力を感じさせられて、コワイほどである。そして、平山秀幸の演出上のリアリズムも、この終盤のシークェンスでは、とくに冴えている。

炭坑の遺跡も、さりげない点描で

 昭和30年代から40年代にかけての、炭坑が滅亡して行く一つの時代を、描きたかったと、平山監督も言っているように、描かれるべくして描かれなかった、日本の炭坑の滅亡史を、映画フィルムの中に、ドラマの形で刻印することを目指したこの映画、まさに「成功」の二字で飾れる、素晴らしい成果をもたらしているが、さらに付記しておきたいものがある。それは、失われて行く炭坑街の風景の中で、僅かに残っている遺跡を、負の世界遺産として登録しようとの動きがあるのだが、その動きに合わせて、堅坑の遺跡として価値が高い、大牟田市の万田坑のシンボル・タワーとか、その他の施設を、、ドラマの中で、邪魔にならないように、さりげなく点描していることである。そして「炭坑節」の発祥地である田川市の盆踊りなども、炭住の行事として、ドラマの中で上手く挟み込んで、再現している。こうしたドラマの骨組みにとどまらない、記録を残そうとする意志から出た配慮が、随所にあるのも、この映画の魅力である。今年の日本映画の収穫の一本に、数えたい力作である。
(上映時間1時間48分)
写真提供:(C)「信さん・炭坑町のセレナーデ」製作委員会

11月27日から次の映画館で一斉上映中
  青森コロナシネマワールド、MOVIEONやまがた(山形)、東京新宿ミラノ、   東京銀座シネパトス、ワーナー・マイカル・シネマズ板橋、   ワーナー・マイカル・シネマズむさし野ミュー(武蔵村山)   109シネマズMM横浜、小田原コロナシネマワールド、シネプレックス幕張   千葉劇場 ワーナー・マイカル・シネマズユーカリが丘(佐倉)   シネプレックスわかば(埼玉県)、ワーナー・マイカル・シネマズ浦和美園   シネプレックス幸手(埼玉県)、シネプレックス新座(埼玉県)、   ワーナー・マイカル・シネマズ守谷(茨城県)、プレビ劇場ISEZAKI   太田コロナシネマワールド(群馬県)、名古屋名演小劇場   ミッドランドシネマ名古屋空港、ワーナー・マイカル・シネマズ大高(愛知県)   安城コロナワールドシネマ、豊川コロナワールドシネマ、大垣コロナワールドシネマ、   金沢コロナワールドシネマ、福井コロナワールドシネマ、大阪シネ・ヌーヴォ   シネプレックス枚方(大阪府)、神戸元町映画館、小倉コロナワールドシネマ   シネプレックス熊本
12月25日から上映
  札幌シアターキノ
1月1日から上映
  フォーラム仙台
1月8日から上映
  静岡シネギャラリー、浜松シネマイーラ
近日上映
  京都シネマ、那覇桜坂劇場
下関、福岡、佐賀、釧路(北海道)の上映終了
◆配給社 ゴールドラッシュ・ピクチャーズ 03−6804−1463

《公式サイト》http://www.shinsan-movies.com/


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